元々京は低血圧というか、ダウナーというか。いつも憂鬱そうでかったるそうにしながら日々を生きており、どうしたってクラスの中心ではしゃぐような人間とは相容れない子供である。それでも、天性の陽キャの宇田川あこが彼に懐くのはそう難しいことではなかった。同学年の男子生徒はとにかく我が強く、屁理屈をこね回して自分は頭がいいと思い込む『痛い存在』だったので、それと対比すると控えめなだけという遥かにマシな性格という事もあり早々に彼と接近した。上級生、特に彼女が所属するRoseliaはボーカルの友希那に然り紗夜に然り性格も姿勢も大人びていた。そんな二人と接するうちに自然と彼女たちのような人間に畏敬の念が湧いていたというのもあるかもしれない。
最初はそれこそ同学年の話し相手ができたような、そんな軽い出会いだった。しかしやがて彼を理解していくうちに双子の兄を持ったような気分になった。無口でスマートで、我が儘を聞いても冷静に対応してくれる、駄目な時は駄目だと叱ってくれる、結果を出さなくとも努力し続けた事を褒めてくれる。まあ、気恥ずかしいのかおにーちゃんと呼ぶ事を許してはくれなかったが。
だがあこは満たされた。姉がいる事で十割満たされてはいたが、京のおかげでそれも限界突破したところである。
「ちょっ……待っ……あ〜!!また負けた〜!!」
「口ほどにもないですね。顔洗って出直してきてください」
「むうう……」
休日のある昼下がりのことである。家庭用ゲーム機でアクションゲームに興じている二人は実のところ高校受験を控えた受験生であるが、とてもそうは見えない。京の方の理屈は至極単純、死ぬ気で猛勉強などしなくても高校受験くらいどうにでもなるから。では、お世辞にも頭がいいとは言えないあこの方はというと、こちらもまた単純で息抜きである。何せ前日は姉である巴監督の下机に向かうことを強要され、尋常でないストレスを蓄積しているためそれを発散する意図もある。先程から別のストレスが溜まってはいるが。
「もーやだー!全然勝てないじゃん!別のことやろ!べーつーのこーとー!!」
「はいはいかしこまりましたよ。しかし他には何があったか……」
ぎゃあぎゃあと駄々をこねたあこはこうなると長い。京は、明らかに家具より積み上がったガラクタの方が占有面積が広い自宅を探して回ることにした。
とはいってもあるのは実用性ではなく希少価値で選んだコレクターズアイテムのようなものばかり。あのじゃじゃ馬が眺めて満足するとは到底思えず、あれやこれやと悩んでいるうちにスマートフォンが振動する。電話は巴からだった。
「はい。出水とかそんなもんじゃない方です」
「じゃあどの方なんだよ……。いきなり電話して悪い、あこはどうだ?」
「……氷川姉妹も私から見てそこそこアレですが、貴女もシスコンですね。別にいつもと変わりませんよ。いつも通り賑やかでいらっしゃる」
「そうか……。迷惑かけてないならいいんだけど、お前同い年の異性と普通に会話できるのか?」
「ナチュラルに失礼ですね。私にもできますよそれくらい。まあ、バ……裏表のないあこさんがやりやすいというのは否定しませんが」
「今バカって言いかけなかったか?」
「気のせいでしょ。それで、ご用件は以上ですか?」
電話の内容は巴らしいもので、妹のことを案じていたり案じていなかったりするものだった。正直京はいつかは来るだろうなと思っていた。だってシスコンだもの。
巴には自覚がないかもしれないが、あこと一緒にいる京を見る彼女の目が些か恐ろしい時がある。まあ可愛い妹が異性と接しているというのはそれだけで不安要因なのだろう。京は兄弟がいないのでその気持ちはまったく共感しかねるが、理解できないわけではない。
「最近あこの様子がおかしくてな。一応気を付けてくれ」
「何そのフワッとしたアドバイス……。気を付けろとは?後ろから刺されるとかそういう話ですか?」
そんな妹をよく見ている模範的な姉からの連絡は、幸運な事に妹に近付くなという警告ではなかった。
「そういうワケじゃないけど……。何かこう、何て言えばいいんだろ、京を見る目がちょっと違くないか?」
「そうでしょうか。普段のあこさんが私をどう見ているのか分からないので、比べようがありませんが」
「そうか?なーんかおかしいと思うんだけどなあ、アタシ」
「……姉である貴女が言うなら、一応注意はしておきます」
あこの実の姉である巴の言葉だ、あまりにアバウトすぎて何をどう注意すればいいのか分からないが、とにかく心に留めておいた方がいいだろう。
「京くーん!大変だ!これ、急に画面が!画面が真っ暗に!壊れたァ!」
「それはただの電池切れです……。とにかく巴さん、また何かあれば追って連絡を」
「おお。分かった。悪いな、あこの面倒押し付けちゃって」
「致し方ありません。日菜の馬鹿と合わさって歩く騒音公害になられるよりはマシですから」
「そ、そっか……」
やや諦念を含んだ言葉に、巴は曖昧な反応しか返せない。京はそれではと言って電話を切った。
気を付けろとは言われたものの、あこには特段変わった様子はない。
「ボタン押しても電源入らないよ?」
「ですから、電池が切れてるんです」
「……じゃあ充電して?」
「乾電池は基本的に充電しないんですよ」
「でも充電できるヤツもあるよね?」
「これは違うんで。たかが電池に再充電とか、私がそんな面倒なもの持ってるわけないでしょう」
いつも通り京が理解できないほどに頭が残念な様子で、巴がわざわざ連絡を寄越してくるようなものではない。少なくとも京には、自分が気付かないほど些細な変化である事以外に何も感じる事はなかった。
「さっきの電話っておねーちゃん?」
「はい」
「ふーん。何話してたの?」
「特に何も。終わりのないきのこたけのこ論争について意見交換をしていました」
「へー……」
京の背中にもたれかかるあこがどんな顔をしているか、彼には見えない。しかし彼女底冷えするような声だけで、尋常でない様子を察することができないほど彼も間抜けではなかった。
ある時、京は過労で倒れる一歩手前まで働いていた。何でもガールズバンドの大きなイベントがあるとかで、普段は閑古鳥が鳴くライブハウスとその従業員一同もこの時ばかりは悲鳴を上げていた。給料が増えるかもしれないというまりなの嬉しい悲鳴と、学生アルバイトには無縁の話だという京の怨嗟である。
「お疲れ〜」
「お疲れた……」
「今度お昼奢るからさ、ね?」
「どうせコンビニで買った菓子パンでしょ」
「今度はちゃんとファミレスで奢るから〜」
カウンターで京とまりなは雑談に興じている。まあ主に当日招集で重労働を強いられた挙句給料が変わらないという事でご機嫌斜めな京をまりなが宥めているのだが。
「京くーん」
そこに事情を知らずやって来たあこは子犬がじゃれるように彼の腕に自分の腕を絡め、何ならスンスンと鼻を鳴らして匂いを楽しむように顔を綻ばせる。
「あこさん……。Roseliaの皆さんは?」
一方で京は美少女に懐かれている現状について喜ぶどころかやや苦言を呈したい様子だ。彼が嬉しいことを嬉しいと言わないのは今に始まった事ではないが、今回は照れ隠しもクールガイもなしで素直にそう思ってしまっているのだ。
「なんかみんな難しい話してるから、あこはこっちに」
「いやメンバーでしょうに、貴女。何やってるんですか」
「まあいいじゃない。私、ちょっと機材の整備とかやってるから。どうぞお二人で仲良くね」
「それ気を遣ったとは言いませんからね」
そんな心情を知ってか知らずか、まりなは青春しろよとばかりにその場を離れる。それは単に遠方からものを眺めてニヤニヤしているだけだ。そんな遠回しな抗議の甲斐なく、二人のその姿勢は公衆の面前に晒されることとなった。
「今日ね、友季那さんから褒められたんだよ」
「おめでとうございます」
「心がこもってな〜い〜!」
とにかくあこはこの調子で、端的に言えば絡みが激しくなっている。最初は気付かないほどだったが、最近はそれが顕著だ。
「私、今結構眠いんですけど」
「じゃあ、寝よ?」
「寝よ?じゃなくて。どいてください」
「ヤダ」
「……何故?」
「あこが離れたくないんだもん」
「いやいやいや……」
だが、いつまでもそんな風に不毛なやり取りをしているわけにもいかない。
「ええい、こちとら疲れてるんです。どいてください」
「ヤダ。一緒に遊んで。どうせおねーちゃん辺りと仲良くするんでしょ?」
「誤解を招く表現はおやめください。CiRCLEの打ち上げの集まりに呼ばれただけです。というかそれに耐えるために今休むんですよ」
切実な様子を装って事情を説明しても、どうやらあこには響かない様子で逆に燃料を注ぐ結果となってしまった。
「ヤダー!あこが京くんの一番じゃなきゃヤダ!」
「何を訳の分からない事を……。別に今生の別れというわけではないでしょうに」
「わかってない!京くんは全然わかってないよ!」
「わかってないと言われましても。ああもう離れてください!」
「いやー!!」
実力行使で剥がそうとするが、悲しきかな非力な京ではあこと拮抗してしまっている。
(どうしてこのような事が……)
あこは明るく、精神的にも年相応であったがここまで無理筋を通そうとするようなわがままな少女ではなかった。そのような兆候もなかった筈だが。京はひたすら考えたが、省みてもこれといって思い当たる節はない。彼にとっては突然こうなってしまったという事だ。
「今私は疲労でこの上なく不機嫌なんです。離れてくださらないと怒りが爆発してしまいそうです」
「……イヤ」
「怒りますよ」
「……………」
京が強く牽制するとあこの力が緩む。その隙に多少強引に離れるとあこは暫し茫然とした様子で立ち尽くし、京を見て、そして視線を落とし。
「……………ぐすっ」
そして、溢れていたものを抑えきれなくなったようだ。
「ああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっ!!!いやっ、いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!」
あこの絶叫とも取れるような号泣に、京は驚愕して言葉を失う。
「どうじでっ、なんでぇ!?離れないでよぉ!やだ!やだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!うあああああああああああぁぁぁっっっっ!」
「ちょっと、あこさん———」
「うぇぇぇ……うぇぇぇぇぇぇぇぇぇんっ!!びえええええええええええええええええええぇぇぇぇっっっ!!」
突然堰を切ったように泣き出したあこに京の言葉は届かない。喉が裂けんばかりの悲鳴でかき消され、本人にはまったく聞こえていないようだ。
「行かないでよぉぉぉぉぉぉぉ!!行っちゃやだああああああぁぁぁぁぁぁ!!ああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
そしてその絶叫は疲れ果てたあこが気絶するまで続いた。糸が切れた人形のように崩れ落ちた彼女を支え、どうにか椅子に座らせる。文言は大体が怨嗟と嫉妬、そして懇願であった。そして京はわけもわからないまま落ちてしまったあこを介抱し、泣き声を聞きつけてやって来たライブハウスのスタッフ一同に諸々弁解し、そして原因究明に漕ぎ着けた頃には凄まじく疲弊していた。
「もしもし、巴さんですか?」
「おう、京か。どうした?」
疲労が蓄積している体に鞭を打つ事にはなるが、こうなってしまった原因が自身にある可能性を捨てきれない京はこのまま終わらせることができない。責任感というか、中途半端に情を捨てきれないせいだ。
「どうしたもこうしたも、おたくの妹の非常事態について聞きたい事が山ほどあります」
「あこが?どうかしたのか?」
「絶叫したのちにぶっ倒れました。女子を泣かせた畜生という濡れ衣を着せられた私には説明を受ける権利があります」
「……うーん、あー。怒ってるか?」
「貴女に原因があると言うのなら、あるいは。あんなあこさんを見た事がありません。ああなった原因は何でしょう」
「それがな〜……」
どうも歯切れが悪い巴に対して、この後も詳らかにはできないが数度恫喝するような言葉を京がまくし立てると、観念したように巴は喋り出す。
「原因はホントに分からないけど、二週間くらい前からかな。急にお前の事を聞かれるようになってさ。アタシもそこまで詳しくは知らないって言ったんだけど」
「二週間前、急にですか。別に何もありませんでしたよね?」
「何もなかったな。だからアタシも困ってるんだけど……」
「……そうですか。ありがとうございました」
「おう。あ、お前今日空いてるか?」
「今予定が埋まりました。どうやら私の与り知らぬところで私の影響が出ているようなので、無視はできません」
「真面目だなあ」
「人並みにですがね。何かあったら追って連絡します」
そこまで聞いて、京は電話を切った。それから出来たのは、手を握って離さないあこの手を振り払わない事だけだった。
結局あこが目覚めたのは夕方になってからで、いつものような溌剌とした様子ではなく暗澹とした気持ちのようで口数も少ない。
「あこさん、先程は———」
正直まったく心当たりがないが、とりあえず原因があると平謝りしようとする。しかし彼女は虚ろな表情で視点も定まらないままにポツリと呟く。
「あっちに行っちゃヤダからね。死んじゃヤダからね。あこはあの人達とは違うからね。……殺しちゃダメだからね」
まるで呪詛のように、蚊の鳴くような声で呟き続ける。
「……馬鹿な。どうしてそんな事が」
その言葉を聞き、京は驚愕のあまり言葉を失った。それは京が最も封印したい過去に関する言葉であり、トラウマに直結しかねないもの。いわば爆弾のようなもので、知る人物はごく一部だ。
「殺しちゃダメ、ダメ、ダメ。そんな事したら、あこが君を……。そしたら一緒になれるかな?」
京の殺意にも似た鋭い視線と、あこのただひたすらに空虚な眼差し。二人の思っている事がお互いに届く事は、遂になかった。
世間は第二波がヤベェ雰囲気ですが、皆様も感染には気を付けて。在宅ではそもそも仕事が成り立たない筆者からの切なる願いでございます。