手を取るは林檎
それは今から七年ほど前のこと。
フランスのジュラでも田舎のところに住んでいた頃、おばあちゃんに呼ばれて家から出ると、見たことのないオニーさんが、おばあちゃんと喋っていた。
オニーさんは、ボサボサな真っ黒い髪に縁の厚い眼鏡を掛けていて、野暮ったい印象が強かった。
「フラン、このお兄さんが貴方に頼みたいことがあるって」
オニーさんはミーのことを見て、驚いたように目を見開くと、すぐに笑って、ミーと同じくらいの目線になるようにしゃがみこんだ。
「……アンシャンテ、フラン。今日はよろしく」
目の前のオニーさんは、片言なフランス語を言いながら、手を差し出した。
ミーはその手を掴んで握手をしてから、オニーさんの髪を見た。やっぱりボサボサだ。
「うわ、ポメラニアンがいる」
「………なるほど」
これは手強い、とオニーさんは引きつった笑みをした。
フランは青年(赤塚暁と名乗った)を見上げながら、不思議そうに頭をかしげた。
「オニーさんは、チーズを買いに来たんですか? それともワインですか?」
フランの住んでいるフランスのジュラ地方は、ヴァン・ジョーヌ(黄ワイン)などのワインやコンテチーズ、モン・ドールなどといったチーズの生産地として有名な地域だ。
実際、フランの祖母もチーズを生産している。
しかし、ジュラでもフランの住む地域はド田舎だった。
「モン・ドールは食べてみたいけど、今日はどっちでもないかな」
「じゃあ、何をしに来たんですか? もしかして、観光ですかー?」
「んー……似たようなもの、だな」
「似たようなもの?」
眼鏡の奥の暁の瞳は、フランの身長では角度的に見えない。しかし、笑っているのだろうことは容易に想像できた。
(変な人だなー、この人)
楽しくもないのに、いちいち笑っている。
上部だけの笑みは、フランには不恰好に見えた。
「フランに案内してほしいんだ。出来るだろ?」
「……それって、どこですかー?」
興味を持ったから、フランは暁について観察しようと思ったのだった。
道は普通の人間が通れるようなものではなかった。川の上流の方からかなり歩いたところにある泉は、人を遠ざけるようにひっそりとしたところにあった。
フランは、険しい道を平然と乗り越えた暁に対し、興味がさらに深まっていた。
「ここが泉ですー」
「……なんか、古いって感じだな。泉だけ残っているのが不思議だ」
暁は泉の周りを見渡す。
周囲には木々が生い茂り、遺跡らしきものが風化して崩れている。
「この泉、ボロクセーだけなのに何の用なんですかー?」
「………うん」
暁はしゃがんで泉の水にそっと触れると、何かが気になるのか、口元に手を寄せ、考え込んでしまった。
フランはそれを横から覗き込む。
暁はやけに険しく、難しそうな顔をしていた。
「ここも駄目か」
何かを確信したのか、ほんの少しだけ頷くと、暁はすくっと立ち上がり、フランの方を向いた。
「もういいんですかー?」
「あぁ、確認は済んだ」
「ふーん……」
「すまないな、フラン。疲れただろ?」
「いや、別に」
「そうなのか? フランは凄いんだな」
暁はそう言って、フランの頭を撫でる。
フランの頭は、リンゴだった。その上から、暁は優しく頭を撫でるのだった。
残念なことに、フランにはその感触はなにも伝わらなかった。
フランの家の近くまで帰ってくると、なにやら騒がしかった。
「フラン、静かにして俺の後ろにいるんだ」
「どーしたんで……」
「フラン」
暁が、神妙な顔をしてフランを自らの背に隠す。フランは不思議そうにしながらも、ふざけている場合ではない雰囲気を感じ取って、大人しく黙っていた。
暁は騒がしい方にゆっくりと進んでいく。進むにつれて、言葉がハッキリと伝わってくる。
「殺すぞ、ババア!」
「あっ」
暁の背後で、フランが声を上げた。
いかにも柄の悪そうな、サングラスを掛けた男たち二人に囲まれていたのは、フランの祖母だった。
男たちとフランの祖母が、暁とフランの方を向く。
フランの祖母の表情は、恐怖で青かった。
暁はフランの手をしっかりと掴むと、男たちを睨んだ。
「何をしている」
地の底を這うような、明らかな嫌悪を滲ませた言葉だった。
フランは恐る恐る、暁の顔を見上げた。
茶褐色の瞳が、太陽の光に照らされて琥珀色に見えた。
怒っているのだと気付くのに、時間は必要なかった。
「誰だテメェ」
「貴様らに名乗る名などない」
「んだとォ!?」
「……貴様らに与えられている道は二つだ。今すぐ立ち去るか、痛い目を見て立ち去るか。そのどちらかしかない」
暁の声には、鋭い刃のような気配が込められていた。
男達はそれに冷や汗をかきながらも、立ち去る様子はない。
暁が一つ、歩を進める。また一歩、一歩と進む度、男達の背を流れる嫌な汗は多くなっていく。
「っちくしょう!!」
やけになったのか、男の一人がナイフを取り出した。
それを見た瞬間、暁は冷静に足を止め、フランは「……おばあちゃん」と呟いた。
フランは良い子ではなかった。
当たり前に他人に受け入れられるような子供ではなかった。
フランは悪い子だった。そして、魔法使いだった。
だから、両親に見捨てられた。
フランは覚えている。
初めて魔法を使ったときの両親の顔を。
恐怖に顔を縛られ、一歩ずつ後退りしていく彼等を、フランはどこか遠くに感じていた。
それに、どこかが痛んだわけではない。ただ、遠いと思っただけ。
だから、魔法を使っても……頭のリンゴを見ても、それをフランの当たり前だと受け入れてくれるような人は、フランにとっては可笑しな人物だった。
それが、おばあちゃんだった。
おばあちゃんは何も言わないし、聞かなかった。フランのリンゴについて、何も問いたださなかった。
フランは別に、おばあちゃんが好きだったわけではない。
弁当は不味いし、チーズは固い。……けれど、おばあちゃんの作るチーズは美味しかった。
「離れてくださいダサングラス、それはミーのおばあちゃんです。ババアじゃありません」
フランは魔法を使うことに決めた。
「誰がダサングラスだ!」
フランの言葉に男達が激昂する。だが、それフランが動じたような様子はない。
フランは男達を見つめた。
直後、不思議なことが起こった。
男達が、溺れたのだ。
「……!!」
息が出来なくなった。
ついで、水を飲み込んだ。
気管に水が入り込み、ゲホゲホと咳をする。だが、再び呼吸をしても、そこには水しかない。
彼等は水の中にいた。突然流れ込んできた濁流。いつまでも水上に出られない、無限の水の中に。
結果、彼等は溺れた。
三十秒、このままいけばあと六十秒で気を失う。
「……フラン」
その時、声がした。それは暁の声だった。いつのまにか、フランの祖母を連れて、フランの目の前に戻ってきていた。
暁はフランの頭を一撫ですると、屈んでフランと向き合い、不器用に笑った。
「フラン、お前がやる必要はない」
暁が言うと、フランの魔法に異変が起きた。
いきなり、水が引いた。
代わりに現れたのは、巨大な怪物だ。
それは三つの頭を持った狼だった。尾は蛇のように鱗があり、人間一人など容易に一飲みしてしいまそうなほど大きな口が、男達を喰らわんとばかりに開いていた。
「ひっ……」
ゲホゲホと咳をしていた男達の喉から、引きつった声が零れる。
彼等の顔は、恐怖に支配されている。
三つ首の狼が、力強い声で吼えた。
男達は尻餅をつきながらも、ずるずる後ろへと下がっていく。
彼等はとうに、フランの祖母のことなど忘れていた。
「立ち去れ!」
暁が大声を張り上げた。男達はそれを聞いたと同時に、一斉に走り出して逃げていく。
それは不思議な光景だった。
フランの祖母は一連の、男達の奇怪な行動を、ポカンとした表情で見ていた。
彼女の視界には、水も化け物もいない。
いきなり苦しみ、怖がり逃げ出した可笑しな男達がいただけだ。
「……地獄の門番なんぞ、現実にいるかよ馬鹿」
暁は侮蔑するように、男達の背をにらんでいた。
フランは暁を見た。暁も、フランを見た。
「……フランお前に話したいことが」
「オニーさんも魔法使いだったんですか?」
「へ?」
暁の眼鏡の奥の目が、虚を突かれたように丸くなる。彼の行動のすべてが一瞬固まる。
言葉の意味が、理解できなかったからだ。
「ミーは魔法使いです。だからおばあちゃんのところに預けられてるんです。オニーさんも同じなんですか?」
聞いて、暁はようやく全てを理解する。
彼は無知なのだと。
同時に、この幼い少年は、自らの力の異質さにも気付いていたのだと。
暁は、心配させまいと微笑んだ。
「……フラン、あれは魔法じゃない。幻術っていうんだよ」
暁はそう言って立ち上がり、フランの祖母と向かい合った。
「失礼を承知で頼みがあります。フランを、こちらで引き取らせてください」
暁は、頭を深く下げた。
それはどこか、懺悔するようでもあった。
暁の後ろを、フランはとことこと歩いてついていく。
荷物は少ない。
あの後、フランの祖母は暁の申し入れを二つ返事で承諾した。随分と呆気のないことだった。
あまりの呆気なさに、申し入れた暁の方が驚いたほどだ。
「今どこにいる? ……日本? なら、丁度良い。……頼みが出来た。今からそっちに行く。そうだな……明日だな」
暁は電話をしていた。どこになのかは、フランにはよくわからない。
相手はそれなりに親しいようで、暁の口調はどこか気安い。
ピッ、という音がして電話が切れる。
暁がフランの方を向く。
「……さて、改めて自己紹介しないと」
「?」
暁はいきなり、服装を整え出した。
みるみるうちに、野暮ったい印象は消えていく。
暁は髪の毛を掴むと、思い切り引っ張り──髪がずれた。
「……かつらだったんですかー。その歳でかわいそうに……」
「見ろ、ちゃんとあるだろ髪」
黒いかつらの下から出てきたのは、焦げ茶色の髪だった。
量はしっかりとしていて、どこにもツルツルとした部分はない。
「俺の名前は桂木明祢。よろしく、フラン」
「もしかして、今までの偽名だったんです?」
「そうだよ」
「……名前、そっちの方がらしいですねーアカネさん」
暁──桂木は何かを痛むように、一瞬目を細めた。フランはそれに気付いたが、何も聞かなかった。
「……そうか、ありがとう」
桂木は笑った。やはり、不器用な笑みだった。
桂木の、フランより一回りも二回りも大きな手が差しのべられる。フランは、その手にそっと自分の手を乗せた。
その後、二人は日本に渡った。
とある人物に会うために。
──後に、ある人物は語る。
厄介なものを押し付けられた、と。
「アンシャンテ」
フランス語で「はじめまして」という意味。
話が進んだら番外編ではなく本編に組み込むかもしれませんが、とりあえず番外編ということで。