この〇〇のない世界で   作:ぱちぱち

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大変遅れた上に番外編で申し訳ありません()

誤字修正。佐藤東沙様、広畝様、路徳様、KAKE様、sugarmaple様ありがとうございます!


番外編 密着取材・黒井タクミの一日

 AM5:30

 

 室内を満たすコーヒーの芳しい香りが、眠気を飲み込んでいく。

 

 部屋の主はコーヒーメーカーから生み出された黒い雫を、お気に入りだというコーヒーカップで受け止めて口元に運ぶ。

 

 部屋の主――黒井タクミの一日は、一杯のコーヒーから始まった。

 

「本当に朝から密着するのね」

 

 ――それが今回のコンセプトなので

 

 苦笑を浮かべた黒井タクミ……許可を頂いたため以後タクミさんと表記する……はコーヒーを啜りながらこちらに話しかけてくる。おそらく今現在世界で1,2を争うくらいに有名な日本人である彼女は、その知名度の割に私生活の部分は深い謎に覆われている。きらびやかな彼女の業績は強い光を放ち、その他の彼女に関する事柄を影のように覆い隠しているからだ。

 

 彼女が数年前に出版した自伝――というよりはむしろ娯楽小説として見られている彼女の著書『黒井タクミという女』では彼女の生い立ちから渡米し成功を掴むまでが描かれていた。しかしそれはあくまでも表面的な業績を書き記していただけであり、実際に彼女がどのような生活を送っているかまではわからなかった。

 

「だから密着取材?」

 

 コロコロと愉快そうに笑うたびにタクミさんの艷やかな黒髪が揺れる。彼女の特徴とも言うべき黒く美しい長髪は、ライブ時のポニーテールや記者会見の際に見せてくれたタクミちゃんカット、正式名称ポンパドゥールリーゼントの印象が強い。だが、腰まで届くきめ細やかな長髪は特に弄らなくても十分以上に魅力的に彼女を彩っている。健康的な肌色のコントラストからは、普段の活動的なイメージとはまた一味違う黒井タクミを演出している。

 

 許可を取り、寝間着姿の彼女の映像をカメラに収める。雑誌掲載時にはカラー写真で載せられるよう編集部と交渉しなくては。

 

 

 

 AM6:00

 

「習慣って大事なんだよね」

 

 身支度を整えた後、動きやすい服装に着替えてマンションの一部を改装して作ったというレッスン場に向かう。レッスン場にはすでに複数名の人影が思い思いにストレッチや談笑をしながら待機していた。よくよく見ればどの人影も雑誌やテレビで見かける人ばかりである。

 

 彼女が住まう黒井プロ所有のマンションは、黒井プロに所属するタレントやアーティストが住まう寮としての役割があり、こういった設備が充実しているそうだ。福利厚生に手厚い会社であるとは耳にしていたが、ここまで施設への投資をしているとは寡聞にして知らなかった。

 

「イッチニーサンシー」

 

 時間になるとスピーカーから流れ始めた音楽に合わせて、各自で体操が始まる。ラジオ体操というと整列して行うイメージが強いが、ここではそれぞれいくつかのグループを作り互いに指摘し合ったり談笑しながら体操を行っている。

 

「ほっとくと運動不足になる奴ばかりだからさ、このマンションを寮に改装した時から、せめて体操くらいはって寮住まいの人間にやってもらってんの。でも町内会とかでやってる整列してみんなでってのは、『それ会社員みたいな組織人なら兎も角アーティストにとって必要なのか?』と思ってね。だから体操だけは真面目にしろ。ソレ以外は自由って言ったらこうなってた。後は、所属タレント同士の簡単な交流の場にもなってる、かな?」

 

 タクミさんの言葉になるほど、と頷きを返す。談笑しながら体を動かす彼ら彼女らを見るに、交流の場としての役割は大きいように感じられる。私も学生時代を思い返しながら軽く体を動かす。

 

 ――ところで、あの隅っこの方で青い顔をしながら管理人さんと一緒に体操をしているお坊さんは一体?

 

「ああ、朝帰りしたのを銀さんに怒られたんだろうね。ジョブさんっていって、ええと。あの人は日本ミカンの――ううん、難しいけど食客みたいなもんだから気にしないで」

 

 食客とはまた古風な言い回しである。日本ミカンといえばいまもっとも成長著しいと言われるコンピュータ産業のトップ、ミカン社の日本支社である。あれほどの大企業に勤めているというなら一廉の人物なのだろう。ジョブさん、一応メモしておこう。

 

 

 

 AM6:20

 

 朝食をとるとの事でタクミさんの自室に戻る。このマンションには先程のレッスン場のように内部を改造して作られた食堂もあるらしいが、混乱を避けるためタクミさんはいつも自分の部屋で食事を摂るらしい。

 

 今日の彼女の朝食はご飯に味噌汁に卵焼き、それに昨夜の残りだという肉じゃがというごくごく一般的な家庭料理だ。

 

「日本に帰ってきたらご飯を食べるようにしてるんだよね。あと味噌汁」

 

 ――海外だとやはりお米が恋しくなるんですね。

 

「恋しくなるね。2,3日はともかく1週間も経つと特に。一緒に向こうに渡ってる日本人スタッフは、炊飯器を持ち込んでたっけ」

 

 手際よく盛り付けを行いながら、けらけらと笑うタクミさんに相槌を返す。割烹着姿のタクミさんという貴重な一枚も撮れ、更に朝食をご相伴に預かる事も出来た。今回の企画では、彼女にはこのような家庭的な一面もあるという事を世に知らしめねばならないだろう。朝食、大変美味でした。

 

 

 

 AM7:00

 朝食を食べ終えた後、すぐにタクミさんは私室に戻り外出の準備を始めた。彼女ほどのスタァであるならば分刻みのスケジュールになるのだろう。忙しい一日になりそうだ、と気合を入れ直していると、着替え終えたタクミさんが居間に戻ってきた。

 

 今日の服装はレザーショーツに革のジャケットと、変装用だという丸メガネのサングラスと黒いハンチング帽。格好だけを見れば、そのままツーリングにでも行きそうなスタイルだ。タクミさんならば大概の服装は映えるが、若干あどけなさが残る彼女の容貌にこのスタイルは少しアンバランスに感じる。いや、そのアンバランスさも魅力と言えるかもしれない。

 

「あー、まぁ。途中で時間見つけて、教習所に行きたいからさ」

 

 ――教習所、という事はバイクの免許を?

 

 彼女の年齢的に車の免許はない。そう考えるとバイクでほぼ間違いないだろう。しかし念の為に確認すると、タクミさんも「そそ」と肯定の頷きを返してくれる。バイクに跨る黒井タクミ……タイミングが合うならば、是非写真に収めさせていただきたいものだ。

 

 

 

 AM7:30

 

 マンション前に寄せられた車に乗り込み、移動を開始する。まずは黒井プロの本社ビルに――ではなく日本ミカン社に顔を出すらしい。なんでも新作のミカン3開発が佳境を迎えており、それに合わせて日米双方での販売計画を詰めなければならないそうだ。

 

 ――それは、部外者の私が聞いても大丈夫なのでしょうか

 

「大丈夫大丈夫。この取材が記事になる前に発売してるから。むしろ良い宣伝になるよ」

 

 私の質問に対して、タクミさんはそう商売人としての表情で返事を返した。その笑顔に、彼女がここ5年で数多の事業を成功させた、世界でも有数の成功者である事を思い出す。

 

 車での移動時間は約30分。その間に煮詰め直す、と資料に視線を向けるタクミさんの横顔を、許可をもらった後に一枚レンズに収める。

 

 

 

 AM8:10

 

 日本ミカン社ビルに到着する。元々は大手芸能プロダクションが所有していた建物を改装したこの建物は、元の形とは大きく姿を変えたらしく全面ガラス張りの前衛的な姿をしている。地震があった時に大丈夫なのか訪ねた所、むしろそこらにある高層ビルなどより耐震や台風対策を取っているそうだ。

 

「お金で買えるんなら安全は買うべきだよ。建物は替えが利くけど、人と其の人が持つ経験は替えられないもんね」

 

 ビルに入る際、屈強なガードマンに身分証を提示しながら――このビルのオーナーであるタクミさんですら身分証を提示しているのだ――タクミさんはそう口にして、足早にビル内へと歩いていった。

 

 その後ろ姿を写真に収め、ふぅ、とため息を一つ。人と経験は替えられない。3日はほぼ寝られない強行取材なぞを持ってきた、うちの上司にも是非聞いてほしい一言だ。

 

 

 

 AM8:30

 

 会議は踊る、されど進まずとは誰の言葉だったか。

 

「官公庁が使用しているマシンの更新は既定路線です。現在の生産能力では」

「だから! この計画では供給のバランスが取れないと言ってるんだ! せっかくミカン2で広がった民間の間口を閉ざすつもりか!」

 

 主に発言をしているのは販売部門の代表と営業部門の代表だそうで、会議が始まった当初から彼ら二人は生産されるミカン3をどう扱っていくかで言い争いを続けている。民間への販売を重点的な位置づけにしている販売部門と、官公庁や大企業などを重点的に見ている営業部門の主張はどちらも正しいように思えて、それ故に平行線となってしまっているのだ。

 

 ――どちらの主張も汲み取る、というのは出来ないのですね

 

「リソースは限られてるからね。10あるなら5ずつにして、なんてのが理想なんだろうけど……」

 

 そう言って首をすくめた後、タクミさんはお茶の入った湯呑に口をつける。最終決定権を持っては居るが、基本的に彼女はこういった会議の場で発言することはないのだという。トップは目標を定め、決断することが仕事。それがビジネスマンとしての黒井タクミの哲学だ。

 

「ま、現場のことなんて私にゃわからないからね。もちろん私の目標にそぐわないって思ったらガンガン口出す時もあるけど、普段はこんなもんだよ」

 

 その結果が現在、ホームコンピュータの部門で日本シェアを独占している日本ミカン社の現状なのだから、彼女のビジネスに対する嗅覚は優れたものなんだろう。

 

 ――所で先程も見かけたお坊さんが隅っこの方でお茶を啜っているようなのですが

 

「開発部門の顧問なんだよねぇ。ミカン3の日本向けシステムに手を入れてくれて。いや、良いもん作ってくれたのはいいけどあの人の拘りを再現すると納期がががが」

 

 なるほど。やはり只者ではなかったらしい。

 

 

 

 AM9:30

 

 黒井プロダクション。メディア王とも呼称される黒井崇男社長が率いる、現在では芸能界最大手と言える会社に成長した大企業だ。数年前に起きた芸能界再編の流れを生み出し、長年問題視されていた所謂【芸能界の闇】を一掃した事件は、当時学生だった私でも知っている、それこそ日本史に残る出来事だった。

 

未来だけ信じてる 誰かが嘲ってもかまわない 走ってる情熱が あなたをキラめかせる

 

 その黒井プロの本社ビルの一角、レッスン場に椅子を並べて、タクミさんは真剣な表情で歌う新人に視線を向けている。

 

 彼女たちは黒井プロが運営しているアイドル養成校の候補生だ。日本においてアイドルというものは、もはや芸能界を牽引すると言っても過言ではない存在に成長している。”キング”ジャクソン、”クイーン”マドゥンナの登場によって世界中に芽吹いたアイドルという種子は、日高舞という不世出の怪物によって日本でも花開き、彼女と入れ替わるように現れた音無小鳥と安部菜々によって完全に一音楽ジャンルとしての立場を確立させた。

 

 今や日本は大アイドル時代と言っても過言ではなく、各地にはアイドルを養成するための養成校が乱立している状態だ。黒井プロの養成スクールはそんな玉石混交のアイドル養成校の中でもトップレベルの規模と人材、施設を持ち、ここに所属した事があるというだけでも一つのステータスになる。

 

 彼女たちはそんな中でも、特に将来を見込まれている人材で、つまり次代のスターアイドル候補と言うべき存在なのだろう。

 

「うん、うん。良いんじゃない?」

「そうか! 彼女たちはおメガネに叶ったか。なら、お前の楽曲を預けても問題は無さそうだな」

「パッパに渡した奴はもう、ほんと気にしないで使って良いんだよ? てか私よりもパッパのほうがそういうのは見抜けるんじゃないかなぁ」

 

 だからこそなのか。

 

 黒井社長と黒井タクミが目の前に並んでパイプ椅子に座った、この”特別”ステージでも彼女たちは見事に歌い切る。正直な話、それだけでもとてもすごいと思う。私があそこに立っていたら間違いなく数秒でへたり込んでいただろう。

 

「実力、容姿共に現在の訓練生では群を抜いている。ブラックニードル、この二人は黒井の新たな柱になる可能性を秘めている」

「うん。今のままでもいい線いくだろうね。欲を言えば……ピヨや菜々に対抗するなら、もうひと押しほしいんだけど」

 

 カリカリと小さなメモ帳に鉛筆を走らせながら、タクミさんは黒井社長の言葉にそう答える。素人目には彼女たちのパフォーマンスは素晴らしい、文字通りプロ級の出来栄えだと思えたのだが、タクミさんの目には幾らかの問題点が見つかったのだろう。

 

 書き込んだメモ帳を黒井社長に渡し、踊り終わったブラックニードルの二人に一言、二言声をかけた後にタクミさんは部屋を後にした。メモ帳を渡された黒井社長の顔が魂消たといわんばかりの表情で固まっているのだが、あれは放置しても良いのだろうか。

 

 

 

 AM11:00

 

「難しいかなぁ」

「難しいねぇ」

 

 黒井プロ本社ビルには、福利厚生として幾つかの店舗が入っている。其の中の一つ、随分と趣味の良い、メイドと呼ばれる欧州の家政婦が店員を務める喫茶店の一角で、タクミさんはコーヒーを口にしながら相談を受けていた。

 

 相手はタクミさんの年齢の倍以上を芸能界で生きる歌謡界の大御所。黒井プロでも上から数えたほうが早いほどの経歴を持った人物が、タクミさんに頭を下げている。流石にこの光景を写真に収める度胸はない。木、わたしは木……と最近連載を追いかけている少女漫画のモノマネで周囲と同化しながら、このなんとも反応に困る光景を極力記憶しないように目をそらす。

 

「新しいことに挑戦してってのは良いと思うんですがね。だからアニメの主題歌を、ってのは一度しっかり考えたほうが良いと思いますよ?」

「そうかねぇ。孫との話のネタにならないかと思ったんだが」

 

 外ではまず見せられないようなその光景にもタクミさんは臆することなく、近所の困ったおじいちゃんを相手にするようなノリで彼との会話に応じている。実際、大御所さんの方も親戚の子供に接するような話し方でタクミさんと会話をしているので、会話を聞かずにこの場面を見た人物には祖父と孫がじゃれ合ってるような印象を受けるのではないだろうか。

 

 何度か同じようなやり取りをした後、大御所さんは仕方ないか、と小さくため息を付いてタクミさんに礼を言い、席を立った。

 

 ――こういう頼まれごともあるんですね

 

「最近はしょっちゅうよ? 漫画もアニメも最初のうちはなんだか良く分からないって扱いだったけど、一年二年も経つとね」

 

 温くなってしまったのだろう、コーヒーを一息に飲み干して、タクミさんは小さくため息をついた。鉄腕アトムを皮切りに続々とお茶の間に届けられるまったく新しいテレビ番組の形、アニメーション。

 

 少年飛翔や日曜日といった少年誌が原作となる場合が多く、子供向け番組というレッテルを貼られる事もあるが、その影響力は高まり続けている。目端の利く人間なら、なにかしらの関わりを持ちたいと思うのだろう。現存するアニメーションの主題歌は全てなにかしらの形で黒井タクミが関わっているし、そちらを目当てにしている人もいるかもしれない。

 

「まぁ、あの人はぜんっぜんマシな頼みだったけどさ。あれ本当にお孫さんとの話の種にしたいだけだろうね。演歌が合う原作があれば打診すっかなぁ」

 

 ――演歌が合うアニメーションなんて出てくるんですかね

 

「……時代物とかならワンチャン?」

 

 

 

 PM12:10

 

「~~~~~♪」

 

 街ゆく人々を眺めながら、タクミさんの鼻歌が風にのって運ばれていく。五線譜が入った音楽帳にカリカリと鉛筆を走らせながら、タクミさんは時折顔を上げて街ゆく人々に視線を向けていた。

 

「~~♪ よし、と」

 

 ――作曲なされていたんですか?

 

 私の質問に「そそ」と小さく頷いて、タクミさんはサンドイッチに手を伸ばす。鉛筆を走らせはじめて5分ほど、それこそ歌謡曲一曲分の時間で作曲など出来るものなのだろうか。いや、流石にまだ完成というわけではないだろう。

 

「ごめんね、付き合わせて」

 

 ――いえ、こちらが付き合わせて頂いているのでお気になさらず。こういった所でも食事をされるんですね

 

 もそもそとサンドイッチを食べ終えた後、申し訳なさそうな表情を浮かべるタクミさんに気にしないでほしいと伝え、質問を口にする。

 

「まぁね。お硬いお店も良いけど、こういった騒がしい所も悪くないじゃん? 子供の頃は縁日で芸とか見せてたから、人が多い所って好きなんだよね。後は、歩いてる人を眺めるのも面白いからさ」

 

 人を、眺める? 人間観察という事だろうか。首をかしげると、タクミさんは気恥ずかしそうに苦笑を浮かべて手をパタパタと振る。あまり深くは聞いてほしくないようだ。人間観察が趣味だという人はそれなりに居るし、恥ずかしがる事でも無いと思うのだが。

 

 私がそう伝えると、タクミさんはなんとも言えないような表情を浮かべた後にそそくさとテーブルの上に広がるゴミを纏め始めた。照れている。あの、黒井タクミが。芸能関係者の中では嵐の擬人化とまで呼ばれた少女が。

 

 思わずカメラを構えてシャッターを切ってしまったのも仕方のないことだろう。

 

 

 

 PM12:15

 

 起きるべくして起きたと言うべきだろうか。

 

「あ、あの! 私達、黒井さんの大ファンで!」

「ボ、ボトムズも黒井タクミ名義のアルバムも、全部持ってます! じ、『実験場シリーズ』の『THE・IDOL』がホントに凄くて、何回も聴いてて!」

 

 小洒落たカフェから出て次の目的地へと向かおうとした時。店舗に入ろうとすれ違った楽器を背負った中学生くらいの少女たちが、タクミさんの存在に気づいたのだ。丸縁のサングラス一つという凡そ変装とは呼べないような格好で出歩いていたため、注意深く見ればすぐに分かってしまうだろう。

 

 アマチュアのガールズバンド……いや、真新しいギターケースやベースケース、それに彼女たちの指先を見るに学生同士の趣味の集まりだろうか。見る限り、彼女たちには音楽に打ち込んだ空気を感じることが出来ない。良くも悪くも普通の学生という印象を受ける。

 

 いや、一人だけ。一歩引いた場所に立つ黒髪の少女は少し雰囲気が違う。いや、雰囲気というよりは視線、だろうか。彼女だけ、タクミさんに向ける視線が少し……

 

「お、おう。ありがとう。私名義の奴はあんまり売れてないのによく持ってたね、嬉しいよ」

 

 

 

「え、黒井タクミ?」「うそ、本物?」「わ、かわいい」「顔ちっちゃい!」「タクミちゃんだ!」「写真! 写ってルンですどこ!」

 

 ざわざわと騒ぎになり始める周囲に「あー、っかしーな?」と気の抜けた声をあげてタクミさんが頬を掻く。面倒事が起きてしまった、と考えているのだろう。

 

 私としてはこんな町中に貴女がいれば当然の結果だと思うし、それに、あまり売れていないというのは流石に謙遜が過ぎる。

 

 タクミさんがボトムズではなく自身の名義で発売しているアルバムは現在6作。1作目の【THE・ROCK】から始まりポップス・ジャズ・ダンス・フォーク、そしてアイドル。全ての楽曲が日本語で構成された、日本向けに発売された、別名【黒井タクミの実験場】と呼ばれるアルバムシリーズだ。

 

 別名がついている理由は、収録された楽曲にある。最初に発表されたROCKでは昨今の流行りであるパンク・ロックやハードロックなど多種多様なロックの曲が綴られている。私がタクミさんのファンになった切っ掛けはもこのアルバムであり、収録曲『雨あがりの夜空に』は今でも毎日のように聞いている。

 

 その後に続くポップスなどのアルバムも、同じような曲調の作品は全く入っておらず、ジャンル以外の統一性は全く無い。欧米のとある評論家が「黒井タクミが新しい音楽ジャンルの開拓をするための実験場」と評した経緯から、彼女のファンからは彼女のアルバムシリーズは『実験場』と呼ばれるようになったのだ。

 

 そういう経緯の作品群であるが中身はさすがは黒井タクミと言うべき名作ばかりであり、1,2年に1作が発表される彼女の個人アルバムはそれぞれが数百万枚、全体の売上で言えば1千万を超えている。世界有数の一流アーティストが生涯に渡って達成する売上にも等しい数字になる。

 

 ボトムズがメインの戦場としている欧米ではなく日本での売上なので、彼女の普段の感覚では売れていないと感じるかもしれないが――流石にその感覚は、間違いなく狂っていると言えるだろう。

 

 ここまで比較的常識的な姿を見せてくれていたタクミさんだったが、こと創作の分野ではやはり常人とは一線を画しているようだ。後でこの件はメモしておこうと心に決めながら、私は一歩前に出る。

 

 ――ごめんなさい、予定がおしているので

 

 彼女たちとタクミさんの間に体を割り込み、はっきりとした口調で彼女たちにそう告げる。周囲の視線が私に向けられるが、今日一日私は取材記者兼タクミさんの付き人だ。キリッと眉を吊り上げ、非難するような彼女たちの視線を跳ね返してタクミさんのための道をあける。

 

 そのままサインでも強請り出しそうだった少女たちも、自分たちの周囲がどうなっているのか気づいたのだろう。キョロキョロと周りを伺い「あ、ご、ごめんな!」「ちょ、ヤバいって!」と口にしつつ慌てたように道を開ける。思った以上に素直に道を開けてくれた。マナーの悪いファンではなかったようで一安心、という所……

 

「あの」

 

 だと、思っていたのだが。

 

「少し、タクミさんにお伺いしたい事があります」

 

 ――あの、ですから予定が

 

「いや、良いよ。なにが聞きたいんだい?」

 

 やはりそう上手く事は進まないというか。一人、他の少女たちと少し離れた立ち位置でこちらを見ていた黒髪の少女が、立ち去ろうとするタクミさんに声をかけてきた。遮ろうとする私を言葉で制して、タクミさんが少女の問に首を傾げて答える。

 

 タクミさんの言葉に少女は数瞬、戸惑うように瞬きをした後、一つ息を吸って瞳に熱を込める。

 

「人を感動させるには、どうすれば良いんですか」

「…………」

 

 少女の言葉が予想外だったのか。先程まで気だるげな様子だったタクミさんが目を見開いて固まった。

 

「貴女を超えれば。頂点に立てば、それが出来るんですか?」

「……へぇ?」

 

 重ねるようにそう問う少女の言葉に、タクミさんの声音が変化する。それまでの――私との応対を含めた――穏やかな声音が、突き刺すような。それこそ鋭く尖った針の上に立たされたかのような空気を纏って、タクミさんが愉快そうに口元を歪めた。

 

「貴女の歌を初めて聴いた時、背筋から脳天までを電流が貫いて行きました。これまで、ただ親に言われるまま、なんとなく学校に通って勉強して、なんとなく友達を作って、そんな漠然とした感覚で生きていた自分を、貴女の歌は吹き飛ばしていきました。感動した、と言えば陳腐に聞こえてしまうかもしれませんが、私は確かにあの時、ラジオから流れてきた貴女の歌声に意識の全てを奪われました。感動、したんです」

「お、おぅ」

 

 少女の口から堰を切ったかのように出てくる言葉の数々。一言一言、まるで自分自身確認するかのように並べられたそれらに、タクミさんの放つ空気が和らいだ。面食らったのか、照れているのか。カメラを取りたい欲求をこらえて、少女の次の言葉を待つ。

 

 今、この場は彼女とタクミさんの場だ。私の中の勘のようなものが、この場面に茶々を入れてはいけないと感じている。

 

「貴女の歌を聴いて。全てを聴いて、こんなにも素晴らしいものがこの世にあるなんて、と思いました。貴女のアルバム、ボトムズのアルバムも全部手に入れて、貴女が作曲したというアーティストの歌も聴いて、他のアーティストにも目を向けて」

 

 それをこの場に居る群衆も感じたのか。先程までざわざわと騒がしく感じていた群衆の声はシンと静まり返り、視界に入る誰しもが固唾を飲んで事の推移を見守っている。

 

「そして。貴女のように、私も誰かを感動させるようになりたいと、思ったんです」

「――だから、私を超えたい?」

 

 和らいだ雰囲気のままそう尋ねるタクミさんの言葉に、少女は一も二もなく頷いた。其の様子に、くつくつと愉快そうに笑い声を上げた後。

 

「おけ。じゃあ、歌ってみてよ。それとも演奏の方?」

 

 ドカリ、と店舗の玄関近くにあった椅子に腰をおろして、タクミさんはそう口にした。

 

 ――た、タクミさん?

 

 思わず口を挟んだ私に、タクミさんの視線が向く。

 

 黙っていろ。

 

 明確なまでにそう込められた視線の意思に言葉を失っていると、少女はこれまた迷うことなく首を縦に振り、背後に控えていた仲間たちに目を向ける。

 

「【THE IDOL】の13番。一番練習した、あの曲」

「む、無理無理無理! 一沙なに言ってるの!? こんな、こんな人が!」

「私ら、まだ結成して2ヶ月だよ!? 練習だって、全然っ」

「……怖いよぉ」

 

 一沙と呼ばれた少女の言葉に、彼女の仲間たちは猛反発を見せる。いや、一人に至っては其の場にうずくまり、涙を流し始めた。自分の状況が理解できて周辺の視線に気圧されたのだろう。

 

 そんな彼女たちをどう見たのか。一沙さんは大きく一度呼吸をした後に、タクミさんに向き直った。

 

「伴奏なしでも、良いでしょうか」

「構わんけど――そっちのギターのお嬢さん。そいつを貸してくれないか?」

「ふ、ふぇ?」

 

 混乱しながら、言われたとおりにギターの少女がタクミさんにギターケースを渡す。タクミさんは傷をつけないようにそれを受け取った後、ケースを開けて収められていたギターに手を伸ばす。

 

 収められていたギターは、思った以上に状態のいいものであった。タクミさんはギターを眺めて小さくうなずくと、軽く音を確かめるように弦に指を走らせる。

 

「うん、ちゃんと手入れも調整もされてる。いいギターだね、お嬢さん」

 

 ニカっと笑みを浮かべてギターの少女にそう言い、タクミさんは一沙さんに視線を向けた。

 

 その視線に小さく頷きを返した彼女に、浮かべていた笑みの質を変えながら。

 

 ~~~~~♪

 

 止めるまもなく、メロディが流れ始める。当然私も聴いたことがある、何度も聴いたことがある曲。ボーカリストとしてではなくギタリストとしての黒井タクミの指先から紡ぎ出された音楽は、昼下がりの町中を即席のライブハウスに仕立て上げてみせた。

 

 どこにでもあるようなファストフード店の前で。唐突に、初めて出会った二人が音を響かせて。

 

 本当に唐突に。

 

 ライブが始まった。

 

 

 

午前0時の交差点 微熱まじりの憂鬱 なんだかすれ違う恋心

 

 黒井タクミの伴奏にざわめく周囲の喧騒を、少女の歌声が塗りつぶしていく、

 

夜の(ドア)すり抜けて 明日にたどりつきたい 約束なんか欲しい訳じゃない

 

 透明感のある歌声が、タクミさんの伴奏に合わせて町中を響き渡る。先程の言葉を信じるならば、バンドを結成して2ヶ月の。ほとんどボイストレーニングも受けていない素人とはとても思えない。 

 

車走らせる貴方の横顔 嫌いじゃない 少し黙ってよ

 

 【THE IDOL】。黒井タクミ名義のアルバムの中でも最も新しく、最も日本の若者を魅了するアルバムだ。このアルバムに収められた20と1曲を歌えない10代は居ないとまで言われている。そんなこのアルバムの中でも、13番は特別な一曲だ。

 

ハートがどこか灼けるように痛いよ ウィンドウあけて 街中に

 

 かつて、彼女が大ファンだと公言して憚らなかった一人のアイドルに、捧げたい。自身の作品に関して特にコメントを残すことがない彼女が珍しく、そう言及した一曲。己の引退ライブで、あとに続く少女たちへの夢のための歌を歌った彼女に。

 

BANG! BANG! BANG! BANG!

 

 夢見る少女ではいられなくなった――美城幸姫を想って世に出された、一曲。

 

もっと激しい夜に抱かれたい! NoNo それじゃとどかない

 

素敵な嘘に溺れたい! NoNo それじゃものたりない

 

鏡の中いまも 震えてる

 

あの日の私が言う

 

夢見る少女じゃいられない

 

 

 

 二人の声が重なり、歌は終わる。余韻のような伴奏に耳を傾けながら、ほぅ、と一つ息を吐く。歌い終わった一沙さんは、空を見上げて、大きく息を吸って、吐いた。

 

 周辺を見やると、其の場に佇んでいた誰しもがぼぅっとした表情を浮かべている。私と同じように余韻に浸っているのだろう。カメラを構えて、この衝撃を生み出した二人にファインダーを合わせる。

 

「うん、楽しかったよ。最後、混ざってごめんね」

「……あ、はい」

 

 ギターを抱えたまま右手を差し出すタクミさんに、一沙さんが応える。二人が握手する瞬間をカメラに収める。凄いものを見た。見てしまった。その感情が、私の胸の中で荒れ狂い。

 

「プロの基準で言うと35点くらいかな」

「…………えっ」

 

 荒れ狂った感情は、また別の感情で塗り替えられる事になる。

 

「発音が安定してないし、声量も小さい。声の質に依存しすぎてるかな。あと全体的に細すぎ。もっと肉食え肉。ボーカリストは体力勝負だぞ?」

「あ…………え、はい……」

 

 彼女に感じた欠点を指折り数えるように口にするタクミさんに、一沙さんが面食らったような表情で首を縦に振る。

 

 私にとっては素晴らしい歌声だと感じた彼女の歌も、タクミさんの目で見ればそういう評価なのだろうか。しかし、少し厳しすぎる評価ではないか。

 

「でも」

 

 彼女の歌声に感動した一人の人間として口を挟もう。そう私が決断する前にタクミさんはトン、と一沙さんの胸をノックするように叩き。

 

度胸(ハート)は満点だよ。あんたの歌、ロックだったぜ?」

 

 そう言って、ニカッと笑顔を浮かべた。

 

「あんた、名前は?」

「か、一沙……若宮一沙です」

「そっか。一沙、ね。ボーカリストとして大成したいんなら、ちゃんとしたレッスンは受けたほうが良い」

 

 タクミさんはそう言うと名刺のようなカードを取り出し、彼女の手に握らせた。

 

「もし興味があるなら、私の名前でそこに連絡を入れてみて。黒井プロのアーティスト養成校。少なくとも環境は一流だよ」

「えっ、えっと、私」

「行こっか、記者……、マネージャーさん」

 

 一沙さんの返事を待たずに、タクミさんは歩き始めた。その背中を追いかけつつ、背後を振り返る。夢見心地、という表情を浮かべる一沙さんと、彼女を囲んではしゃぐ少女たち。

 

「ごめんね、ついつい熱くなる言葉貰っちゃったからさ」

 

 そんな私の様子に気づいたのか。タクシーに手を上げながら、タクミさんが申し訳無さそうな声で話しかけてくる。気にしないでほしいと伝えると、表情をそのままに、不承不承、という様子でタクミさんは頷いた。

 

「あの娘、パッパ気に入るだろうな。ブラックニードルの、あとひと押し。それにあの娘はなれるかもしれない」

 

 ――確かに、彼女からは光るものを感じました

 

 私の言葉にうんうん、とタクミさんは頷いて。ちょうどよく止まったタクシーに乗り込み、次へと向かう。

 

 上機嫌に鼻歌を歌うタクミさんは、それ以降彼女たちの事を話すことは無かった。私も、彼女たち。若宮一沙と、その仲間についてそれ以上言葉にすることはなかった。

 

 あの時、あのタイミングで一も二もなく歌い始めた若宮一沙は本物だろう。才能が云々ではない。精神性が、すでに一般人を超えている。

 

 そして――共に居た彼女の仲間たちがそうではない事も、分かった。彼女とは違って、彼女たちは、どこまでも一般人であった。群衆の前(あそこ)演奏()れないのなら、彼女たちはいまだ演奏者ではないのだ。すでに精神性がプロの領域に居る若宮一沙と彼女たちの温度差は、ひどいものとなるだろう。

 

 なんとなく。彼女は一人で黒井プロに来るだろうと感じながら、今歩いてきた道を振り返る。

 

 ざわざわとした人混みにまぎれて、先程の店も、彼女たちの姿も見えなかった。

 

 

 

 

 PM13:15

 

 次に予定していた仕事が急遽延期となり、少し空いた時間を使って教習所へとやってきたタクミさんと私は、所員の土下座で出迎えられ途方にくれることになる。

 

 意味がわからない、とこの文章を見た人には言われるかもしれない。しかし、教習所に入った瞬間、受付や事務員さん総出で駆け寄ってきて総土下座となったこの現状を、正確に言い表す言葉を私は知らない。

 

「……あの。筆記は終わったし次は実技」

「無理です」

「いや、だから」

「無理です」

「壊れたバイクは新品に替えたよね?」

「無理です」

「分かった。足りない機材、全部私が買い換えたる!」

「そんな問題でもないんです!!!」

 

 恐らくかなりの御偉い方と思われる男性が、頭を地面に擦り付けながらタクミさんと言い争う。

 

 曰く。タクミさんは超特殊な体質らしく、乗ったバイク全てがショートしたかのように焼け焦げて使えなくなるのだとか。普通に車に乗る分には問題が無いのだが、機械式の乗り物、特にハンドルを握るたぐいの乗り物は絶対に触ってはいけないのだという。

 

 ――あの。絶縁体を間にかませてみては

 

「それで大丈夫なら苦労しないんだよね……焼け焦げちゃうんだよ。絶縁体が」

 

 そう口にした後、ファッキンゴッド!ファッキンゴッド!とタクミさんは何度も叫んだ。生い立ちといい体質といい、彼女は、本当に特異な星の下に生まれてきたのだろう。一人の人間に課すにはいささか荷が重すぎるのではないか。神に恨みたくなるのも、無理がないと言える。

 

 

 

 PM15:30

 

 かの名作、ゴジラが撮影された現場に足を踏み入れる。誰も居ない、ガランとした撮影現場の乾いた空気を大きく吸い込み、故・円城監督へ黙祷を捧げる。

 

「次に考えている特撮作品ですが、実は小野島社長の作品を実写化させていただきたく。黒井さんに仲介をお願いしたいんですが」

「あー、いいっすねぇ!」

 

 少しの沈黙の後、この撮影所の主である円城さんはそう言ってタクミさんと会話を始めた。明らかに気落ちしていたタクミさんに、気を使ってくれたのだろう。

 

 タクミさんは時間があれば、この撮影所に足を運ぶそうだ。

 

 彼女にとっても円城監督とゴジラは、特別な存在なのだろう。

 

 許可を取り、撮影現場に立つ彼女の姿を写真に残す。もし次回作があるなら、彼女がゴジラに出演することもあるのだろうか。

 

 

 

 PM16:20

 

「少しだけ待ってて。世話になった診療所に挨拶してくる」

 

 ――あ、はい

 

 にこやかな、けれど有無を言わさぬ口調のタクミさんに気圧され、私は首を縦に振った。

 

 間医院と銘打たれたその小さな診療所は、円城スタジオからほど近い場所にある。なんなら歩いて5分ほどの、本当に近所と呼ぶべき場所だ。円城スタジオのかかりつけ医といった側面もあるらしく、その縁から彼女もお世話になったのだろう。

 

 十分程して中から出てきたタクミさんは「一言くらい良いじゃねーか! ちくせう!」と子供のように肩を怒らせて歩いてきた。あまりにも面白かったのでつい無断で撮影してしまったが、幸いなことに怒られることはなかった。これは流石に雑誌には載せられないが、後で現像しておこう。

 

 

 

 PM17:00

 

 勝手知ったる小野島出版。私の所属する週刊スパット!も小野島出版発行の雑誌で、いわばマイホームに戻ってきたとも言える。だが、意気揚々とビルの出入り口をくぐった私を待っていたのは。

 

「やぁタクミさん、いらっしゃい」

「お、小野島さんチッスチッス」

 

 うちの大ボスによる出入り口でのお出迎えという、一平社員が一生目にできないだろうシーンであった。

 

 あまりの事に固まった私を尻目に、タクミさんは小野島社長と談笑しながらビルの中へと入っていく。慌てて追いかけ、無の境地で二人の会話を聞き流し。面接の時にしか入ったことがない社長室へ足を踏み入れ、そして私の意識は飛んだ。比喩ではなく、気づいたら週刊飛翔の編集部前に立っていたのだ。

 

 時計を見たら1時間ほどタクミさんと小野島社長は話していたようだが、なぜか内容が思い出せない。気づいたときには週刊飛翔の編集部前に立っており、狐につままれた気分を味わいながらタクミさんと共に週刊飛翔編集部のドアをくぐる。

 

「……アレの話を聞いたら、関係ない人はこうなるのか」

 

 ――アレ、ですか?

 

「ん、なんでもない……うぉ、新刊じゃん! のりこめー!」

 

 一瞬、険しい顔をしたタクミさんに首をかしげて返す。そんな私の仕草になんでもない、と首を振り、タクミさんは上機嫌な様子で刷り上がったばかりの週刊飛翔に手を伸ばす。今週は――幽霊白書も載っている! あたりだ!!

 

 その後1時間ほどタクミさんと新刊を読み、感想を言い合うという穏やかな時間を過ごして週刊飛翔編集部を後にする。今日一日で一番穏やかな時間だったかもしれない。

 

 

 

 AM19:20

 

「次の挑戦者はこいつらだい!」

 

 安部菜々の元気な声に観客が湧き、ステージ登場前に湧き上がる観客に出演者が困惑するカオスな空気。いまや押しも押されぬ人気番組、【ナ音】の収録現場は、どこか懐かしいような、真新しいような雰囲気で進行していた。

 

「人が演奏()ってると歌いたくなるんだよなぁ」

「むっ! 駄目ですよタクミちゃん! とびいりは”菜々のやってはいけないおやくそく”第5条なんですから」

「お前がやって怒られた第5条な。聞いた時腹抱えて笑ったぞ」

 

 数々の伝説をこの番組で生み出した安部菜々の所業の一つ。【出演者が演奏中、知ってる曲だから参加した】事件は安部菜々という個性がどういった存在なのかを全国放送で知らしめた事件だ。あれ以降、【ナ音】を見ている視聴者の半分は彼女がまた何かやらかすのではないか、という期待を懐いているらしい。

 

「さんぽさん、ちゃんとこの暴れん坊制御してよ」

「無茶言わんといて!」

「菜々はお坊さんじゃありませんよ?」

 

 審査員として司会の明日茂さんぽと安部菜々にちょっかいをかけ、たまにちょっかいをかけられて、タクミさんは終始笑顔を浮かべたまま収録を終えた。テレビとは相性が悪いと世間では言われているタクミさんだが、この取材の中で触れた彼女の人となりは非常に温厚なものだ。過去にあった問題も、恐らくは彼女に非があるわけではなかったのだろう。

 

 とはいえ、飛び入りは起きたのでなんの問題も無かったとは言いづらいが。出演者が喜んでいればセーフ、という理論はありませんよ。反省してください。

 

 

 

 PM21:30

 

 もう良い時間になるが、黒井タクミの一日はまだ終わらない。部屋に戻り、お風呂や店屋物での夕食を済ませた後。タクミさんは、自宅の中にある作業部屋へと入っていった。

 

「遠近法、遠近法……」

 

 タクミさんはぶつぶつと何事かを呟きながら、大きな用紙にペンを走らせている。用紙の中には、彼女が作り上げた物語、ボトムズのキャラクターが描かれている。今描かれているのは確かブールーズ・ゴウト。ボトムズ全編における主人公、キリコを助ける老人だ。

 

 毎日の日課として、彼女はボトムズのキャラクターを描いているのだという。彼女が描いた絵は現在アニメ制作の最大手、昆虫プロダクションで製作中の【装甲騎兵ボトムズ】にてキャラクターデザイン画として使用されているそうだ。

 

「本当は今日もチュープロに行きたかったんだけどね。あそこ行くと半日は缶詰になりそうだし、取材にならないかと思ってさ」

 

 ――それは、ありがとうございます。でも、それだと昆虫プロでのお仕事は大丈夫なんですか?

 

「ん。まぁ、実を言うと私が手を出せる部分がもうあんまりないからさ。一通りの設定はもう現場の人間みんなで共有してるし、作画もまだ私じゃ戦力にならないから。まぁ、現場に行けば色々雑用やらなんやらはあるんだけど」

 

 唯一出来てた背景も終わっちゃったしね、と自嘲気味につぶやいて、タクミさんは再びペンを走らせる。

 

 朝から今の今まで、大体のことはそつなくこなすように見えていたタクミさんの、完璧ではない部分。ひたむきに画用紙に向かう彼女の姿を写真で収め、私は何も言わずに彼女の隣に座りその作業を眺め続けた。

 

 

 

 AM4:00

 

 ――寝ましょう

 

「え、いやまだ」

 

 ――寝ましょう

 

 私の有無を言わさぬ物言いに、タクミさんは口をパクパクとさせながら目をそらし、小さく頷いた。

 

 まさか、である。まさか、あのままぶっ続けで絵を描き続けるとは思いもしなかった。ちなみに今日は休みなどではなく、昨日と同じ程度のスケジュールが組まれている。つまり、寝る時間はあと1時間と少ししか無い。

 

「あ、いや。私はほら、あれ。ショートスリーパー?ってやつで寝なくても全然」

 

 ――健康に悪いに決まってるじゃないですか

 

「せやね」

 

 私の言葉に違いない、とうなずく姿にじゃあなんで寝ないんだ、と言いたくなったが素直に言うことを聞いてくれるようなのでぐっと言葉を飲み込む。

 

 今日一日、彼女と行動をともにして確信した事がある。彼女は私達が思っている以上に善良で、才能に溢れた、純朴な子供だ。

 

 無理を通してしまえる才能があるせいで、生き急いでしまっているのだろう。いまだに子供と言える年齢で、世界のトップに居たせいだろうか。それとも、そうならなければ生きていけなかったせいだろうか。

 

 眠るのを渋る彼女をベッドまで連れていく。ベッド脇に座り、ベッドに横になって目を閉じる彼女の姿を見ながら小さく、彼女に気取られないように小さくため息を吐く。

 

 これも、彼女の真実。黒井タクミという巨大過ぎる名前に隠れた、一人の少女の姿。眠ることを嫌がり、私の手を離さない彼女の小さな左手を優しく握り返し、私はベッドに寄りかかるように腰を下ろす。

 

 記事の文面を、考えなければ。誠実に。彼女のありのままを、許される限り。こんな状況でもそんな言葉が最初に思い浮かぶあたり、自分も出版業界に染まってきたと言えるのだろうか。

 

 苦笑を浮かべながら、私は心のメモ帳を取り出し今日の出来事を反芻し始める。

 

 彼女が目覚めるまで、まぁ少しは時間がある。自分の書きたいことをまとめるには、丁度いいだろう。

 

 

 

 

 

 

「あー」

 

 ふぅ、とため息をつく。記者さんの言葉に従い、瞳を閉じた瞬間待ってましたとばかりに切り替わる風景。

 

 これだから寝たくなかったんだ、と心のなかで独りごちて、黒井タクミは、自身に向けられた鋭い視線の主に向き直る。

 

 前回よりも大分近くなっている。日を追うごとに、一歩一歩確実に。

 

 互いの言葉は届かない。だが、恐らく、もう間もなく。

 

 夢の中だけで起こる逢瀬にため息を吐いて。

 

「そう睨みつけるなよ。殴りたいのはこっちもなんだよ――ファッキンゴッド」

 

 自身にそっくりな、真っ白な髪をしたナニカ。射殺さんばかりの彼女の視線に辟易としながら、タクミは彼女に向けて中指を立てた。

 

 




NG集



 AM5:30

 室内を満たすコーヒーの芳しい香りが眠気を飲み込んでいく。

 据え置きのコーヒーマシンから生み出された黒い雫を、お気に入りだというコーヒーカップで受け止めて口元に運ぶ。

 黒井タクミの一日は一杯のコーヒーから始まる。

「………………」

 一口含み、こちらをチラと見た後。黒井タクミ氏――以後タクミさんと表記する――は備え付けられていた冷蔵庫からミルクを取り出し、ドバドバとコーヒーカップの中にミルクを注ぎ込む。

 真っ白になったコーヒーカップに私が眼をパチクリとしていると、続けざまにタクミさんはドバドバとガムシロップを投入。4個ほどシロップを突っ込んだコーヒーカップの中身を備え付けられていたマドラーでかき回し、彼女は再びカップに口をつける。

「……うん、美味い」

 ――甘い、の間違いでは?





「整列して型にはめてってのが間違ってるとは言わないけど、それってアーティストにとって必要なのか、と思ってね。でも引きこもって音楽ばかりやってるのも不健康だし、なら体操だけは真面目にって言ってたらこうなってた。後は、所属タレント同士の簡単な交流の場にもなってる、かな?」

 タクミさんの言葉になるほど、と頷きを返す。談笑しながら体を動かす彼ら彼女らを見るに、交流の場としての役割は大きいように感じられる。私も学生時代を思い返しながら軽く体を動か――――

 ――タクミさん、あの。体操をしていたお坊さんがいきなり虹色のナニかを口から

「はいストップ! 音楽再生ストップね!! バケツと雑巾もってこい!!」

 ウボロロロロと大きな音と吐瀉物が(手記はそこで途切れている)





 会議は踊る、されど進まずとは誰の言葉だったか。

「ウォズの奴はいい仕事をしてくれた……ミカン3。これは画期的なマシンだ。現存のミカン2なんか目じゃない、新時代のインターフェース! インターネットを扱い、インターネットを使いこなすためのマシンだ」

 誰に許可を取るでもなく彼は立ち上がった。誰にどのように売るのか、喧々諤々と議論された主題などには一切目もくれず、彼は語り始めた。

「ソレに比べて日本版の。これ、ダサくて、使いづらく、なによりも古臭いデザインは。どういうことだ? 仮にもこの場にいる人間はニホンという国家で最も先端部分に達した人間達ではないのか?」

 彼は、貪欲な男だった。一つの結末を迎えたとしても、もっともっとと先を望む男だった。そんな彼にとって、この、クソッタレな、友人が手掛けたマシンに泥を塗りたくるような行為が我慢できなかった。

「センスの欠片もない、努力も見えない、ただ漫然とした性能の向上だけを追求したこれを市場に流す? よくも恥ずかしげもなくそんな言葉が言えたものだ。我々が目指すべきヴィジョンを共有できないなら、君達は――首だ!」
「勝手に人の社員首にしてんじゃねーぞくそ坊主」

 会議の主題そっちのけでビキビキと青筋を立てて口論するタクミさんとお坊さんを置いて、社員の方々が慣れたような足取りで隅の方に移動していく。

 よくある光景なのだろう。よくあって良いのかは、分からないが。





 黒井プロダクション。メディア王とも呼称される黒井崇男社長が率いる、現在では芸能界最大手と言える会社に成長した大企業だ。数年前に起きた芸能界再編の流れを生み出し、長年問題視されていた所謂【芸能界の闇】を一掃した事件は、当時学生だった私でも知っている、それこそ日本史に残る出来事だった。

 その黒井プロの本社ビルの一角、レッスン場に椅子を並べて、タクミさんは真剣な表情で歌う新人に視線を向けている。

北京 ベルリン ダブリン リベリア束になって 輪になって イラン アフガン 聴かせて バラライカ

「北米でアニメ化しよう」
「おお、お前のめがn……Why?」

 真剣な表情でそう口にするタクミさんに、何を言っているのか良く分からないという黒井社長の視線が向けられる。私も何をおっしゃっているのかがよくわからないが、まだデビュー前の二人にアニメ化を提案するとは相当見込んでいる、という事なんだろう。多分。





「演歌が合う原作があれば打診すっかなぁ」

 ――演歌が合うアニメーションなんて出てくるんですかね

「平安時代ののほほん貴族っ子が現代にやってきてのんびりするアニメが出てくればワンチャン?」

 そこまで案が出るならそのアニメを作っても良いのではないだろうか。





「おけ。じゃあ、歌ってみてよ。それとも演奏の方?」

 ドカリ、と店舗の玄関近くにあった椅子に腰をおろして、タクミさんはそう口にした。

 ――た、タクミさん?

 思わず口を挟んだ私に、タクミさんの視線が向く。

 黙っていろ。

 明確なまでにそう込められた視線の意思に言葉を失っていると、少女はこれまた迷うことなく首を縦に振り、背後に控えていた仲間たちに目を向ける。

「【ダンス】の隠しトラック、37番」

 ズルッという音がする。椅子に座ったはずのタクミさんが、ずっこけたのだ。

 ダンスの37番、素晴らしいチョイスだ。タクミさんが各アルバムに必ず1曲は挿入しているお遊び、隠しトラック。その中でもダンスの37番は特別な曲だった。

 なにせこの隠しトラックが発売された当日に、961プロ所属のポップスバンド【お米クラブ】がカバーCDを出すという前代未聞の一曲である。

 当然話題性は抜群、ユーモアな歌詞の影響もあり、それまでタクミさんの曲を聞いていなかった層もこの曲は知っていたりする。

「ちょ。ちょっとまって。それなの? この流れでその曲になるの?」
「え……あ、はい。あの、タクミさんの曲で、多分一番この曲が遊んでいるじゃないですか。私、この人は音楽を本当に楽しんでいるんだなって感じて。だから、この曲が好きなんです」
「お、おぅ……」

 なんだか納得がいかない、と言わんばかりに首を傾げるタクミさんに不思議そうな視線を向けながら、少女がふぅ、と小さく息を吸って、吐き出す。

 いつでもイケます、と視線で語る少女に、タクミさんはポリポリと頬をかきながら彼女の仲間に視線を向ける。

「すみません、この娘ちょっとおバカなんで」
「一曲歌えば収まると思います」
「ドラムの代わりにテーブル叩いて良いかな?」
「テーブルを叩くのは止めなさい」

 ドラムスティックを取り出した少女にそう声をかけて、止められないと悟ったのか。タクミさんは深い溜め息をついて、椅子に座り直した。

「朝方の坊主。あの人が渡日した時に、なんか色々はっちゃけたって話しを聞いてね。そういやこういう曲があるやって遊びで演奏したらパッパが気に入ってね。私はアルバムに入れる気なんてなかったのにあれよあれよという間にね?」

 ――狙わずブームを巻き起こす。流石です、タクミさん

「ありがとう! クソァ!」

 少女たちの演奏を尻目に、涙を目元に浮かべながらタクミさんがそう叫ぶ。

ワタシハ NIHON ハジメテデス GINZAトッテモさんデスGOOD!

「エセ外国人声真似うまいね畜生!」

 ――素晴らしいですね。彼女は、本物かもしれない

 今年のモノマネ紅白歌合戦は、波乱の予感がする。胸に沸き起こる感情を押し込み、私は歌う彼女にカメラを向けた。





「……冗談はなしだ、俺はクソまじめな男だ」
「んんん! 良いね! 良いよぉ! ほら記者さんカメラ! その上物をここで使わないでいつ使うんだい!」

 ――ええと、貴女を写す時に使うんですが。

 間医院と銘打たれたその小さな診療所は、円城スタジオからほど近い場所にある。なんなら歩いて5分ほどの、本当に近所と呼ぶべき場所だ。円城スタジオのかかりつけ医といった側面もあるらしく、その縁から彼女もお世話になったのだろう。

 その医院の中。息子さんだろうか、高校生くらいの男の子に、タクミさんはきゃあきゃあとはしゃぎながらボトムズの台詞を言わせている。

 なんでも彼女の中にあるキリコと眼の前の少年には共通点があるらしい。少し目つきが鋭いところのある、どこにでも居る普通の少年に見えるのだが。

 一応、写真は撮っておこう。後々なにかに使えれば良いのだが。



「次の挑戦者はこいつらだい!」

安部菜々の元気な声に観客が湧き、ステージ登場前に湧き上がる観客に出演者が困惑するカオスな空気。いまや押しも押されぬ人気番組、【ナ音】の収録現場は、どこか懐かしいような、真新しいような雰囲気で進行していた。

 そして、瞬く間にそれまでの空気が消え去った。

「ども、はじめまして新人アイドルのTAKUMIです。ナ音に出られてハッピーうれピーよろピクねー」
「……は?」

 ピンクをメインにド派手な化粧でと真っ白なゴシックドレスに身を包んだ年齢不詳の推定黒井タクミの登場に、あまりの事態にさしもの明日茂さんぽも声を失い絶句する中。

「…………」

 トコトコと彼女の周りに歩み寄り、ぐるりと周囲を一周して、安部菜々は口を開いた。

「メイクきつくないです?」
「素で返すんじゃない、素で」

 もちろんこの乱入が許可されることはなく、タクミさんは当初の予定通りに審査員に収まったのをここに記しておく。





「あー」

 ふぅ、とため息をつく。記者さんの言葉に従い、瞳を閉じた瞬間待ってましたとばかりに切り替わる風景。

 これだから寝たくなかったんだ、と独りごちて。

 黒井タクミは、自身に向けられた鋭い視線の主に向き直り。

「あ、ヤベ」
「……………………」

 そこに居るとは思わなかった人物の登場に、目をパチクリと瞬かせた。

「いやー悪い悪い。ちょっと出てくるチャンネル? 周波数間違えたわ」
「おい」
「クソ女神の方につなぐからちょい待ってな」

 有無を言わさぬその物言いに何かを返す間もなく切り替わる風景。

「ま、またどこかで会おうや。タクミ」

 そう耳元に残して、そいつは。

 かつての世界の、自分と同じ姿をしたナニカは消えていった。


使用楽曲
Folder5・Believe
相川七瀬・夢見る少女じゃいられない
PUFFY・アジアの純真
米米CLUB・FUNK FUJIYAMA

使用楽曲コード:03571971,03856470,08218340,08418501


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