伊井野ミコは告らせたい~不器用達の恋愛頭脳戦(?)~ 作:めるぽん
オリ要素お断りな方はご注意下さい。
第68期生徒会役員の面々が、新年度を迎えてから数週間。
今日もまた、生徒会役員会計監査・伊井野ミコは、兼任している風紀委員の会合に出席し終えた後に生徒会室へと足を運んだ。
生徒会室の扉の前に辿り着き、ドアノブに手をかける。
しかし、今日は何か勝手が違った。
中から、普段聞き慣れない声がする。
「……ぇぇん、ふぇぇ……」
扉を隔てているのでぐぐもってよく聴こえないが……これは……赤ん坊の泣き声?
「(な……何で赤ちゃんの泣き声が?ま……まさか!)」
伊井野ミコの脳裏に浮かんだのは、以前訳の分からない幼児語のようなものでやり取りをしていた会長と副会長の姿。
あんな事してたあの2人なら……有り得る!
神聖な生徒会室で、『赤ちゃんプレイ』とかいう変態じみた行為をしている可能性が充分に!
またも思春期風紀委員モードの脳みそがフル稼働し明後日の方向に勘違いしたミコは、ここは自分が止めなければ、と勢い良く扉を開いた。
「ちょっと!生徒会室で何をして……」
しかし、ミコの目に飛び込んできたのはまったくの予想外の光景であった。
中に居たのは、石上ひとりであった。
……いや、『秀知院の生徒では』ひとり、と言った方が正しいかもしれない。
何故なら彼の両腕の中には、元気良く大泣きしている、とても愛らしい物体が有ったからだ。
「あっ……」
勢い良く入って来たミコの姿を見て、固まる石上。
だが、ミコの方は固まるどころではなく、まるでその場で一瞬にして石像になったかの如く微動だにしなかった。
しばらくは2人、いや3人の間に流れるのは、謎の赤ん坊が大きく泣く声だけであったが、
仕方がない、といった顔をした石上が、口を開いた。
「……伊井野。何考えてるか分かるような気がするから先に言っとくぞ。違うからな」
「……えっ?」
石上に声をかけられるまで、ミコは概ね石上の想像通りの事を考えていた。
髪を切って、中学時代のようにこざっぱりした髪型に戻った石上。
失恋から立ち直った石上。
もしや、そんな石上に自分の知らぬ間に思いを馳せる人が現れて。
自分の知らぬ間に、結ばれて……?
「さっき兄貴が来たんたけど……ここのOBなんだけど、久々に校舎を見て回りたいなんて言ってこの子を僕に押し付けてったんだよ。って事で、この子は兄貴の子」
「あっ……そ、そういう事」
よく考えたら……というかよく考えなくても、人間の子供がそんなに早く産まれるはずがないじゃないか。
ミコは、一瞬でもそんな勘違いをした自分を恥じた。
何か、最近妙な事で悩んだりする事が多い気がする。
自覚すると、アホになるとでも言うのだろうか?……『恋』というものは。
「伊井野、来たんならそこの新聞紙何枚か取って絨毯の上に重ねて敷いてくれるか?今からその上でおむつ替えようとしてた所だったんだけど」
「う、うん」
言われるがままに、そばに置いてあった新聞紙を絨毯の上に重ねて敷くミコ。
「よ……っと。ほら、今替えてやるから泣き止んでくれよ」
絨毯の上に敷かれた新聞紙の上で、気持ち悪そうにじたばたする赤ん坊のおむつを、石上が手慣れた手付きで替えていく。
「……なんか、手慣れてない?」
石上にこんな事がテキパキと出来る一面が有ったのかと内心で感心するミコ。
「何度か兄貴にやらされた事有るからな。『これからの時代は男もこういうの出来ないとダメだぞ』とか言われて……単に世話出来る人間増やしたいだけのような気もするけど」
自分には将来的にこんな事をする予定は無いというのにと言わんばかりに、石上はやれやれと首を振った。
「へ、へぇ……そう」
返事も半分上の空、石上が赤ん坊に目線を集中しているのを良いことに、ミコはその横顔をじっと見つめていた。
失恋から立ち直ったと同時に、『あの事件』が起こる前の中学時代の短い髪型と同じように、バッサリと髪を切った石上。
前までは長い前髪に見え隠れしていた目が、今では横からでもよく見える。
聡明なる読者諸賢は既にご存知の事であろうが、伊井野ミコはバリバリのアイドルヲタで、意外と『面食い』な所が有る。
もちろん中身が第一であるが、そこを考慮しないのであればイケメンを密かに求めているのが彼女である。
そしてその審査基準も厳しく、髪型が半分を占めるようないわゆる『雰囲気イケメン』は彼女の御眼鏡には適わない。
誤魔化しの利かない、短くこざっぱりした髪型。究極を言えば坊主頭のイケメンが、彼女の理想である。
ただでさえ、ここ数ヶ月は『ステラの人』という事で意識し、
更には彼の視線を意識しまくってしどろもどろになる事も多かったミコであったが、
そこに更に『こざっぱりした髪型』が唐突に加わった事で、
他者にはともかく、ミコの中では最高に近い組み合わせが出来上がっていた。
こうして横顔を見ているだけでも、胸の高鳴りを嫌でも感じてしまう。
更に!
「……ほら、終わったぞ。よーしよし、もう大丈夫だからなー」
おむつ替えを終え、赤ん坊を優しく抱き、普段の彼からはおおよそ想像も出来ないような優しい口調で語りかけるその姿を見て。
胸が高鳴りテンションがキマっていたミコの脳内では、あらぬ妄想劇が繰り広げられていた。
『(ほら、伊井野……もう大丈夫だからな……安心しろよ)』
実際より5割ほど誇張された美形な石上が、自分を後ろから優しく抱きしめ頭を撫でる光景が、ミコの脳内で広がっていた。
「(な、な!何考えてんのよ私はあああああああああああっ!?)」
違う。こんな事求めてない。
ほんとに求めてないったら求めてない。違う違う、違うんだから……
破廉恥な妄想をどこかに追いやる為、頭を左右にぶんぶんと振ってスッキリさせようとするミコ。
「どうしたんだ?」
流石にすぐ傍で頭を激しくぶんぶん振っていれば気付かれる。
石上が、ミコの挙動を不審に思って声をかけてきた。
「なっ……にゃんでもない!」
その答え方で何でもなくはないだろ、と心の中でツッコむ石上であったが、
追及しても面倒な事になりそうなだけなので取り敢えずそのまま受け取る事にした。
「そ……それはそうと!!さっきその子が泣いてる理由、なんでおむつ替えのサインって分かったの?」
取り敢えず話題を逸らす事が誤魔化す一番の方法だと考え、ミコが話を逸らそうと試みる。
「まあ、ミルクは兄貴があげたばかりって聞いてたし、眠たいってのもさっき起きたばかりだから無さそうだったし……
大抵はお腹減ったか、眠たいか、おむつが気持ち悪いかのどれかで、それらに当てはまらなければ寂しいとか怖いとか……そんな所だろ」
原因を絞り込む論理を、指を1本ずつ折りながら説明する石上。
「まあ、こいつは分かりやすくて人見知りも少ない方だから僕でも世話出来るんだけどな……、うん、やっぱり機嫌戻したわ」
石上の腕の中で、先ほどまで泣いていた赤ん坊が、可愛らしく混じり気のない純粋な笑顔を覗かせる。
「……そういうものなんだ」
確かに分かりやすいかそうでないか、ぐずる頻度など個人差が有る事は確かだが、
それでもこうして赤ん坊の世話をこなせる石上に、ミコは改めて感心してしまう。
そうしていると、ふと石上の腕の中で笑っている赤ん坊と視線が合う。
『だぁれ?』とでも言いたげな、きょとんとした視線を向けてくる赤ん坊に対し、
赤ん坊と接する機会など全く無かったミコは、どういう顔をすれば良いのか分からない。
だが、石上の方をちらりと見て、彼の表情が(赤ん坊の中での)普段通りで、まったく強張ったりしていない事を確認すると、
くるりとミコの方に向き直り、石上に向けていたような笑顔と同じ、可愛らしい笑顔を見せた。
かわいい。
なに、このかわいい子。
赤ん坊につられるように、ミコの方もまた自然な笑顔になった。
見る人の多くを自然な笑顔にさせる。それが赤ん坊の持つ不思議な力である。
「……ねえ、この子名前なんて言うの?」
ミコは、興味が湧いて石上に尋ねてみた。
名前で呼んだりしたら、もっと喜んだりしてくれるかもしれない。
だが、石上は赤ん坊を抱えたまま、突然くるりとミコに背を向けた。
そして、何故かとてもぎこちない口調で、こう答えた。
「……個人情報なので、保護のために黙秘します」
「はぁ!?ちょっと、何で……」
予想外かつちょっと理不尽な返答が返ってきて、思わず怒ってしまうミコ。
「……赤ん坊の個人情報も守られるべきなので、黙秘します」
相変わらず、どこか挙動不審な様子で同じような答えを返す石上。
ミコは、戸惑うと同時に悲しくなってしまった。
父親が高等裁判所裁判官であり、自身も法律関係の仕事に就職希望のミコは、確かに個人情報保護の大切さをよく知っている。
だから、石上の理由も一理ある事はある……だけど。
自分は、その赤ん坊の名前を教えるに足らない信頼しか無いのだろうか?
名前を教える事が、危険だと思われているのだろうか?
「……悪用なんてしないわよ。そんなに信用ならないの?」
そこまで信用されていないのだろうかという悲しみと動揺が、声の震えとして表れてしまった。
「……いや、その……うーん」
石上はミコに背を背けたまま、果たしてどうするべきか、と悩み始めた。
「……良いわ。教えてくれないというのであればそうすればいいじゃない。どうせその子の世話する時、一度か二度くらいは名前を呼びかける事くらいするでしょ。その時、しっかりと聞き耳立ててあげるから」
ミコはムゥゥゥと頬を少し膨らませ、拗ね全開でプイッとそっぽを向いた。
確かに、赤ん坊と接するにおいて名前を呼びかけられないのはいささか不便である。
兄がいつ迎えに来るかも分からないので、バレるのも時間の問題かもしれない。
近くにこんな不機嫌な人間が居たら、赤ん坊にも良くないかもしれないし……
思考の末、仕方なく石上は名前を教える事に決めた。
「……コ」
「?」
こっちを向かないままながら、石上が何かを呟いたのが聴こえて彼の方を振り向くミコ。
「……コ」
「ちょっと、何よ?教えてくれるなら、もっとハッキリ……」
だが、ミコのリクエストに応え石上がハッキリと口にした言葉は、ミコにとって驚天動地とも言える内容であった。
「……ミコ」
心臓が、間違いなく一拍すっ飛ばされた。
そう感じるくらいに、ミコの胸はドキリとした。
効果音が有るなら『ボンッ』とでもいうように、ミコの顔は一瞬で真っ赤に茹で上がった。
「なっ、なっ……な、な、なんであ、アンタ、い、いきなり……」
まったく突然に下の名前で呼ばれた事で、ミコの頭の中から冷静さというものがどこかへ吹っ飛んでしまった。
なんで、どうして?いきなり、下の名前で……
言った石上もどこか恥ずかしそうであったが、大きめのため息を付くと言葉を続けた。
「あのな?お前の事じゃなくて、コイツの名前だから。女の子で、漢字で『海の心』で、『海心』」
「あっ……」
自分の勘違いを見透かされ訂正され、ミコは一気に恥ずかしくなった。
そうよね?赤ん坊の名前を聞く流れだったのに、いきなり私の名前を言うはずないじゃない。
何で、こんな勘違いを……
あれ?でも、という事は。
ミコの頭の中に、とんでもない一説が浮かび上がる。
「……ちょっと待って。お兄さん、婿入りだったりしないわよね?」
「ああ、嫁さんの方の嫁入りだけど?」
ちょっと、ちょっと待って。
という事は……
「……じゃあ、その娘のフルネームって」
「……わざわざそんな響き、耳にしたいのか?んなワケ無いだろ」
少し照れくさそうに、石上がそっぽを向いた。
直接的には言わなかったが、その答えはミコが想像していた説が正しい事を示しているも同然であった。
つまり、この娘の名前は……
石上のお兄さんの元に産まれた長女、海心。つまり……
『石上海心』。
『いしがみみこ』。
その6文字の響きは、妄想力もとい想像力豊かなミコの脳内を、ある種の妄想で満たし切るには充分なワードであった。
お互いに少し大人っぽくなり、並んでソファに座っている自分と石上。
実際より7割ほど誇張された美形な石上が、片腕を優しくミコの肩に回しながら囁く。
『なあ、伊井野……』
『もう。また昔の呼び方してる。もう……違うでしょ?』
わざと少し頬を膨らませむくれたような表情になりつつも声が楽しげなミコが、石上の頬を小突きながら訂正する。
『私達……もう……』
ほのかに頬を赤く染めたミコの左手の薬指には、真新しさを示すようにキラリと光る指輪が。
そしてそのお腹は、大食いとは全く違う原因でにわかに膨らみ始めて……
「(ななななななななな何考えてんのよ私おかしいでしょ早すぎるっていうかそういう問題じゃなくてああああどうしよどうしよどうしよ!)」
ただでさえ元々豊かな想像力を持っていたミコであるが、『ステラの人』の真実に気付いてから。
更に、石上への好意を自覚してしまった事がきっかけで、その想像力は意図せずして殻を破り、新しいステージへと昇華してしまっていた。
もう、最近は、本当におかしい。
そりゃ、石上の事が……好きってことは、自分の中でも認めてしまったけれど。
そういうのはまだ早いでしょ!?自分たちはまだ高校生なのに。
というか、早いとか早くないとかそういう問題じゃなくて!
もはや頭を振るだけではこの疚しい妄想は振り払えそうになく、ミコは頭を抱えて座り込んでしまった。
その様子を見ていた石上は、少し不機嫌そうな声でミコにツッコんだ。
「……いやまあ、そりゃお前にとっては嫌なイメージ湧くワードかもしれないけどさ。そこまで拒否反応示すか?」
ミコの気持ちを知らず、単に『いしがみみこ』という響きに猛烈な拒否反応を示していると勘違いしていた。
「ち、違っ……!」
違う、そうじゃない。
嫌じゃない。そんなに嫌なんじゃない。
むしろ……
今は、変な事が頭に浮かぶ自分のおかしさが嫌になってこういうアクション取っちゃっただけ。
だから、『違う』とミコは言いかけた。
しかしその刹那 ミコに気付き!
もし、ここで「違う、嫌なんじゃない」などと否定してしまおうものなら!
『(へぇ……[いしがみみこ]を頭の中に浮かべても嫌じゃないんだ?
つまり伊井野は密かにそういう願望が有ったんだな?
普段は僕の事あれこれ言ってくるくせに実はそんな事を……へぇ……へぇぇぇぇ……)』
などと悟られてしまうかもしれない!
そう危惧したミコの選んだ選択肢は!
「違っ……違、わない!もう、変な事考えちゃったじゃない。どうしてくれるのよ」
心にも無い事を言って誤魔化すしかなかった。
「(あぁ……またやっちゃった……)」
確かに、石上への好意は『自分の中では』認めている。
だが、他人に、ましてや本人に対してそれを認めるのはまた別段の難しさがミコの中には有った。
誤魔化す為とはいえまたもキツい事を言ってしまい、ミコは心の中で落胆した。
尤も石上の方は、その答えはある程度予想していた為特に気にする事もなく受け入れたのであるが。
「うー?」
そんな時、石上に抱かれている海心が不思議そうな顔を石上の方に向け、小さな手はミコの方を指していた。
「んー?何だ?このお姉さんの事が気になるのか?」
「あー!」
明らかに同意と取れるニュアンス。石上は海心を抱きかかえたまま、ミコに近付いた。
「ほら、伊井野をご指名だとさ。せっかくだから抱っこするか?」
「えっ?」
突然の申し出にミコが驚く。
「あー」
海心がミコの方を向き、小さな手足をぱたぱたさせている。
「で、でも……」
その申し出は嬉しかったが、赤ん坊を抱っこした事のないミコはいささかの不安を覚えた。
それを何となく察した石上が、フォローの手を差し伸べる。
「大丈夫だって、抱き方くらい教えてやるから。不安ならまずソファに座ってからの方が良いな、『もしも』の時落差が少ないから。それに僕なんかよりお前の方がこういう事くらい出来ないと後々困るぞ」
そう言って石上が、海心をミコに差し出してきた。
「ちょ、ちょっ……」
言われるがままにソファに座ったミコが、恐る恐る海心を受け取る。
「ほら、右手で頭を支えて……まあもう首は据わってるからそんなにビクビクしなくてもいいぞ。んで左腕で身体を支える感じで……」
「う、うん……」
今やミコの心臓は、小さな命を自らの腕の中に収める緊張感と、石上がごく自然に手を取ってそばでレクチャーする事へのドキドキで、いつもの何倍も忙しく鼓動していた。
「だぁ……あー」
ミコの両腕の中で、海心がミコの顔をまじまじと見つめる。
「……せっかく名前教えてやったんだし、名前呼んだりしてやれよ」
石上が横からアドバイスを送る。
が……
「う、うん。
み……みこ……ちゃん?」
やはり、自分と同じ名前を呼びかけるというのはどこかむず痒い。
そのぎこちなさが声に表れてしまったが故か、海心の反応も今ひとつである。
「……呼びにくいなら、『みーちゃん』でも良いぞ。兄貴達はいつもそう呼んでるしな」
「なっ、そ、そうならそうと早く言いなさいよ、もう……」
ミコは今度こそ失敗しまいとひとつ深呼吸して心を落ち着かせ、そしてもう一度海心に呼びかけた。
「み……みーちゃん?」
いつもの呼ばれ方で自らを呼ばれた海心が、ミコに笑顔を返した。
「あーっ。あー♪」
笑顔で、嬉しそうに手足をぱたぱたさせている。
「みーちゃん?」
「あぁー!あーっ♪」
実に良い反応を返してくれる海心につられ、だんだんミコの方も楽しく、自然と笑顔になっていく。
「みーちゃん!」
「だぁーっ!まー♪」
「みーちゃん♪みーちゃん♪」
「まー!あーっ♪」
そんな2人のやり取りを、隣で見ていた石上は……2人から視線を逸らした。
やべぇ。めっちゃ……
かわいい。
なんだろう、この『互いに互いを引き立て合ってる感』。
海心は赤ん坊なんだから可愛いのは当然として。
なんで、何で伊井野まで……
いやコレはアレだ、海心の世話してて疲れてるから思考能力が正しく働いてないっていうアレだろアレ。
でなきゃ、伊井野がそんな風に見える訳が……
しかし、隣に座り今やすっかり海心に夢中で、めったに見せない自然で幸せそうなミコの様子をちらりと見て。
「みーちゃん、ほっぺたぷにぷにだねー!」
「みゅーっ!あぁー♪」
……石上は、自らの頭の中で否定をしきれなかった。
赤ん坊と戯れるミコが、自分の中での『奇跡的相性』である事を……
どこか頭の片隅にある『もっと見ていたい』という悪魔の囁きを抑え、石上は目を逸らした。
何せ、そんな風に思っている事を気付かれでもしようものなら!
『(うっわ……アンタにそんな事思われても嬉しくないんだけど?
[いしがみみこ]っていう名前で気持ち悪い想像しないでよね?
ほんと……生理的に無理)』
真顔で鬼のように罵ってくるミコが、石上の脳内に浮かんだ。
取り越し苦労の妄想で冷や汗を流す石上であった。
だが、周りの都合など全くお構い無し、自由奔放を絵に描いたような生き物が赤ん坊というものである。
戸惑う石上と、今や海心につられてノリノリのミコの心情などお構い無しに、更なる爆弾をぶっ込んた。
「ぱ……ぱーぱー」
ミコに抱かれた海心が、石上の方を向いて呼びかけた。
「あら?『パパ』って言えるのねみーちゃん!上手ねー♪」
「あー♪ぱー♪」
「けど、この人はパパじゃないのよ?」
「うー?」
やんわりと訂正するミコに対して、不思議そうな顔をする海心。
「……まぁ、兄貴と歳近くて兄弟だからな。たまに間違えられるんだよ」
兄と間違えられるのはこれが初めてではない。それ自体は、何も思う所は無かった。
むしろ密かに『可愛らしいもの好き』である石上は、赤ん坊ならではの微笑ましい間違いとして好意的に受け入れていた。
……が。
「ま……まーまー!」
血縁でも何でもないはずの女性の方を向き、『まま』と呼んだのはこれが初めてのことであった。
「え……えええええええっ!?」
先程まで海心につられるように幸せそうな笑顔であったミコの表情は、一瞬にして驚きと焦りの色に変わった。
「まー!まーまー!」
「なっ、ななななななななんで私がままままママまま……」
楽しそうな海心とは逆に、顔を赤くし言葉もしどろもどろなミコ。
「……あー、分かった……伊井野、お前そいつの母親に声が似てるんだ」
「そ、そうなの?」
「まー、まー♪」
まだ大人ほど視覚がはっきりしていない赤ん坊にとって、声というのは重要な判断材料である。
偶然にも、声と、そして海心につられてノリノリで声をかけていた時の話し方が母親そっくりであったのだ。
「け……けど……」
ミコの言葉は、そこから続かなかった。
いや、続けられなかった。
互いに気恥ずかしそうに顔を背ける2人が頭の中で連想してしまった事は、
互いの気持ちの差こそあれど、同じ内容であった。
どこかで見たような姿の成人になったばかりの若い『ぱぱ』と『まま』が、不思議と海心にそっくりな赤ん坊を2人で可愛がる、そんなひとときの光景……
気まずさが頂点に達し、石上とミコは互いに首の許すだけ顔を背け、互いの顔を見れずにその場で座ったまま動けなかった。
そんな気まずさに満ちた空間に、更に刺激剤が投入された。
生徒会室の扉が開き、一人の男が入って来た。
「いやあスマン、先生に捕まって少し遅れてしまってな」
生徒会長・白銀御行が、少し疲れたような顔をして生徒会室に入って来た。
そして、隣同士腰掛けた若い男女と見知らぬ赤ん坊が居るその光景を目の当たりにして、互いに視線を合わせたままその場の空気が固まった。
「……あー、会長これはですね……」
白銀の表情を見て何となくこの先の展開が予想出来た石上が、釘を刺そうと先手を打とうとする。
だが、完全に思考がトチ狂った白銀に石上の言葉は届かなかった。
「そ……そぉうかそうか!ここ最近まで2人とも元気が無かったのはそういう訳だったんだな!?いやあ全く気付けなくてスマン!待ってろ伊井野監査、今購買で安産祈願のお守りを買って……」
声が不審に裏返り、視線が互い違いに明後日の方向を向いたまま購買へ全力疾走しようとした白銀を、石上は全力で引き留めた。
「いや会長!購買にそんなもの売ってませんって!」
「ツッコむのそこだけじゃないでしょ!?何もかも全部おかしいでしょ!」
「キャッキャッ♪」
皆が慌てふためく姿を、楽しげに笑う海心であった。
――――16分後――――
「ふむ……つまり石上のお兄さんがその子を預けたまま校内を見て回りに行ったままだ、と」
「ようやく理解してもらえましたね……」
白銀を引き留めて落ち着かせ、ことここに至った経緯をじっくり説明してようやく事態を理解して貰えた。
「……まあ可愛らしいお客が居るのは悪い事では無いが、このままだと石上も伊井野も困るだろう……よし、俺が探し出してきてそれとなく自然にここに連れて来てやる。ちょっと待っててくれ」
「すみません会長、頼みます」
「ああ、任せておけ」
そう言って会長は、急ぎ足で生徒会室を後にした。
「はぁー……疲れた」
「そうね……」
ひと悶着を乗り越え、大きめのため息をつく石上とミコ。
この短時間で気疲れするような事が立て続けに起こり、どっと疲れが押し寄せて来るのを感じた。
「…………むー」
ふと海心を見ると、瞼を瞬かせどことなく不機嫌そうな表情をしていた。
「むー……」
「ど、どうしたのかしら」
「……ああ、多分眠いんだよそいつ。『ねむたい』の『む』な、それ。ほら、貸してみ」
「あっ……う、うん」
そう言ってミコの腕に優しく割って入るようにして腕を入れ、そっと海心を抱きかかえる石上。
「よ……っと。ほら、ねんねねんね……っと」
「む……んー」
あやす言葉にやる気は感じられないが、優しく揺らすように体のリズムを取り海心を落ち着かせる。
その絶妙なリズムに眠気を誘われ、だんだんと海心の瞳が閉じていく。
「む……んぇ……」
その動作を続ける事数分。とうとう海心は石上の腕の中ですやすやと眠りに落ちた。
「……やるわね、アンタ」
数分で寝かしつけてみせた石上の手腕にミコが舌を巻く。
「コイツすげぇ寝付き良いし、僕も初めてじゃないし……何事も経験って、こういう事を言うんだなって……あ……ふあぁ……」
海心の眠気が伝染ったかのように、石上も大きな欠伸をした。
「……アンタも眠いの?」
「まあ……昨日遅くまで勉きょ……い、いやゲームしてたからな」
「言い直すの遅い。勉強なんでしょ?逆なら分かるけど、どうして隠すのよ」
「……こういうのって大っぴらにやってますアピールするもんじゃないだろ」
雑な誤魔化しが見透かされ、バツが悪そうにうつむく石上。
「まあ、分からなくもないけど……アンタは今までを考えたらむしろアピールして後に引けないくらいに追い込んで丁度良いんじゃない?」
「……これ以上睡眠削れっていうのかよ」
学年1位からの容赦ない言葉に石上が辟易する。
「……にしても、もう限界だわ……コイツも寝たし、僕も会長が兄貴連れてくるまで仮眠……させ……」
「え、ちょっと」
ミコが止める間もなく、言葉を言い終わらない内に石上は眠りに落ちてしまった。
……何となく寝付き悪そうなイメージ有ったけど、案外すぐ寝付けるのね、コイツ。
みーちゃんといい……石上家の血筋なのかしら?
でもまあ、コイツが最近勉強頑張ってるのは事実だし。
私が自習室で寝ちゃった時、コイツは気を遣ってしばらく寝かせてくれたし……
学校は決して寝る場所じゃない。けど……
何時間もかかる訳じゃないはずだから、少しくらいは……このままにしておいても良いわよね?
そう考えて、ミコは石上の居眠りを黙認する事にした。
「……………………」
話し相手が居なくなった事で、待っている間手持ち無沙汰になってしまったミコ。
いつもの彼女なら、こんな隙を見て勉強に取り組むのかもしれない。
だが、石上の腕に抱かれてすやすやと眠る、この小さな悪魔ちゃんに色々と振り回された今日は。
ミコの思考は、いつもより気まぐれになっていた……
「(……………………)」
すぐ隣にある石上の顔を、じっと覗き込むミコ。
前よりさっぱりした髪型となった事で、顔立ちが明瞭に見える。
決して、自分の好みじゃないけれど。
コイツの優しさを知った今では……嫌いではない。
……ていうか、ごく自然にこうなっているけれど。
今のこの距離……すっごく近い。
だって、ちょっと頭を動かしただけで……石上の顔が、こんな近くに見える。
2人きりだと、多分こんな風に自然に近付く事なんて出来ない。
「(……この子のおかげなのかも)」
微かに微笑んで、すやすやと寝息を立てる海心の頬をミコはそっと突く。
とても柔らかくて、温かい。
石上への好意を自覚してから、どうしても本人の目の前では少しどぎまぎしてしまう。
だから……こんな落ち着けられて、けど何だか良い気分になれて。
こんなひとときも……悪くないかも。
そんな事を思いながら、改めて石上の方に視線を向けるミコ。
そこで、ミコは気付いた。
さっきより、石上の顔が近い。
海心の顔を覗き込む為に、無意識に体を石上の方に近付けていたのだ。
驚いてはっと息を呑むミコ。
その音で石上が目を覚まさないかと一瞬危ぶんだが……腕の中の海心同様、すやすやと寝息を立てて起きる気配は無い。
そして、それに気付いた時。
無意識に……更に石上の顔へと、自らの顔をミコは近付けていた。
どんどん縮まる、2人の顔の距離。
距離が縮まるのに比例するが如く、ミコの心臓の鼓動も早くなっていく。
――――今、この部屋で起きてるのは……自分だけ。
だったら。だとしたら。
これ以上、近付いたら。
もっともっと、近付いたら。
どうなってしまうんだろう?
頭の片隅で、これはいけない事だ、と警笛が鳴り響く。
だが、好奇心と胸の高鳴りの前では……その警笛はちっぽけなものに過ぎなかった。
引き込まれるように、眠る石上の顔へ自らの顔を近付けていくミコ。
もう、2人の顔の距離は殆ど無い。
これ以上はダメ。これ以上はダメ……
冷静な警笛が、虚しく鳴り響く中。
もはや視界には石上の顔しか見えず、聞こえるのは自分の高鳴る鼓動だけ。
2人の顔の距離は、あと僅かでゼロに――――
「遅れてゴメンね、優くん、みーちゃん!」
ガチャリと扉が開くと同時に、若い女性の声が生徒会室に響いた。
「!?!?!?!?」
突然の出来事に驚いたミコは、声のする方へ顔を向けると同時に、異様に近づいていた石上から素早く飛び退き距離を取る。
見ると、20代前半の若い男女と、その後ろに会長が立っていた。
「おう、遅くなってスマンな優……って、何だ寝てるのか?」
石上の兄が、寝てる石上に声をかける。
「ん……あ、兄貴……と、義姉さんも……来てたのか」
2人の声で目を覚ました石上が、眠たそうに呟く。
「まあいいや、とりあえず……はい、しっかり子守りはしといたよ」
周りが騒がしくなってもどこ吹く風と言わんばかりに安眠し続ける海心を、兄の手に渡した。
「おう、サンキュな!面倒見れる人間が多いと助かるよ」
「……無理やり兄貴たちに仕込まれたからな」
兄の言葉に、無愛想に返答する石上。
「……で、優。この娘は?」
隣で、先程の暴走を見られてやしないかと胸をドキドキさせるミコの方に石上の兄が顔を向けた。
「ああ……同じ生徒会役員の伊井野。コイツも一緒に面倒見てくれたよ、兄貴達からもお礼言っといてくれよ」
「は、はじめまして!伊井野ミコです!」
石上から紹介され、ミコがどぎまぎしながら軽くお辞儀をする。
「おお、そうか!……って、キミも『みこ』なのか!この娘と同じ名前だな……優から聞いたか?」
「は、はい」
石上とは少しタイプの違う石上兄に対し、少し戸惑いを隠せないミコ。
「はじめましてミコちゃん!ありがとね、みーちゃんのこと見ててくれて」
海心の母親が、にこやかにミコに挨拶をしてきた。
『自分が聞いている自分の声』と、『他人に聴こえている自分の声』が違うのはよく知られている話だが、
ミコは生徒会長選挙時のスピーチなどで、何度も『他人に聴こえている自分の声』を聴いた経験がある。
それを思い返してみると……確かに、似ている。自分の声に……
そんな事を、ミコが考えていると。
「あら……その腕章、もしかしてミコちゃん、風紀委員も兼任してるの?」
「えっ?は、はい……けど、どうして?」
「うっふふー、私もここのOGでね……昔生徒会庶務と風紀委員兼任してたんだ!大変だったけど、やりがいは有ったわね」
少しドヤ顔でミコに過去を明かす海心の母親。
それを聞いた時、ミコの頭の中である伝説が思い起こされた。
「……あっ!ひょっとして!
一切の妥協を許さず、正義と校則を貫き通して時には教師すら裁き!しかも生徒会庶務までこなしてた、風紀委員の間で伝説になってる『鉄壁の聖女役員ユイ』って……!」
「ああ、そんな風に張り切ってた頃も有ったわね。懐かしいわぁ。今は結婚して『石上唯』。よろしくね、ミコちゃん♪」
苦笑いしながら肯定する海心の母親・唯。
「ははっ、そんな時期も有ったな」
隣で、昔を懐かしむように石上の兄が笑う。
しかし、今はとてもお洒落で大人っぽくて、人当たりの良い雰囲気を醸し出すこの人が。
風紀委員の間で今も尚伝説になっているあの人とは思えない……
そんな考えを見透しでもしたのだろうか、唯がミコに顔を近付け囁いた。
「でもね、ミコちゃん?風紀より大事な事だって有るのよ?真実の愛の前では、風紀なんて案外ちっぽけなに過ぎないの。例えば……」
唯がここで敢えて言葉を区切り、口元にニヤリと笑みを浮かべて、ミコの耳元で続きの言葉を囁いた。
「大好きな彼が寝ている所に、思わず口づけしちゃいそうになったりとか……♪」
この日、2度目の『ボンッ』がミコに訪れた。
み……見られてたみられてた見られてたみられてた見られてたミラレテタ……
この場に居る全員がハッキリと認識出来るくらい、ミコの顔は茹で上がっていた。
そんなミコにトドメを刺すかのように、唯が追い打ちでまた囁いた。
「お姉さん、大歓迎よ?2人目の『いしがみみこ』……♡」
とうとう、ミコの我慢は限界点に達した。
小さな身体を小刻みにぷるぷると震わせ、震える声を絞り出してミコが叫んだ。
「しょ……しょんな事ゼッタイに有り得ないですーーーーっ!」
初対面の人間に全てを見透かされた事への恥ずかしさに居てもたっても居られなくなり、ミコは全速力で生徒会室から走り去って行った。
「……義姉さん、何言ったんですか」
ミコの反応からしてロクでもない事なんだろうと察しつつも聞かずにはいられない石上。
「あら、私はカワイイ後輩に人生のアドバイスを贈っただけよ、優くん♪」
全く悪びれる様子も無く、ウインクしながらぼかした答えを返す唯。
その後ろで石上の兄は苦笑いし、白銀は呆気に取られているのであった。
そして、この日の晩。
悩めるミコの脳内を『いしがみみこ』という強烈な6文字が満たし、
人生で2度目の、一睡も出来ぬ夜を過ごした事は……伊井野ミコの、永遠のヒミツである。
・赤ん坊の名前は、ぶっちゃけ唯のミコへのセリフを言わせたかったのでこうしました(笑)
・石上兄の嫁・唯の名前は、ミコと同じく風紀委員であり、今回のミコと同様妊娠妄想をしでかした私のお気に入りであるあのハレンチ風紀委員からお借りしました。そういえばあっちも『ゆい』と『ゆう』でしたね……