宵闇に紛れるように、霧雨の中を歩いていく。
東京の都心であっても、こう天気が悪いと人も少ない。
いつもならば深夜を回ってもぽつぽつと人が歩いているのだが、今夜はしんと静まり返っていた。
大通りを避けるように路地に入り、迷路のような道を迷うことなく突き進む背中を、黙って男は追い駆ける。
そうしてどのくらい歩いただろうか。前を行く背中がぴたりと止まった。
「どうやら、此処のようだ」
濡れた髪を掻きあげたベリアルは、その建物の中へと入っていく。
そこは、新しくはなさそうだが小奇麗な印象を受ける所謂雑居ビルであった。
二階へと上がると自動扉を一枚隔てた先に、受付らしきカウンターが置かれていた。
中は煌々と明かりが点けられており、中が良く見えた。
所々にこの場所の名前だと思われる文字や、受付時間らしきものから、此処は診療所であることがわかった。だがこのような診療所が深夜にやっているものだろうか、と男は首を捻る。
「とりあえず、奥に寝かせてくれるかい。
キミの怪我の治療はその後にしよう」
そう言ってベリアルはいくつかあるうちの扉の一つを指し示した。
一つ頷いた男はその部屋の中に入ると、担いでいた一郎をベッドに寝かせる。
「アリガトウ、それじゃあキミはこっちに……。
いやその前にシャワーを浴びると良い。
その肌にぴったりとくっ付いた服を、替えないとね」
水の滴る、まではいかないが男もベリアルも濡れ鼠状態であった。
どうやらこの診療所には、シャワー室が設置されているらしい。
男の頭から爪先まで、視線を這わせたベリアルは自らの顎に手を当てながらそう提案した。
「しかし、濡れているのは上官とて同じ……。
小官は慣れている故、先に、」
慌てたような素振りで男はベリアルを見た。
黒々とした髪から落ちた雫が、その首筋を伝っていく。
毎日のように訓練を行う男は身体ともに鍛え抜いており、その程度濡れただけでは支障はない。
良く理解はしていないが、男にとってこのベリアルは恩人にあたる。
義を重んじる男は、性格上それを無視することは出来なかったのである。
「さっきはあれほど従順にオレの指示を聞いてくれたじゃないか、なあ?」
「……。承知、した」
「フフフ……。
ふと男を見上げた、その赤い瞳は有無を言わせる気はないようだ。
交わった視線に、ぐと息を飲んだ男は一つ頷く。
そしてすっと背筋を伸ばすと、静かにその頭を下げた。
それにしても一つ一つの動作が型に嵌っている男である。
女性のそれとは違い固く機械的ともいえるが、高潔でうつくしいともいえよう。
身を返してシャワー室へと向かっていく迷彩の背中を見つめ、ベリアルはゆるりと目を細めた。
「また、拾ってきたのかい。ベリアル」
「今回は拾ったわけじゃないさ。付いて来たんだ」
「……それで私に彼の手当てをしろというんだろう?」
「良くわかっているじゃないか、センセイ」
「はあ……君は人遣いが荒いね」
「フフフ、それはキミが
それに協力を申し出たのは、誰だっけ?」
「ふっ、君に言われた通り私も少し欲を出そうと思っていてね。
また
だから、君の掌の上で暫くは大人しくしておくよ。
その方が尻尾を掴みやすそうだ」
「……抜け目がないなあ、キミも」
「それが
「フフフ、……わかっているじゃないか」
視界の端に白色が映るのと、その口元が弧を描いたのは……ほぼ同時であった。
紫の髪を結い上げ白衣を纏った寂雷は、手袋をした手でベリアルの頬を拭う。
「随分、男前な顔をしているね」
「知らなかったのかい?元からさ」
「ふふ、気付かなかったよ。
……それで彼の名前は?」
「ああ……そういえば聞いていなかったな」
「はあ。相変わらずだね、君は」
頬に手を当てた寂雷は、深い溜息を吐いた。
口振りでは興味のあるように装っているが、その根本は基本的に他者に興味を微塵も持っていないのだ。
それを示すように、ベリアルはヒトの名前を呼ぼうとはしない。
「まあ、彼のことはセンセイに任せるよ」
「あのねえ、ベリアル……」
「おや、オレの為に踊ってくれるんだろう?
……ひょっとして、アレは
「……わかったよ。男に二言はないさ」
ふう、と息を吐いた寂雷は、口元に笑みを浮かべる。
何処か妖しさを漂わせるベリアルのそれとは違い、慈愛という言葉が似合う笑い方であった。
寂雷はまだベリアルの思考も、腹の中も見抜いているわけではない。
だが匂わせるミステリアスさも、彼が彼たる所以であることを飲み込んでいた。
「……君は、まるで蛇のようだ」
「……それは、褒めているのかな?」
「さあ、ね。じゃあ頼んだよセンセイ」
どのような相手であれ、一度全てを
そして体内へと取り込んだ相手を、じわじわと溶かし消化していく。
まるで、そう大蛇の如く。
瞳に滲む慈愛のそのもっと奥に鎌首を擡げる不穏な光を、ベリアルは見ていたのかもしれない。
ゆっくりと瞬きをした悪魔は、寂雷に背を向けると奥の部屋へと消えていった。
「……蛇、か」
かつり――と靴音を響かせベリアルとは反対方向に足を進める。
そして窓辺へと辿り着くと、壁に身を預け外に視線を向けた。
暗い空から降る雨は、涙のようで。
弾ける雨だれの音が、声のようで。
このような日は決まって、彼を追想へと誘う。
小さく息を吐いた寂雷は自らのヒプノシスマイクを顕現させると、それに絡みつく蛇を指先で撫でる。
ベリアルが発音した『蛇』という言葉に、彼は『医学の象徴』たる杖を思い出していた。
医神として現在も医学の象徴的存在となっている、アスクレピオス。
ギリシャ神話に登場し、優れた医術の技で死者すら蘇らせたという神が手にしていたのが『アスクレピオスの杖』だ。
その熟達した技術で死者蘇生すら成したアスクレピオスは、冥王ハデスに“
「人が人であるが故に、免れない――四つの苦しみ。
生まれること、年をとること、病気をすること、死ぬこと……」
神宮寺寂雷は日本で彼を知らぬものはいない、世界的な名医として、そこに君臨していた。だが彼自身はその肩書に意味を見出していなかった。
彼は知りたい答えを、探している。それだけなのだ。
人の生を、死を、そしてその先にあるものを、真摯に捉えようとしている。それだけ。
報酬を顧みず、答えを得るために奔走する彼を人々は御仏のようだと言う。
確かに彼にとって、患者一人一人は大切な存在だ。
そして同時に、一人一人が答えを得るための
こう表現すると、まるで彼の医者としての在り方に語弊が生じるかもしれない。
助けを求める人々の手を決して振り払うことのない寂雷だからこそ、その心は常に求め続けている。それだけのことなのだ。
「
寂雷が良く口遊む言葉。それは彼の座右の銘でもあり、その心を表すものであった。
思想家・説教者としても活躍したロシアを代表するとある文豪の名言は、彼が深く感銘を受けた言葉だ。
常に自分のためではなく、人のために在ること。それは医者としての、在り方であった。
『キミが重視するのは、秩序?正義?調和?
もちろん、くだらないとは言わないさ。
でも……。それって、何のためのものか考えたことは?』
『汚い人間が、汚い矜持を守るために立てた、醜いルールさ。
頭を回してみろよ。キミがそれを守っても、それはキミを守らない。
使用済みの
だから、キミ一人が理性を飛ばしたところで何の問題にもならないのさ』
だからだろう。嘲りを含んだその言葉は、声は、彼の心の深く刺さった。
寂雷とて神ではない。助けようにも助けられなかった患者を多く看取ってきた。
その中で一番残るのは、唐突に失われた命を嘆く遺族の声であった。
――何故?――あなた医者でしょう?
――どうして?――助けてくれなかったの?
――なんで?――この人が死ななければならないの?
彼らは感情が滅茶苦茶になり、行き場のない思いを突発的にぶつけただけ。
それは良くわかっているし、その苦しみも悲しみも憎しみも……わかって、いた。
それでも尚、治療にあたった医療関係者を、そして医者を恨み続ける人間もいる。
寂雷はそれに反抗するつもりはない。寧ろそれで少しでも心が休まるのならば、いくらでも受け入れた。
しかし彼もまた、人間である。
その肩書や経験に比例して、心の何処かに蟠りを積み上げていっていたのかもしれない。
医者であり、そして名医である彼を対等に扱うものは少なかったことも、その原因だろう。
医学の世界は功績がものをいう、色々な意味で人間らしい世界である。
相談できる相手も、心を許せる相手も、いないに等しかった。
だから、己の感情を吐き出せるラップを好んだのかもしれない。
だから、己の感情を見通しているかのようなベリアルに協力しているのかもしれない。
『なあ……。キミの歪で醜い
何ならお互いに見せ合っても構わないぜ。
興奮するんだ、キミのようなニンゲンを見ているとね。
だから、もっと、もっと暴きたくなる』
もしかしたら、あのベリアルという男は――。
そこまで考えて一度寂雷は思考を止める。
あの男について考えれば考えるほど、迷宮の奥へ奥へと手招かれているような気がした。
それ以上はいけないと、己の中の何かが止める。
それ以上進めばきっと、己の中の何かが変わる。
……そんな気がした。
「
気が付けば寂雷は、『命』を背負った日に口にした誓いの言葉を口にしていた。
それは、医師の職業倫理に関するギリシャ神への宣誓文であり、彼が医者としての意義を見失いそうになった時に口にする、初心に返るための呪文でもあった。
「……
「……!」
ぽつりと呟いたそれは、静かな診療所に小さく響いて消えていくだけ……の筈であったが、とある声がそれを拾い上げたのだ。
驚いて振り向いた寂雷は、迷彩服からラフな服に着替えたその男を見て、再び笑む。
患者に対しても柔らかく接する彼の微笑は、とても優しいものであった。
「聞いたことが、ある」
「ほう、知り合いに医学関係者がいるのかい?
ヒポクラテスの誓いは、自ら人を診る立場としてどうあるべきかを示した神への誓いの言葉なんだ」
「……。ああ、確か軍医に聞いた」
「軍……。そうかい。
ああ、そうだ君の名前を教えてもらって良いかな?」
「すまない、申し遅れた。
小官の名は毒島メイソン理鶯、理鶯と呼んでくれて構わない」
「理鶯くん、ね。私は神宮寺寂雷。
今はまあ、ベリアル専属の医者ってとこかな」
理鶯と名乗ったその男は、筋骨隆々とした長身の男であった。
その体つきであるので、軍という言葉が彼の口から出ても特に驚くことではない。
会話をしつつ寂雷はさり気なく目を動かして、観察する。
頬が腫れ、口角に血が滲んでいる。歯は抜けていなそうだ。口を中心とした顔に外傷、それ以外は異常はなさそうである。これなら消毒で済みそうだと治療方法を決定した。
ベリアルに関わってから何だかんだで呼び出されているので、専属という言葉も間違ってはいないだろう。そう言っておどけるように笑った寂雷に、理鶯は首を傾げる。
その様子を見た寂雷の笑みが、苦いものに変わった。
「まさか、お互いに自己紹介をしていないとはね……。
君を此処に連れて来たあの男はベリアルというんだ」
「……ベリアル、殿」
「さて、理鶯君。そこに座ってくれ。
治療をしよう」
「別に、大した怪我では……」
「ふふ。これもベリアルからの『指示』なんだ。
我慢してくれるかな?」
「……承知、した」
ベリアルの名を出すと途端に従順になる理鶯の様子に、寂雷は内心で弱みでも握られたのではと考えたが、その表情が何故か輝いているようにも見えたことから、即座に否定された。
理鶯が軍に属しているのであれば、基本的に規律正しく生真面目な性格であろう。
もちろん全ての人間がそうとは言えないだろうが、お手本のように背筋を伸ばして座り、次の指示を待つかのように黙したまま寂雷を見上げる理鶯は、それに当てはまることが想像できた。
消毒液とガーゼを取り出した寂雷は、いくつか理鶯と言葉を交わす。
「此処は、閉院した診療所なんだ」
「……閉院?それにしては清潔で、水回りもしっかりしているが」
「ああ。つい先日閉じたばっかりでね。
院長が私の知り合いだったから、譲ってもらったんだよ。
研究所にでもしようかと思ったけど、暫くはこのまま使いそうだ」
「……?、そういえば、先ほどの少年は……?」
「一郎くんのことかい?
彼は、ベリアルの知り合い、かな。
少々ワケありでね。手術が必要な状態なんだ」
「……病気、なのか?」
「……。そう、だね。
心配することはない。摘出すれば直ぐに回復する筈さ」
「……」
「うん。これで大丈夫だよ。
もしまた痛みが出たら言ってくれ」
「感謝する、先生」
かしゃん、とアルミのトレーにピンセットと血の付いたガーゼを置いた寂雷が、にこりと微笑む。
理鶯は静かに頭を下げると、青い瞳を再び寂雷に向けた。
「ベリアル殿は……」
「一郎くんの様子を見ている筈だよ」
「そう、か」
「理鶯くん。君は帰らなくて大丈夫なのかい?」
「ああ。……問題ない」
「なら泊っていくといい。
この診療所は仮眠室もあるんだ。好きに使ってもらって良いよ」
「ありがたい言葉だが……。先生たちは?」
「私とベリアルのことなら気にしなくて良い。
おそらく時間が掛かるだろうからね」
「だが……。いや、……わかった。そうさせてもらおう」
寂雷の話を聞いた理鶯は、小さく頷いた。
正直疑問が多くあったが、今、それを聞くのは何となく憚られたのである。
「すまないね。また明日……ああもう今日か。
朝になったら話そう」
「承知した、ではまた朝に」
謝罪の言葉を口にして眉を下げた寂雷に、理鶯は強く首を横に振る。
そもそも押し掛けたのは此方なのだからと立ち上がると、もう一度深々と頭を下げた理鶯は仮眠室へと向かって行ったのだ。
「……」
その背中を見送り、寂雷もまた立ち上がる。
そして奥の部屋へと続く扉へと、手を掛けたのであった。