彼はいつも、気怠げだ。
興味あるものをとことん追求する反面、そうでない時の沈み具合は凄まじい。食う寝るさえも億劫だと、ある時話していた。そういう時の彼はどこか眠たげでもあり、そういう時はいつも決まって
「何やってんだお前」
「荒ぶる鷹のポーズ」
「あっそ」
決まって意味不明である。
とにかく彼のマイペース加減と意味不明さのせいで手を焼く人間はそこそこ多いが、有咲はそれを見事にスルーしてさよならする場合がほとんどだ。
「なぁ、あそこのやつ取ってくれ」
「私160しかないんですけど」
「私より背ぇ高いじゃんか。脚立あるから」
「まったく………見返りは?」
「性格悪いなお前」
「ボランティアは趣味じゃないんです」
「沙綾んとこで1個奢ってやる」
「よし」
そうして意気揚々と脚立に乗って手を伸ばす。元々、同年代の男子と比べてもいくらか低身長な彼が脚立で
「おい………大丈夫か?」
「はい」
うつ伏せに落ちたとはいえ、顔をがっちり防御した上に脚立は60センチあるかないかの高さ。痛い事はあってもそれ以上の事は起こらないだろうと考えていた。
「お、おぉい!京!?」
「はい?」
「お前どうしたんだそれ!!」
有咲の考えが甘かったわけではない。誰も予想は出来ないだろう。
「あー………」
水色のシャツを侵食するように、じわじわと真っ赤な血が流れ出ていく。だらりと垂れた彼の手からも伝って落ちていき、その姿は瀕死の重傷とする以外に形容しがたい。
「傷口が開いた」
「バカッ、じっとしてろ!」
「そういうわけにもいきません。止血しなくては」
「私がやるから動くな!」
とにかく血に対する忌避感がそうさせたのか、有咲は存外冷静だった。救急箱を持ってくると、手際よく包帯を巻いていく。熟練の救命救急士のようだった。
「これでよし」
「素晴らしい手際ですね。ありがとうございます」
「んなこたどうでもいい。色々説明しろよ」
「説明って?私がB級ホラーのゾンビ顔負けの出血をした事以外に説明すべき事などありませんが」
「それを言ってんだ能面チビ」
「私より低身長の癖に何を仰るか」
「血ぃ出してんのに元気だなお前………」
「慣れです」
どうにも緊張感に欠ける。出血の量は素人目でも致死量手前なのだが、彼の抑揚のない声では狼狽える様子が一切見られない。らしいといえばらしいが、一言で言えば普通じゃない。有咲までその雰囲気に流されそうになるが、彼はどういうわけか50センチ近い高さからの落下で全身の血液の5パーセント近くを失っているのだ。
「き、救急車呼ぶから、じっとしてろよお前!」
「必要ありません」
「バカかお前!」
「もう止まりました」
「………は?」
べったりとついた血液のせいで見えないが、実は既に出血は完全に止まっている。しかし一度に出たのが多量だったために、滴り落ちて血溜まりをつくっている。
「あー、色々聞きたい事はあるが、どうした?」
「体質の問題で、こういうのはよくあるんです。ちょっとした衝撃で傷口が開く」
「そうだったのか。悪い」
「いえ。私も言わなかったので」
「言ってくれりゃ………ってわけにもいかないか。ゴメンな。ご両親にも謝っておくよ」
「いえ、それには及びません。両親も慣れてますから。最近じゃ泥被ったみたいな感じで叱られます」
「たくましいな………」
「はい。なので有咲さんが謝ると私が謝らせた事になってしまうので」
そういえば、と有咲は思い返す。ここまで彼と様々な話をした。バンドの話やなんてことのない雑談まで、友人らしく話してきた。その過程で一度だけ家族の話もした。軽い気持ちで、彼のような頭脳明晰な子供で、親も誇らしいだろうと。
はて、あの時彼は何と言っただろうか。
「そういう事なら、わかった。風呂くらい入ってくれ。あとそのスプラッターな洋服も洗うから」
「その間私は女物を………」
「ちゃんと男物があるから安心しろ」
「それは良かった」
詫びの言葉は素直に受け取らなければ、それは謝罪した側に対する非礼である。
脱衣所にあった衣服をセスキ炭酸ソーダに浸けて洗濯機に突っ込む手前で、あることに気付く。
「なんだこりゃ」
丁度二の腕の辺りに、焦げ茶色の点がふたつついている。そういうワンポイントかとも一瞬思ったが、どうやら熱で焦げたようだ。何ともミステリアスだが、どうにも尋常でない。ヤケドでもしたのかと思ったが、それにしては痕が綺麗に円形を描いている。
「なぁ、ちょっといいか?」
「はい?」
「お前、ご両親とは上手くやってんのか?」
「ええ、
「やっぱりか………」
彼自身、もはや隠すのも限界を迎えたと感じ取った。
それ以上に彼をその方向に向かわせたのは、誤魔化しようがないという以外にも理由がある。
「もう終わりました」
「それで、仲良くなっても一人暮らしのままか?」
「……………何で知ってるんですか」
どこかで彼女を侮った。
その後、有咲の動きは早かった。必要なものを必要な時に必要なだけ。あの、異常を尋常に変える金髪のお嬢様の全面バックアップのもとである。
「………あの」
「どうした?野菜もきちんと食べろよ?」
「いや、私根菜はアレルギーでして」
「何だ。悪い、私が食べとくから」
あの事件からというもの、有咲はよく京の自宅に訪れるようになった。ある時は夕飯を作ると言ってアポ無し突撃をしたり、外に出ると言ったら自分が来るまで待てと言って、たかが100メートルかそこらの距離のために流星堂からやって来たり。
「私、料理をしてみたいのですが」
「ダメだ」
「何故?」
「危ないからに決まってるだろ。私がやる」
「悪いですよ」
「そんな事あるか。いいからじっとしてろ」
「………はい」
とにかく、彼が何かをしようとすれば何かと理由をつけて断る。最も多く口にするのは危ないから、そう言って彼女は彼を立たせようとすらしない。
「ずっと沙綾が羨ましかった」
「はい?」
「可愛い弟がほしかった。お前みたいな」
「………わかりません」
「そうか?お前だって頼れる誰かがほしかったんじゃないのか?」
「………いや、それは」
「不器用だな。そういうとこも可愛いけど」
拒絶しようとすればするほど、彼女は近寄ってくる。それは全てを見透かしているのではない。ただ、彼女は1人でいる彼の精神的な支柱になるため、彼の心に浸透しようとしているに過ぎない。
「私にそれだけの価値が?」
「当たり前だろ」
「あー………」
何が美しいものか。有咲もそんなストーリーにも飽きたところだ。ああなってしまっては彼女も、常道が何だと言っていられない。
「これくらいがちょうどいいんだお前には。またあんなになってみろ、今度は本当に死ぬぞ」
「死なないようにできてます」
「そんなわけあるか!」
突然有咲が肩を掴んで壁際まで追い詰める。
「わかってんのか?血が全体の半分出たら人間って死ぬんだぞ?」
致死量は全体の半分が失われると失血死すると言われているが、3分の1が失われた時点で重篤な状態に陥るとされている。今回は閉まっていた傷口が開いた、それだけと言えばそれだけだが、当然打ち所次第では筋肉まで達していたと思われる。
「私を不安にさせないでくれ、お願いだから」
「………すみません」
今度は優しく有咲が京を抱きしめる。壊れ物を触るように。そして、壁と挟むように京にじりじりと彼に迫る。
「仲良く、しようか。私、結構自信あるんだ」
心配で仕方がない。でも、その方法を片っ端から試す余裕がない。有咲は賢い。だからこそ、ここではあえて出水京という一個人ではなく人間そのものに視野を広げた。
人間が生きていく上で欠かせないもの。その全てを掌握すればいい。彼を手元に置けばいい。足りない何かを補えば、それを握れば、有咲の言葉を聞いてくれる。もう無茶などしない。
「私の言葉を聞いてくれ。そうすればお前はもうこんな風にならないから。な?」
彼女は今までの自分に後悔していると話した。それを取り戻すかのように、とにかく京に世話を焼く。そしてその理由は、きっとそこまで純粋なものじゃない。
「いいか、台所には絶対に入るな。つーかお前そっから動くな」
「は、はぁ………」
「夕方には帰ってくるから。外出んな。絶対だぞ」
「わかってますから。早く行った方がよろしいかと」
「待て、まだ確認が済んでない」
「そこはもう6度目です」
その後も有咲は、彼の身体に対して害になりそうなものを排除した。おかげで色々と物寂しくなったものだ。
「いいな?絶対に外に出んなよ?」
「それも5回目です」
その後も何とか京が説得して、渋る有咲を送り出した。最後の方、ドアの辺りの攻防はちょっとした暴動のようだった。色々滞りそうだが、あの心配性の鬼の処遇についてはバンドメンバーに任せることとした。
「あー………チッ」
袖をまくると、痛々しい切傷や注射痕に混じって、見慣れない赤い斑点が新しく皮膚に浮かんでいる。何かを刺したようなものではない、あるいは虫刺されというわけでもない。
「好き者ですねぇ。市ヶ谷有咲さん」
傷口を撫でる彼は、笑っていた。
「京!京!」
「ん………あぁ、寝ていましたか」
「大丈夫かっ」
「こうなるのは久しぶりです。ご心配なく。5年前は大体いつもこんな感じでした」
「はぁ………」
午後5時。有咲が見たのは床に倒れて動かない京だった。一瞬息が止まったような衝撃が走り、すぐに揺すって起こす。彼は単に眠っているだけだった。
「大丈夫か?大丈夫なんだな?」
「ええ。大丈夫。大丈夫ですので離して………」
「ダメだ。絶対ダメだ。やっぱりお前は私がついてないと」
今度は力強く、それでいて容赦がない。鬼気迫る表情で、彼の感触を確かめるように京を自分に抱き寄せる。
「もう我慢できない。あのクズどもに任せてたら間違いなく死ぬぞお前」
「ならばどうしろと?」
「さぁな」
「………解せないですね」
京にとっても、その話の意図を掴んだ事は後々後悔する事になりそうだ。彼女はどこか小狡いというか、京もこれまで総勢25人の異性と友人になったものだが、彼女はその中でも、お腹真っ黒女優こと白鷺千聖に似ている。あまりディープな話題で弁論を開きたくないタイプというか、あまりにもそう、というわけではないが、奸計に優れていそうという京の予測は外れなかったようだ。
「私がお前の
「正気ですか?」
「お前こそ何考えてんだ。拒む理由なんてないだろ」
「……………」
思わず目をそらす。
「お前をこれ以上傷付けさせない。お前のためにも、
そう言って彼女は、優しく彼の頬を撫でる。
「これでもう心配いらないな」
獲物を射程内に収めた彼女は、舌舐めずりをして狂喜を隠した。
エクストリーム過保護系策士、有咲ちゃんでした。筆者の実力ではツンデレの有咲の性格を180度変える事はできなかった………