その日の彼は、どうにもうだつが上がらなかった。街の喧騒や友人が楽しそうに話す賑やかな場、誰かの話す声でさえも彼にとっては耳障りな雑音にしかならなかった。どうしても、誰か親しい人間と話すという気分になれず、死に体になったがごとくの様子でモカを頼った。彼女は理由を聞く事もなく余計な詮索をすることもなく、彼女の店について教えてくれた。
「それでここに?」
「ええ」
息も絶え絶えといった様子で彼がやって来た時は、彼女も一体全体何事かと狼狽えたものだ。また体が壊れる無茶でもしたのかと、彼女は困った様子で苦笑した。
羽沢つぐみは、実家である羽沢珈琲店を手伝う高校生。幼馴染である4人の更なる結束のため、あるいは孤独にならないためにバンドをやろうと発案した。ただそれだけ———というのが、本人の談。とにかく彼女は典型的な多感な女子高生といった具合で、真っ直ぐな努力家ながらも自己評価が低く、その努力というのも自分の実力を疑うゆえのものである。実力がどうとかセンスがどうとか、そういったものに対する憧れが強いため迷走すると長い。ただし最近は自分なりの考えややり方を見つけたようで、前のように自分を卑下したりする事はなくなったのだが。
「でもどうしたのかなあ。急に誰とも話したくなくなるなんて………まさか心の病気とかじゃないよね?」
「それはないでしょう」
「そうだよね。私とは話せてるんだもんね。………うん?私とは話せるんだね?」
「ええ」
「どうして?」
「私にも分かりません」
「四六時中誰かと接してたからじゃないかな。慣れてないんだよ、きっと。安静にしてた方がいいんじゃない?」
「………そうでしょうか」
「無理しないで。最近、みんなと話せてないっていうのは気にしないでいいよ」
「円滑なコミュニケーションをですね」
「どっちでもいいから」
その分気が強まったというべきか。彼女は物怖じしなくなったというか吹っ切れたというか、前の彼女なら上手く彼の長広舌にやり込められていたであろう場面においても臆する事なく自分の言いたい事を言うようになった。当然それは良くも悪しくもあるのだが、本来の性格のおかげもあってか悪しき方向にはたらくような事は起きていない。
とにかくそのひどく曖昧でいかんともしがたい彼の現状を打ち破るだけの材料はここにはなく、つぐみも苦しむ彼を放っておけるわけがないという具合で、状況はいい方向に転ばないのだ。彼を責めるのは容易だが、決して彼女はそれをしなかった。彼もまた苦しんでいるだろうから。朝起きて、『あ、今誰とも話したくないかも』なんて思いに至った自分を許さないだろうから。いつものように家に閉じこもらないのか、とは聞かなかった。彼が考えなしに、人と喋りたくないと言いながら外出するという矛盾を孕ませるとは考えにくかったから。きっと彼なりの理由があるのだろう。
「コーヒーでも飲む?」
「お願いします。ありがとうございます」
「いいの。そもそもここ、珈琲店だし」
「砂糖は?」
「どうせ微糖じゃ足りないだろうから待ってて。追加で持ってくる」
いつものように彼女は笑い、店の奥まで引っ込んだ。
どうして人と関係を断ちたいと考えるのか、どうして中でつぐみが例外なのか。実は彼は自分自身をよく分析してその答えをとうに見つけていた。理由は単純で、求められることに苦痛を感じだから。そして傷心の今の彼の精神状態と彼女の性格はちょうど噛み合っているのだ。
求められるという事は悪い事でない。頼りにされている、あるいは期待されていると言い換えれば良き事だ。そして頼るガールズバンドの彼女達が悪いというわけでもなく、対人のコミュニケーションに関して平均以下のメンタルである京が色々と余計な事を考えて勝手に自滅しているだけだ。そしてそんな彼に対して、自らを普通と思い込む彼女は、表に出さないながらも彼の事を一人の学生としてでなく、作詞作曲家として見ているだろう。それでも自己評価の低い彼女にとって、オフの彼に仕事の話題を振るのは憚られる行いだ。それが都合がいい。彼女は実に『普通』であり、普通に接してくれる。今はそれが幸福だ。
「はい、どうぞ」
「どうも」
「ブラックは駄目なんだっけ?」
「あれは人間が飲むものじゃありません」
「ちゃんと人間が飲むものだよ」
元のままではただの焦げ茶色の苦い汁なのだが、と彼は断ずる。角砂糖を軽くダースで入れてかき混ぜて、湯気が立ち上るコーヒーを恐る恐るといった具合で飲む。
「そんなに入れるの?砂糖」
「いつも通り美味しいです」
「もうそれコーヒーの味しないんじゃない?大丈夫?」
「コーヒーなんて私にとっては風味がする程度でいいんですよ」
「変わってるなあ………話は聞いてたけど、やっぱりかなりの甘党さんだね、京君って」
「砂糖は偉大です。何せ脳を働かせるエネルギーになる」
「嗜好の問題だと思うんだけどなあ………」
コーヒー………というより最早、コーヒー風味の砂糖の湯掻きのおかげでいくらか上機嫌な彼は、いつもよりテンション高めな様子だった。彼の中にあった、胸焼けしてしまうほどに嫌気がさすという事もなくなっていったのは大きな進歩だろう。彼女は付き合ってあまり時間が経っていないが、それでも人をよく見ている。普通には程遠いながらも、普通に近付いていった事も容易に判断できた。さらに彼女の観察眼をもってすれば、このような事もわかる。
「そろそろわかったんじゃない?何で急にそんな気持ちになっちゃったか」
「……………それは」
彼は聡い。それだけでなく、主観を排除して自分自身を客観視する事も。彼にとっては自分をあるがままに評価する事など容易なのだ。何故急に、何故この日、何故恩人にそんな恩知らずな思いを。一度立ち止まって考えれば、それの答えを出す事など彼にとっては朝飯前。しかし彼にも教育相当の良心というのはあるもので、彼女にとっての親友や良きライバルである面々を拒絶する理由は、話す事が憚られる。しかしそれでも、つぐみは慈母のような優しげな笑みで彼の懸念を吹き飛ばす。
「いいんだよ。君の事だもん、きっと辛い何かがキッカケになってるんでしょ?話したくなったらでいいから、今はゆっくり休んでてね」
「はい。ありがとうございます」
「それじゃ、何かあったら呼んでね。時間も時間だし、多分お客さん少ないと思うから」
「……………はい」
「あんまり思い詰めちゃダメだよ」
最後のつぐみの言葉には頷く事も出来ず、彼は俯いた。
つぐみから見た京は過剰なくらいに努力家で、しかも平気な顔をして無茶苦茶をする。人畜無害な顔をしているというのに、果たしてどこにそのような力が眠っているのか教えてほしいくらいには。聡いゆえにどこか年齢不相応な性格や態度、小生意気な口の利き方も何度かあったが、それもまた彼なりの期待に応えようとする姿勢なのかもしれない。見ている側からすれば肝を冷やす場面に遭遇した経験もあるが。それでも彼はとことんまでに自分を追い詰める。彼の生き方は普通の学生が普通に勉強して、普通に友達付き合いをして、普通にバイトをするのとはまったく違うのだ。時折、多少荒っぽい手段を取ってでも彼を休ませるべきなのではないかと思っている自分が彼女の中には存在する。休めという警告にどうしたって首を縦に振らない彼にはどんな説得も響かないのでは、と。遠目に見ても、彼は心身ともに限界といった様子で、とてもじゃないが放置して様子を見ようなどという気にはなれなかった。
「京君」
「はい」
「ちょっと来て」
「はい?」
「いいからこっち」
「え、いや、ちょ………」
つぐみの良心が彼の放置を許さなくなってからの行動は早かった。狼狽する彼の手を掴み、店の奥まで半ば引きずるように連行していった。
「はい」
「え?」
「こっち」
「………え?」
「だから、こっち。早く」
「……………は、はあ」
やけに積極的になった彼女はソファに座り、自分の太腿を指差して微笑む。
「どうぞ」
「………何故?」
「何故じゃない。ほら早く、今度はいつ倒れちゃうかもわからないんだから休ませてあげようっていう、私の気持ちだよ?」
「そう………ですか」
「うん、そう。私の目が黒いうちは過労で倒れましたなんて絶対許さないんだから」
「一体何が貴女をそうさせるんですか」
「責任感と、好きって気持ちだよ。ほら早くして。どうせ君は口で言っても聞かないんだから」
「うわなにをするやめ———」
言っても聞かない彼に対しては少々の実力行使も辞さない構えを取るべきと、無言の圧力か手を出すかを自身の中で問うた結果、9対1で腕力と膂力をもってわからせるべきとの結論に至った。そこで立ち尽くす京の手を掴んでソファに座らせ、体を倒す。
「もう一度聞きますけど、何故?」
「君が自分で何とかしないから。あとは私がこうしたかったからかな」
「………おかしな人ですね、貴女は」
「ひどーい」
所謂膝枕の姿勢となり、彼は柔らかくハリがある女性の腿に頭を預ける。ふわりと柔軟剤と少し香水のような匂いもした。彼女も年頃の乙女ということで恥じらいもあったが、その辺りはすぐに慣れたというか、それどころでないというか。もしもこれで不愉快などと言われた日には、ショックで寝込む自信さえある。しかしその心配はするに値しなかった。彼は最初、そこまで低年齢ではないと心のうちで反論しながらも、僅かに1分ほどで瞼が重くなり、そのまま目を閉じて眠りについた。疲れがそれほど溜まっていたのだろう。
「私は本気で君の事を———あれ?もう寝ちゃったの?」
すやすやと安眠している事が一瞬でわかる穏やかな寝息が聞こえる。こうして彼を見ていると、つぐみにとっては不器用な弟みたいなものだ。そんなに疲れていたならば休めばよかったという言葉は彼にとって受け入れがたい言葉なのだろう。そうして自分に非はないんだというわがままくらいは許してあげてもいいだろうと、頭をそっと撫でる。
「もう、あんまり無理しちゃダメだぞ〜。君が無理すると悲しむ人がいっぱいいるんだから。わかってるの?」
そうして彼女は、五年前とちっとも変わらず不器用な想い人に苦笑するしかなかった。
つぐみが寝てしまっていたという事に気付いたのは目が覚めてからだった。重たい瞼を開けてまず自分について承知すると、ソファに寝かされている。慌てて飛び起きて周りを見ると、彼がソファの向かい側にパイプ椅子を持ち出して座っているのがわかる。
「何事!?」
「何事もないです」
「京君………何で私寝かされてるの?」
「寝かせるべきだと思ったので」
「………京君はいいの?」
「ええ、おかげさまで。貴女はどうですか?」
「うん。ありがとう。私も大丈夫だよ」
「本当に?」
時計を見ると、2時間ほど眠っていたようだ。そのまま閉店時間に突入したため自分がいなくても特に大きな混乱はなかった筈だとつぐみは考える。それよりも今は、彼に気を遣わせてしまった事が気がかりだ。普通ならばつぐみが京を気遣うべきであった筈なのに、彼は自身も疲弊しながら彼女の疲労を簡単に見抜かれてしまっていたようだ。
「大丈夫だってば。私の事はいいから」
「………それ、私にも同じ事を言わせるおつもりですか?」
「……………」
「私も大丈夫です。貴女に迷惑だと言われない限りは心配し続けますよ」
「………本当に、不器用な子」
「貴女には言われたくありません」
「もう、結局君も同じなんだから!」
「どうだか」
どこまでも不器用な利他主義者。鏡を見たような彼の性格がそうである限りきっと自分はいつまでもこんな調子なのだろうと、つぐみは笑った。そんな自己犠牲が極まって倒れたその時は彼に看護でもしてもらおうか、そうすれば彼の視線も独り占め出来るだろうか。そんな夢想が、更に彼女の顔を綻ばせた。