「お願いします、血を吸ってください!」
「は?」
——その金髪の少女は開口一番そう言った。夕暮れ、寝起き一番のことだった。
見知らぬ顔が部屋にやって来たと思ったらこの不意打ち。近頃まるきり訪ねて来なくなったヴァンパイアハンターですら、彼女を驚かせられなかったというのに、そのやせ細った小柄な少女はたった一言でそれを成し遂げた。
無理もない。数百年生きている妖怪、レミリア・スカーレットにとっても初めての体験であった。
いや、よく思い出せばなくはなかった。だが、それはあくまで窮境に追い込まれた者が命惜しさに口走った安易な懇願か、あるいは恐怖のあまりに狂った者のつまらない末路であった。
が、彼女は違う。表情には押し殺した恐怖も、卑しい打算も一切見受けられない。ガラス玉の様な赤紫色の瞳を純朴に輝かせながら、恭しくかしずいている。しかも、自らメイド服を着崩し、血管が浮き出そうなほど透き通る肌を露わにしながらだ。
未体験。故に理解できない。
レミリアは夜の王らしく玉座で踏ん反り返るのも忘れ、この少女を拾ってきた張本人に詰め寄った。
「ちょっと咲夜、なんなのよコイツ?」
「餌です」
「自ら食べられたがる餌なんて見たことないんだけど!? 小鳥に啄ばまれる芋虫でも少しは抵抗するわよ?」
「きっと芋虫以下の知恵しかないのでしょう。下手に知能があると情が湧いてしまいますし、おあつらえ向きなのでは? 聞くところでは遠く異国の地では芋虫も貴重なタンパク源らしいですが」
「虫以下まで言うのは流石に可哀想じゃないかしら!? あと私、芋虫とか死んでも食わないから! あー、もうあの子を餌として見れないんだけど!」
レミリアは頭を抱えながら、横目でチラリと少女を見遣る。少女は自身に向けられる視線に気付くと、キラキラと星の様な瞳でレミリアを見上げてきた。その姿は芋虫というより、お座りしてご褒美を待つ駄犬のようだった。
あまりに積極的な彼女の態度に違和感を覚えたレミリアは咳払い一つ、真剣な顔で再度咲夜に向き直る。
「……確かに餌の調達は貴女に任せてるわ。けれど、よりによってなんでこんな変なの連れてきたの?」
「いや、お嬢様に血を吸われるためなら私の靴も舐めるって言って、実際舐めた逸材ですよ? レミリア様も気にいるかなー、と」
「ただのドMじゃない! こんな逸材うちじゃ扱いきれないわ! 太陽の畑にでも投げときなさい!」
しかし、ど天然をかます咲夜に真面目顔を一瞬で崩される。夜の王は従者の本気か冗談かわからない発言に翻弄されていた。
仕事は完璧な上、主人をからかう胆力も持ち合わせている。レミリアは咲夜のことを大層気に入っていたが……だからこそ、この天然さが玉に瑕と思わずにいられなかった。
レミリアはいささか疲れたのだろう。わかりやすい金ピカの玉座へ戻り、頬杖を突く。と、そんな彼女の前に金髪の少女が嫌に切羽詰まった顔で躍り出る。
「待ってください吸血鬼様!」
「……何かしら真性ドMさん」
「私はドMじゃありません! ただ、靴を舐めれば血を吸ってもらえると思ったら興奮して……んあぁっ!」
少女は鎖骨を曝け出したまま恍惚な表情で身震いする。対して、それを見たレミリアは逆に顔面を真っ青にした。
珍品や変人好きな捻くれた吸血鬼でも、流石にこの反応はキャパシティオーバーだったようだ。たまらず咲夜に向かって吠える。
「こいつ、ドMを超えた正体不明の変態じゃない!」
「気骨があるでしょう?」
「代わり人間としてのプライドは皆無だけれどな!」
レミリアは語気荒くそう言うと、苦虫を噛み潰した様な顔で、深いため息を吐く。
そしてややしてから、改めて冷たい視線を少女に浴びせた。戯れは終わりだと言わんがばかりに。
室内の空気が一瞬のうちに変わる。まるで高山にいるような息苦しさと肌寒さを感じ、少女はたまらず自分の身体を抱きしめた。
「で、貴女の目的はなんだ? この禍々しくも美しい
「………………」
「いずれにしても浅慮が過ぎるな。もう少し知恵を搾れよ。まあ、ここ最近退屈していたし、冗談としてそれなりに楽しめたが——それにしてもお遊びが過ぎるな、咲夜。フランならともかく、私がこんな脆い玩具で暇をつぶすとでも?」
ピン、と傍にあったグラスを爪で弾く。幼い見た目の彼女がそうしただけで、金髪の少女はまともに座ってさえいられなくなる。
レミリアは雨に濡れた小動物の様に震える少女を嘲笑いながら、咲夜の方を向く。すると咲夜は澄ました顔でゆっくりと俯き……
「あー……その……」
「………………」
「……えぇ、申し訳ありません。流石にお嬢様を満足させられませんでしたよね、ええ。ただあまりにも愛くるし——こほん、迫真の演技だったので面白そうだと思いまして」
「おい」
「本当ですよ? 別に可愛いしとりあえず持ち帰っておくかとか全く考えていませんから。ただもしかしたら殺し合いならまだ楽しめ……いや、この子何もないとこでコケる系だし運動神経ゼロなんだけど、楽し、楽しませ……られないでしょうねぇ?」
「おい、マジか」
しどろもどろで取り繕おうとする咲夜の姿に、レミリアは愕然とする。
この従者、素だった。かなり浅い理由でこの少女を連れて帰っていた。しかも私欲が多々混じっている。
いろんなことが信じられなくて絶句する主人。それを見て流石に焦ったのか、咲夜が早口で捲したてる。
「けど大丈夫です! 可愛いですから! ほら、見てくださいこの手折れそうなほど華奢な手足! 最高級の香水のような香り! そして天使と見まごう程の金髪と瞳! 妹様にも負けず劣らずキュートでしょう!」
「いや、餌に可愛さ求めてないし! てか、吸血鬼の私に対して天使を連れてくるなんてナンセンスじゃない!?」
「レミリアお嬢様は悪魔的に可愛いです!」
「張り合ってるわけじゃねぇんだよ!」
天使に抱きつき頬ずりする咲夜を見て、レミリアがいよいよお腹を抑える。
いよいよ事態が処理しきれなくなり、頭も痛くなってきたレミリアは、後のことを無視して思考を放棄することにした。
「……あー、もういいわ。咲夜、彼女の扱いは貴女に任せる。調理するなり愛でるなり勝手にしなさい」
「畏まりました。あの、お嬢様。どちらに行かれるんですか?」
「寝る。しばらく起こすなよ」
不貞寝だ。レミリアはゾンビのように身体を引きずりながら、ベッドの中で何もかも忘れてしまうため自室へと帰っていった。
結局流されるがまま素性のわからない少女を自らの館に受け入れてしまった訳だが……今のレミリアはそんなことはどうでもよく、ただ柔らかいベッドの感触のことしか考えられなかった。
しかしその晩、レミリアを起こしたのは胃痛の種だった。甘美な誘惑の匂いに気付いたレミリアが目を開けると、そこには半裸のメイドがいた。
肌は吸血鬼に負けず劣らず白い。そして咲夜が評した様に、その手足や腰は細く薔薇の茎より簡単に手折れそうであった。
「……お前」
「お休みのところ申し訳ありません。ですが、もう我慢の限界なんです。お願いします、私の血を……」
赤紫の目は微かに潤んでおり、金髪の髪が剥き出しの鎖骨に流れている。年端もいかない少女の背徳的な扇情さだった。
レミリアは思わずはしたなく喉を鳴らしてしまう。それに気付いたのか、半裸の少女がお情けを求める様に、ネグリジェを着た吸血鬼に近付いていく。
——巷の吸血鬼は少女の血を好んで飲むというが、レミリアにその手の好き嫌いはない。ただ直接鎖骨から吸うのであれば年を取った汚らしい男より若い女の方が生理的嫌悪感がない。
だから、何のためらいもなく手が伸びた。
もしかしたら寝ぼけていたのかもしれない。レミリアは寝起きの乾いた喉を潤すという単純な欲求に従って、少女の肩を引き寄せた。
「あっ」
嬌声は僅か。次の瞬間には柔肌に犬歯を突き立てられた痛みで声も出なくなる。
金髪の少女は支えを求めて、吸血鬼の少女のネグリジェを掴む。だが、レミリアは気遣いもなく牙に力を込め、溢れ出る赤い果汁に吸い付く。
鼻腔を抜ける深く甘い果樹の匂い、舌に残るのは鉄の味と僅かな渋み。まるで極上の果実酒の様な狂おしい味だった。
「あっ、お嬢……」
止まらない。口の端から少女の身体に、ベッドに垂れていく赤色。砂漠を彷徨った旅人でももう少し文化的に水を飲むだろうに、レミリアは獣の様な乱雑さで少女の血を貪っていた。
だが、少女の手がネグリジェから離れたことでようやく我に帰る。
「ッ……ヤバッ!」
「はぁ、ッゥ……」
慌てて犬歯を抜き、少女を解放する。
気付けば、少女も吸血鬼も血まみれだった。そして少女は真っ赤な花弁を敷き詰めたかの様に赤く染まったベッドに仰向けで倒れる。その顔は死人の様に真っ青で、今にも動かなくなりそうだった。
——何百年も生きた吸血鬼だ。今更人間一人死のうがどうでもいいはずだった。だが、その時のレミリアは威厳を守ることも何も忘れ、必死に叫んでいた。
「咲夜ッ!! 咲夜はいるか!?」.
「どうされましたかお嬢様!?」
呼び出しから1秒も待たず咲夜が現れる。
流石洒脱なメイド長。すぐに状況を察したようでハンカチーフを取り出し、引き裂き、少女の肩を止血する。
「失礼します」
そして、経緯を聞くことすらせず少女と共に姿を消えた。
咲夜は医者ではないが、超一流のメイドだ。危険な状態ではあるだろうが、彼女に任せておけば死ぬことはない。レミリアがそう確信するほどには、彼女への信頼は厚かった。
レミリアはホッと一安心し——そしてすぐに自分のやった行為を激しく恥じた。
思い入れのない人間相手に、狼狽して取り乱してしまったこと。そして吸血鬼の性とはいえはしたない行為をしてしまったこと。みっともなくて、顔が赤くなっていく。
そして、何よりレミリアが自分を許せなかったのは——
「めっちゃうめええええええ!!!! 何この味!? 豊かで芳潤な香り!? 十三歳の処女の血とかおっさん臭い趣味の味とは比べ物にならないくらい美味いじゃない!」
……思わず、脳内の思考が口から飛び出るほどにあの少女の血を気に入ってしまったことだった。
出来ることなら血の染み付いたシーツから吸い出してしまいたいなんて、本気で考えてしまう。そうしなかったのは、一重に彼女が作り上げてきた吸血鬼としてのプライドのおかげだろう。
レミリアはせめてもの慰めに僅かに残っていた指先の血を、子供の様に舐める。そして、改めてその血の味と——疑問を確認する。
「……本当に美味しい。けれど、あまりに美味し過ぎる」
人間の血は健康状態、生活環境等で品質が変わる。家畜の肉と同じだ。要は若くていい物を食ってるものの方が新鮮で美味しいに決まっている。
が、彼女の体つきから察してしてあまり良いものを食べているとは思えない。加えて咲夜が連れてきたことから、彼女が奴隷の類であることも容易に想像出来る。
——なのに、その血は超一級品のディナーに合わせないと釣り合わないほど極上だ。それでは辻褄が合わない。
特別血の美味い一族の血筋である可能性もあるが、少なくとも吸血鬼のレミリアはそんな人間に出会ったことがない。
加えて気になるのは、終始一貫している彼女の態度だ。
血を吸われたいなんて欲求、人間に備わっているのだろうか? いや、もしあったならそこらの男に花を売るついでに頼めばいい。うら若い少女だ、角砂糖を見た蟻の様に群がってくるだろう。
——ではなぜ、吸血鬼である必要があるのか。
「……遊ばないと言ったけれど、これは案外、いい暇つぶしになるかもね」
夜の王は楽しそうに真っ赤なベッドに寝そべりながら、我が従者はやはり優秀だと笑った。
吸血鬼は血を好むが——レミリアはそれと同じくらい混沌も好んでいた。