ぺちん、と赤子のような力で軽く頰を叩くような乾いた音が鳴る。寝ぼけ眼のまま目を開けると、どうしようもなく蛍光灯の明るさが目を刺すようだ。
「おはよ、寝坊助さん。朝ご飯出来てるよ。っても11時だけど」
「………住居侵入」
「ご挨拶だなぁ、大家さんが心配してたよ。今度は本当に倒れてるんじゃないかって」
「あの人も酔狂なものです。まぁここを事故物件にしたくないという意味では納得出来ますが」
「そこは心配してくれてるって言おう?」
勉強机に突っ伏してたっぷり5時間、同じ体勢のままだったせいで背中が少し痛むが、伸びをするといくらかマシになった。
「我が家のセキュリティーが心配です。沙綾さんやバンドの皆さんでなければ起き抜けに催涙スプレーだったものを」
「それ言えるって事は心配ないよ、うん」
山吹沙綾。ガールズバンドPoppin’Partyのドラム担当で、姉御肌枠。面倒見の良さに関しては既に完成されているのか、よく言えば粒揃い、悪く言えば曲者揃いのバンドを、相談相手という立ち位置で陰から支えているのだから、縁の下の力持ちである。
面倒を見たいのはバンドメンバーやその仲間達に留まらず、外部委託の京にまで及んだ。
大家公認という権力をこれでもかとぶん回し、遂には借主に無断で家に入るようになった。
「朝ご飯もお変わりないようで」
「そんな事言う子には、もう作ってあげないぞ〜?」
「時下益々ご健勝の事、お慶申し上げます」
「まったく………」
死活問題故の変わり身か。とにかく食生活に関して無頓着を極限まで突き詰めたような彼にとっては、健康的で文化的で日本的な一汁三菜はごちそうである。
「さては昨日………というか今日も碌に寝てないでしょ?」
「はははまさか」
「冷蔵庫のエナジードリンク………」
「ちなみに私は24時間戦えます」
「古いなぁ………」
舌鼓を打っていると、愛用のスマートフォンが鳴る。メッセージを受信したようで、バナーには堅っ苦しく月島まりなとある。
「誰?まりなさん?」
「そのようです。まったく朝っぱらから何用でしょうか」
「もうすぐお昼だけどね………」
悲報:風邪をひいた私氏、出勤不可能の模様
「何でちょっと掲示板っぽいの?」
「趣味じゃないですかね」
「ってか出勤って言うんだ………」
「彼女もまた社会という荒波の中で戦う戦士なのです」
とにかく、万年人手不足に喘ぐCiRCLEで1人が離脱するというのは、それだけであのライブハウスがサービス残業もやむなしのブラックバイトと化す。
「急ぎましょう」
「いそ………急いでる?」
「早食いは消化不良や消化器官の不全を引き起こします」
「あ、そう………」
いまいち緊張感に欠けるが、彼なりに急いではいるという事か。それで何が変わるのかを教えてもらうのはまた後にするとして、一通りの身だしなみを最低限に留め、メッセンジャーバッグを肩から下げてさっさと出て行った。
「ちょ、待って!」
「はい、待ちます」
「ありがとう………いやそうじゃなくて。忘れ物」
そう言って沙綾が渡したのは青色のUSBドングル。一瞬何事かと思い京がバッグの中身を見ると、確かにそれが欠けていた。
「危ない」
「あんまり焦らないでね」
躓いた感は拭いきれないものの。兎にも角にも不足していたものがあったという教訓を胸に歩いた。
「違う、違うよ京。そっちは逆」
「おや、そうでしたか」
「いつもどうやって行ってるの………?」
いつも1人でいる彼の生態について、謎が深まるばかりであった。
「いやぁ、申し訳ありません。手伝ってもらっちゃって」
「いーのいーの。逆に大丈夫だった?足引っ張ってなかった?」
「まぁ正直効率性を度外視したかなとは思っていましたが」
「あ、うん………ゴメンね」
今日は1日何もなし、とは聞いていたものの。しかし、ハロー、ハッピーワールドの面々との会話を成立、デスクトップミュージックのソフトウェアを改修、ライブハウスの事務、更にはRoseliaとAfterglowから求められる助言に答える等々、手が何本どころか体がいくつあっても足りない業務を淡々とこなす姿は流石と言うべきか。
沙綾自身も何か力になりたいと思い、自分の持つ楽器の知識でソフトウェアについて助言をしようと思ったが、そこはプログラミングの世界に突入するためあえなく撃沈。
「いっつもこんな大仕事なの?」
「今日は特別忙しいですね。主にあのボーカル2人のせいで」
「あぁ、うん、そっか………」
本来は、バンドへの助言は業務に含まれないのだが。
「必要とされているのなら私もそれを断る理由はありません」
と、律儀に全ての問いに答えている。それはRoseliaやAfterglowの、専門家顔負けの用語に溢れたものから、Poppin’Partyやハロー、ハッピーワールドのボーカルに代表される、底抜けに明るく途方もなくアバウトな問いから、Pastel❇︎Palettesの、主に元子役な彼女から繰り出される闇と業が深そうなものまで、多岐にわたる。
「休憩時間終了です」
「え、もう?」
「今頑張っておけば後でオーナーにボーナスを強請りやすくなる」
「悪いなぁ………」
「先行投資と言ってください」
「いやもう強請るって言っちゃってるし」
「カットで」
「無理」
主たるものである筈のCiRCLEでの接客というと、全員知り合いな様子で、多少おざなりになっている感覚も否めない。が、どうやら彼はその分余った情熱を音楽に注いでいるようだった。
「月島さんがダウンしてなかったら、今頃は設備の整った自宅でやっている作業なんですが」
「まぁまぁ………」
やれる事をやるのは当然、しかしどうにも、良し悪しで選別する権利くらいはある。まったくイレギュラーとは恐ろしいもので、おかげで鼻白む暇さえない。
「業務終了です」
「え、もう?」
「やる事をやったらおしまい、当然でしょう。時間は有限です」
「残りは?」
「スタッフにどうにかさせればいいでしょう。元々私は今日ここにいる筈ではないのです」
ライブハウスCiRCLEの就業事情はホワイトなもので、スタッフの数は少ないながらも行列が出来るほど大人気というわけでもなし、常連客4グループと偶の調整でやって来る1グループを主軸にしておけば、事務作業と比較にならないほど単純である。
「へぇぇ………じゃあ私も」
「えっ」
「えって………何?」
「本日沙綾さんのご予定のほどは」
「みんな赤点取った香澄につきっきりでさ」
「高校の勉強程度、市ヶ谷さんだけで充分でしょう」
「私もそう思って」
「で、私の住居に侵入したと」
「もぉ〜、別に嫌じゃないって京も言ってたじゃん」
「推進したわけではありません」
これ以上監視がつくのは勘弁だ、とばかりにその申し出を丁重にお断りしようと試みる。
「駄目」
どちらに道理があるのか、一瞬見間違うほどの即答であった。何が悲しくて友人程度の女子高生に私生活まで掌握されなければならないのか、甚だ疑問である。
「………もう勝手にしてください」
「ありがと」
天を仰いで、これはもうこちらが折れる他膠着を打開する術はないようだ。
「それにしてもさぁ、不思議だよね」
「何がです?」
「寝不足なのにクマもできてないし、疲れてないように見えるよ」
そういう話はバンドのメンバーとやってくれ、と言って会話を始める前にぶった切る事も不可能ではなかったが、退屈は金で買えない。美容に造詣もあったものでない京に出来るのは、おうむ返しとならないように会話を成立させるだけである。
「そうでしょうか」
「うん。何かちょっと羨ましいような、羨ましくないような」
「いい事ありませんよ。私はそういうのが顔に出にくい体質のようです」
「えぇ〜、何それ、夜更かししてもお肌荒れないって事じゃん」
今時の女子はまったく理解不能。論理で身を固める京の想定の範囲を超えるものである。
「無痛症をご存知ですか?」
「ううん。何それ?」
「字にすればわかるのですが、要するに痛みを感じない人の事です。無汗を伴う場合もありますが」
「へぇぇ〜、そうなんだ。凄いね」
「羨ましいと思いますか?」
「そりゃ………いや、うーん………」
羨ましい、と言いかけたのは自らの愚考であった、と沙綾は恥じた。それと同時に、彼の話の意図を知る事になる。まったく回りくどいが。
痛みを知れないという事は、人間が自らの行動を律する安全装置が存在しないという事だ。
汗をかけないという事は、体温調節の機能がそのまま失われた事を意味する。
彼のように肌の変色が乏しい体質では、あらゆる異常環境において表面的な変化を示す事が出来ない。
表裏一体。
「汗臭さとオサラバできる体と、冷房の温度調節で凍死する体、どちらが欲しいでしょうか?」
それは例え話、あるいは他人事。しかし彼は奇妙にも、彼は笑っていた。
「やだなぁ、例え話ですよ、例え話」
沙綾は、何かとつけて京が心配だ、と話しては、彼の面倒を見る。
「またコンビニ弁当ばっかり」
「ええ、あれは実際お手軽です」
「そういう問題じゃない。ちょっとは栄養価ってのを考えなきゃね」
「私にそんな難しい事を要求しないでほしいですね」
「ほんっとーに………天才ってやっぱどこか一般人と違うのかな」
主は料理。彼は音楽を自分の領域に支配し、学生としての本分である筈の勉学を『生き抜く上でのオマケ』としながらも、好成績を維持する程度には偏差値とIQも優れているのだが、しかし。
「大体ね、ある程度決まってるでしょ。健康そうな食べ物とそうじゃないのって」
「そんな難しい事わかる筈ありません。顕微鏡でも持って来いって話ですよ」
「言い訳しない。普通に食べてれば不健康にはならないんだから」
「それ沙綾さんの基準ですよね?」
「ちーがーいーまーす。共通認識です」
「もしや牛込さんと?」
「全世界共通認識!」
屁理屈をこね回しては沙綾を困惑させる。馬鹿と天才は紙一重と言うべきか、とにかく私生活に一切の拘りを持たない京は、徹底してコストと労力を切り詰めようとする。そして面倒な事に、それをどうにか自慢の頭で正当化しようとするのである。
「はい、基本は野菜と肉のバランス!何でもかんでも炭水化物で補給出来ると思わない事!」
「しかし野菜は弁当にも」
「少ない!」
「はい………」
人間の体は繊細なもので、栄養を摂り続けても死ぬという厄介な特性さえある。
京はそれを気にも留めていないのか、それとも知識すらないのか。いつか体の中に爆弾を抱えてしまうのではないかという不安ばかりが膨らむ。
だからこそ、元々面倒見のいい沙綾は京を気にかけている。彼の抱える悩みというのは、青春特有の甘酸っぱいあれやそれではなく、冗談抜きで命に関わるものなので。
「まったくもう、ほんっとに京はしょうがないんだから」
どことなく彼女が満更でもなさそうなのも、その性格故である。
表………平和じゃねぇか。