京から見て、上原ひまりという少女は近寄りがたい存在だった。気立てはよく善人である事に間違いはないのだが、底抜けに明るくイマドキの女子高生らしい感性を持ち、どこまでも京と逆を行くような人だったから。それでも苦手と嫌いは異義語であり、彼女自身京に対しても持ち前の明るさでぐいぐい来るとはいえ嫌っているわけではない。
ないのだが。
「京君!京君けーいーくーん!コレ、おすすめの映画!最近暇してるって蘭から聞いたから!」
「ああ………どうも。何ですこれ、青春恋愛もの?」
「そう!主人公が京君に似てるなーって、今仲間内で密かな人気」
「……ああ、カタルシスものですか。あまり私の趣味ではないのですが……」
「そんなこと言わないでよ〜。あ、じゃあ一緒に見よ?アフグロのみんなも呼んで。楽しいからさ〜」
ないのだが、こうした押しの強さには若干辟易しており、是正していただきたいものである。当然それを突きつけるような真似はしないが。
「少女漫画原作ですか」
「いやいや馬鹿にできない出来だよ」
「いえ、あの瞳孔が異様に肥大した漫画を馬鹿にしているのではなく。あれの恋愛観は私にあまりにも合わないので」
「あ〜、感情移入できないとかそういうこと?」
「まあそういうことですね。あまりに突飛であれば尚更です」
「例えばどんなの?」
「芋けんぴ……。いえ、ではなく。甘酸っぱい青春学園ものは大抵私の肌に合わない」
「ほとんど合わないってことだよね?」
「そうと言っても過言ではないですね」
「いやそうなんだよ」
特に着地点など定めていない会話であるが、ひまりは興味を持った。普段能面のような無表情を貼り付けて修行僧のような簡素な生活を送る彼であるが、どこまでもそうというわけではない。年相応の面が少ないというだけである。その少ない年相応の一つが今こうして同年代のひまりといて、ガールズバンドといういかにもな趣味を手伝っているという事だ。
「じゃあじゃあ、京君ってどういう恋愛が好きなの?」
「じゃあって……。関係あります?」
しかし当然、ひまりがこの手の話を持ってきた狙いはここにある。
「あるよお。どういう恋愛をしたいのかなとか、そういう話題をしたことなかったじゃない?自分で言うのもなんだけど、お友達って可愛い子ばかりなのにそういう話も全然聞かないし〜」
「ああ……。そういえばそうですね。別にそういう話題を振られた事がないので皆さん興味ないのかとばかり」
「あるって!すっごい興味あるよ!どういう女の人が好みなのかな〜とか、あるんでしょ?」
「皆無というわけではありませんが………ひまりさん」
「うん?」
「話しませんからね。こんな実のない話を延々と」
「そんな!?」
彼女はこの手の、恋愛に関する話が大好きだ。それはもはや渇望するに飽き足らず自ら探し求めるほどに飢えており、それの関連で京もよく付きまとわれている。ただでさえ女子校のガールズバンドという男性が徹底的に排除された環境において唯一とも言える男性である京はよく突っつかれる存在なのだ。ひまりのようないい意味で、あるいは他の悪い意味で。
「休憩時間中の私を引っ張っていったのは貴女ですよ、ひまりさん。このままでは私の貴重な休憩時間が浪費されてしまいます」
「そう言われてもなぁ。私は正直、京君の恋愛の話だけでもう二時間くらい大丈夫だけど」
「変わってますね」
「そんなことないよ。みんなそう思ってる。みんな君の事が大好きだから」
「………そうですか」
思わず京は俯く。あまりに彼女が純粋過ぎてそれに目をやられるところであった。大好きというのはつまり、異性としてではなく友人としてということであり、と言い訳がましく言い聞かせなければならなくなった。ひまりという人物は中々に曲者で、底抜けに明るいという事で京と対局にあるような人物にもかかわらず彼のように物静かで静寂を好む人物にもグイグイ来る。これもまたフィクションの産物のようで、そういえばそんなシチュエーションもあったなと思い出す。
まあなんて事のない、ありがちな
『なんか王道だったね』
『でも面白かったじゃん!』
『モカちゃん的には〜、可もなく不可もなく〜』
『そうかぁ?アタシはああいう主人公はな〜』
『私はよくできてたと思うけど……。京君はどう思った?』
「私個人的には無し寄りの無しで』
京にはあまり響かなかった事をよく覚えている。彼も映画の主人公のように物静かで、ジョックスと違って運動も苦手で、サブカルチャーに関して明るいが、それでも決定的に違う部分があった。臆するか、臆さないかという違いだ。京はコミュニケーションもままならないような人間ではない。気遣いもできるが、それ以上に歯に衣着せないような物言いもする。その映画で主人公はおろおろするばかりで魅力がなかった、半端に自分と被るところがあるからこそ見ていられない存在だった。見ている分には面白いという感情さえ湧かなかった事を覚えている。
(いやいやいや、似てない似てない)
そんなシチュエーションになんぞ似ていてたまるかと、京は否定する。
「ど、どうしたの京君。そんなに見つめられたら私———」
「あり得ないです」
「何が!?」
「なんでもありません。ほら映画見るんでしょ。私でよければ付き合いますよ」
否定するあまりうっかり漏れた心の声にひまりは混乱するが、京は涼しい顔でそれをなかったことにする。そしてそこにいい感じに転換できる話題があったのでそれを使う事にした。
「あ、結局見るの?」
「見ますよ。褒めるにしても扱き下ろすにしてもね。一番の悪は食わず嫌いをする事です」
「そういうものなの?」
「そういうものです」
ただまあ、単にそんな不毛なやり取りを終わらせるためだけに映画を見たいと言ったわけではないが。それに京の自覚はない。
「他の皆さんも呼びますか?」
「うーん、私としては二人きりで観たいなー、なんて……。いいかな?」
「…………」
しどろもどろになりながら、先程までとは打って変わってひまりは自信なさげに言う。
「ダメ……?」
困ったようにひまりが笑うと、京はそれに対して特になんの感情も抱かずに平坦な口調で了承した。
「別に構いませんよ」
それに対してひまりは呆気に取られたのち、どうにか冷静さを取り戻す。
「そっか、ありがとう!ちょっと待っててね!」
「ウチは風呂トイレ別ですので」
「違う!ちょっと電話かけるだけ!」
「そうですか。ではごゆっくりどうぞ」
一瞬彼女の表情が曇ったが、すぐにいつもの調子でひまりはパタパタとアパートの廊下に出た。
「このクソ暑い中外で電話ですか」
そう言ったのちに京は小さく溜め息を吐いた。
うだる炎天下でひまりは凄まじい自己嫌悪に苛まれていた。ネガティブがすぎるあまり過去のあれやそれを掘り返してはまた気が沈んでいくという負のスパイラルにまで陥っている。
(やっぱりアレかなぁ。京君って恋愛沙汰とか興味ないのかなあ)
人を見た目で判断してはいいけないと言うが、京に関しては本当に見た目の通りの人物だ。聡明だが理屈っぽい、合理性大好き、そしてそれ以外は大嫌い。今回の事もあくまで友達付き合い、親しい人間がいた方が何かと有利という合理的な判断の下なのかもしれない。
様々な意味で、彼はひまりの中で遠い人だったし、今も少しそう思えてしまう。何を考えているか分からないというのは、単純だがそれだけで人を遠ざけてしまう。
『なんか怖い……。すごくヤバい薬とか作ってそうで……』
かつての自分がそんな被害妄想にも似た漠然とした不安を抱いていた事を覚えている。彼からすれば迷惑な事この上なかっただろう。幼馴染の羽沢つぐみが紹介してくれたというのであまりそのような詳らかにできないような感情を抱きたくなかったが、あの時の彼は凄まじかった。人を人とも思わないような、ひまりが上手く言葉にできないような正体不明の何かがあった。
『そんな事ないよぉ。ちょっと何考えてるかわからないだけで、いい子なんだよ?』
正直、つぐみの信頼がなければ京とひまりは出会っていなかったか、そこまで深い仲になっていなかっただろう。
『え、それそうやってやるの!?』
『裏技ですよ。高校数学程度ならこれくらいでどうにでもなります』
『ほぇ〜……。頭いいって本当だったんだ』
『嘘だと思ってたんですか?』
『ゔっ……。その……、ごめん……』
そんな事もあった。今省みれば中々恥ずかしいものだが、まあ馬鹿正直だったものである。
『京君って好きな人いる?』
今に繋がる事でもあるが、知り合ってまだそこまで経っていない頃にそれを聞いた。あの時彼は逡巡するように目線を泳がせ、ひまりと視線を合わせる事なく呟くように言った。
『人間的に好きな人はいます。憧れですね』
少しだけ笑った様子の彼を見たのはそれが初めてだった。今も時折彼の笑顔には吃驚するのだから、京を喋る能面か何かだと思っていた当時の衝撃は凄まじかった事だろう。
『そうなんだ。どんな人なの?』
『馬鹿みたいに優しい人です。底抜けに明るい人でもありますね』
『そうなんだ……。いい人なんだね』
『まあ、その人になりたいとは微塵も思いませんけどね。というか絶対なりたくないです』
が、すぐにその貴重なシーンは終わりを迎えた。
『あ、あれ……?そうなの?』
『私があんなのになったらそれこそ人生終了しますよ。それも周りの人たちも巻き込む最悪な終わり方をします』
『なにそれこわい……』
この後京はその人物になりたくない理由をまるで鬱憤を晴らすがごとく事細かに連ねていったが、それでもやはり京がその人物を意識している様子であるらしかった。
「やっぱりその人が好きなのかなぁ……」
あの時は特になんの感情も抱かなかったが、今は違う。いや、それが重要な課題になりつつある。
最近は様々な感情を覗かせるようになったが、それでもまだ感情は読めない。誰かに好意があるのかどころかそもそも恋愛に興味があるのかさえ不明瞭だ。まったく厄介なものだ。
厄介だが、そうでなくてはならないと思っている自分もいる。彼のような人間がそうでなくてはならないと。
「うん、そうだよね!」
やるなら自分の力であの能面に恋というもんを教えてやるぜ、と勇み足で部屋に戻る。
「遅かったですね」
居間ではやはり無表情の京が興味なさげに無表情でそう言う。それのせいでその勇み足が止まってしまう。やはり彼にとってはそんなもの俗物に過ぎないのだろうか。
「どうしたの?私の顔に何かついてる?」
「いえ。ちょっと意識していないようにしているだけです」
「……?」
それしか言わない彼の言葉からでは、ひまりは知る事もできなかったのである。