ガラス越しに差し込む斜陽が、その男の影を落とす。
逆光となったその男の顔に、二つの紅玉がぎらりと浮き立った。
薄い笑みを湛えたベリアルのその表情が、また乱数の脳内にリフレインさせる。
『ハハハッ!面白いことをいうね、キミ。
ちょっと
……でも残念、今のキミじゃあオレをイかせられないな』
『イケナイ遊びをお考えかい、坊や。
フフフ……。偶には
お楽しみはもう少し後にしておくことにするよ』
雑踏の中で際立つベリアルという男を初めて見たとき、乱数は『自分と同類』のものだと直感した。
相手の心に入り込み、時に飴を与え、時に乱すもの。
秩序や法に捉われず、時に善を与え、時に
もしかしたら良きパートナーとなり得るかもしれない、可能性を秘めたものに見えたのだ。
ミルクに珈琲を流し込むように、可憐な顔に少しの思惑を滲ませた乱数は、目の前の赤を見上げて微笑む。
ベリアルはそれに薄い笑みを浮かべただけであった。
乱数に案内された先は、とある一等地にある見晴らしの良い広い部屋であった。
シンプルな壁や床に、最低限の家具が配置されている。
しかし、それ以上のものは存在しなかったのだ。
部屋の主は、洒落た可愛らしいともいえる服を好み、爪などの細部にも気を使っている。
そんな彼の部屋が、こんなにもシンプルであることを誰が想像するであろうか。
人間の部屋は、深層心理を具現化したものである。
などと心理学者を気取るつもりなど毛頭ないが、足を踏み入れたその場所は……。
あまりにも伽藍洞で、寒々しいものであった。
「そこに座ってよ。すぐに用意するからさ。
あっ、そうだ何か飲む?」
「お任せするよ」
足の長い椅子に座り、ベリアルは頬杖を突いた。
しんと静まり返る空間に、乱数の動く音が響く。
「意外だね。キミがこんな趣味をしていたとは」
「あはっ、びっくりした?
そうだよ。此処は僕の部屋さ。
仕事部屋とも違う……正真正銘僕の住んでるトコ」
「ふうん、良い部屋じゃないか」
「でしょ?気に入ったなら一緒に住んでも良いよ?」
「フフフ……。魅力的なお誘いだけど、
眠れなくなりそうだから、辞めておくよ」
「え~?ベリアルって意外と神経質なタイプだったりする?」
「オレのは図太いんだが……。
まあ、色々あるのさ。キミのようにね」
かたん、と小さな音を立ててテーブルにカップを置いた乱数は、ベリアルと向き合うように座る。
着けていた帽子を外した彼の髪が、無機質な空間に色を飾った。
「……ねえ、ベリアル。聞きたいことがあるんだけど、良い?」
「何でも聞いてくれた構わないよ。
その為にオレを誘ったんだろう?」
「ふふっ。さっすが、お見通しだね」
「口実まで語って、オレを連れ込んだ理由……。
刺激的なモノであれば良いんだが?」
「焦らないでよ。……こういう前戯が好きなんでしょ?」
「フフフ……。だがあまり長すぎる前戯は良くないぜ。
焦らされ過ぎても萎えちまう」
「わかってるって、ベリアル。
ならこっから先は……うってつけ、かなあ」
星のような笑みを振りまいた乱数の表情が、一変した。
それは豹変ともいえよう変化で。
きらきらと光を散りばめていた瞳に、重厚な色が差し込む。
水面を想わせるその瞳から、普段の天真爛漫さはもう見受けられない。
高いトーンで明るい言葉を紡ぐその唇も、淡々としたものに切り替わったのだ。
「お前のその力は、何だ?」
「ふふっ。それが本性というワケかい。
イイじゃないか。可愛らしい顔で蔑まれるのも悪くない。
……別に教えてあげても良いんだが。一つ条件がある」
「……言ってみろ」
「オレと姦淫しないかい?
オレもキミの、その体には少し興味があるんだ」
「は?……おにーさん、サイテーなんだけど」
「これでも譲歩してるんだぜ?
何せ、オレの服は秘密でつくられていてね。
それを明かすということは、全裸になるというコトなんだ」
軽々しい笑みを零したベリアルは、片目を閉じると乱数に視線を投げる。
揶揄うようなその眼差しの裏に見え隠れする、試すような色。
それに気付いた乱数は、ぴくりと眉を上げた。
乱数の表情の変化にベリアルは笑みを深めると、長い指先でカップを掬い、黒を煮詰めたような色の珈琲に口を付ける。
「冗談だよ。そんな顔するなって。
取り敢えず話を聞こうじゃないか。
キミの
「……。その
あの時、お前の
「ほお?」
「少なくとも、今まで感じたことのない力だ。
だが、アレは本気ではないんだろう」
「確かに、アレを本気の[[rb:腰使い > ファック]]だと思われちゃ困るが。
だけどそれが……どうしたって?」
あの最終決戦の時に垣間見たベリアルの力に、乱数は圧倒されると同時に、とある考えが頭に浮かんでいた。それは己の成そうとしている計画に、ベリアルを組み込むということ。
その力を手にすることが出来れば、それを成すことは非常に容易くなるだろうと、彼は知略を巡らせていたのである。
「人間どもを殺すために、その力を貸して欲しい……と言ったら?」
「それは随分、盛大な計画だ」
「……笑うか?」
「フフフ……。いいや、そういうの好きだぜ。
人間をこの世から消して、キミは何を望む?」
「今は言えない。だがお前が協力するといえば……直ぐにでも」
「ふうん。じゃあ、何故オレに?」
「一目見たときから、直感した」
「一目惚れかい、情熱的じゃないか。照れるね」
ベリアルの一挙一動を注視する乱数が、その容姿に似つかわしくない程の低い声で告げた。
憎しみと恨みの籠ったそれに、ベリアルは目を細める。
あくまでも調子を崩さずに、俯瞰する瞳を向けるベリアルに、乱数は眉を顰めた。
「言っておくケド、これ冗談なんかじゃないよお?」
「ははっ、わかっているさ。キミのその目を見れば、ね。
だが……キミの計画に手を貸すことはできない」
「っ、何故?」
「まだ時じゃあない。キミだってそう思っている筈だ。
だから、その
「……」
「それに、オレもまだこの世界には用があってね。
キミの計画が始まってしまうと、少々都合が悪いんだ」
「用、というのは?」
「フフフ……。オレに切れる
何処までも見通したような口ぶりから滲む、余裕に乱数は溜息を吐いた。
質問しているのは己で、主導権を持つのも己であった筈なのに、気が付けば逆転している。
相手の手札を捲っている筈なのに、気が付けば己の手札が捲られていくのだ。
背筋に氷が這うような、ぞくぞくする感覚に乱数の脳内にとある声が蘇る。
「
チームメンバーの一人が零したその言葉は、薄気味悪いほど当たっていたのかもしれない。
そして確か、その言葉に返した自分の言葉もまた……。
「さて、この話は此処までにしておこうか。
ピロートークの時間が無くなっちゃうからね」
「あーあ、手強いなあ。もう!
僕の言うこと聞いてくれないの、君くらいだよ」
「それは光栄だよ。
オレを手籠めにしたいなら、キミのご自慢のマイクで酔わせてみろよ。
話はそれからさ」
椅子に深く凭れたベリアルは、そう言って深い笑みを浮かべた。
深い溜息を吐いて、両肘を付くと組んだ手の上に己の顎を乗せる。
そうして頬を膨らませると、じろりとベリアルを睨んだのである。
***
入り組んだ路地に伸びる無数の影があった。
ばたばたと忙しなく交差する足音は、全くと言って良いほど時間を考慮していないが、この街では日常茶飯事となっているので、態々首を突っ込もうとする人間もいなかった。
カンカン、という鉄階段を昇る音と、飛び交う罵声が、ネオンに染められた街を賑わせている。
「ッチ。おい、クソガキ!!ふざけんじゃねえぞ!」
漂う不穏の空気を切り裂くように、声を上げた男がいた。
ネオンの色さえも弾く鋭い銀の色に、殺伐とした瞳を持つその男は、青筋を立てて叫ぶ。
周囲には若い男たちがおり、見るからに不良とわかる出で立ちをしていた。
人気のない古びたビルの屋上には、不良たちとその男と、もう一人黒髪の少年の姿があった。
「……っ、ぐあっ……!も、もう勘弁、してくれ……っ!!」
「……」
「ひ、ひいいっ!!お、俺が悪かった、だからもうっ!ぎゃああっ!!」
一見すると不良の喧嘩が勃発している所だが、それは違った。
派手な服に身を包んだものたちは、もう既に虫の息であったのだ。
あるものは地面に転がり、あるものは腰を抜かして座り込んでいる。
阿鼻叫喚といった悲鳴が絶えず上がる中、その黒髪の少年はまた一人の胸倉を掴み上げたのである。
「やめろ!!一郎……っ!!殺す気か!」
銀髪の男はその腕を掴むと、一郎と呼んだその少年の頬を殴りつけた。
ばき、という硬い音を立てて、振るわれた拳が柔い頬にめり込む。
「っ、さ……ま、ときさん、……お、れ」
「ッチ。面倒掛けやがって。
ちっとは正気に戻りやがったか」
「え、あれ……。俺は」
「ふん、話は後だ。さっさと帰んぞ」
焦点のぼやけた虚ろな瞳に、はっきりとした色が戻る。
それを確認した左馬刻は短く舌を鳴らすと、一郎の腕を離した。
己に突き刺さる畏怖の視線たちと、コンクリートの上に倒れこむ男たちを呆然と見た一郎は、混乱したように目を彷徨わせる。
状況判断が追い付かず立ち竦む一郎を見かねた……というよりも、痺れを切らした左馬刻は、乱暴な手付きで再び一郎の腕を掴み、強く引っ張った。
「うわっ!ちょ、ちょっと左馬刻さんっ!!」
「うっせえ!!トロくせえことしてんじゃねえよ!」
左馬刻は一郎と共に階段を降りると、一郎に向き直る。
まだあどけなさの残る少年の瞳は、困惑と不安と恐怖に濡れていた。
それを見た左馬刻は、強く舌を打つ。
左馬刻の子分として、後ろをちょろちょろと付いて来る一郎を、彼は良く面倒を見ていた。
目つきや口は悪いが、懐に入れた者には甘く面倒見が良くなる、まさに兄気質な左馬刻を、一郎は純粋に尊敬して懐いていた。
良くも悪くも素直で、頭の回転も悪くはなく、文句は多いが従順である一郎を、彼も認めてはいたのだ。
だからこそ、一郎の暴走は目に余るものがあり、信じられなかった。
兄貴分としても放ってはおけなかったのだ。
いつからであっただろうか。一郎が『こう』なったのは。
ある日突然タガが外れたように、一郎は暴力的になった。
一度暴走をすると、歯止めが効かなくなったのである。
なんとか左馬刻が手荒な方法で正気に戻しているが、あくまでも一時的なものに過ぎない。
心配というと彼は認めないだろうが、気になった左馬刻は、一郎の弟たちを訪ねたことがあった。
彼らもまた敬愛する兄の豹変に困惑しているようで、左馬刻が妹にそうしているように、あれほど大事な存在として語っていた弟たちにすら、暴言を吐く時があるらしかった。
「てめえ、一体どうしたってんだ」
「そんなの……っ、俺の方が、知りてえよ……っ!!」
真正面から聞いても、意味はないことは理解している。
発作のように一郎の意識関係なしに起こる、それに一番苦しんでいるのは本人だということも充分理解していた。だが、治しようにも原因がわからない。
短絡的な考えだが、こうして一郎本人に直接問うしか方法はないように思えた。
「ッチ。こうなりゃ……しょうがねえ。
おい、寂雷んトコいくぞ」
「……寂雷、さん?」
ふと左馬刻は、同じチームの中に精神的治療も行っている医者がいたのを思い出したのである。
随分遅い閃きであるが、それだけ彼もまた一郎の変化に心を痛めていたのであろう。本人は決して認めることはないであろうが。
左馬刻はポケットから携帯を取り出すと、電話帳から目的の名前を引っ張り出した。
そうして電話を掛けようとしたその時である。
「あ、ああ……。また、また……アレが、来る。
声が、声が聞こえて……」
「おい、どうした?」
「さ、まときさん……、俺、また……っ!!」
「落ち着けっ!てめえ、まさか……」
「あ……。あ、あああああああああっ!!!」
突然頭を抱えたかと思うと、両手で耳を塞ぎ苦しみ始めた一郎に、左馬刻は目を見開いた。
段々と血走っていく一郎の瞳に、左馬刻の背中にぞくりと悪寒が走る。
もがくように抗う一郎であったが、悲鳴にも似た雄叫びを上げると、唐突に左馬刻を殴りつけたのだ。
反射的に一郎の拳を交わした左馬刻であったが、一瞬隙が生じてしまう。
だが彼の隙をつける敏捷さは、一郎にはなかった筈である。
「っぐ……っ、この……クソガキがっ!!」
予想外の素早さで、一気に距離を詰めた一郎は、勢いのまま左馬刻の腹部を膝で蹴り上げた。
鳩尾を穿たれ息を詰めた左馬刻であったが、膝を折ることはなかった。
弟分にやられて無様な姿を晒すなど、己のプライドに掛けても許されなかったのである。
繰り出した
「っ!!てめえ!!まち、……やが、れ……」
遠退いていく背中に足を動かそうとした直後、ぐらりと視界が揺れた。
踏ん張りが効かず崩れ落ちた体は、何故か力が入らなくなっていた。
心の中で何度も悪態を吐き捨て薄れゆく意識に抗うが、そんな左馬刻を嘲笑うように広がる闇が、彼の意識を奪い去っていったのである。
――ぽつり、ぽつり、
宵闇に塗り潰された空が、冷たい雫を左馬刻の頬へと落とす。
覚醒を促すようなそれは、徐々に激しさを増していき、あっという間にコンクリートの色を変えた。
「カワイソウに。カレ、芽吹いてしまったようだね。
おや、悲しいのかい?オレというモノがありながら、妬けるじゃないか。
フフフ……。まあ、キミがそういうのなら……」
左馬刻と一郎がいたビルよりも、更に高い場所から見下ろす存在がいたことを知るのは、泣き濡れる天のみであろう。