伊井野ミコは告らせたい~不器用達の恋愛頭脳戦(?)~ 作:めるぽん
思えば、自分の人生も少しは良い方向に向いて行っていると言えるのかもしれない。
確かに、中等部の時は妙な正義感を振りかざして手痛い失敗をした。
その失敗は今でも、同級生達からの容赦の無い嫌悪という形で引き摺っている。
けれど、自分の理解者が居ない訳じゃない。
自分がひた隠してきた事をこともなげに見抜き、自分に生徒会という居場所を与えてくれた尊敬する先輩。
名家中の名家のご令嬢で、ひたすら怖いけれど何だかんだで勉強や恋愛の相談に乗ってくれる先輩。
形容し難い性格をしているけれど、あの遠慮の無さと殴りやすいボディがある意味心地良く感じる先輩。
こんな自分にも本当にナチュラルに優しくしてくれる、可愛さと包容力に溢れた先輩。
――――あと、危なっかしくて見てられないような残念さのクセに、
日頃ぎゃいぎゃい煩くてこっちの苦労も知らずに突っかかってくる。
けれど、同級生の中では唯一自分を中等部時代の失敗の事で疑ってかからないあいつ。
真実をひた隠している自分の自業自得とも言えるが、誰にも理解されなくて1人で部屋にこもってたあの頃から比べると、
今の自分の人生はかなりマシになったと言えよう。
いっときは、高等部への進学なんて出来なくても構わないし、何故か進学できた後も、別に留年しても構わない……と考えたりもしたけれど。
今は自分を理解し、期待をかけてくれる人達がいる。
それもこれも、高等部に進学出来たお陰なのは否定出来ないだろう。
今は、確実にこう断定出来る。
『高等部に上がれて良かった』と。
――――だからこそ、石上優は、時々ふと考える――――
何故自分は、高等部に上がれたのだろう?
他の奴らと同様に荻野にまんまと騙されていたあの教師は、『反省文を出さない限り絶対に進学は認めない』と物凄い剣幕でいきり立っていたのに。
あの教師が頑固なのは、生徒の間でも有名だった。
中等部の頃から勉強が苦手だった自分が、あの教師が主張を曲げたくなるような存在であった筈がない。
何故、主張を曲げるに至ったんだろうか?
以前は、会長か四宮先輩辺りが何らかの手助けをしてくれたのかと考えていた。
だが、ある時会長に聞いてみた所によれば、
会長達が介入したのは自分が高等部に進学してからとの事だった。
となると……ひとつの可能性が浮かんでくる。
自分の知らない誰かが、高等部に進学出来るよう働きかけてくれたのだろう。
両親ではない事もハッキリしている。高等部への進学が何故か認められた事を通知された両親の、意外そうだが安堵したような表情は忘れられない。
じゃあ、一体誰が、自分の為に動いてくれたんだろう?
いくら考えても思い付かない。高等部に進学する前にも、自分をそこまで気にかけてくれていた人物が居たんだろうか……
もし誰なのか解ったら、その人にはこう言いたい。
『ありがとう。あなたのお陰で、僕は救われた』と――――。
石上優は、時々想いに耽るのであった。
話は変わるが、その石上優が在籍している秀知院学園1年B組には、ただでさえ秀才達が集うこの高校の中でもとびきりの秀才がひとり在籍している。
高等部に進学してから、出題範囲の広さと難しさに定評のある高等部の定期考査において1位を堅守し続ける生徒!
更に風紀委員と生徒会会計監査を兼任し、正義と勉学にエネルギーを満ち溢れさせている女子・伊井野ミコである!
小柄ながら曲がらない正義と絶対の学力を携え、彼女には頭が上がらぬ生徒も少なくはない!
今日もそんな彼女は、1年B組の教室で、元気――――
が全く無く、まるで生きながら死んでいるような状態であった!
普通の生徒なら、休むか早退しているかのような精神状態。
だが、『欠席や早退なんてもっての外』という信条を支えに、なんとか登校した。
が、ハッキリ言って『その場に居るだけ』であり、いつもの様に授業や風紀への熱意のこもった姿勢は微塵も見られず、
まるで小さな置物の如き状態であった。
『ミコちゃん?ミコちゃーん?』
声をかけるのは、ミコの幼少からの友人・大仏こばち。
奉心祭を機に、『ミコの成長の機会を奪ったらマズい』と、少しミコから距離を置き始めた彼女であるが、
流石に今日のミコの状態は看過出来ないと考え、声をかけている。
「うん……」
返ってくるのはまるで気の抜けた声と返事である。
今までは、こういう時は大抵メルヘンチックなマイワールド妄想に籠りきっている時であったが、
今のミコの表情からは、自分の理想に耽溺しているおめでたさは全く感じられない。
ショックを受けてぶっ壊れた、針で突っつかれ割れた風船の如き儚さというか……とにかく、良くない精神状態である事は確かだ。
何かショックを受けるような事が有ったのだろうが、それにしてもここまで酷そうなのは初めてだし、理由の見当が付かない。
さすがの大仏も、ほとほと困り果てた……が。
「(……あいつなら、何か分かるかも)」
そう、この学校ではおそらく自分の次に、伊井野ミコという人物を理解している人間が、このクラスには居る。
だが都合の悪い事に、その人物は今日はまだ登校していなかった。
最近はほぼ無くなってきてはいるが、通算で言えば今年度だけで遅刻を数十回している人物である。また寝坊でもしたのだろう。
と、そんな時に教室の戸がガラリと開いた。
噂をすれば、である。前髪の長い、どことなく陰鬱な顔をしたこのクラスの男子生徒・石上優がようやく登校してきた。
「あ……石上。ちょうど良い所に」
大仏が、今しがた教室に来た石上に声をかける。
「?何だよ、ちょうど良い所って」
だが、大仏が答えるより先に、『石上』の名を聞いたミコが、条件反射的にいつもの反応を取り戻し割って入った。
「ちょっと石上!?あんたまた遅刻して……」
ミコの言葉は、そこで途切れた。
代わりに、まるで言葉として吐き出すべきエネルギーが、全て顔の方に行ってしまったのかと思わせる程……みるみる顔が紅くなっていく。
「?何だよ、昨日ちょっと考え事してたら寝るのが遅くなっちまって……」
いつもなら無下に却下する石上の言い訳にも、ミコは何も言い返せない。
石上に条件反射的にいつもの態度を取ろうとしたミコは、途中で認識してしまったのだ。
いつも校則破りをして、自分のフォローなど全く気付かず不満を露わにしてるこの男が。
自分が一番辛かったあの頃、密かに励ましの言葉をくれたあの人だと。
そんな素振りを見せないくせに、実は自分の頑張りをそっと、ずっと見ててくれた、あの『ステラの人』だと……
世の中には、『知らないほうが良い事』というものがある。
だが、彼女はもう、知ってしまった。
密かに、『仮に恋をするなら』とまで想っていた、あのステラの人が。
今まで散々火花を散らし容赦ない態度を取り合って来ていた、この男なのだと……
「…………な」
「?」
「な……何で……」
「は?」
「な、何で……何でも、何でもない!何でもないっ!」
顔を真っ赤にしたミコは、いても立ってもいられなくなりその場から走り去って行った。
「……何だ、アイツ?」
まるで訳が分からないといった表情の石上。
だが、その側に立つ大仏はある程度の事情を察していた。
「(これ、絶対石上が関わってるよね)」
実のところ、様子のおかしいミコに声をかけたのは自分だけではない。
今のミコは先の選挙での論戦や奉心祭での頑張りが評価され、昔ほど孤立はしていない。融通が利かない所もあるがひたむきな頑張り屋という彼女の人間性も徐々に理解され、クラス内でも気にかけてくれる人間は何人か居るのである。
だが、そんな人達からの声かけも結果は自分の時と同じく気の抜けた返事であった。
それなのに、石上が来た途端にコレである。これはもう、石上が何か関わっていると考えない方が不自然であろう。
だが、当の石上本人はまるで訳が分からないといった顔をしている。
「……一応聞くけど、ミコちゃんと何か有ったの?」
「いや……別に何も無いし、昨日まであんなんじゃなかったのは大仏も知ってるだろ」
これでは、手がかりは何も無い。
どちらにしろ、あんな状態である以上、下手に探りを入れない方が良さそうだ。
これまで以上に慎重に、ミコちゃんと石上の2人を見守ろう――大仏は、そう決意するに留めておくことにした。
いつまでも、避け続ける訳には行かない。
だって、同じ学校で、同じ学年で、同じクラスで。
何の因果か、選択授業まで全く同じ。
否が応でも、何度も何度も顔を合わせる事になる。自分でも、分かってる。
けど…………
「(何で……何でなのよ……?)」
色んな想像をした。
名前も顔も知らない、あの『ステラの人』に対して。
沢山甘い言葉をかけてくれる事。
手を繋ぐ事や、優しく抱き締めてくれる事だって。そして……
なのに、現実は甘くはなかった。世界は狭かった。
その『ステラの人』は、不良で不真面目なクセに、こっちのフォローも気付かずにいつも自分を上から目線で危なっかしい人扱いしてくる憎たらしいアイツだったんだ。
自分は、フォローしてあげてる事に気付かれず憎まれ口を利かれる事に腹を立てていた。
何てニブチンで恩知らずなんだろうって。
けど、そのニブチンで恩知らずというのは、自分の方だったのかもしれない。
アイツはアイツで、私の知らない所で私を助けてくれてたんだ。
普段はそんな気配を全く見せないくせに。
一番辛くて苦しかった中等部のあの頃、私を陰ながら励ましてくれてたのはアイツだったんだ……
どうして?
どうして、石上なの?
どうして、今まで言ってくれなかったの?
だらしがなくて腹立たしい石上に、今まで随分容赦の無い言葉をかけてきた。
『石上に言われたくない』
『細かいところでグチグチとうるさい』
『あんたの声聞いてると頭が痛くなる』
『図々しい 考えが暗い』
『生理的に無理』……
ミコは、頭を抱えた。
もし、アイツがステラの人だって分かってたら。
そんな事、言わなかったかもしれないのに……
だが、ここまで考えてミコは自己嫌悪に陥るのだ。
『ステラの人』だから言葉を選ぶ?
自分は、そんなに現金な人間だったのだろうか?
自分の正義は、自分に優しい言葉をくれた『ステラの人』には向けられない程度のモノだったのだろうか?
そもそも、私はこれからどうすれば良いんだろう?
いや、『どうしたい』んだろう?
ミコの脳内で、思考が混沌と渦を巻いていた。
人生最大とも言える衝撃の事実を知って茫然自失と帰宅してから今に至るまで、延々と同じ事を考え続けているのだ。
日頃から頭を良く使うミコであっても、ハッキリとした答えの出ない問答を続けるのは疲れる事であった。
そしてその疲れに触発され、彼女の中の僅かに冷静な部分が囁く。
『いい加減に、ひとまずの結論を出すべきだ』と。
そう、同じクラスであり、更に生徒会でも一緒になる事が多い以上、逃げ続ける訳にはいかない。
いつまでも先程のような、顔を真っ赤にしてまともに言葉も出せないようなザマを見せ続ける訳にはいかない。
石上が変な所で鋭いのは勿論のこと、クラスの皆だってバカなんかじゃない。
もし、答えに迷ったままさっきのような不自然な態度を取り続けてしまえば……
『最近の伊井野さん、石上と喋ろうとするといっつも顔真っ赤だよね』
『殆ど何も言えてないから怒ってるようには見えないけど……』
『あいつら生徒会でも一緒に居る事が多いらしいよ?この前も2人でつばめ先輩のクリスマスパーティーに行ったとか』
『えっ?じゃあひょっとして伊井野さんって石上の事……?』
違う違うと必死で否定する自分の後ろに気配を感じ振り向くと、勝ち誇った顔で自分を見下ろす石上の姿が。
『へぇ……伊井野ってそうだったの?じゃあ、今までの態度ってもしかして照れ隠しだったって事か?へぇ……へえええぇ……』
(それだけは!それだけはダメ!)
ミコはぶんぶんと頭を左右に振って否定の意思を発散させた。
このままではマズい。すぐに、当面の結論を出さなくては。
学年一位をキープし続ける彼女の優秀な頭脳は、定期考査中にも匹敵するほど激しく回り始めた……
そして、しばらくの後――――
放課後となり、石上は生徒会室へと向かっていた。
教室では孤立しがちな自分の、唯一とも言える居場所。
旧校舎の敷地内であり、校則の適用外な場所でもある為、持ってきたゲームを気兼ねなく出来るのも嬉しい。
……尤も、最近になってからはそれでも問答無用で取り締まってくるうるさい奴も居るのだが。
そんな事を考えながら歩いていたところに、一人の人物と鉢合わせた。
「オヤ、石上クン。丁度良い所ニ」
秀知院学園高等部の校長である。
「あぁ……こんにちは、校長先生」
石上は基本、教師という人間は嫌いである。
生活態度や成績に関して口うるさく言ってくるくせに、中等部時代のあの事件の時には揃いも揃って荻野にコロっと騙され、彼の肩を持ったような間抜けな連中なのだから。
だが、この校長は数少ない例外である。
掴み所が無くていまひとつ人格を測りきれない所はあるが、口うるさくはないし、どことなくユーモラスで、意外と鋭い観察眼を持っていたりする。
「それで、ちょうど良い所ってのは……」
「ああ、生徒会の皆サンにお伝えしたい事が有りまシテ」
「じゃあ、僕が聞いて皆に伝えておきますよ」
「オオ、それは助かりマース。デハ……」
内容は、簡単な伝言だった。念の為メモを取りはしたが、これなら覚えてそのまま伝えられるだろう。
「――――分かりました。じゃあ、他のみんなにも伝えておきますので」
そうしてその場から立ち去ろうとした石上。
だが、校長の反応が無い。
「?校長先生?」
「――――アァ……イヤ、ちょっと前の事を思い出してマシテネ」
石上の方に向き直る校長。
「君が中等部デ事件を起こしてしまってカラ、もうすぐ1年……
ソノ君もスッカリ生徒会ノメンバーとシテ立派にやって行けているのを見ルト、生徒の成長が嬉シク思えマシテネ」
「……僕もそれなりに頑張ってますけど、殆どは会長のおかげですよ」
もし、彼が自分の事実を見抜き理解者となってくれなかったら。
生徒会メンバーとして居場所を与えてくれなかったら。
今や、考えるだけでも恐ろしい。
きっと自分は、あの部屋に引き篭もりっぱなしで、他人を、いずれは世の中や社会全てを恨むようになって行ったのだと思うと……
「確かニ、白銀クンハ素晴らシイ……会長としての器ハ充分であると言えマス。
しかし石上クン、伊井野サンニハ感謝してないのデスか?」
「えっ……何で伊井野が」
「?オヤ……もしかして、君が高等部ニ上がれタ理由……彼女カラ聞いてイナイのですか?」
聞いてなどいない。だからこそ、ずっと疑問に思っていた。
伊井野が、何をしたというのか?
「いえ……アイツからは何も」
「アノ時中等部の風紀委員長だった伊井野サンが、生徒指導ノ先生に直談判したのデスよ。それはもう凄い剣幕デネ」
……えっ?
伊井野が……僕の為に?
「この前パンフレット用の写真を撮る時ニも思いまシタが、キミ達は随分互いを嫌厭し合っテますね。モットお互いニ感謝し合わなければイケマセン……そう、お互いにネ」
何故『お互い』と言えるのか、というツッコミ点にも、ツッコミ屋の石上も今は気付けなかった。
何でだよ、伊井野。
どうして、黙ってたんだよ、そんな大事な事。
「デハ、そろそろ失礼シマスよ?私も忙シイので……石上クン、他の皆に伝言を宜しくお願イしマス」
「あ……はい」
校長は立ち去って行き、空返事を返した石上はひとりその場に立ち尽くす。
今まで、自分が伊井野をフォローしてやっている、と思っていた。
それ自体は間違っちゃいない。危なっかしくて頑張り過ぎなアイツを陰ながら助けているのは事実だ。
だが、それは一方的なモノだと思い込んでいた。
自分だけが陰ながら手助けし、アイツはそれに気付かずぎゃいぎゃいうるさく言ってくる鈍くて恩知らずなヤツ、と。
だが、それは間違っていた。
自分だけが陰ながらフォローしてそれを黙っているなんてのは、とんでもない思い上がりだった。
痛々しい。まるで、陰ながらの手助けをしている自分に酔っていたかの如くである。
鈍くて恩知らずなのは、向こうも密かに手助けしてくれていた事を知らずに自分の行動に酔いしれていた自分の方じゃないか……
「(……死にたくなってきた)」
久々に死にたがりが発動し、生徒会室へと向かう気力が失せていく。
どんな顔して、伊井野に会えば良いというんだ。
あいにくの事、同じクラスの人間である。いつまでも避け続ける事は出来ないだろう。
だがとりあえず、今日は帰って落ち着きたい……そう思って、校門の方向へ歩こうとしたその時。
すぐ傍の階段から、一人の生徒が上がってきた。
果たしてその生徒は、今最も石上優が会いたくない人物――――伊井野ミコであった。
「「げっ……!」」
ここでは会いたくなかった、という思惑が一致した二人の声が、見事に重なった。
「い、石上……」
「い、伊井野……」
互いに名を呼んだきり、しばらく気まずい沈黙が流れる。
互いに、次の言葉を迷っていた。
やがて、ミコがその沈黙を破る。
「な……何よ『げっ』て」
「お……お前だって言っただろうが。そっちこそ何だよ」
いつもと変わりない、売り言葉に買い言葉の応酬。
「ふ……ふん!ホントにもう石上は」
プイっと顔を逸らすミコ。
ここまでは、今までの2人と何ら変わりないやり取りである。
――――違う所を挙げるとすれば、石上から逸らしたミコの顔が、焦りで紅潮している所であった。
「(だ……大丈夫よね?いつもと変わりないわよね?)」
そう、石上への態度に迷っていたミコがひとまず出した結論は、『今まで通りに接する』事。
石上が、自分を助けてくれていた事は事実。
だけど、自分だって石上を助けているんだから、石上に何もベタベタ感謝しなくたって良いはず。
今のところは、とりあえずは。今まで通りに接しよう。
これからの事は、落ち着いてからじっくりと考えれば良い……
そんなミコの内心は知らずに、自分から顔を背けたミコの姿を見て、混迷していた石上の頭の中は急速に冷えていく。
何だ、今日は様子がおかしいと大仏から聞いていたが、いつも通りじゃないか。
まあ、こちら側が伊井野の手助けを知っただけの事だし、向こうからすればいつも通りなのは当然の事だろう……
まあ、良い。済ますなら、いつもと通りの伊井野相手が良い。
予想外の反応をされて調子が狂うより、『はぁ?』という反応が返ってくるくらいで丁度良いのだ。
今からやる事は、陰から助けてくれていた人間への、果たすべき儀礼・義務に過ぎないのだから……。
「伊井野……」
石上は意を決して、ミコに呼びかけた。
「えっ?」
石上の真剣な声のトーンに、焦った顔を見られたくなくて顔を背けているのも忘れ、思わずミコが振り返る。
と言っても、背けている間に気持ちを落ち着かせだいぶ表情を整えてはいた。
だが、いきなりそっと両肩に手を置かれては、取り戻した落ち着きもどこか彼方へ飛んで行ってしまうのも仕方がなかった。
「え……えっ!?」
石上のその気もない無頓着な行為に、ミコの顔は再び紅潮する。
だが、今度は顔を逸らせなかった。
自分に向けられた石上の視線は、真剣そのもので邪な心はかけらも感じられなかった。
そんな視線から目を逸らすのは、何だか失礼だと思ったのだ。
「(……あれ、何で顔赤くしてるんだコイツ)」
今の自分の行為を客観的に見れていない石上はミコのリアクションに対して頭の中に疑問符を浮かばせたが、乗りかかった船だ、ここでやめる訳には行かない。
これだけは、絶対に言っておかねばならない。
相手があの、いつも自分に辛辣な言葉を浴びせてきて、怒るとポコポコ殴ってくる伊井野であろうとも。
「……ありがとな」
「………?えっ?」
「僕が高等部に進学出来たの、お前が生徒指導の教員に直訴してくれたからだろ?今更だけど……助けられたからには、お礼言っとかなくちゃいけないだろ」
会長や四宮先輩は、自分を生徒会へと迎え入れてくれる事で自分に居場所を与えてくれ、あの孤独な部屋から拾い上げてくれた。
しかしそれも、高等部に進学出来たからこその話だ。
そこを手助けしてくれた相手には……絶対に感謝の意を伝えなければならない。
高等部に進学して以降、ずっと胸につかえていた物が取れたような気がした。
お礼を言い終わった石上の手が肩から離れて数秒して、ミコが口を開く。
「……ど、どうして知ってるのよ」
「校長が、さっき話してくれたんだよ」
校長先生……!なんで言っちゃうんですか!?
こういうのは、知られないからこそ良い物だと思うのに。
見返りを求めないのが、本当の正義なのに……
「……か、勘違いしないでよね。課題をこなしてるのに進学出来ないなんて理不尽だと思ったから怒っただけよ」
「んな事分かってるよ。でも助けられたのは事実だし」
まさかこんな所で、中等部時代の事でお礼を言われるとは思わなかった。
突然の不意打ちに、ミコは複雑な気持ちを抱く。
陰ながらのフォローがバレてしまった気まずさ。そして、これからはちょっとは自分の言う事を聞いてくれるんじゃないかという淡い期待。
――――そうすれば、もっとお互いに素直に――――
「(……ハッ!?な、何考えてるのよ、私……)」
何故、互いの距離が縮まるなんて事を考えてしまっているのか。
相手は石上優。だらしない癖に、いつも上から目線でこっちにアレコレ言ってくる腹立たしいヤツ。
……けれど、実は昔から自分の頑張りを見ててくれていた人……
そうよ。そんな事を考えている場合じゃない。
陰ながら助けて貰っていたことを知ったのは、あっちだけじゃない。
自分も、一番苦しくて辛かったあの頃、密かに励ましてもらっていた事を知ったのだ。
石上は、同じようなことに対してお礼を言って来た。
ならば、相手に言わせるばかりではいけない。
自分も、そういうのはキチンと礼を言う。それが筋というものであり、正しい事だろう……
「……石上」
「ん?」
「え……えっと、その……」
ミコほど複雑な感情を抱いていなかった石上と違い、この場でそんな事を言うつもりなど無かったミコはなかなか次の言葉を絞り出せない。
「何だよ、どうしたんだよ伊井野」
石上の視線は、相変わらずミコの目を真っ直ぐに捉えている。
つまり、ミコの視線もまた石上の目を真っ直ぐに捉えているのだ。
今まではこんな風に見つめられても、何も感じないか、もしくは不快感しか感じなかっただろう。
だが、今は違う。
石上の目は、こうしてずっと自分を見ていてくれていたんだ。
自分が周りに疎まれて嫌われて辛かった時も、ちゃんと頑張りを見ていてくれた。
今この時のように、覇気は無いけどどこか鋭くて奥を見透かすような視線で……
そう、今だって、こうして自分をしっかりと見てくれている。
いつもの態度からして、石上だって自分にお礼なんて言うのは少しは恥ずかしかったはず。
けれど、石上は目を逸らさずしっかりとこちらを見て言ってくれた。
――――それなら、私も――――
意を決したミコの口から、続きの言葉が出て来た。
「その……こ、こっちこそ……
あ、ありがとう」
『ステラの人』に対してした妄想は、甘い言葉をかけてくれる事や
手を繋ぐ事や、優しく抱き締めてくれる事だけではない。
『ありがとう、あなたの励ましを心の支えにして、私は頑張って来れたんです』――――そうお礼を言う事も、夢見ていた。
皮肉にも、その相手は長年自分が取り締まってきた石上。
色々な感情が入り乱れて邪魔をし、今はそんな出来たお礼の言葉を連々と述べる事は、出来そうにない。
だけど、『ありがとう』だけは、絶対に言わなくてはダメだ。
一番感謝の募った、一言なのだから。
「……伊井野……」
ミコの思いもよらないお礼の言葉に、困惑した表情を浮かべる石上。
学年1位の優秀さを誇るミコの頭脳は、続く石上の言葉を必死でシミュレートする。
ああ、そうか、これじゃ何のお礼か分からないから、きっと『何の事なんだ?』って聞いてくるわよね?
でも、どうやって答えれば良いの?
『私が心の支えにして来たステラの花とメッセージをくれたでしょ』って、素直に言う?
いや、でも……!もし、そんな事を言ったら……
もし、石上がそれをふと、こばちゃんに相談しちゃったりしたら!
『えっ!?ミコちゃんが言ってたステラの人って石上なの!?
ミコちゃんもう11回も私にその話して、これが本当の愛の形とかときめいちゃってたよ?あれは絶対惚れちゃってるよねー』
『えっ?伊井野ってそうだったの?じゃあ伊井野は僕の事……へぇ……へえええぇ……』
勝ち誇った顔の石上に見下される妄想を、ミコは頭の中で必死に否定した。
「(どうしよう!どう答えれば良いの……?)」
混乱するミコを余所に、石上が口を開く。
結果を先に言うならば、ミコの暗いシミュレートは杞憂に終わった。
が、明後日の方向にシミュレートが外れてしまったのはミコにとっての想定外だった。
「……やっぱ、お前今日調子悪いだろ?僕にお礼言ってくるなんて」
……えっ?
「今朝はボーッとしてたとか聞いたし、今も何か顔赤いし変な事言ってくるし……多分熱あんだろ、お前」
何て斜め下な言葉なんだろう。こっちの気持ちも知らずに――――。
そうミコが怒り出す前に、石上は更に動いていた。
斜め下な言葉に呆然としていた表情から怒りの表情に切り替わりかけていたミコの顔に自分の顔を近付け。
自分とミコの額を触れ合わせたのだ。
「……………………???」
ミコの中で、一瞬時が止まった。
今しがた起こった出来事の大きさを、脳が受け入れるのを躊躇った。
「ほら、やっぱりちょっと熱いじゃねーか」
その行為とは裏腹にあまりに無頓着な石上の言葉に対する怒りで、一瞬止まっていたミコの時が動き出した。
そして、止まっていた間せき止められていた溢れんばかりの感情と思考が、ミコの脳内で氾濫した。
「(あああああああああコイツ何してんのよいきなりこんな事普通女の子にやるもんなのすごく顔が近い目も近いああああコイツの目はずっと私の頑張ってる所を見ててくれてステラの花で励ましてくれて本当の愛の人でステラの人であああ何でコイツの事こんなに意識していつもよりカッコよく見えて顔赤くしてあああああもうああああああ!!!!!!)」
今やミコの顔は茹でだこ寸前。額を介して石上に伝わる熱量は上昇し続けていた。
「……うわ、しかも更に熱くなったぞ。やっぱ熱出てるだろ、会長には言っておくから早めに帰って……」
――――こんな事しといて、こっちの気持ちも知らないで!
この石上の一言がトドメで、パンク寸前のミコの脳内で、怒りの感情が最大多数を占めた。
「帰るわよ!バカァーーーーーーーーッ!!」
そう叫びながら思い切り石上の横っ面を叩き、ミコは全速力で階段を駆け降りて行った。
「……やっぱ熱有るわ、アイツ」
その場にひとり取り残された石上は、今しがた爆発したミコの感情も『単なる熱』として受け入れる事にした。
まあどの道、お礼はちゃんと言えたから良いだろう。
明日からは頭を冷やして、元の関係に戻れるはず……
そう思いながら、石上は改めて生徒会室の方へ足を向けた。
……だが、今まさに廊下を全力疾走し、1メートルでも遠く石上から離れようと駆けるこの少女はそうは思えなかった。
どうしよう。どうしようどうしようどうしよう?
やっぱり、もう、今まで通りに接するなんて無理。
アイツは、ずっと想い続けた『ステラの人』。
この前、四宮副会長に『もし恋をするなら』と認めてしまった『ステラの人』……
『今までの石上優』と同じ目では、もう、見られない。
「(そんな!私、どうすれば……?どうしよう!どうしようどうしようどうしよう!)」
発達途上の小さな少女・伊井野ミコが自分の気持ちと向き合えるのは、もう少し先の話である。
次回、3話の前に番外編として2.5話が入ります。