何が悪いんですか。パソコンスマホ側が悪いんですか(憤怒)
羽沢珈琲店は日中にも関わらず『CLOSED』の看板がドアにぶら下がっている。理由は明白だが、それを知るには同時に店内を見る必要がある。
「ご予定があるのなら、そう言ってくださればよかったのに」
「ううん、いいの。君の事ならいつでも歓迎だから」
「ありがたいですが………」
「私がやりたくてやってるんだからいいの。君が気にすることじゃないよ」
「………そう、ですか」
店内では、沈む京とそれを慰めるつぐみが二人だけの世界に入っていた。
実は明確に事の発端というのがあるわけではない。短時間で劇的にどうにかなって、つぐみが自身の店に呼んだだとかそういうことではなかった。ただ長きに渡って積もり積もった彼の暗黒面に対して抱いていたつぐみの不安が爆発したのが、たまたま京本人が来店していたタイミングだったというだけで。休日の真昼間からこうして顔を見せているうちはいいが、その前は何か、人体の健康を軽く冒涜するような所業をしていたのではないか、それに対して何も感じないという恐ろしい麻痺があるのではないか。そう思うところからつぐみの心配性というのはとどまるところを知らない。
「最近はどう?ちゃんと休めてる?」
「ええ、いつも通りに」
「本当に?」
「嘘を吐く理由もないでしょう。よりにもよって貴女の前で」
「………それどういう意味?」
「どういうも何も、そのままの意味です。最近上原さんが愚痴を零していましたよ。自分は無茶する癖に他人の無茶は断固認めないと」
「それは仕方ないよ。みんな努力家で凄いと思ってるけど、休むことくらいしないとバテちゃうもん」
「………あっそ。まあ、皆さん危機管理くらいしているでしょうし、そこまで過敏になることもないのでは?」
「京君が言っても信用度ゼロだよ」
「うるさいです」
ここまで綺麗に自分のことを棚上げする人間もそういない、と。話ながらに京は驚愕した。人の気質は十人十色というがそれでもだ。つぐみは妥協を許さない努力家だが、それは美徳であると同時に枷でもある。事実思い詰め過ぎや体の酷使で不調をきたし、更に酷い時はぶっ倒れる事も珍しいが起きないわけではない。その点を彼女は自覚していないどころか気合いの問題と思っている節さえあるようで、とにかく自分の過労を許しながら他人が無理をするのは許さないという矛盾を抱いているのだ。それは京に対しても例外ではない。
「頑張るのはいい事だけど、京君は色々思い詰め過ぎなんだよ。一回くらい失敗したって、期待外れだとかそんなの思うわけないんだから。もうちょっと肩の力を抜かないと」
「そういうものでしょうか」
「うん、そういうものなの。だからほら、そう考えたら自分のしてる事って全然ギリギリじゃないでしょ?」
慈母のような柔和な笑みで慰めるつぐみに対してそれブーメランですよ、と言える筈もなく。というより彼女が他人に話す努力論は正論そのものなので言い返すような点もなく。ただ彼女は誰かのためにそう言うのだ。
ここで問題なのは、つぐみが究極の利他主義者なのか。それともただ自己矛盾を棚上げするイマドキの女子高生らしい女子高生なのか。それはどちらとも取れるだろう。他人を案ずる彼女も、意地になって自分は頑張らなければならないと暗示のように言い聞かせ続ける彼女もどちらも羽沢つぐみなのだから。どちらと断ずる事が出来ないというのも、京の葛藤を加速させる。私もそうだが、貴女も大概無茶苦茶だと言っても彼女は聞かないだろうから。
「ほら、私の事はいいの。君は頑張り過ぎなんだからちょっとはいたわらなきゃダメ」
自分の事なんてどうだっていいと、それを行動で現すように、背筋正しく席に座る京を胸に抱きとめる。
「大丈夫。みんな優しい娘達だから、そんなに思い詰めなくても大丈夫だよ」
自分の事を棚に上げて卑怯なものだが。それでも、彼女の言葉は身に沁みた。
自分はどうしようもなく卑怯だろうと、その自覚はある。つぐみは度重なる疲労で眠る彼の頭を撫でる。自分でも都合のいい論を、よりにもよって理論の権化たる京に対してよく出来たものだと。だがそんな暴論であっても、なりふり構っていられなかった。
彼は平気で徹夜をするし、30時間座りっぱなしもするし、飲まず食わずのまま作業をすることもある。時にはそれらを同時に背負ってでも。そんな無茶をする原因はつぐみ自身が言った通り、期待や要求に完璧に応えようとする事、それに加えて自己評価が低い点。自分が完璧を遂行するにはこれくらいの苦行がなければ達成しえないと思っているところだ。どうしようもないわけではないが、それを行うには大きな犠牲を払わなければならないという思い込みが追い詰めている。実際は、その思い込みで自分を追い詰めている行為そのものが枷となっているのだが。それでも彼は、止めようとはしないだろう。自分のように。どうすればいいのか?答えは簡単だ。
自分が彼を管理すればいい。誰よりも彼を理解している、自分ならばきっとそれが出来る。それについては、ずっと考えきた事。しかし最近は、彼女でも自覚がないうちにその思考は徐々に危険な方向へとシフトしている。
「教えて。どうすれば君は、
きっとその問いに彼が答える事は、ないだろう。それをわかって尚、彼女は問わずにいられなかった。
「君が自分で自分を大切にしないなら、私がやるからね」
決意とともに。
「うん………んん?」
京が目を覚ましたのは、以前使わせてもらったソファではなかった。そこは上等なベッドで、鼻腔をくすぐるのは柔軟剤の匂いとつぐみそのものの香り。当然だろう、ここはつぐみの自室のベッドで、彼女が間近にいるのだから。
「おはよ、寝坊助さん」
「………?………???………!?」
京が状況を呑み込むまでに10秒ほどかかった。まず理解して脳が処理するよりも先に、ベッドの心地や背中に当たる柔らかな女体の感触が飛び込んだのだから処理が追い付かない。耳元で艶やかに囁くつぐみの声はまるで人が変わったようで、背中側で見えないがつぐみの表情どころか性格まで曲がったのではないかとさえ思ってしまう。
「羽沢さん?」
「んもう、どうしてそんなに他人行儀なの?つぐみって呼んでよ」
「いや何か、別人のような気がして」
「変なの。私はつぐみでしょ?」
「………そう、ですね。あの、それで、ここは?」
「私の部屋」
「何故?」
「何故って………わからない?君のせいだよ」
「まったく思い当たる節がありませんが」
「本当に仕方のない子。君がいけないんだよ。君が無茶苦茶したら一体どれだけの人が悲しむと思ってるの?」
事もなげにつぐみは話し、問答の間も実に穏やかだった。それと対照的に京の混乱は悪化の一途を辿るばかりで、この場を脱して詳細な説明を求めるべきとする彼の理性に従おうとする。
「ダメよ」
両腕の抱き締める力が強まる。やはり楽器の演奏というハードワークをこなすために鍛えているようで、まったく抜け出せる気がしない。
「本っ当に悪い子。ここまで言っても言う通りにできないの?」
「これでは拘束と同じではありませんか」
「そうだよ。だってこうするしかなかったんだもん。やりようはもっとあったけど、それじゃ君が可哀想だと思って、こうして私がついてるの」
「これでは貴女にまで不自由が生じてしまいます。それで本当にいいんですか?」
「全然いいよ。君が私の知らないところに行っちゃうより全然いい」
「………本気ですか」
どうにもならない。というより、どうにかさせてくれない。声色こそ優しいつぐみだが、行動は絶対に自由に行動させてやらないという信念にも似た強過ぎる意思を感じる。
どうしてこうなってしまったのか。それはおそらく自分に原因があるので、京は強く言い返す事が出来ない。どころか、その通りですと屈する事もまた可能性として浮上してしまっている。どうにか平和的に諦めてくれないものかと色々シミュレートを脳内でしたものの、既に強硬手段に出たつぐみは怖いもの無しだ。下手をすればこれ以上の手段に悪化しないとも限らない。というより、そうなる可能性が高い。
優しい声に惑わされることなく彼女の真意を観測した京は、それでも首を縦に振れない。
「つぐみさん」
「なあに?」
「私をどうするおつもりですか?」
「……………ほえ?」
「こんな強硬策を講じて、そのあとは何もなしですか?」
「そうだけど」
「は?」
つぐみは体勢を変えて仰向けに京を寝かせると、その上にのしかかる。
「何かしてほしいの?」
「……………いえ」
本当にどうしてしまったのか。あるいはどうしてこんなになるまで放っておいたのか。いくらなんでも変わり過ぎではないかと頭を抱える。
「うふふ。夕方だけど、お腹すいてるなら何か作るよ」
「……………ええ。では、お願い出来ますでしょうか」
「ん、任せて。君は待っててね」
つぐみに言われて時計を見ると、もうすぐ日が落ちる時間である事がわかる。
(4時間近く寝ていたのか………)
他人の家でそれだけ爆睡してしまったのかと罪悪感に苛まれるが、正直今の彼はそれを感じるどころじゃない。
(私に用事があるからそうしたものかと思いきや………)
叩き起こされれば京も起きた。お帰りくださいと言われれば帰った。しかしそうされなかったということは彼女の単なる嗜好の話なのか。
その後、簡単なものでごめんねと言ったつぐみが作った、ちょっとした料理を摘んだ。そこまではよかったと知るのは彼女だけだ。
「んー………」
真っ暗な部屋でスタンドライトの明かりを頼りに、つぐみは大学ノートにメモをしていた。その内容は………。
卵:2個
白飯:150g
鳥もも肉:1/6枚
玉ねぎ:1/8個
トマトケチャップ、バター、塩、コショウ
先程彼が食べた料理の材料で、分量が書いてある右には摂取カロリーまでもが几帳面に書いてある。何がしたいのか、それは単純明快。
「ちょっと多いかな?どうせ京君、運動しないし、もう少しカロリー落としてもいいかな」
管理したい。彼に関係する全てを、自分の眼中に収まるようにしておきたい。食事はその一つだ。しかしそれだけではない。勉強机の写真は彼の家で撮られたもの、ノートには彼の外出先と滞在時間まで細かく記され、そしてそのノートには彼がリラックスしている瞬間として何百枚もの盗撮写真が挟まっている。
彼はつぐみがこんな事をしているとは知る由もない。だからこそこのような犯罪じみた行動が出来るのだ。
「失敗だったなあ。あそこまで狼狽える京君、すっごく珍しいし可愛いから撮っておけばよかったかも」
そうして悔やみながらも彼女は笑った。こうしてまた、理解出来ない出水京の要素が一つ減ったのだ。ただでさえ、一度心を開いた人間を無慈悲に突き放せない京の事だ。自分が京の文字通り全てを理解し、掌握するまではそう時間はかからない。
そうなればあとは、つぐみが京の全てになる。そんな未来まで妄想すると、そこから先は歯止めがかからなくなってしまう。
言いなりにさせたい、そしてその口で自分にとっての全てだと言ってほしい。
「ずっと君の味方だからね………」
今彼は、自宅の勉強机で独学ながら外国語を学んでいる。才気溢れて前途有望で、危なっかしいくらい純粋で友人を疑えない。そんな彼に仇なす存在が現れた時に、頼れるのは自分だけだと。絶対にそんな存在を勝ち取ってみせると、つぐみは強く決意した。