冷たいタイルを打つあたたかな水の粒が、白い肌を弾く。
この時期の雨は、空気を湿らせるため、唯さえ通気性の宜しくないスーツを普段着としている人間にとっては、不快度数が上昇するだけである。
昔は雨上がりに感じる熱が蒸れたような、あの夏の匂いを好ましく思っていた。
だが、それを感じる余裕すら無くなった今、雨は革靴を汚し、スーツを湿気で濡らし、汗臭さの原因ともなる不快なものでしかない。
服の中で籠っていた様々なものを、シャワーによって洗い流していく。
そうすることで、やっと
例えそれが、ほんのひと時の安堵だとしても、その心地良さがあるから独歩は己の生を実感出来るのかもしれなかった。
「……」
普段ならば、頭を占めるのは会社のことだ。
一日にあったことがまるで走馬燈のように蘇り、時に独歩を責め立て、時に独歩を罵倒する。
上司の罵声や取引先の怒声といったネガティブな声が、頭の中を駆け巡り、動けなくなることもあった。
浴室の壁を殴りつけて駆け付けてきた同居人に心配されたりしたこともある。
後悔の後味を、いつも独歩は噛み締めていたのだ。
あの時こうすれば良かった、こんなことを言わなければ良かった。
同居人はそんな独歩のことを、気にしすぎと言って慰めたが、独歩にとって『人の目』はこれ以上ないくらい恐ろしいものであったのだ。厳密にいうと、人の目が映す己の姿に怯えていたのだが、兎に角独歩という男は自己嫌悪の塊ともいえる性格をしていたのである。
「……」
排水溝へと流れていく、シャンプーの泡を見送るその瞳は、呆けているようにも見えた。
苛立ちも、恨みも、水と共に流し切ってしまったような、すっきりとした爽快感が、胸を占めていたからである。だが、もう何年も味わっていないその感覚が突然訪れたことに、独歩は戸惑っていた。
「……もし、かして……俺」
心当たりは、あった。
それは、付き合いの長い幼馴染ではなく、心底から信頼する先生でもない、出会ったばかりの素性も知らない男が口にした『たった一言』が、独歩の頭を離れてくれないのだから。
子供にでも言い聞かせるような、何処か呆れを滲ませて、でも優しくてあたたかな、その一言。
「……」
人間とは自分勝手なものだよ、と言ったのはとある先生であったか。
自分という個体を認められなければ死んでしまう、下手をしたら兎よりも繊細な生き物だと、彼は言った。
確かにその通りだと思う。
自分自身が一番自分を否定しているのに、人から否定されると傷付き、自棄になる。
良く本に書かれているような大層な言葉で認められても、逆に自分が惨めに思えてくる。
だから、あの程良い温度の声に乗せられた言葉は、独歩にぴったりとフィットしたのかもしれない。
浮付いた頭の中で、一つ一つを自分の気持ちを紐解いていた独歩は、そこまで考えてシャワーを止めた。
どっぷりと考え込んでしまって忘れていたが、ひょっとしたら結構な時間が経ってしまっているのではないだろうかと、気付いたのである。
文字通り飛び出ていった独歩の後ろで、ぴちゃん、と雫の弾ける音がまた一つ響いたのであった。
どたどたと騒々しい足音が廊下を駆ける。
下の階から苦情が来そうだが、それどころではなかった。
尾を引くように、乾ききっていない毛先から雫が滴り、きらきらと宙を舞い落ちる。
明かりの点いていたリビングを目にすると、独歩は中へと飛び込んだ。
「す、すみません……!お待たせしました!」
「ほお、顔色が良くなったね。
何発ヌいて来たんだい?
オレも誘ってくれれば良かったのに」
「な……っ、そ、そんな、してませんよ……!」
「フフフ、恥ずかしがる必要はないだろう?
参考までにってやつさ。
あまり溜め過ぎるとカラダに良くないぜ」
猫を想わせる仕草で目を細めたベリアルから、もう影を感じることはなかった
ソファーで寛いでいるベリアルが、薄く笑って言った言葉に、待たせてしまったことへの怒りが込められていないことに、独歩はまず安堵するが、別の意味で慌てふためくことになったのである。
『ベリさんの揶揄いは色んな意味でキワドイから、聞いちゃダメだよ独歩ちん!』
ふと、以前同居人の言葉が脳裏を過った。
わたわたと視線を彷徨わせていた独歩は、ふとベリアルの顔を見たかと思うと、その目を見開いた。
体を起こして自らの膝に頬杖を付いたその顔に、相手の反応を意地悪く弄ぼうとしているのならば、もっと悪い顔をするべきであろうと、心の中で叫んだ。
――優しいのだ、その瞳が、そしてその顔が。
慈愛といっても良いのかもしれない。
かつて一度も誰からも向けられたことのない、あたたかな表情であった。
「……っ」
「悪い悪い、少々イジメ過ぎたようだ」
「……ほんとに、わるいと思っています?」
「フフフ、思っているさ。
お詫びにイイものを作ってあげよう」
「……いいもの?」
「おいおい、そう警戒するなよ。
まあちょっとそこに座って待っていてくれ」
「あの……。ここ、一応俺の家……。
って、聞いてないよな」
完全に子どもを扱うようなベリアルの言動に、気恥ずかしさと、ムズ痒いような妙な気持ちになる。
じとりと己を睨む瞳に笑みを深めたベリアルは、おもむろに立ち上がると、何故か慣れた足取りでキッチンへと向かった。
一々その言動に突っ込むほうが、無粋なのかもしれないと感じさせるその男に、独歩は深い溜息を吐く。
そうして大人しくソファーに座り、黒い背中をぼんやりと見ていると、暫くしてそれは酒瓶らしきものと、グラスを二つ手に戻って来た。
主に同居人のものであるが、様々な形をした酒瓶が並ぶ。
ほぼ家では飲まないので封は切られていないが、貰い物であったり、気紛れに買って来たりしたものだ。
独歩は、しなやかな指先が動くのを、またぼんやりと見ていた。
ガラスタンブラーに落とされた氷が軽快な音を立てる。
からん、と響いた冷やかな音は、風鈴のそれと同じくらい耳馴染みが良く、郷愁を想わせるものであった。
だが次に注がれた液体によって、その透明感のある爽やかさは崩壊する。
テキーラ、クレーム・ド・カシス、レモン・ジュースを使用し、ジンジャー・エールでタンブラーを満たしたそれは、血を想わせる『赤』をしていたのだ。
「キレイな色だろう?」
目の前に差し出されたグラスに、独歩はただ目を惹かれていた。
禍々しいその色を持ったカクテルは、どうしてか息を呑む程にうつくしいものに見えたのである。
基本的に仕事以外でアルコールを口にしない独歩にとって、酒は付き合いで仕方なく飲むものであった。
飲んでなんぼであった営業職も、昔に比べると改善されたように思われるが、人間の習慣というのはそう簡単に無くなるものではない。
仕事という大義名分の為に、
「……」
「俺はバーテンダーでね。カクテル作りに凝っているんだ」
「……え?ベリアルさんそれ、本当だったんですか?」
「ふふ、氷が解け始める前に飲んでくれよ。
飲むなら濃い方がイイだろう?」
「また、そうやって誤魔化す……」
ありがとうございますと、差し出されたグラスを受け取ると同時に小さくぼやいた独歩に、くつりと喉が鳴らされた。短い付き合いではあるが、この男は言葉を『交わす』ことよりも『躱す』ことの方が多いように思える。ミステリアスな男といえば聞こえは良いが、独歩はベリアルについて何も知らないのだ。
秘密主義、といえばあの先生にも似た雰囲気はあるな、と独歩は手にしたグラスに目を移す。
たぷんと揺れる濃い紅の液体は、目の前の男の瞳をそのまま溶かしたような色をしていて、禍々しくも見えるそれに独歩は少しの間見入っていたが、やがて恐る恐るといった様子で、グラスの淵に唇を付けた――。
「さて、そろそろ本題に入ろうか。
キミの話が聞きたい」
「あ、……はい、」
とろりとした喉ごしと、血のような見目とは相反する爽やかさに、無心にカクテルを口に運んでいたらしいことに気付いた独歩は、頬を赤らめながら、再びベリアルに視線を合わせた。
手元の赤と、同じような色合いの赤が、じっと独歩を見下げている。
そのことに微かな緊張を走らせながら、独歩はその口を開く。
「
「……」
「寧ろ、一二三と先生が何で必死になって、俺に色々言うのかなって。
……最悪な、ことを言います、正直、その」
「疎ましかった?」
「そんな、こと……っ!」
「キミも、不器用なニンゲンだ。
力を抜くことを知らないらしい。
オーケイ、そんなキミにオレがレクチャーしてやろう」
「え……?」
「折角イイ
溜まっているモノ全部、オレに吐き出してみろよ。
……キミのドロドロとした濃いモノを、飲み干してあげる」
テーブルの上にグラスを置いたベリアルの、落とされた声のトーンに、まるで耳元で囁かれているかのような錯覚に陥る。甘ったるいその声に、脳が揺れる感覚がひどく心地良かった。
気が付けば、独歩の口は勝手に開いていて、濁流の如く言葉が流れ出していたのである。
「そう、そうなんです。俺はこんなにも気持ち良いのに、何で皆止めるんだ……?
俺が苦しんでいる時は、何も、何もなかったのに。何故、満たされている時に、色々言ってくる?
邪魔だったんだ。そう、ベリアルさんの言うように、疎ましかった。
俺が『こう』なったのは俺自身の所為だ、それを否定するつもりはないんです。でも、俺には、こんな生き方しか出来ないから、だから、何を言われようとも、ヘラヘラ笑って、じっと耐えて……。
本当は、聞きたかった。それなら俺はどうすれば良かった?俺は、俺の……生きる、意味は――。
わからない、わからないけど、ただ、否定はしないで欲しかった」
「……キミは、悪魔の浸蝕によって満たされていた。
だからこそ、それを邪魔するものへの苛立ちが募っていった」
「ええ、おかしな話ですよね。こんなの。
だってあなたと俺は、出会ったばかりなのに、それなのに、一二三よりも俺を知っている。
いや違う、あいつを否定するつもりも責めるつもりも、ないんです」
「わかっているさ。キミの苛立ちは、キミ自身でさえも制御不可能であった。
暴発寸前だったんだ。そして意図せずその引き金を引いたのは……」
「……」
「フフフ、それにしても良く頑張ったじゃないか。
本人の前では堪えていたんだろう?」
「……そんなんじゃ、ないんです。
単にその時はショックで、何も考えられなくて。
会社で仕事をしていても、その言葉が離れなくて」
「ふむ……。歯に引っ掛かっていたそれを、漸くそこで咀嚼したってコトか」
「今、思えばそうなんでしょうね。
何で彼の言葉が引っ掛かっているのか、やっとわかった時にはもう遅かった」
ぐと呷るようにカクテルを流し込んだ独歩は、悔いるように目を閉じる。
そんな独歩の中にある渇望に、ベリアルは気付いていた。
「さぞ、気持ち良かっただろう?」
「……っ」
「溜まっていたモノが一気に昇りつめて、解き放たれる快感は代えがたいものだ。
沸き立つ
「……。ははっ、参ったな。全部知って、いるじゃないですか」
「そんなことはないさ」
「……ベリアルさん、って、嘘吐きなんですね」
「ふふ、心外だね。オレは嘘というモノを知らないんだ」
溜め込んだ怒りという感情を爆発させたその瞬間に、体中を駆け抜けた快楽を忘れられずにいたのだ。
我慢に我慢を重ねていた精神が、解き放たれる快楽は半端なものではなかった。
それが癖になってしまったのかもしれない。家に帰っても、病院に行っても、少しのことで人に噛み付く凶暴性を、受け入れつつあったのは。
そんな独歩が本当の意味で我に返ったのは、あの日同居人がこのベリアルを連れて来て、憶えてはいないが己に憑りついていたという『悪魔』を引き剥がした時からであった。
正気に戻ってから、今までのことを思い出して、頭を抱えるどころか飛び降りたくなったが、何よりも独歩を悩ませたのはその快楽に依存してしまっている己自身である。
「後遺症ってやつさ。
快楽に、依存性があることは身を以てわかっているだろう?
特にキミのは、悪魔による性質の悪いものだ。
前にも言ったように、本来ならもう既に自我を失っていても可笑しくはない」
「……情けなくて、しかたないんです
そうやって助けてくれたのに、俺は……」
「一応言っておこう。
このまま快楽に流されて、壊れるのも一つさ。
人間であることを捨ててしまえば、二度と苦しみを味わうことはないんだ。
まあ生も死も関係なくなるんだけどね」
「……っ、それは、嫌……です」
「何故そう思う?」
「だって、俺は……!俺が、選んだ道を逃げ出すことはしたく、ないから。
どんなにどうでも良い人生だとしても、それでも。全てを捨てて楽になるなんて、望んでいない」
「フフフ……。わかったよ、キミがそう言うのならば」
独歩の耳には、もう外の雨音は聞こえてなどいなかった。
――甘い残渣を残す声。それが悪魔の囁きと等しいものであることを、彼は知り得ない。
妖しさを滲ませたそれが、いつからか心地の良いものとなる。
己のどうしようもない思いを、婉然とした微笑を浮かべつつ傾聴し、決して否定の言葉を口にしない。
独歩は、雑多なこの空間が、教会の懺悔室にでもなったように感じていた。
実際に行ったことはないが、テレビか何かで見たことがあったのだ。神聖という排他的な雰囲気を纏いながらも、悩める人間を拒まずに受け入れるというかの場所を。
一つ、二つと瞬きをする内に、目の前の男の瞳がぼやけていく。
雨粒に濁らされたネオンの光のように、朧に輝くその赤は……まさに完成された美しさであった。
「それでキミは、オレに何を望む?」
「俺は、ただ俺自身を、……取り戻したいんです」
「
穏やかな笑みが、歪んだ。
嘲笑するように、憐れむように、それは独歩を見下げる。
「なら問おうじゃないか。
キミ自身は、一体どっちなんだ?」
「え?」
「怒りを振り翳すキミも、我慢を貫くキミも、どちらも同じモノだろう?
なら何故、欲望を開放する自分をそんなに否定する?」
「……ちがう、違う……!俺は、」
「キミが、手にしたモノはそう悪いものじゃない。
それを免罪符にして、何をしたっていいんだぜ?
……今回ばかりは、キミが主役さ」
「……やめ、て、ください……俺、は」
「ならオレの目に映ったキミを見てみるといい。
どんな顔をしている?嘆いている?悲しんでいるのかい?
いいやキミは、愉しんでいるんだよ」
「やめろ……!!」
「キミが重視するのは、秩序?正義?調和?
もちろん、くだらないとは言わないさ。
でも……。それって、何のためのものか考えたことは?」
「っ、」
「汚い人間が、汚い矜持を守るために立てた、醜いルールさ。
頭を回してみろよ。キミがそれを守っても、それはキミを守らない。
使用済みの
だから、キミ一人が理性を飛ばしたところで、何の問題にもならないのさ」
「……やめてくれ!もう……それ以上、今の、俺を……肯定しないで、……お願い、だから、」
「ふふ、おねだりの仕方が違うんじゃないかい?
オレはキミの本性を暴いてあげているだけだよ」
己を守るように俯いて自らの手で耳を覆った独歩の、悲痛な叫びにベリアルが耳を貸すことはなかった。
音もなく立ち上がったベリアルは独歩の隣へと腰を下ろすと、白い手が守る彼の耳へと唇を近付ける。
「残念だけど……。
上辺だけの言葉を、軽々しく吐けるほど軽率な男ではないものでね。
それに、そんな生温い同情なんか所詮オトナの玩具でしかない」
耳を塞いでも、目を閉じても、その赤は独歩に沁み込んでいく。
初めからそれを
独歩が今日ベリアルを呼んだ理由を、彼自身噛み砕けずにいた。
己の中に生じる『矛盾』を、誰かに聞いて欲しかった。
怒りの快楽に惹かれる自分を、止めて欲しかったのかもしれない。
だが、そんな自分を否定されるのも、嫌であったのだ。
なんて身勝手な矛盾なのだろうと、自己嫌悪に襲われた時、脳裏に浮かんだのがこのベリアルであった。
しかし、ベリアルは、理性よりも本能を肯定した。
はっきりとは口にしていないが、独歩にはベリアルが言外に『そのままで良い』と告げているように見えたのだ。
手の甲に感じるベリアルの吐息が、生々しく独歩を擽る。
「なあ……。キミの歪で醜い
何ならお互いに見せ合っても構わないぜ。
興奮するんだ、キミのようなニンゲンを見ているとね。
だから、もっと、もっと暴きたくなるんだ」
くすくすと零れる笑い声が、塞いでいる筈の独歩の耳に流れ込んで来た。
先ほどから霧掛かっていた視界に比例して、徐々に思考もぼんやりと曖昧になっていく。
「……心配することはないさ。
最初に言った通り、オレが全部飲み干してあげよう」
その言葉を聞いた直後、ぐるりと世界が回ったかと思うと、体中から力が抜けていくのを遥か遠くに感じた。そのまま意識を失った独歩の体を支えたベリアルは、小さく息を吐く。
「本能では咲くことを望んでいるのに、周りがそれを抑え込んでいる。
根元を縛られて達することも出来ず、たらたらと蜜を垂れ流すしか出来ない。
そしてその密に誘われて来る虫たちが、またキミを刺激するんだ。
ふふ、実に哀れな男だ。萎えることもイくことも許されず、ずっと寸止め状態だなんてね。
想像しただけで、気が狂いそうになるよ。本当に、カワイソウだ」
閉ざされた瞳を覗き込むその顔は、先ほど独歩に見せていた顔とは異なっていた。
快美な優しさは、艶美な妖しさに姿を変え、見るからに毒を孕むその表情が、禍々しさすら感じさせる笑みに歪む。
「――だが、それが
からん、と熱に溶かされた氷が、空となったグラスの赤い
低く喉を鳴らして嗤ったベリアルは、ゆっくりと口角をつり上げた。
「覗き見だけじゃ、物足りないだろう?
そろそろキミも混ざりなよ。
ああそういうプレイが好きなら、もっと見せつけてあげてもイイけどね」
開け放たれた扉から吹き込んだ風に、ふわりと髪が舞い上がった。