ざっくりハーフのトライアンフ(仮) ~シャングリラ・フロンティア外伝 ヌルゲーマーのエチュード~ 作:みそぎ 鈴
心証形成。
それは私とその生業を存在足らしめる上で、最も大切なものである。
レジデンスレコード、インディビジュアルナンバー、二十二世紀を見据えても尚しぶとく生き残る戸籍制度。
既に指紋の生体認証が民間データバンクに登録されるまでに至った昨今、個人情報というものが本来の定義から変質し始めている現代において、人を人足らしめ、権利主体として扱う物差しを私達人間は未だ集約し切れていない。
それは施政者や管理者と言った人々からは好ましくない結果であり、人としての幸せよりも多様性こそを何よりも重んじる人々からは妥協的産物として称賛される在り様なのだろう。清廉過ぎて魚一匹住めない湖と、衆愚に穢れた汚泥の沼のどちらを生きるフィールドとするか、私達は今でも完全には選び取る事が出来ないでいる。
しかしそれでもなお、人と人とが最も先鋭的な理性を賭けて闘う場──法廷闘争で最後に決め手となるものは、いつだって生身の人間の心というものに帰結する──少なくとも私はそう確信している。
制度として存在する社会機構の揺らぎを排し切れない不完全なこの世界に在って、フランス民法典を祖とし、今この瞬間も平等と云う名の下に経済戦争に明け暮れる私達の理知、理性、尊厳は、喜怒哀楽の根幹とされる酷く不確かで観測が極めて難しい「人間が何故其れを受け入れたか」という心の内の定義によって形成される。
そしてそれはティーン世代が憧れだけで描く、偏重した文化人類学や心理学でさえ述べられる程に基礎的な、意思疎通の原点そのものと代替定義出来るものだ。
『全ての意思疎通は、受け手が許容するか否かに依存する』
この一点に集約される事実をハンムラビ法典や人類最大のベストセラーである聖書は「契約」と呼び、その在り様を尊んだ。
そして私はその契約の根幹を成す、心の象形こそを常に何よりも重んじるのだ。契約こそが、有史人類における全ての人々が無条件で共有し得る最も懐の広い最大公約数の体現であり、その構築と維持、そして発展に己が生涯を賭ける。数千年の昔から先人達が積み上げ続けて来た、原初の暴力に対抗し得る唯一の手段。
法曹の徒を目指してからの半世紀近い間、この認識は頑として変わる事は──なかった。そう、変わる事の無い筈のものであった。
珍奇なスピーカー音ひとつに粉々にされてしまった私の価値観。見ず知らずの他者から正しさと銘打たれたものというのは、得てして脆いものなのだ、と。
もしかしたら久方ぶりに痛感したのかもしれない。
殺風景、の一言に尽きる減菌室を通り抜ける。
例えばそれは無機質であるとか、生気を感じないであるとか、そういった分かりやすい表現ではなく、私はこの光景をもっとあやふやに、それでいて純粋に詰まらない光景だと私はいつも感じている。感情を全く喚起しない、視線の焦点が定まらないままでも歩行に一切の支障が無い、体感時間が曖昧になる廊下と言う名の平行線。
小説の中でしか知らなかったサナトリウムと呼ばれる施設に初めて赴いた時、イメージとは凡そ掛け離れた猥雑さと汚さに若き日の私は酷く閉口したものだが、今居るこの施設は幻滅する前に抱いていた、記号として大衆が認識しているサナトリウムのイメージに近い。
起伏の一切無い壁面は乳白色で統一され、無機質な光沢を見せる床はセラミックで施工され転倒防止用塗料を塗抹されている。加えて言えば、本来なら塗抹行為によって化学薬品特有の臭いが建物内に充満する筈であるが、それは過剰とまでに思える減圧式の空調設備の活躍によって一切の臭気も感じる事も無い。
そもそも、環境負荷や費用面を考慮するなら、床面の転倒防止には薬剤の塗抹よりもタイルそのものにスリップ防止加工を施す事で、多少のメンテナンス性と引き換えにその目的を達成される筈のものだ。
しかしこの建物の主はそれを一切許さなかった。理由は「私が歩く時に凹凸に躓くかもしれないでしょ?」と言ったものであった筈だが、私が認識する限りこの建物の床を歩いた経験のある人間は、建物の管理業者の人間を除けば私一人しか居ない。
そう、建物の主も、その主の家族と呼ばれる存在も、このセラミックタイルを踏みしめた事は一度も無いのだ。──私がこの事実に眉を顰めなくなったのは、いつ頃からだったのだろうか。
きっと、大なり小なりこの奇異な現状を受け入れ、慣れていったのだと思う。生き馬の目を抜く事でしか存在し得ない激情を常日頃一身に浴び続ける私に、この光景は酷く無味乾燥で滑稽だ。
三カ月に一度、この建物に足を踏み入れる度に再確認出来るのは、この建物を求めた発注者の大き過ぎる、それでいて矮小な設計思想だけ。
手荷物と全身に紫外線殺菌処理を施し、三重の減圧・加圧空調処理区域を潜り抜け、その先のうねった蛇を思わせるパーテーションを何度も通り抜ける。
ドアを開ける行為で発生する気圧変化を嫌って、フロア一つ丸々無菌室化したというひたすらなまでに妄執染みた構造を横目に見ながら最後のパーテーションを躱すと、不意に視界が開けて──これ以上無い位に記号的なサナトリウムの病室を視界に映す。
そして私とクライアントを隔てる最後のパーテーション、漂白され尽くした真っ白なシーツが天井から吊るされ、布地一枚が唯一最後にお互いを明確に隔てている。この光景を視界に捉えたという事は、今が定刻だ。故に私を出迎える口上も大体予想が出来る。
「まーどかさぁん、今日も時間通りだねえ。ぴったり二分前。いつも思うんだけど、この二分前到着制度あるせいでアポの時間設定、意味無くなっちゃってないかなあ?」
明る過ぎない、それで居て清潔に保たれた室内において、私の目の前のカーテンが、恐らくベッドに背凭れたまま半身だけ起き上がっている「人間らしき」棒状のシルエットを影として映し出している。それは宛ら影絵芝居を連想させるが………、その動きも酷く直線的で機械的であって。
アポイントについて軽口を叩いた声──に似せられた音声は、私の傍に置かれた電子スピーカーから発せられている。人間の肉声に限りなく近づけているのは認識出来る、それでも間違いなく、スピーカーから発せられる電子音。影絵の距離感が確かならば、本来このスピーカーは必要ない筈のものであって。
心証形成。
目の前のこの奇妙な光景が、この仕事を引き受ける上で私がクライアントに求めた、最大の譲歩の形。
契約という人間の理性を形成するには、その在り様が第三者から見て確かに存在し、意思疎通と合意形成が成されたと観測される事で初めて法的拘束力を持つ。そしてそれらは特定の個人の主観に依存しない、誰にでも納得し得る事象を客体としなければならない。
故に私はクライアントと契約を結ぶ際には、必ずその本人と顔を突き合わせて意思を確認する。それは自らの身を守る為であり、法曹と言うモノに意味と意義を与える為であり、心の在り様に納得を得る為だ。
そしてこの程度の行為は別に私でなくても、一般的な経済活動を生業とする人間であれば、この時代にあっても凡そ当然の行為だ。それは電子情報が飛び回るようになった現代だからこそ、実存主義の根拠として重要視されるものでもあるし、本来小難しい理屈など無くとも子供時分に身に着けるべき教養でもある。
このような至極当然の行為である「面会」という場を求めた私であったが、その希望は素気無く断られる事になった。それはクライアントの病歴に起因するとの主訴であり──
曰く、箸よりも重いものを持つことは叶わない。
曰く、基準値より上下6ヘクトパスカルの気圧変動で、身体に重篤な変化を引き起こす。
曰く、横隔膜の挙動を自力で維持出来ない。
曰く、人間が触れる常在菌の七割に対しアレルギー反応を起こし、発熱が絶えない。
曰く、体調が安定している時、その身体は石のように冷たい。
これらは全て
……端的に言ってしまえば、この内容の全てについては今でも信じてはいない。およそ生きた人間が許容出来る水準を超えているのは明白と思えるからだ。
戸籍の移記事項は全て確認している。私がクライアントを彼女と呼ぶ性別も、契約行為を為し得る為の年齢も、馬鹿げた依頼と報酬額を出す根拠と示された氏名も、その全てを。
そしてその上で、彼女の生年月日から逆算した出生当時の医学水準──生体医療、工化学医療のいずれもが当時彼女の存在を受容しなかったのは明らかである。否、本来であれば、それは今この瞬間を持っても、尚。
形骸化した共産圏の大国が生み出したレセプターチャイルドですらここ数年で公になった程度の混沌としたこの現代では、彼女が述べた筈の疾患は、およそ現代医療がその存在と理解を許容するには収まらないのだ。
「その遣り取りもいつも通りですね、
本当つれないよねえ──、と彼女の苗字と
彼女が行った通り、定刻からは仕事の時間だ。二分の猶予からは既に3秒程足が出てしまっている。
新世界秩序
ノブレスオブリージュが完全に死に絶えた世界。ロイヤルと定義される王族がその有り様故に必ずゴシップや劇場型報道に弱いことと、第二次世界大戦後の第一ヒエラルキー層の内、実業家にならなかった層が複数回の相続行為と課税に例外無く耐え切れなかったこと。
新自由主義のその先の世界で、意図的に作られた贋作の短期的権威を除く、人間が人間であるが故に自然発生する権威主義を許容しなくなった経済活動において人工知能同士が経済的均衡を生み出した世界をそのように呼称する。
要はディプスロさんの独壇場。