Paradise Lost Division   作:陽朧

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悪魔、降臨せし時⑤

夜の(ベール)が名残惜しげに下りていく、朝焼けに包まれた時間であった。

今日も良く晴れそうだと男が起き上がると、二人はまだ夢の中である。

それぞれの性格を示すかのような寝相を露わにする彼らに一瞥をくれると、男は先に身嗜みを整えに洗面台へと向かった。

必要であれば、各々目覚ましをセットしているだろうと思ったのだ。

 

暫くすると予想通り、ぴぴぴと機械音が部屋に響いた。

部屋に備え付けられたポットで珈琲を淹れると、その匂いにつられたように寂雷が身を起こした。

 

 

「おいおい、眠りの神(ヒュプノス)の誘いに乗ると……碌なことにはならねえぜ」

 

「……ああ、私としたことが……つい、ね」

 

 

男の顔をじいと見た寂雷だが何処かまだ虚ろで、今にも夢現を彷徨う瞳を閉ざしそうになっている。

それを見咎めた男は、ふと笑いながらも声を掛けた。

 

 

「仕事かい?」

 

「ええ」

 

 

寂雷の長髪が白いシーツに紫と灰色の唐草模様を描いている。

彼は溜息を吐きながら頷いた。好きでやっている仕事ではあるが、偶にはゆっくりと寝ていたい時もあるのだ。

決して叶わない我儘を頭の中でぼやいていると、寂雷の目の前に白いカップが現れる。

目を瞬かせた寂雷が顔を上げると、深い色をした双眸と視線が交わった。

 

 

「朝食はサービス出来ないが、珈琲ぐらいは出すさ」

 

「ふふ……贅沢な珈琲だね。ありがとう」

 

 

微笑を浮かべた寂雷は、程良い暖かさのカップを受け取る。

直ぐに口に出来る温度に調節したのだろう、飲みやすいそれはやけに舌に馴染んだ。

 

 

「そういえば、ベリアルは何処に住んでいるんだい」

 

「……さあ、てね。空の上かもよ」

 

「君と私との仲じゃないか。

教えてくれたって良いだろう?」

 

「ああ、確かに……初対面で一夜を共にした仲ではあるけどね。

一度に全てを知ってしまうのは、勿体ないだろう?」

 

 

くつりと喉を鳴らした男に、寂雷は不満げな表情を見せた。

彼はあまり心の機微を見せないミステリアスな印象があるが、今の表情は子供のそれのようであった。

それほど男に心を許したのか、いつも以上に感情に富んでいたのだ。

 

 

「それなら、また会ってくれる……ってことかな?」

 

「俺は来るものは拒まない主義でね」

 

 

口元を彩った艶やかな笑みは、その名に相応しい魅力(どく)を含んでいた。

男の放つ言霊は魔性だ。じわじわと精神を蝕むそれは、欲深き生物(にんげん)の心を喰い荒らす。

そのことにバトルを通して気付いた寂雷とはほぼ真逆の性質(もの)である。

しかし彼もまた人間であるが為に、悪魔の毒を完全に防ぐことは出来ない。

 

それにヒプノシスマイクを通さなくとも、男の言霊は一々人を惑わせるのだろう。

小さく溜息を吐いた寂雷は、また一口珈琲を口に含んだ。

 

 

それから、間もなくして寂雷は仕事へと向かっていった。

この場所からだと、彼の勤務先までは少し時間が掛かるので、大分早めの出勤のようだ。

さり気なく連絡先を交換するのと同時に、次は朝食付きで、と、次の予約とモーニングの約束を取り付けていった彼は、全く抜け目のない男である。

 

寂雷を見送った男は、熟睡するもう一人の男に視線を移す。

無防備な顔をして寝ている帝統は、起きなくても良いのだろうか。

そこまで面倒を見る義理はないだろう。それに彼の背景(じじょう)に足を突っ込む気もないので、チェックアウト時間までは放っておくことにする。

 

チェックアウトまではまだ充分に時間があったので、男は昨日出来なかった所持品のチェックを行うことにする。

所持品といっても、財布と携帯の2つだけであるが。

 

 

「っと、……また、メッセージか」

 

 

まず充電をしておいた携帯を手にすると、また指令のようなメッセージが入っていた。

今度は具体的な時間は指定されておらず、明確な場所の名前のみが表示されているのが見える。

 

 

「……天国の樹(ヘブンツリー)

 

 

頭に東京と付いているその名称は、聞き覚えがある例の電波塔の名前を弄ったのだろうか。

同じようで異なる世界では、こうして細かい部分にズレが生じているらしい。

それは兎も角として、目的地は強制的に決まったので、あとは行き方を調べれば良い。

ベリアルという堕天司が行くには、実に皮肉めいた名前の場所だが他に行く場所はない今は、大人しく従っておくことにする。

 

一通り調べ終えて、何となく一日の予定を頭に描いた男は携帯をテーブルに置いた。そして、ソファーに凭れるとぐと首を反らす。すると視界いっぱいに広がった赤と、男の赤がかちりと合わさった。

 

 

「吃驚した。起きていたのかい」

 

「ぜーんぜん驚いてねえ癖に」

 

 

後ろから男を覗き込んだ帝統は、残念そうに唇を尖らせると直ぐにぱっと表情を変えた。

その良く変わる表情と声音だけを見ると、自分の感情に素直なように思える青年は、にっと明朗な笑みを浮かべる。

 

 

「ヘブンツリーに行くのか?」

 

「まあね。用があるんだ」

 

「ふーん。まあ、にーちゃんなら大丈夫だと思うけどよ。

あそこあんま治安良くねーんだよな」

 

「ふうん」

 

「観光客やら買い物客でいーっぱい人がいるんだけどよ。

その裏側は、まさに無法地帯ってヤツで、噂によるとヤクザ絡みの人間がうじゃうじゃいるらしーぜ」

 

「ヤクザ、ねえ」

 

「別名『矯正施設』っていって、組抜けしようとした奴や裏切ろうとした奴全員そこにぶち込まれているらしい」

 

「良く知っているじゃないか」

 

「まあな、俺にとっちゃ庭の一つよ。

それにしても……ヤクザっつーのも、時代遅れかもなあ」

 

「どういうことだい?」

 

「ほら、女尊男卑(こんな)世界ではもう、暴力禁止だろ?

ま……禁止されたからって、直ぐに辞められたら苦労しねーわな」

 

「ああ。……そうだね。それでも禁忌を破るのも、快楽の一つなのさ」

 

 

得意げに語った帝統に、男は静かに思考に耽る。

暴力を禁じられた世界。女が尊ばれる世界。男が卑下される世界。

それは明らかに元の世界とは違っていた。言動には注意しなければ、大事になってしまうだろう。

 

 

「ああ、言い忘れていた。ツリーの中にはマイク持ちの連中がうろうろしてるっつー噂だ。

にーちゃん絡まれねえように気をつけろよ?」

 

 

そう帝統は付け加えた。ちなみに彼は散々悪い噂ばかりを言ってくれたが、ヘブンツリーはその裏側へと足を踏み入れなければ、ただの世界一高い展望台付きのショッピングモールである。

 

携帯にメッセージを送って来た相手の意図はいまいちわからないが、流石にヤクザに喧嘩を売ることにはならないだろうと、男は思考を終えると一つ頷いた。

 

 

「なあ、にーちゃん」

 

「ん?」

 

「明日にしねーかあ?」

 

「……何故?」

 

「明日なら、俺……都合つくんだけど」

 

 

付いて行きたい、と言わんばかりのその言葉に、思わず男の唇から笑みが漏れる。

何を気に入ったのかはわからないが、すっかり懐かれてしまったようだ。

 

 

「ふ。残念だけど……キミとのデートはまた今度にしよう」

 

 

物の言い様は最早今更であろう。

ベリアルの唇から吐き出される言葉は、男の意思をまるっと無視することもある。

普通に話している時はそれなりには問題ないが、気持ちが昂った時などは特に如何わしい方へと翻訳してくれるのだから、頭を抱えたくなる時も多々あるのだ。

 

男の言葉に目を瞬かせた帝統は、ぱっと表情を明らめた。

 

 

「いつ!?いつにする!?

俺、いつでも開けるから!」

 

「あー、まあ、気が向いたら連絡してくれ」

 

「わかった!じゃあ明日な!」

 

 

今度という曖昧な言葉では納得してはくれなかったらしい。

詰め寄るように問う帝統は、嬉々とした表情を浮かべている。

その大型犬を思わせる人懐っこさも、また彼の魅力でもあるのだろう。

これまた強制的に決定された明日の予定に、まあ良いかと男は頷いた。

 

 

 

***

 

 

 

「じゃあ、にーちゃん。また明日な!!」

 

「ああ、わかってるわかってる」

 

「明日、××時に○○駅待ち合わせだからな!!」

 

「はいはい」

 

 

絶対だからな、とこれでもかと念を押して去っていった帝統に、男は苦笑いを浮かべる。

チェックアウトを済ませた男は、ホテルを出ると、目的地へと足を向けることにした。

『東京ヘブンツリー駅』という、何とも思うところのある駅で降りる。

駅からツリー内部までは直通らしい。こういう所は前のものと似通っている。

 

取り敢えず訪れてはみたものの、中は普通のショップが並ぶだけである。

特にこれと言って欲しいものがない今、時間潰しにもならない。

 

平日の昼間であっても、人混みで溢れかえっているのだから、休日であればもっと賑わいを見せるのだろう。

すれ違う人々の年齢層は様々であるが、学校帰りらしき制服姿の少女や少年たちの姿も多い。

店の店員の呼び声や、老若男女の話し声が雑踏に溶ける。

 

人と人の間を擦り抜けて休憩スペースまで辿り着いた男は、先ほどから視線を感じていた。

厳密に言うと、ベリアルの聴覚は一定の間隔で付いてくる特定の足音を、感覚(センス)は適度にコントロールされた同一の視線を、捉えていた。

 

男に注がれる視線は数多であったが、その中でも『それ』に反応したのは、敵意が含まれていたからである。

どうするかと考えたが、この人混みの中ではアクションは起こさないだろうことは想像に容易かった。

ならば、さっさと用を済ませてもらうのが良いだろう。そう判断した男は、人の気配のしない非常階段へと通じる扉へと近づくと、重々しい鉄の扉を開けて中へと入った。

 

がしゃん、と扉が閉まる。冷たい風が肌を撫でると同時に特有の閉塞感に襲われる。

あまり使用された痕跡のない真新しい階段を昇りきると、再び扉が開いた音が聞こえた。

 

 

「一晩の相手をお探しかい?言っておくが……オレは高いぜ」

 

 

階段の上から見下ろす男を、入って来たそれが見上げる。

男が尾行に気付いていたことにも、大した動揺は見せていない。、

己を見下げるその赫々とした瞳にも、反応はなかった。

すっぽりと黒いフードを被っているのでその顔は見えない。わかるのは、ベリアルと同じくらいの長身の男ということだけである。

 

 

「……お前が、ベリアルか」

 

「どのベリアルを指しているのかはわからないが、そう名乗っているよ」

 

「そうか。ボスがご指名だ」

 

「ボス?」

 

「この『天』に君臨する、身の程知らずさ」

 

「ふうん、それは……興味があるね」

 

 

機械的に淡々と話すその男は、それ以上を語ろうとはしなかった。

それに業を煮やしたベリアルは、ゆっくりと階段を下りていく。

近づいて来るベリアルを、ただじっと見つめるそれは人形のようにも見える。

ベリアルは男の前に立つとゆるりと笑みを浮かべて、蛇を想わせる口ぶりで言葉を放った。

 

 

「それじゃあ……フェアじゃないね。おにーさん。

オレにステージの上に立って(くわえて)欲しいんだろう?」

 

「……」

 

「なら、素直に吐いて(可愛らしくおねだりして)貰おうか。君の知っていること(リビドー)教えて(みせて)くれ」

 

 

ベリアルからすれば、大分優しく、搾り取るように話を聞き出す。

そうすると小さく溜息を吐いた男は、このまま素直に応じる様子はないと悟ったのだろう、ぽつぽつと話し始めた。

その男が言うには、今日は偶然にも組のボスが視察に来る日であったらしい。

駅には組の人間たちがうろついていたらしく、そこでベリアルの姿を発見したようだ。

ヤクザの世話になった覚えは全くなかったが、その答えは組頭が最近熱を上げているものにあった。

 

 

「ヒプノシスマイクを持つ者を、連れて来るようにと言われている」

 

 

ラップバトルにハマっているという組頭は、ヒプノシスマイクを持つ者をこうして中へと誘っているらしい。そして塔の途中途中に組の人間を配置し、負ければその時点で身包みを剝いで全部没収するようだ。

組頭に勝てれば無傷で解放されるが、今までにその例は無かったと男は言う。

 

 

「これで満足か?」

 

「いいや、まだキミの顔を見ていない」

 

「……必要はない」

 

「そう。ならベッドの上でなら、そのベールを取ってくれるのかな?

じゃあ、また帰りに」

 

 

揶揄うように笑うベリアルに、やはり男は反応を見せなかった。

 

この塔は二重構造になっており、一般の客などが出入りするエリアを表、主に組の者たちが出入りするエリアを裏と呼んでいる。専用のICチップによって厳重に管理されている扉が開かれると、中は煌びやかな空間が広がっていた。

ヤクザが好みそうな豪奢な空間は、赤い絨毯やら金を基調とした置物やら絵画が並べられている。

 

入って来たベリアルに気付いたらしい、スーツの男たちが一斉に動き出した。

ガタイの良い体に黒いスーツを纏い、襟元にバッジを付けた、強面の男たちは如何にもという風体である。

 

 

「ハハハッ!なんてこった……乱交パーティー(オージー)かよ!

ヤバイ、達する達する!」

 

 

高らかに笑みを浮かべたベリアルは、興奮を浮かべた瞳をぎらりと光らせる。

あからさまな動揺は見せないが、ベリアルの様子に一気に緊張を高めた男たちはそれぞれの構えを取った。

一階のエリアにいる者たちは戦闘員らしい。

上の階まで辿り着く為には、ヒプノシスマイクを持つだけではなく、喧嘩の腕を持つことが条件のようだ。

 

 

「いいねえ……、オレも喧嘩もバトルももイケる口(両刀使い)なんだ。

さあ、ヤろうか」

 

 

そう高らかに笑い両手を広げたベリアルは、艶やかな悪魔(おとこ)であった。

思わず足を止めた男たちを容赦なく薙ぎ倒したベリアルに、漸く正気に戻った仲間たちが応戦し始める。

 

そうして、暴力が禁じられた世界で羽を広げた悪魔は、禁忌を破る快楽に酔いしれるのであった。

 

 

 

***

 

 

 

とある組の占拠地(シマ)にその男が訪れたのは、頭がそこに来ているという情報があったからである。

警察(せいぎ)のシンボルである桜の代紋を携えたその男は、赤い手袋をした手でアンダーリムの眼鏡を上げた。

 

すらりとした長身の顔の良い男は、一見すると普通の警察である。

しかし、日本に巣食う薬物の排除する為に警察(せいぎ)となった男は、いつしか背負う正義(さくら)を黒ずませていた。。

ヤクザの世界にも精通し悪事にも手を染めながら、腐敗した正義を抱える、歪んだ警察(おとこ)なのである。

警察(せいぎ)にして正義ならずもの。それが彼の裏の顔であった。

 

質の良いスーツを着こなした男は、腰のホルダーと背広のポケットを確認する。

そこには正義の味方の武器(けんじゅう)と、正義の免罪符(けいさつてちょう)が納められていた。

男はそのまま塔の中に入っていくと、とあるルートを通って人気の少ないエリアへと迷うことなく足を進める。

 

 

「はっ、相変わらず面倒臭ェ仕組みだ」

 

 

外見にそぐわない荒っぽい口調でぼやきながらも、男はとある部屋へと入っていく。

 

中は薄暗く、ずらりと棚が並び様々な備品が整列しており、一見するとただの物置にも思える。

しかし、それはただのカモフラージュであった。

 

男は一番奥の棚をずらすと、『とある回数』ノックをした。

するとぱかりと壁の一部が開き、小さな機械が姿を現す。

これは小型であるが最先端の技術の結晶であり、超高性能な認証装置なのだ。

手慣れた様子で携帯を取り出すとICコードを呼び出し、装置に近付ける。こうすることで、電源が入る仕組みだ。

厳重なセキュリティに守られた塔の中(うらのせかい)に入るためには、ICコードと虹彩認証の二重認証が必要となるのである。

 

男の目を読み取った機械が再び沈黙すると、かちゃりという音が聞こえた。

装置がある場所と、解除された扉は場所が異なるので、男は一度部屋を出ると別の部屋へと向かう。

 

 

「……今は、取込み中だ」

 

「おや、貴方が出迎えるとは珍しい。

カチコミでも起きましたか」

 

「似たようなものだ」

 

「ほう……それは愉快、いや失礼。大変な時に来てしまったようですね」

 

 

男の目の前に現れたのは、黒いフードを目深く被ったあの男であった。

交わされる言葉からして、顔見知りであることが窺える。

男はポケットから警察手帳を開いて取り出すと、フードの男へと翳した。

そこには正義の印(さくら)の下に顔写真とその男の名前が書かれている。入間銃兎。それがスーツの男の名前らしい。

 

 

「ま、これも仕事ですから。通してくれますね」

 

 

緑を帯びた切れ長の瞳が、鋭く光る。

フードの男は暫く黙していたが、やがてくるりと背を向けた。

 

 

「いいだろう。ただし安全は保障しない」

 

「ふふ、何を今更」

 

 

くすくすと上品な仕草で笑う、その目は蛇のように鋭い。含むような眼を隠そうともせず銃兎は、先を行くフードの男の後を追う。

この塔の中は蟻の巣だ。至る所に道があり、迷路のような構造にもなっている。

侵入者(無知なるもの)が入り込むと容易には出れない造りで、逃げることは決して許されない。

それとは真逆に、塔の中の者(組のもの)達が逃げ出すのは非常に簡単で、いざという時の襲撃に備えルートはちゃんと確保されている。

 

故に、協力者ではあるが塔の者ではない銃兎が案内されるのは、来客者専用の通路なのだ。

毛の長い絨毯が引かれうつくしい調度品が並ぶ通路は、全て表面上のものである。

しかも並べられた調度品や、飾られた絵画は全て類似したものであり、まるで同じ場所をずっと巡っているような錯覚にも陥る。要するに、記憶に残りにくく迷いやすい造りとなっているのだ。

もし案内人がいなければ、たちまちこの塔は円環の牢獄となり、侵入者(招かざる客)を喰らうだろう。

 

 

「それにしても、静かですね」

 

「……」

 

 

最上階にあるそのエリアは、まさに塔の名前に相応しい造りとなっている。

通路に点在する窓の外には遮るものがなく、ただ一面の青空が広がっており、少しずつ傾いていく太陽の橙に染められていく様子が描き出されていた。

もはや大地の色を忘れた天空の回廊を進んでいくと、やっと目的の部屋に通じる扉が姿を現す。

 

銃兎が零した言葉に、フードの男は何も返さなかった。

いつもならば、下層階は常に人の気配と声で賑わっているのだが、今日はそれが全くないのだ。

ボスの視察であったとしても、人の気配まで無くなることはないだろう。

寧ろボスは警護の人間を山ほど連れて来るので、人の気配は増す筈であるが。

 

 

「……天が、堕ちたか」

 

 

何かを察したようにフードの男がそう呟きながら、ひと際大きな扉へと手を伸ばした。

ドアノブの部分には指紋認証装置が取り付けられている。

ちなみに、扉の中央部位には組の紋を象った金の飾りがあり、それが顔認証及び虹彩認証装置となっていた。

過剰なほどのセキュリティが付けられたその扉が、ゆっくりと音を立てて開く。

 

 

「やあ、待っていたよ」

 

 

銃兎の目に飛び込んできたのは、窓枠に腰掛けた一人の男の姿であった。

そして耳朶を打った奥行きのある声が、今色々な意味で話題の男のそれと同じものであることに、銃兎は直ぐに気が付く。

 

昨日開催された日本最大規模のラップバトルを制したのは、無名の番狂わせであった。

テレビでも全国放送がなされるほどに注目された舞台で、最も熱を博したのは最終決戦である。

優勝候補として名高くそれに似合う人気を誇るThe Dirty Dawgと、無名の男は、見るもの全てを魅了するバトルを繰り広げた。そのバトルは、SNSにおいても爆発的に拡散され、ラップに興味を持たなかった者たちをも惹き付けた。

 

故に、一夜明けた今日のどのテレビ番組でも報じられていた。

特集番組も組まれており、インターネットやSNSでも話題が絶えない。

 

中でも優勝賞品などにも目もくれず、立ち去った優勝者は、素性が全くと言って良いほどわからなかったのだ。天から堕ちた天使(ベリアル)の名を冠する者は、忽然と姿を消した。

そのミステリアスさが更に関心を高め、報道関係者をはじめとした数多の人間がその男を血眼となって探しているのである。

 

開放的なガラス張りの部屋は、空中庭園を想わせる造りだ。

その背に広がる広大な青空はベリアルという男に、酷く不釣り合いなようにも、とても馴染んでいるようにも見えた。

 

 

「だけど、残念だね。キミの待ち人(コイビト)は、オレが喰らった(ねとった)

 

「……映像通りの、不埒者ですね」

 

「ハハハッ、そうオレのマゾヒズムを擽ろうとするなよ。

勃起するだろう」

 

「気持ち悪ぃんだよ、この変態野郎が。

誰に向かってモノ言ってやがる、しょっぴかれたいのか?」

 

「ほう、拘束プレイをご所望かい。

いいねえ……趣味が合いそうだ」

 

「あァ!?ざけんな!!てめえと一緒にすんじゃねえよ」

 

 

愉快そうに口角を上げ赤い瞳を向けるベリアルという男が、銃兎が映像で見た通り……いやそれ以上の如何わしい男であることを知る。仕事であった為に会場には行けなかったものの、銃兎もまたネット配信をされたバトルの映像を目にしていた。それを知った今、その映像がスタッフたちの努力の賜物だということも気付かされた。この男の発言をそのまま垂れ流しては、警察(じぶん)の仕事が増えそうだ。

 

青筋を浮かべた銃兎は、にやにやとしたベリアルの表情に思わず口調を崩す。

しかし、それは目の前の男を悦ばせるスパイスにしかならなかった。

 

 

「落ち着けよ、兎のお巡りさん(うさぎさん)

用があるんだろう?」

 

「……はあ。もうなくなりましたよ。誰かの所為でね」

 

「そうかい?」

 

「まあ、その誰かさんが……その男に取って代わって組の頭張るってんなら話は別だがな」

 

「ははっ、そりゃ面白い。だが生憎オレはそんな退屈な「……用件を言ってもらおうか」」

 

 

赤い手袋で額を覆った銃兎が、ふと瞳をベリアルに滑らせるとゆるりと口角を上げた。

それを軽く受け流そうとしたベリアルであったが、今まで静観をしていたもう一人の男が口を挟んだのだ。

ベリアルは思いもよらないその言葉を発したフードの男を見るが、相変わらずその表情はわからなかった。

 

 

「この組織は実力主義だ。強いものが上に立つ。

ルールはそれだけ」

 

「……オレは、火の粉を払っただけだ。

キミたちとは違って身包みだけを剥ぐような、勿体ない真似はしないよ」

 

「元々この組頭(おとこ)に、頂点に立つ資格はなかった。

丁度良いタイミングであろう」

 

「おいおい、オレを巻き込む気か?」

 

「それについては、気は向きませんが私も賛成しましょう。

此処が倒れては……チンピラ共の抑止力が失われる。

治安の悪化は、仕事の増加ですから」

 

「悪徳警察、って顔してるねえ」

 

「お気に召しませんか?」

 

「いや、凄くそそられるぜ。寧ろそっちの方が、好みだ」

 

「はっ……そうだろうなァ、悪徳の悪魔(ベリアル)さんよ。

てめえこそ名前通りじゃねえか」

 

 

この塔の役目は、治安維持における必要悪も担っていた。

見境のない悪を刈り取ることで、免罪符を得ていたのである。

 

ベリアルの足元で伸びているボスであった男は、どうもその辺がわかっておらず、駆逐すべき悪と手を結ぼうとしていたのだ。よって組の中も大荒れとなっていて、組を抜けようとする者たちが多く現れたのもそれが原因の一つであった。

 

フードの男が意図することを、ベリアルは理解していた。

何やら含んだ眼をした銃兎が、ベリアルを利用する計画を立て始めていることにも気付いていた。

 

 

「……まあ、構わないけどね。ただし条件がある」

 

 

だが、彼らは知らない。ベリアルという男に潜む大いなる悪魔は、その名の通り堕落させるものだ。

今は理性ある悪としてそこにいるが、それがいつ破綻するのかもわからないのである。

恐ろしい残虐性を秘め、息をするように人の尊厳を最悪の形で踏みにじる悪魔が誘う場所、それは今いる場所とは真逆であろう。

 

 

Paradise Lost(本当の天国)の、はじまりだ」

 

 

緩やかに孤を描く唇にぎらりと輝いた赤い瞳は、かつて神が生み出した最愛の存在(にんげん)を誑かしたとされる蛇を想わせる、妖しさを滲ませていた。

 

 

 

 

 

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