夜の帳に、光が滲み始めた。
黒から紺へ、橙色を帯びた光が闇を照らしていく。
夜明けと同時に降り続いていた豪雨は止み、澄んだ朝の空気に満たされていた。
朝露の落ちる音が聞こえてくるような静寂。人の目覚めにはまだ早い時間である。
そんな目覚めの静けさを裂いたのは、可愛らしい鳥の囀りではない。
――ぶおおおん、という力強いエンジン音が帝統の気分を高揚させる。
爽やかな空気を全身で感じながら、コートを靡かせて、ひたすらに人気のない道を往く。
颯爽と駆けていく一台のバイクは、何とも彼らしいカスタマイズがなされており、所有物を持ちたがらない彼のお気に入りの一つでもあった。
彼がそのバイクを見かけたのは、ベリアルと行動を共にしていた時である。
都会で生活する彼にとって必需品でも何でもないが、何故か心を惹かれた。
帝統の様子に気付いたベリアルが、珍しく背中を押したというわけだ。
そんなこんなで、手に入れたバイクは、何だかんだ言ってベリアルの足にされているのである。
もちろん運転するのは、帝統であるので、
「にしても、突然『スーツ持って来い』だもんな」
普段ならば深い夢の中で、例え携帯が鳴っても気が付かなかったであろう時間に掛かってきた電話。偶然、眠れずにいたので取ることが出来たが、まるで謀ったようなタイミングである。度々そのようなことが起こるので、一々突っ込む気はないが、監視でもされているのかと思ってしまう。
そんなタイミング良く掛かってきた電話の相手は、言うまでもなく雇用主であった。
『スーツが届いている筈だから、持ってきてくれるかい?』と尋ねられたが、それは彼の耳に命令にも等しい響きを与えた。
ベリアルの部屋を帝統が覗くと、最近良く名前を聞く店の名が刻印された小洒落た箱が置いてあった。宛名の下に『衣料品:スーツ』と書かれていたので、それをそっくりそのまま持ち出したのである。
「やっべ、もうちょい急がねえと遅れちまう……!」
ふと視界に入った時間に、帝統のバイクは更に唸りを上げることになったのだ。
***
何とも騒々しい音が、大通りから外れた路地の一角に響き渡る。
窓辺に立っていたベリアルは窓から、それを見下ろす。
細く、凹凸の目立つ少し荒れた道路を縫うようにやって来たそれは、診療所の前に停まった。
そして颯爽とバイクから降りると、荷物を手にする。
ヘルメットを脱いだ帝統は、髪を掻き揚げると、ふと上を見上げた。
暗めの赤と、明るい赤が交差すると、ぱっと帝統の表情を明らむ。
おーいと手を振る彼に、ベリアルはいつものように微笑んだ。
入ってこいと告げる代わりに、その
そうして、弾んだ足取りで、帝統は診療所へと駆け上がったのである。
「にいちゃん!持ってきたぜ、これだろ?」
「……正解だよ。ご苦労サマ。
じゃあ開けてくれるかい」
「りょーかい」
両手で持ってきた箱を差し出すと、ベリアルは目を細めて頷いた。
続いてなされた指示に帝統は、テーブルの上に置かれた鋏を手にする。
「それにしても、いきなりスーツなんて何に使うんだ?」
「フフフ……。気になるのかい?」
「そりゃ、にいちゃんがスーツ着てるところ見たことねえし」
箱を開けると、厳重な包装がなされておりそれを取り払うと、落ち着いた色合いのスーツが綺麗に折り畳まれているのが見えた。見るからに上質なそれを見て、帝統は目を瞬かせる。
誰も彼もが同じで、堅苦しいスーツを帝統は昔からあまり好きではなかった。
見ているだけで不自由で、窮屈なそれは彼にとって囚人服にも等しかったのかもしれない。
「規律、統率を象徴する服は嫌いかな?
まあ、確かにキミの生き方には合わないかもね」
「……」
「だがキミは本能のままに生きる獣とは、違うだろう?
機を伺い、狡猾な罠を仕掛け、いざという時に勝負に出る。
ふふ、そういう所は野生的だけど、
「……それって犬と同じじゃねえか」
「不服かい? フフフ、冗談だよ」
自分を認めているように聞こえるベリアルの言葉に、帝統は眉を顰めた。
彼を買っているようにも、突き放しているようにも聞こえるそれは、相変わらずベリアルの真意を濁すものでしかない。自分の腹の中を読み取ろうとする帝統に、ベリアルは笑った。
「さて、キミの仕事は此処までだ。
帰ってお仕事に戻ると良い」
「おいおい、そりゃねえだろう。にいちゃん。
折角此処まで来たんだ。最後まで付き合うぜ」
「……ほう。意外だね」
「あのなあ、俺だって餓鬼じゃねえんだ。
それに……気になるからな。にいちゃんが何をしようとしてんのか」
「フフフ……。なら存分に働いてもらおうじゃないか」
乗ってしまった船から、今更降りようとは思わない。
付き合うなら最後までという面倒見の良さの持ち主でもある帝統だが、今回ばかりは自分の好奇心が優先された行動である。それを隠して、彼は快活に笑った。
それに、ベリアルの動向にも興味があるのも事実だが、何よりも帰ったらゲームの相手をしてもらわねばならないのだ。此処で引き下がるなんて、勿体ないにも程がある。と彼は心の中でこっそり呟く。
ぱちん、とワイシャツやスーツに付いているタグを切ると、テーブルに鋏を戻した。
「んで、にいちゃん上着は?」
「ああ。少し汚れてしまってね。
残念だけどあれじゃもう着れないな」
「なら新しいの買えば良いじゃねえか」
「んー。そうなんだけど……。少々面倒でね」
「変なトコ面倒臭がるよなあ……。
半裸でいるわけにもいかねえだろ」
「そうかい?オレは楽で良いんだけどな」
「……。通報されて終わりだぜ、にいちゃん」
「フフフ、……監禁プレイか。それもヤらないとね」
一郎に憑依した悪魔により血濡れとなった上着は、寂雷により剥ぎ取られ感染性廃棄物として処分されてしまった。故に上半身は何も纏っていなかったのだが、今はスーツを着るとしても、今後困ることになるだろう。
だが、そもそもベリアルの服は、魔力を練り上げて作ったものであった。なので即座に再生が可能であり、正直困ることはないのである。なので取り合えず、呆れたような目を向けて来る帝統に、気が向いたら買いに行くのも良いかもしれないと、何とも気紛れな言葉を返しておくことにしたのであった。
「仕方ねえな、ほら」
差し出されたシャツに袖を通すと、帝統の指がそのボタンを素早く留めていく。
どうやら甲斐甲斐しく世話を焼く気であるらしい。
ズボンやベルトを手渡すと、最後に上着をベリアルに着せた。
「……へえ、案外似合うんだな」
「フフフ、それは何よりだ。
キミも着てみたらどうだい」
「……気が向いたらな」
一つ一つが洒落た作りをしており、ベストやワイシャツはベリアルの雰囲気に合わせて作られたような色合いをしていた。意外にもネクタイの締め方を知っていた帝統は、その首元にまた一つ色を添えた。
気品高く仕立てられたスーツは、どうやら未完成であったらしい。
それをベリアルが身に纏ったことで、完成したのだと思えるほど、全てがぴったりと当て嵌まっていた。
ほう、と思わず息を零した帝統は、少し高い位置にあるベリアルの顔を見上げる。
「そんで……。俺は何をすれば良い?」
「フフフ、簡単なことさ――」
蝶がその羽を休ませるが如く、ゆっくりと細められた瞳。
その優雅さに似合わぬ不穏な光が、奥深くで瞬いた。
***
「上官」
後ろから掛けられた声に、ベリアルは足を止める。
そのような呼び方をするのはこの世界では一人であるので、振り返らずとも誰であるかはわかった。
その長い脚は、いつもよりも少し歩幅を大きくするだけで、あっという間に距離を詰めることが可能だ。
横に並ぶことはせず少し下がった距離で、理鶯はベリアルへと敬礼した。
軍に所属する彼にとって、それは自然な動作であった。
しかし、出会ってまだ一日も経っていない相手に対してそれをしたことに驚いたのは、他でもない理鶯自身であったのだ。
「うん?どうしたんだい」
「……!し、失礼した……!」
典型的な縦社会である軍組織に浸かりきった理鶯は、敬意を示すべき相手にそうすることに疑問を感じたことはないし、守るべき相手に尽くすことは苦痛と感じたことはなかった。少なくとも彼自身が軍人として、その軍服を身に纏った瞬間から『とある瞬間』までは。
社会に生きる人間であれば誰しもがぶつかる可能性のある壁。とある日に理鶯はそれにぶつかったのだ。
彼にとって一番の苦痛は、敬服せざる
しかし、彼にとって悪夢の日は突然やってきた。人間的に態度が悪いだけではなく、仕事に関しても無能な人間という最悪な上官が、直属の上司となり、早速任務のため戦地に飛んだ。
結果的に司令塔が機能せず、彼の所属するチームに多くの負傷者が出たのだ。その中には理鶯の友人がいた。理鶯はただただ戦慄した。このままでは、一人の上官の力不足で大事な友人が、チームが壊滅してしまう。だが彼にできることは何もなかった。上層部を動かせるような力も、下剋上を目論む力も、彼は持っていなかったのである。そう、理鶯にはどうにも出来なかったのだ。
その反動であったからなのかもしれない。
偶々訪れた夜の街で、突然現れたその男の的確な指示に胸を打たれたのは。
この男ならば、自分を上手く使うだろう。たった数分の間で彼の胸の中にそんな確信が生まれていた。
それを『縋り』と呼ぶのだろう。ベリアルを見る理鶯の目に、それは映っていたのだ。
「フフフ……。愚直なニンゲンは、嫌いじゃない」
す、と流れたその瞳が理鶯を見る。
だが今の彼には、その赤に映った侮蔑を理解することは不可能であろう。
ベリアルにとって、『信仰』は『思考停止』を意味するもの。故に、迷いを抱え何かに縋ろうとする彼の姿は、一種の思考停止なのである。
ベリアルには、それが都合が良かった。なので態々それを指摘しなかった。
つくづく運の悪い男だと思うだけである。そこには同情も哀れみもない。ただの事実であった。
しかし、そんな彼をベリアルは突き放しはしない。
その理由を上げるのならば至極簡単なことである。そのようなニンゲンは扱いやすく、好きに操りやすいことは何よりも知る存在であるし、古来より悪魔とはそうやって神の造った人間を惑わせ続けて来た。
それとは別にもう一つの理由が存在する。
ベリアルの前には、軍で鍛え抜かれた肉体が、些か窮屈そうにスーツに収まっている。
日本人離れしたガタイの良い体は、中々にベリアル好みであるのだ。
もう少し年を重ねて成熟をすれば、かつて何処かで見た『黄金比』と同等になる可能性を秘めていると、ベリアルは考えていた。更に言えばその瞳である。澄んだ青に見え隠れする、絶望や失望、悲しみや怒りといった負のそれ。天秤の如く揺れるそれは、もどかしくもあり、愉快でもあった。
「なあ、キミは何色の空が好きだい?」
「空……?空は、青いものだと」
「どうして?」
「……それは、」
「太陽と共に青空があり、月と共に夜空がある。
これは理でも何でもないのさ。ただそうである必要なんてない」
「……!」
雲が晴れ快晴を迎える青い空を見上げたベリアルは、唐突に問い掛ける。
突拍子のない問いに、疑問符を浮かべながらも理鶯は真面目に返答をした。
彼らしいその答えに、ふと笑みを浮かべたベリアルは静かに目を伏せる。
「俺は青よりも赤い空の方が好きでね。
そうだな全てをゼロへと戻す、業火のような赤が良い。」
「っ、赤、は……」
「赤は嫌いかい?」
「……火が、熱が、俺の大事な物を奪っていく。
毎晩毎晩、そんな夢に魘されて……。そうしている間に苦手な色に、」
トラウマともなっているのだろう。毎晩のように理鶯は、傷ついた友たちの夢を見ていた。
夢は更に悪い結末を彼に見せつける。死んでいない筈の友が、惨たらしく死んでいるのだ。
毎晩毎晩、いっその事もう殺してくれと叫びたくなるほど拷問まがいの仕打ちを受けて、やっと死んでいく。その周りに散る夥しい血と、炎の赤が、目覚めた後の理鶯に残り火となって燻る。
満足に眠ることの出来ない日々が続くにつれて、理鶯は赤色を忌避するようになっていた。
「大事?キミが大事にしているものって?」
「戦友。苦楽を共にした……掛け替えのないもの」
「ふうん、だが彼らは同時にキミの足枷になっているのだろう?」
「あし、……かせ……?」
「立派な
抱えられない重りが枷になっているから」
「……そんな……!貴方まで、見捨てろというのか!?
俺は、彼らがいたから此処まで生きて来れた!彼らは家族も同然であり、守るべきものの一つだ!
それを、それを……切り捨てろと!?」
「キミは今、共闘者ではなく……守るべきものと言った。
それが答えだよ。」
如何に理鶯が強靭な精神を持っていたとしても、堪えきれないことだってある。
大きく揺らいでは傾き、を繰り返していたその天秤が遂にとある一方へと傾こうとしていた。
夢ではない、現実の中にある鮮やかで暗い二つの赤が、理鶯に闇を見せる。
夢とは違い、逃げることの許されない忌まわしい赤が、理鶯を闇へと誘う。
理鶯はまた絶望した。ベリアルの言葉の一部は、自分が失望した上司と同じものであったのだ。
動揺に目を見開き拳を震わせる理鶯に、ベリアルはうっそりと囁く。
「それにキミの答えは、もう出ている。
だからオレに付いて来たんだろう?」
それだけを言うと、踵を返して理鶯に背を向ける。
ベリアルからすれば全ては戯れに過ぎなかったが、時間つぶしにはなったと、腕に巻かれた時計に視線を向けた。
「……。俺は」
先を行くベリアルの背中を見つめながら、理鶯はふと夜のことを思い出した。
仮眠室で休んでいた彼は、何気なく目が覚めた。それは珍しく悪夢によるものではなく、偶々のことであったのだ。水でも飲もうかと部屋を出た理鶯は、寂雷とベリアルが何かを話しているのを偶然聞いてしまった。とはいえ雷鳴により、途切れ途切れにしか聞こえなかったが。
『キミの質問に答えよう。
――ご明察の通り、オレはニンゲンではない』
人間でないのならば、一体何だというのだろう。その前までは、穏やかに理鶯と話していた寂雷の動揺した声が聞こえて来たが、内容まではわからなかった。
ちゃんと聞こえたことを理鶯は分析してみた。冷静沈着で滅多なことで動じない彼であるが、何かとんでもないことを暴いているような気がして、この時ばかりはかつてない程胸が高鳴っていたのを憶えている。
ベリアル。上官と呼ぶその男の名前を、脳内でなぞる。
それはとある悪魔の名前であることは知っていたが、まさか本当にそうだというのだろうか?
まさかと理鶯は頭を振った。そんな漫画やアニメのようなことはあり得ない。
後の言葉は完全に聞こえなかったので推測でしかないが、何かのジョークだった可能性だってあるのだ。
そうして彼は、騒めく胸を無理やり抑え、何か予感のようなものを無理矢理呑み込んだ。
「……上官は、俺の話を聞いてくれた」
伝わらない言葉がどれだけ虚無であるかを知る理鶯にとって、それは重要なことである。
それは彼にとってチャンスの訪れと同義であった。
歩みを止めかけていた彼が、もう一度前を向いて歩くための、光芒。
ならば、何としてでも離すわけにはいかなかった。
「
後悔は後ですれば良い。今はただ信じることを優先しよう。
彼の上官と同じ言葉を言ったとしても、意味は違う筈だと、理鶯は足を一歩踏み出した。
理鶯が呟いたのは、とある諺の一つで『チャンスの女神には前髪しかないので、通り過ぎた後にあわてて捕まえようとしても後ろ髪がなく掴む場所がない』という意味を持つ言葉であった。
彼が答えを導き出すのに掛かった時間だけ、ベリアルとの距離は離れてしまっていた。
理鶯がその背中を追って走り出したのはそれから直ぐのことである。