すっかりと陽が落ちて、夜の帳に包まれた病院を二郎は歩いていた。
つい先ほどまで、眩しいほどの夕日に照らし出されていた世界は、先が見えるかどうかも危うい闇の世界へと一変した。どうやら、電気さえも通っていないらしい。
辺りを見回してもただひたすら黒が広がるだけで、まるで目隠しでもされているようだ。
視界に映る寒々しい光景に、いつか兄弟でプレイしたホラーゲームを思い出した。
そのゲームはよくある展開を詰め合わせたような、チープなものであった。
しかしよくある展開というのは、実際にありうるかもしれないことを描いたものである。
―――暗闇から突然何かが顔を出すかもしれない。
―――後ろから突然何かに追い駆けられるかもしれない。
そんな“かもしれない”を思い描くと、二郎の背筋は粟立った。
二郎は落ち着かなく視線を彷徨わせると、暗闇の向こうに何かが動いた気がして、ぴゃっと飛び上がった。その拍子に反射的に手近にあった“それ”を掴む。
「うん? どうしたんだい?」
二郎が掴んだのは、目の前に垂れ下がっていたベリアルの尻尾……ではなく、ベルトである。
咄嗟のことで力加減ができず、思いのほか勢い良く掴んでしまったのだが、その体は揺らぐことはなかった。
闇の中にあっても、いやむしろ闇の中だからこそ爛々と輝く赤に、二郎はほっと胸を撫で下ろした。
現状、二郎が正気を保っていられるのも、前を歩くこの男の存在があるからこそである。
同時に何とも情けない気持ちに苛まれるが、二郎にはもうどうしようもなかった。
よくわからない状況だが、兄と、そして弟が消えてしまったのに、どうしてじっとしていられようか。
「ひょっとしてキミ……」
振り返ったベリアルは、二郎に視線を合わせる。
垂れ目がちな彼の目には、はっきりとその感情が見え隠れしていた。
「な、なんだよ……」
「フフフ……。何でもないよ。
それよりも、携帯持っていないかい?」
「携帯、あれ……。そーいや、何処にしまったかな」
「……。何処かに落としたのかもね。
そんなキミに、これをあげよう」
「か、懐中電灯! こんなモン、どこで……」
「ここの主は随分、用心深かったようでね。
何本もあったから1本拝借したんだ」
ベリアルの言葉に、服のポケットを探りはじめた二郎へ懐中電灯が差し出された。
至って普通の懐中電灯であったが、こういう非常時にはこれ以上ないほど心強い道具となる。
それにしても、いつの間に携帯を落としていたのだろうと二郎は顔を蒼くした。
「此処を出たら探せば良い。
どうせ、今あっても役に立たないだろうしね」
「それって、電波入んねーとか?」
「おや、良くわかったね。ご明察、その通りだよ」
「だろーな。こういう時そういうの鉄則だって」
ふう、と深く息を吐いた二郎は、帽子を被り直す。
やはり近くに言葉を交わせる存在がいることは、とても大きなことである。
恐怖のどん底に落とされ攪乱寸前であった二郎の精神は、再び平静を取り戻しつつもあった。
ベリアルから手渡された懐中電灯で闇を照らす。
ひどく限定的な光ではあるが、無いよりはかなりマシだ。
どんなに怖いものであっても、見えないよりも見えた方が良い。
彼にとって、一郎や三郎をうしなうよりも怖いものはないのだから。
「それにしても、この廊下って何処まで続いてんだ?」
「さあ、てね。地獄の底までって言ったらどうする?」
「……。ベリ兄が言うと、洒落になんねーよ」
二郎はこの場所を病院と表現したが、正式には入院機能を持たない所謂クリニックである。
そのため規模としては小さく、施設面積もそれほど大きくはない。だというのに何故か、2人の前にはまだ廊下が続いていた。ずっと、ずっと歩いたにも関わらず、行き止まることのない廊下に、顔を引き攣らせた二郎がベリアルに問うた。しかしベリアルは、表情一つ変えず笑みを浮かべたままにそう返しただけだ。
その顔をじっと見た二郎は、このベリアルはすべてをわかっているのではないかと思う。
この場所についても、そして自分の兄弟についても……。
ふと阿僧祇との会話が頭の中に浮かんだ。
目の前の男は、プロの情報屋を以てしても、その尻尾を掴むことが難しいという謎深い存在で、今尚何を考えているのかも全くわからない。ひょっとしたら、ベリアルがこの事態を引き起こしている原因である可能性だって、捨てきれないのだ。
そこまで考えた二郎は、自分の手にしているベルトに視線を映した。
「ま、行ってみりゃわかるよなっ!」
今までの考えを振り払うが如く、二郎は明るく声を上げた。
彼の持つオッドアイが星のように輝き、今までの怯えが嘘のように霧消する。
ほう、とベリアルは内心で感嘆した。
ベリアルもまた、二郎が己へと向ける“疑念”に気付いていたのだ。
それでも二郎はその疑念を呑み込んで、自分と行動することは見通していた。
先ほど味わった恐怖により受けたダメージを考えれば、それを想像することは容易かったのだ。
人間は許容を越えた恐怖を味わうと、無意識に“誰か”を求めずにはいられない。
精神的に訓練されていれば別だが、少なくとも二郎は普通の少年である。
ヒプノシスマイクを持つということを考慮しても、完全に乗り越えられることはないだろう。少なくともベリアルはそう考えていた。
結果として、ベリアルの想像以上に二郎は強かった、ということだ。
「キミなら、可能性はあるかもしれないな」
か細い光を手に先を歩き始めた背中に、掛けられた言葉。
それを紡ぐ声音は、隠しきれぬ愉悦が露わとなっていた。
***
意識を取り戻してまず感じたものは、口に広がる“あまい味”であった。
喉奥にまでその味が残っており、寝る前に口にしたものを思い出そうとする。
だが霧が立ち込めるが如く、思い出そうとすればするほどに記憶は曖昧になっていく。
甘過ぎない、好みの味であった。美味いと感じたそれだけは忘れないようにと、舌を転がす。
そうしてやっと身体を起こすと、自分の着ている服が変わっていることに気付いた。
黒を基調としたそれは、見覚えがあり過ぎるものであった為に、誰のものかすぐにわかった。
身長もそれほど変わりなく、体格差については意識したことがなかったので、大体同じくらいであろう筈なのに、所々布が余っていた。確かに、最近SNSで良くあがっている写真を見るに、細身ながらしっかりと筋肉が付いていたが、と肩を落とす。
「……目が覚めたようだね。良かった」
「っ!? せ、……先生、」
「気分はどうだい? 吐き気や、気持ち悪さは?」
「ええと、大丈夫っす。
でも何で先生が? それに、ここ……病院?」
「混乱するのも無理はない。何せ私自身まだ理解が追いついていなくてね」
自分1人だと思っていた空間に、突然響いた声。驚いて声の聞こえた方を見ると、そこには壁際に置かれた椅子に座る見知った男の姿があった。壁に背を付けた男―――寂雷の、その静かな瞳と目が合う。
「そうだ、寂雷先生。俺、なんか食べてました?」
「……。どういうことだい」
「いやなんか、口の中に残ってんスよ。
こんな美味いモン、俺食べたっけ?」
「……」
「センセ?」
「それは、どういう味かな?」
「そうっスね。肉の、赤っぽいとこ食ったような感じ……。
あ、いや生肉じゃなくて、」
「ふむ。ステーキで言うとウェルダンってところかな」
「あ、そう。ソレです!
甘みがあって、ジューシーな感じ」
此処が何処であるか、何故自分が病院らしき部屋のベッドに寝ていたのか、それらを聞く前に口から出た疑問は、口腔内に残る謎の味についてであった。
それを口にすると、ふと寂雷の目が変わった気がした。
あくまでも、一郎がそう感じただけであるので見間違えかもしれないが。
寂雷は腕を組んだまま頬に手を当てる。そうして問診でもするように、いくつかの質問を投げかけた。
「……そう、か。とりあえず歯磨きをしてくると良い」
「え、寂雷先生……?」
「キミが何を口にしたか、それは私にもわからない」
目を細めた寂雷は、厳かという表現の似合う声でそう断言した。。
どうやら“寂雷の見ていないところで、自分は何かを口にしたようだ”。
それなら彼が知らないのも無理はあるまい。
「そっか……」
「洗面台は、部屋を出て左手だ。
使い捨ての歯ブラシが置いてあるから、行ってきなさい」
「あざっす!ちょっくら行ってきます! 」
「ああ、行っておいで」
しっかりと睡眠をとったからか、驚くほど体が軽い。
一郎は飛び跳ねる勢いで、部屋を出て行ったのであった。
「……」
じっとその様子を見送った寂雷は、ポケットの中から“とあるもの”を取り出した。
ガラス製の細長い管にいれられた“それ”は、脈打つようにたぷんと揺れる。
現在寂雷が勤める病院の研究室に持ち込めば、成分的な解析などは可能だろう。
だがそれらを解析して、証明したところで、一体何が明らかになるというのか。
アレが人間ではない。だから、何だというのだろう。
「……ふふ、」
部屋の“明かり”に透かしたそれは、相変わらず“うつくしい赤”を保っていた。
それから反射した“赤”が寂雷の灰紫色と重なり、赤紫の色を生み出す。
「毒か、それとも……」
濃いルビーを溶かしたようなそれを、彼は『肉のように美味い』と言った。
それは寂雷とは違った。“極上のワインのような芳醇な香りと味”のするどちらかというと“フルーティー”に感じるそれを、一郎はそう表現したのだ。
寂雷は両手でガラス管を握ると、そっと胸にあてる。
そうしてそっと、その瞳を閉ざした―――。
***
「た、多重……?」
「そ。多重空間に迷い込んだってワケさ。“奴ら”にそんな能力があるとはね」
「……っ、それってやっぱマイクの力なのか?」
「んー。さて、どうかな。
これだけ幾重もの空間をつくり出せるのは……」
ベリアルはそこで言葉を切ると、近くにあった診療室のドアを唐突に蹴り上げた。
だああん!という轟音は、その一蹴りの威力を的確に表している。
突発的な行動にびくりと肩を震わせた二郎であったが、すぐその違和感に気付く。
ドアを蹴り上げた音が、何重にも重なり消えていったのだ。
山で聞こえる木霊のように響いては消えていくそれは、言い知れぬ不気味さを二郎に与えた。
「キミのおニイさんが消えたのも、それが原因さ。
彼の場合は相当魅入られていたからねえ。
随分深くまでイっちまったんじゃないかい」
「っそれ……!どういうことだよ!」
「聞きたいんだが、キミは
「……へ?」
「フフフ、デリケートな質問だったかな。
本当の芯は奥深く、皮に守られたトコにあるんだ。
キミの大事な芯の部分に、他人を近づけたいとは思わないだろう?
だからキミはオレと此処にいて、キミのおニイさんは芯の近くにいるんだよ」
「ちょ……っ! 俺は別にほうけ、じゃなくて!!
もう少しわかりやすく説明してくれっ!」
「言っただろう?
ひょっとして、キミはズル剥けの方がお好みかい?」
くすくす、と控えめに笑う姿は品を感じさせるが、その口から飛び出す言葉は真逆のそれである。
ベリアルの話を纏めると、この病院は何らかの仕掛けがしてあり、空間が幾層も存在する謂わば多重空間となっているらしい。そのうちの一層に紛れ込んだ二郎は、偶々同じ空間にいたベリアルと会うことができた。しかしそれは、他の空間にいる兄と弟にこのままだと二度と出会えないことを示している。
ミルフィーユやバウムクーヘンのように、層を形成しているものを想像してもらえるとわかりやすいだろう。真ん中の空洞部分に、この事態を招いた真犯人がおり、その真ん中に近い部分に兄である一郎と、三郎がいるだろうとベリアルは言う。
ヒプノシスマイクの性能にそのようなものがあるとは、驚きでもあり納得できる部分があった。
まだまだ未知の性能が多いマイクは、あらゆる可能性を秘めている。
そのうちの1つに、多重空間をつくるというものがあっても特別おかしなものではない。
「さて、状況は理解しただろう。
このままでは平行線を辿る一方だ。
此処からの脱出することは実に簡単さ。
キミが血を分けた兄弟を見捨てるなら、ね。
でもそうじゃあない。キミは、兄弟を助けに此処に来た。
……それなら、やるコトは1つだよ」
「方法が、あるのか……?」
「そりゃね。何のためにオレがひと肌脱いだと思っているんだい。
だがオレは別に、彼らに執着はないものでね。キミの力が必要不可欠だ」
「それで俺は、どうすれば……!」
「ぶち抜けば良いのさ。キミのその太いモノでね」
「ぶ、ぶち抜くって」
「なに、そう難しいことじゃない。
男なら本能が知っている。例えキミが
平行に空間が存在するなら、縦にぶち抜けば目的の空間へと辿り着けるだろう。
そしてぶち抜く為には、ベリアルの力だけでは不十分であった。
貫通させるだけならば非常に簡単で、そもそもベリアルならばこんな面倒な多重空間など、一握りで潰すことは容易いことである。しかし敢えて、この山田二郎という人間に力を貸し、協力するのにはおそらく何かしらの理由がある筈だ。
「オレは貫通させるのは得意だケド、繋ぐのは苦手でね」
多重空間を貫通させるだけでは、探し人のいる空間へと辿り着くことは不可能であろう
ベリアルの言った“彼らに対する執着がない”という言葉はそのままで、空間を繋げる為には“引き合うもの”が必要になる。そしてそれはひとえに“絆”と呼ばれるものであった。
「思いっきり
―――キミのご自慢のモノでね」
ベリアルの言葉に、二郎は自分のマイクを手にするとじっと見つめた。
ヒプノシスマイクを持つ者同士は不思議と引き合うもので、時に感覚を共有することも可能である。特に血の繋がった存在同士であれば、さらに精度は高くなる。
「……」
す、と息を吸って、吐き出す。
そうして二郎が精神を集中させると、すぐにベリアルが言ったことの意味を理解する。
ごく近くに、そしてすごく遠くに、見知った気配を感じたのだ。
「探しモノは見つかったようだね。
そうしたら、手を伸ばしてごらん。
自分の感覚を触手に見立てて、そう肌を這いずるように」
二郎が見ているのは、相手の精神体である。魂と言い換えても良い。
例えそれが見えたとしても、この多重空間は肉体だけでなく魂すら閉じ込める場所である。
もし此処で息絶えでもしたのならば、魂ごと封じられ永久にこの空間から出られなくなるだろう。
そのまま集中を続けると、多重空間の姿が見えて来た。
幾重もの層を形成し、一層一層に何らかの気配を感じる。
層の奥へと意識を集中させればさせるほど、濃厚になっていくそれに、ずきりと頭が痛むのを感じた。
二郎は意識のみの探索を続けながら、まるで深海のようだと思った。
多重空間という大いなる海を、ゆっくりゆっくりと潜水していく。
深くなるにつれて光は失われ、未知なるものが姿を現す。
サルベージでもするように、二郎はただ探す。
深く、そしてさらに深く―――。
「っ……!」
それは、突然のことであった。
ゆっくりと沈んでいた二郎の足に、何かが巻き付いたような感覚が走る。
そうして次の瞬間にはものすごい力で、引っ張られ、あっという間に奥へと―――。