Paradise Lost Division   作:陽朧

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悪魔、降臨せし時⑪

机上に散らばる薄い紙に、姿勢を正して並ぶ文字たちに気付いたのは偶然のことであった。

 

『其の方は、体に血が滴るような薔薇(そうび)を飾り、心に赤椿を咲かせていた。

その顔には白椿が彩られ、蠱惑的な視線で、いとも簡単に人を傀儡と化させるのだ』

 

無機質な赤い瞳が文章をなぞったかと思うと、やれやれというようにその男は肩を竦めた。

 

 

「派手に飾り立てた文章だ」

 

 

自然に唇から零れ落ちた溜息と共に、部屋の奥に佇む鏡へと視線を向ける。

すると、薄暗い部屋にぼんやりと浮き上がる、妖麗なる男と目が合った。

しっとりとした顔立ちに添えられた、艶やかな口元が笑みを描く。

 

 

「オイオイ、そんなに見つめられたら即イキしちまうぜ。ダーリン」

 

「お前……。喋らなければ、ほんと芸術品(かんぺき)だな」

 

「フフフ……そう造られているからね」

 

「……。花言葉を、知っているか?」

 

「花は愛でるものであり、蜜を滴らせるものだ。

甘やかな悲鳴(きょうせい)は聞いたことがあるが、言葉はないな」

 

「赤椿は『心のままの美しさ』、白椿は『完全あるいは理想』、薔薇は『美と愛』だ。

……夢野幻太郎、だったか。中々に鋭いぞ」

 

「面白いじゃないか。

ああいう人間は、タイプさ」

 

「この本は、悪魔の書になりそうだな。

宗教画でも見ている気分だ」

 

 

姿見に映し出されたベリアルが、男とは異なる表情と口の動きを見せる。

薄笑いを湛え、奥深い瞳を愉快そうに細めるベリアルに、男は呆れた。

ベリアルの目的は、この前に聞いたが、その本質はまだ明かされていないのだ。

この愉快犯にとってのハッピーエンドは何なのか、男は知らない。

違法マイクというものを回収して、その後どうするのかも、わからない。

 

だが、その不明瞭な点を詰問しようとするほど、男に興味があるわけではなかった。

この先がどうなろうとも、男が死んだという真実は覆らない。

覆したいかと問われれば、男は即座に首を横に振るだろう。

 

男にとって、今この時は猶予(モラトリアム)なのだ。

それ以上でもそれ以下でもなかった。

 

 

「それで、これから俺に仕事をしろと?」

 

「良くわかっているじゃないか。

流石オレと一つになっているだけあるな」

 

「……」

 

「待った、その視線……最高だぜ。

もっとこう蔑んでくれたって構わないよ」

 

「そのような趣味はない」

 

「ふうん。どうやら随分……戻って来ているようだ」

 

「何を、言っている?」

 

「フフフ……。

それは、また後でのお楽しみさ。

キミはあのサラリーマンと坊やに接触してくれ。

前から言っているが、手段は問わない」

 

「独歩クンと、一郎クンだろう。

あの二人が持っているってことか」

 

「尋問でも、拷問でもお好きにどうぞ。

オレとしては快楽漬けをおススメするよ。

イき狂わせて従順にしてやれば、後はオレがヤる。

Parade's Lust(性欲のパレード)を共に開こうじゃないか」

 

「……趣味ではない」 

 

「そうかい?キミも中々に好きモノだと思うけどね」

 

 

男と対照的な表情を見せる、鏡に映った悪魔は飄々とした姿勢を崩さない。

ベリアルがワザとらしく肩を竦めたのを横目で見た男であったが、不意になんとも淑やかな足音が耳を打ったのに、視線を扉へと向ける。

 

すると一拍置いて開かれた扉から、ひらりと小袖が覗いたかと思うと、月を思わせる色をした男が中へと入って来た。

さり気なく鏡に視線を戻すと、そこには全く同じ表情をした男が映っているだけであった。

 

 

「あれ?どなたかと話してらしたのでは?」

 

「ああ、聞こえてしまったかい」

 

「お取込み中でしたか、これは失礼」

 

「夜中に男がスることなんて、限られているだろう?」

 

「存じませんね。小生に教えて下さいますか?」

 

「いくらオレでも、好んで空蝉を抱く趣味はないさ」

 

「意外なことをおっしゃる。この私では、相手になりませぬか?」

 

 

軽やかな微笑を浮かべ、ベリアルの腕に白い指先を這わせた幻太郎は、真上にある赤い瞳を見上げた。

何処か優美さを感じさせる視線遣いであるが、瞳の奥に見え隠れする色に気付かない筈がなかった。

部屋の一角を占拠した彼は、ベリアルの一挙一動を観察し、記録するように机に広げた原稿用紙に筆を走らせるのだ。

先ほどの一文も、そこから抜粋したものであるが、殆どが没となってしまっていた。

 

 

「キミの目には、オレがこう見えるのか」

 

「ええ、ですがまだ足らぬのです。

貴方を表現するだけの、言葉が、足りない」

 

「知的好奇心を満たすことは、一種の自慰行為さ。

けど、それが満たされないことは、イきたくともイけないということ。

さぞ……辛いだろうね」

 

 

言葉では同情的なようにも見えるが、その顔には嘲笑にも似た表情が在った。

 

 

「ええ、その通り。小生は今、とても苦しんでいるのですよ」

 

「……好奇心は猫を殺すって知っているだろう」

 

 

嘘と真実を絶妙にブレンドし、飾り立てた言葉を贈り合う二人の間に流れる空気は、それほど悪くはなかった。

それは、即興曲を奏で合うが如く交わす物語を、互いに楽しんでいるからであろう。

柔らかく微笑んだ幻太郎は、手にしていたとあるものを、ベリアルへと差し出す。

白い指先が支える濃緑の茎の、その先にはぽってりとした大輪の赤が咲いていた。

 

 

「見ていると、ぽたり赤い奴が水の上に落ちた。

静かな春に動いたものはただこの一輪である。

しばらくするとまたぽたり落ちた。あの花は決して散らない。

崩れるよりも、かたまったまま枝を離れる。

枝を離れるときは一度に離れるから、未練のないように見えるが、落ちてもかたまっているところは、何となく毒々しい。

またぽたり落ちる。ああやって落ちているうちに、池の水が赤くなるだろうと考えた」

 

 

柔らかで暖かみのある声質(ベルベット・ボイス)が紡いだのは、夏目漱石の『草枕』の一節であった。

幻太郎は、静かに目を伏せると静かに笑む。

闇に浮き立つような青白い肌と、目の前の男が纏う雰囲気に、やはりその花は良く似合っていた。

ベリアルの瞳越しに、その赤を見た男の脳裏に、たった一瞬何かの映像が流れた。

それが何かを考えるまでもなく消失してしまったそれに、男は心の中で眉を顰める。

 

 

「その花は、落ちる時にばさりという音がするんです。

花弁を散らすことなく落ちるその姿が、首が落ちることを連想させる。

だからこそ、縁起が悪い花とされてきました」

 

「……首、」

 

「上古大椿なるもの有り、八千歳を以て春と為し、八千歳を以て秋と為す。

長寿の花として演技がいい花でも、あるのですがね」

 

「それで、何故キミはコレをオレに?」

 

「ふふ。それが、貴方だからですよ」

 

 

品の良い口元が、歪む。

どうやら厄介な人間が現われてしまったようだ、とベリアルは目を細めた。

薄暗い部屋に差し込む月の光に、幻太郎のエメラルドが輝く。

元の世界でもそうであったが、人間の中には、稀にこう鋭い者もいる。

齢たったの二十幾つの青年に、何処まで『見る』ことが出来るのか。

良い暇潰しが出来たと喜ぶべきであろう。

 

 

「中々に、興味深いね」

 

「……それは光栄だ」

 

 

交わった視線に、浮かぶのはそれぞれの笑み。

ベリアルは幻太郎の横を抜けると、振り返ることなく部屋を出て行った。

ぱたりと扉が閉まり、広い廊下に出る。

 

ガラス張りの廊下は、別名天空回廊とも呼ばれ、その名の通り空を歩いているような錯覚陥るよう、計算して造られていた。高所恐怖症の人間にとっては地獄の場所であろうが、元々は空の民であったベリアルには、大地よりも見た景色である。

 

 

「知っているかい?椿の花言葉には、もう一つあるんだ」

 

 

果てのない空を見上げ、ベリアルは呟く。

 

 

You’re a flame in my heart(キミはオレの胸の中で炎のように輝く)

どうだい。情熱的だろう?」

 

 

笑い声を混じらせた言葉は、暫く静寂の中を彷徨うと、ひっそりと消えていった。

 

 

 

***

 

 

 

ネオンのもとで咲き誇る、夜の華たちの館は今日も大盛況を迎えていた。

華美な装飾の施された店内を泳ぐ黒服たちと、洗練された動作で客をエスコートするホストたちを横目に、ベリアルはグラスを呷る。

 

テーブルの上には、名の知れた名前が巻かれた酒瓶が並び、申し訳程度に置かれたグラスコンポートには、綺麗にカットされた林檎が乗っていた。

 

初対面にも関わらず、一二三に頼まれた『仕事』は、彼の見立て通りベリアルにフィットした。

ベリアルがこの店で働くようになってからというもの、客数が格段に増えたのである。

新宿で知らぬ者はいないほどの知名度を誇るこの店は、一二三を筆頭に精鋭が揃っており、元々売り上げも客数も悪くはない。寧ろトップレベルであった。そんな店にベリアルが呼び込んだ客、その多くは男性客であった。

 

ホストクラブの中には、男性客を禁止してる店もあり、これは主に他店のスパイの侵入を防止するためであるようだ。

そのような店を除いて、意外にもホストクラブに通う男性客も多いらしく、夫婦で来店するケースも多い。

 

 

「あ、あのベリアルさん」

 

「ん?なんだい」

 

「お酒、足りていますか?なんなら、僕」

 

「フフフ……。

そう先走るなよ。余裕のない早漏は嫌われるぜ。

初めての来店(ヴァージン)でもあるまいし、ゆっくり楽しもうじゃないか」

 

 

部屋の中央に咲く、シャンデリアから落とされる光が、白い肌を滑り落ちる。

熱に浮かされた顔で、ベリアルを見つめる客はすっかり太客となってしまった男であった。

言い換えれば、哀れな犠牲者というところであろうか。

例え、胃や肝臓が煮え返るほどの度数を飲み干しても、顔色一つ変えることはないベリアルは、何人の客の間を行き来しても調子を乱すことはなかった。

 

特別おねだりせずとも、次々に飛ばされる注文に、今日も店が沸き立つ。

だがそれはベリアルの構うところではない。

こうして、甘やかな戯れの声に時間を忘れ夢を見る客たちは、夢見のままに店を後にしていった。

 

 

「ベリさん、お疲れさま」

 

 

店仕舞いとなる時刻を迎え、いつもの服へと着替えたベリアルに、一二三が声を掛ける。

一二三の格好は未だスーツのままだが、彼はそのままで帰宅をすることが殆どであるので、今更気にならなかった。

胸のポケットに差された、シャンパンゴールドの薔薇が、甘い香りを散りばめている。

 

 

「精神的な疲労だと、先生から言われた」

 

「……そうかい。まあ、妥当だろうね」

 

「でも、せんせーを疑うワケじゃないんだけど……」

 

「納得がいかないのだろう。

一番近くでカレを見ているキミの直感は、間違ってはいないと思うよ」

 

「っ、独歩ちん……。仕事で、なんか事件を起こしちゃったらしいんだ」

 

「へえ、」

 

「そんで謹慎くらっちゃったみたいで、今家にいるんだけど……。

部屋から出てくれなくて」

 

「……」

 

「ねえ、ベリさん。教えてくれるだろう?

この前に言ってた……植え付けられたとかいう、話……」

 

「フフフ……。構わないよ。

キミがいてくれた方が、上手くいくだろうからね」

 

 

煌びやかな夜道を、二人並んで歩く。

対照的な色合いの二人が交わす会話は、何処となく重い雰囲気が漂っていた。

 

独歩を案じる一二三は、先日寂雷のもとに彼を連れて行ったことを話した。

日に日に暴力的且つ自虐的な言動が目立っていく独歩は、どう見ても異常であり、寂雷すらも目を見張る状態であったのだ。

元々明るい性格ではないが、それでもラップに関すること以外では、自制は効くタイプの人間であることは間違えがない。

幼馴染という、長い付き合いの中で見てきたことが、それを証明している。

 

そう、少なくとも彼は物に当たる性格でも無いし、根は臆病ながらも優しい男なのだ。

だが今や手当たり次第物に当たり、自傷すら起こすようになって来たのである。

そして挙句の果てに会社で事件を起こしたことが原因で、謹慎を命じられたというのだ。

これを異常と言わずして何と言おう。

 

あの寂雷も彼の状態には、手を上げざる負えなかったのだろう。これは当然のことである。

まさか悪魔という非科学的なものが関与しているなどと、誰が思うか。

 

 

「まずは、カレから引き離さないといけないね」

 

「引き離す……?」

 

「そ。悪いモノはさっさと除去しなくちゃ。

まあ任せてよ。医者の真似事は一度したことがあるんだ」

 

「ちょ、ちょっと待って!まさか手術みたいな感じ?」

 

「さてね」

 

「べ……べりさーん、あんまり独歩ちんいじめないでちょーだい」

 

「酷いなあ。ちゃんと可愛がって優しくしてあげるよ」

 

「それもそれで、安心できないんだケド」

 

 

に、と緩く口角を上げたベリアルに、一二三は脱力を感じて項垂れる。

だがそれは決して悪い意味ではなかった。

言動は確かにアレな部分はあるが、一二三には決してこのベリアルという男が、悪いことをするようには思えなかったのである。もちろん、それが危険な信頼であることは薄々気が付いていた。

彼は夜の街を生き抜いてきた人間であるのだ。その『審美眼』にはあらゆる意味で鍛えられている。

 

 

「だけど、気ぃ付けてね。ベリさん。

独歩ちん今……相当気が立っているから」

 

「問題ないさ。ああ、そうだ念の為、先生を呼んでおいてくれるかい?」

 

「せんせーを?でも出てくれるかわかんねーぜ」

 

「その時はその時だ」

 

 

そのようなやり取りを行うと、ベリアルは一二三に寂雷への連絡を任せて、中に入っていった。

先日訪れたばかりである記憶に新しい部屋は、すっかり様変わりをしているようだ。

随分暴力的な模様替えだな、と呟きながらも、気配がする方へと足を進めていく。

恐らく一二三の手によって作られたのであろうドアプレートに、目的の人物の名前が書いてある、一番奥の部屋の前に辿り着くと、中から荒々しい呼吸音が聞こえてきた。

ベリアルは中の人間の様子を察したように笑うと、ゆっくりとノックを響かせた。

 

 

「……誰だ」

 

 

獣の唸り声にも似た低音に、思わずベリアルは笑い声を零す。

膨張しきった彼の苛立ちが手に取るように分かったのだ。

 

 

「ひふみ、か?……だめだ、いま、来るな」

 

「相当溜まっているようだねえ、今にもはち切れそうじゃないか」

 

「…っ!!その、声は……」

 

「此処を開けてくれるかい?

オレは、キミの治療をしにきたのさ」

 

「……できませんっ!

俺、今何をするかわからなくて……。

職場でも、ちょっとしたことでぶち切れて……。

憎しみが、苛立ちが…止まらないんだ……っ!!

そう!憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて」

 

「殺したい?」

 

「……っ、ころ、したい……。は、はははっはは……っ!!!

あはははははははっ!!!殺、したい!!殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す!」

 

「望むものを、与えようじゃないか。

さあ……扉を開けるんだ」

 

「い、いやだ……っ、俺は……!」

 

「いつまでも、そうだと苦しいだろう?

それにキミだけじゃあないさ。カレも悲しんでいるよ」

 

「……ひ、ふみ……」

 

 

がちゃり、と重い音を立てて開かれた扉の、その先には……。

 

 

「随分イイ顔をしているね」

 

 

乱れた赤髪に、濁った瞳……。

いつも以上に生気を失い、まるで生ける死人のような顔。

やつれた体が、痛々しかった。

乱れ切った部屋の真ん中に蹲るその男へと、近づいていく。

ぼんやりとベリアルを見つめていた独歩は、目の前で足を止めた男に突然顔を歪ませた。

 

 

『ひぃ…っ!!

く……クルナ、来るなクルナ来るなクルナ!!オマエは……!!なぜ!!』

 

「はあ……。いいよねえキミたち。

ヤりたい放題しちゃってさ。まあ、オレも言えたことではないけど?

にしても、誰の手を煩わせていると思っているのかな?」

 

『ベリアル……!なぜ、ここにいる……っ!

オマエは、あの男の死「まあまあ、そうイき急ぐなよ。先ずはごめんなさい、だろう?」』 

 

 

独歩の声がしゃがれたそれに変わったかと思うと、短い悲鳴を漏らす。

床にへたり込んだそれは、ずりずりと後退していくが、勢い良く伸ばされた手がその首を掴んだ。

ベリアルは、そのまま体を持ち上げると、ぐいと顔を近付ける。

 

 

「いつもなら、このまま始末し(ヤっ)ちゃうんだけど……。

少しばかり楽しませてもらおうじゃないか」

 

『ぐ……っ、クソ……マダ、ナニモ』

 

「ああ、そうだね。キミは悪魔としてどうかと思うくらい、ナニも出来ていない。

こんなイイ餌に憑り付いたというのに、まさかキミって朴念仁(勃起不全)なのかい?」

 

 

独歩の細い首に、ベリアルの指が食い込む。

片手で軽々と持ち上げられた彼は、息苦しさに喘いだ。

 

 

「俺だったら、もうとっくに調教して開発済みだろうけど……。

まあ良いや。カウンセリングのお時間だ童貞クン」

 

「っ、げほっ、げほ……」

 

 

そのままぽいとベッドに抛ると、暫くの酸欠と何が起きているのか把握できない恐怖が、独歩を襲う。

ベリアルの目は、独歩の中にいるそれを見透かしていた。

 

 

「ふむ、まだ浅いね。良く頑張ったじゃないか」

 

「……え……?」

 

「キミの体に根付いたソレは、まず精神を汚染する。

だがキミの精神はまだ、綺麗なままさ」

 

「……俺は、」

 

「もう大丈夫さ、それを追い出してあげよう。

俺に身を預けてくれるかい?」

 

「……ベリ、アル……さん」

 

 

精神的に脆く見えた独歩という男は、そこまで弱くはなかったようだ。

一二三の支えと、寂雷の治療の成果もあるだろうが、これからば簡単に取り出せそうだと男は判断した。

 

 

「さて、それじゃあマイクを出しな。

(オレ)が相手になってやろう」

 

「えっ!?」

 

「君は取り憑かれているが、乗っ取られてはいない。

慰められるよりも、引っ叩かれる方が良いだろう」

 

「え、ベリアル……さん。ごめんなさい、まだ俺、状況が……」

 

「安心してくれ。後でちゃんと説明してやるさ」

 

 

柔らかく細められたその赤い瞳に、戸惑った表情をしつつも独歩は小さく頷いた。

独歩自身、自分が一体どうしてしまったかは、正確には理解していない。

だが、自分が自分ではなくなる時があるのだ。

始まりは、いつもと違う過度な苛立ちからであったか。

それが日に日に、怒りに変化し、そして憎しみに変わっていった。

同居人にすら暴力的な態度を取ってしまった日から、独歩は自分が怖くて怖くて仕方がなかったのである。

信頼している寂雷からも、困ったように首を横に振られた日は、絶望しかなかった。

 

ある日、職場で起こした『事件』により独歩は謹慎を言い渡されてしまったのである。

それからというもの、人と接することが怖くて堪らなくなった。

一二三の顔も見れなくて、部屋に閉じ籠る日々を送っていた中に、現れたのがこのベリアルという男であったのだ。

 

 

「……救世主(かみ)さま」

 

 

ぽつりと呟かれた言葉は、何とも宗教染みたものであった。

だが、この状況から救いを齎す存在を、そう呼んでしまったのは可笑しいことではないのかもしれない。

常に親身になって、自分の話を聞いてくれる寂雷にも同じことを思ったことがある。

それとは似て異なる意味であったが、不思議としっくりと当て嵌まる気がしたのだ。

 

独歩の言葉を耳にしたベリアルは、ただ目を伏せて笑うだけであった。

 

 

「さ、キミの中を搔き乱してあげよう。

怖がることはない、恐れることはない、待つのは極上の快楽だけさ」

 

 

顕現したマイクに、施された悪魔の翼など独歩の目には入らなかったのである。

 

 

 

***

 

 

 

「俺の出る幕、あったか?」

 

 

深々とソファーに凭れた男は、小さくそう呟いた。

前々から引っ掛かっていたのだが、ベリアルは言葉巧みに人を惑わせるのを好む悪魔である。

先ほどの独歩の件であっても、特別男が何かをしたわけではない。

人の心がわからなくとも、然も理解しているかのように振る舞うことだって出来る筈だ。

込み上げて来た疑問に、男は内心首を捻る。

思考を放棄しかけているとはいえ、喜んでベリアルの駒となる従順さは持ち得ていない。

 

 

「君も、容赦のない男だねえ。

独歩くんに何か恨みでもあるのかい?」

 

「ははっ、愛故にというヤツさ。

いつまでもあのままじゃ、カワイソウだろ」

 

「……ふむ、それもまあ一理ある……が。

取り敢えず治療は終わったよ。あとは一二三君に任せよう」

 

 

視界の端を過った、灰と薄紫の糸に男は思考を打ち切る。

病院から急いで駆け付けてくれたらしい寂雷は、いつも身に纏っている白衣を翻すと、男の隣に腰を下ろした。

 

 

「それで、どういうことだい」

 

「……どういうことも何も、俺はカウンセリングをしただけさ」

 

「にしては随分荒っぽいじゃないか」

 

「フフフ……。時には、肉体でぶつかり合うのもイイ治療になるのさ」

 

「勉強になるな。もっと聞かせてくれないかい?」

 

「君に聞かせるものではないさ、センセイ」

 

 

きっちりと一つに結い上げた髪と、真っ白な手袋はその性格を表しているかのようだ。

好奇心と興味に満ち溢れた深い色の瞳が、男を見つめる。

 

 

「独歩クンが目を覚ましたら、ちゃんと説明するさ」

 

「……わかった。それを信じよう」

 

 

月明かりに映える、寂雷のうつくしい横顔が、静かに微笑みを湛える。

その透き通るような白い肌を見て、不意に男の脳裏にあの椿の花が蘇った。

ベリアルがあの椿の花を受け取ったときに感じた、フラッシュバック。

一瞬であったので、記憶にも残らなかったものの、男の心に微かな爪痕を残していたのである。

 

 

「……あれは」

 

 

豊満な椿の花、それは血溜まりのように赤かった。

その血のような赤が引っ掛かったのは、確か、そうだあの日自分が刺された、あの瞬間を思い出させられたからではなかっただろうか。そう考えると男は、今までに感じていた靄が晴れるのを感じた。

 

―――流れ出る血、じくじくと体を巡る痛みと熱、そして胸を深く抉る赤い刃。

 

男はふと、考える。

自分を殺した犯人は誰であったのだろうか。

その疑問は、憎しみや恨みから来るものではない。ただの純粋な、興味であった。

 

 

「どうしたんだい、ベリアル」

 

「いや、何でもない。ただの戯言だよ」

 

 

心配そうに覗き込むその瞳に、男は軽く微笑みを返す。

何はともあれ、あとはベリアルに任せるしかないのだ。

 

 

「仕事帰りだろう、センセイ。

少し休んだらどうだい」

 

「ふふ、そうしたいところだけど……。

誰かさんの所為で目が冴えてしまってね」

 

「……へえ」

 

「私はどうも、釈然としないことがあると寝付けない性格なんだ」

 

「厄介な男だねえ、君も」

 

「誉め言葉として受け取っておくよ」

 

 

柔らかさの裏に鋭さを隠した寂雷の口先だけの笑みに、男は目を細める。

その表情は、最近ベリアルの周辺をうろつく幻太郎のそれに似ているものがあった。

この世界はどうも勘の良い人間が多いらしい。そう何処か他人事のような言葉を、心の中で転がす。

 

薄紫に灰が混じった神秘的な瞳は、何処までを見透かすのだろうか。

男は小さく笑うと、ソファーに深く凭れ、ただ天井を見上げた。

 

 

 

 

 

 

――――――――――――

【引用】

上古大椿なるもの有り、八千歳を以て春と為し、八千歳を以て秋と為す

(大昔には、大椿という木があった。八千年の間が春で、八千年の間が秋だというものだ)

中國の古典「荘子」内篇・逍遥遊より

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