京はつくづく思う。自分は恵まれたものだと。
生まれてから今に至るまで、人生の前半はそれはそれは酷いものだった。何せ人間として扱われた記憶がない。だが事実は小説よりも奇なりと言ったところか。今となっては友人もできた。いざという時頼りになる仲間も、頼ってくる仲間もいる。
「はぐみさん……重いのでどいてください」
「女の子に重いとか言っちゃうんだ〜。京くんってば不良だな〜」
中でも頼ってくるという点で押しが強いのが彼女、北沢はぐみである。最近はそれに加えてスキンシップも激しくなっていき、京が座っていると今のように背後から抱き着いてきたりする。特にそれで困るという事でもないのだが、果たしていつからそんな事になったのかは不明だ。
「お勉強してるの?」
「いいえ?これは趣味です」
そして絡んできて何をするのかというと、特に何をするでもない。ただ雑談をしたり、ひたすらくっついて邪魔をしてきたり。
「難しい本読んでるね〜。ホントに趣味なの、これ?」
「はぐみさんも趣味に興じたらいかがです?ほら、晴天ですよ」
まったく、友達さえいなかった自分が『友達のダル絡みがキツい』などと。過去の京が知ったらなんて贅沢な悩みだと殺意さえ湧いたに違いない。
「じゃあ京くんも行こ。お外でキャッチボールしよ」
「なんで『じゃあ』で繋げたんですか。嫌ですよ、私はそういうのに付き合えるほど頑丈じゃないんです」
ましてお誘いを断るなんて。これも過去の京からすれば発狂ものだ。
「……いつもそうやってお断りするけどさ、もしかしてはぐみの事嫌いなの?」
「そんなことありません。ただ、私みたいな屋内での移動さえ億劫に感じるインドアは外で遊べないのです。そういう特性なのです」
言い訳がましく聞こえるが、しかし。京のその言葉も的外れというわけではない。何せ彼の運動能力の欠如は先天的なもので、それは最早神から罰でも受けたのではないかと感じるほどだ。そういうレベルで運動ができない。
「こころさんなんてどうですか。あの人こそアクティブの擬人化みたいな人でしょう。付き合ってくれますよ」
「そういうのじゃないんだよ〜。今は京くんと一緒にいたい気分なの」
「そう言われましてもね……」
友人として可能な限り願いを叶えてやりたいが、無い袖は振れないもの。
「私にはどうしようもありません」
そう言うしかなかった。
最近、はぐみとこんなシチュエーションが多くなった気がする。京も驚いたが、友人という立場にありながらここまで一致する点が無いというのも珍しいだろう。
「京く〜ん!コロッケ、食べなよ!」
「油で揚げたものはあまり……」
「なぁんでぇ!?美味しいのに!」
「そんな事分かってますよ。体質なんです。そんな大量に持ってこられても私の胃が受け付けません」
「ホントにぃ〜?」
「証明しろと仰るのなら食べます。ただし私が胃の内容物を戻す事があってもそれは私の責任になりませんからね」
まず食べ物の趣味が合わない。それも致命的なほどに真逆という形で。しかもそれだけではない。
友人という存在の捉え方も違う。京はかなり穿った見方をする人間で、彼にとって友人というのは利便性のために協定を結んだような関係だ。しかしそういう見方を知らないはぐみにそれは通じない。
「それならしょうがないけど……。あ、今度ハロハピのみんなで食事に行くんだけど、一緒にどう?」
「いえ……。私は遠慮しておきます。あまりそういった集まりは得意ではないので」
それら価値観を構成する前提としてある2人の性格が、あまりに異なるのだ。
僅かな歪みだが、確かにそこに違和感として存在する。
「京くんって、そういうの苦手だったっけ?」
「ええ。残念ですが、私はそもそもバンド活動との繋がりも希薄です。どうぞメンバーでお楽しみください」
京はメンバーたちと関係を断ち切ろうとしているのではない。適切な形での距離感というものをどうにか計ろうとしているのだ。ここで仲良さげにするというのは適切な判断ではない。
「京くんって、あんまり誰かと付き合いたくないタイプ?」
「まぁ、そうなりますね。人付き合いが苦手なんです。こればかりは変えられない」
本当に、何から何まで違う。はぐみは少し肩を落として京を見送った。
はぐみは苦手な存在だが、それでも誘いを断った事については考えるべきところがある。
京にとっては居た堪れない空間になることが容易に予想できても、そこに引き込もうとしたはぐみが悪いとしても、やはり自己嫌悪というのは生じるものだ。
(そりゃ友達から誘われてるなら断ってばっかじゃいけないんだろうけどさ……)
京は溜め息を吐く。人付き合いは大事だがそれでもだが苦手なものは苦手だ。
「で、自己嫌悪してるわけ?」
「そういう事です。だから無害な貴女を呼んだんですよ、奥沢さん」
「なんか嬉しくないな……」
京はライブハウスとその周辺の敷地で多くの顔見知りを認めたが、その中でもこういう話をしやすい美咲に近付いた。そしてそんな悩みを吐露したのである。
それを聞いているのは京の友人だけではない。京が思っているご本人ことはぐみもその1人だ。
(やっぱりそうだよね……)
悲しいが、そういう人間の気質は変えられないものだ。とにかく京のように進んで内向的になろうと、殻の中に入ろうとしている人間と合わないものは合わない。
はぐみはテーブルに置かれたコーヒーに目を落とす。黒色の液体の表面には浮かない顔のはぐみが映っている。
(はぐみと京くんじゃ全然タイプ違うし……)
そう割り切ろうとするが、はぐみはそこまで器用にはなれない。好意まで抱いているが素直になれない理由というのは決して甘酸っぱいものではないのだ。結局のところ、自分と意中の人がまったく異なるという事実に耐えられないだけだ。
「やだなぁ……」
はぐみはポツリと呟いた。相互理解というのは前提条件ではない。その前に理解できるかもしれない要素があって初めて理解が生まれる。だがはぐみと京の間にはそれが、言うならば互いを知るための取っ掛かりがどこにもない。どうにかしたいがどうにもならないのだ。
「私……どうして……」
年頃の少女のセンチメンタルというのは難しいものだ。根本的に脆弱で揺さぶられやすいので、ふとした事で傷付くしそれが思いもよらず深手になる事もある。
今回のはぐみの場合、どうしても許容できないのは意中の人とソリが合わない自分自身だ。まるで示し合わせたように何もかもが違う。
それが自分の存在意義さえ蝕んでしまう。京はそのあたりの機敏に乏しかった。
ある日の事。京は平日の昼間から商店街に足を運んでいた。商店街となると知り合いが数人いるが、今回は北沢はぐみに用がある。
『最近はぐみが元気ないの。京は頭がいいし、どうにかしてくれると思って!』
と、こころから半ば無茶苦茶を押し付けられるかたちで訪ねる事となった。
(そりゃ私だって気になりますけど、ホントに行かせることもないでしょうに)
この溜め息を最後の愚痴として、京は不服そうにしかめた顔をどうにかいつもの仏頂面に戻した。そして精肉店裏側にある住居のインターホンを鳴らす。
「……?」
しばらく待つが反応がない。もう一度インターホンを鳴らし、今度は呼びかける。
「北沢さんのご友人から頼まれまして、北沢はぐみさんに所用がございます。ご在宅ですか?」
それからまたしばらく経って、ようやく当人が顔を出した。
「あ、京くん……。おはよ……」
「北沢さん……?あまり顔色が優れないようですが」
何日かぶりに見たはぐみの顔色は目に見えて悪い。目の下にクマをつくり、やつれている様子で衰弱している様子だ。
「うん……。ちょっとね。まぁ上がってよ」
「そうですか……?では失礼させていただきますね」
はぐみの誘いに乗って、京は中へと足を踏み入れる。部屋の中は当人の様子と異なって綺麗に整頓されている。
(やっぱりおかしくなったのはつい最近か……)
こういう精神ダメージを喰らうと、どうしようもなくやり場のない自分への怒りが湧いてくるのだ。自分嫌いが極まるとこうなるというのは、京もよくわかる。そういう経験があるからだ。
「北沢さん……。ご気分が優れないのは心の問題ですか?」
カウンセリングをするつもりはない。ただ、京の中で予感が渦巻いていたのだ。
「……そんなんじゃないよ」
「北沢さん。私の目も節穴ではありませんので」
京は訝しむようにはぐみにプレッシャーをかける。すると、元々隠し通すつもりもなかったはぐみは、歯噛みしながらもその後作り笑いに切り替えて答える。
「私が好きになった人はね、何も分からないの。何が好きなのか、何を理由にして動いてるのか、ぜーんぶ謎のまま」
それが誰を指しているのかはすぐに分かった。京はそれでも落ち着き払った様子で耳を傾けている。
「好きになったのにさ、これっておかしいよね。お互い友達以上の関係になるのに、本当の事は何も知らないなんて」
はぐみは続ける。
「……無知は許されないんだよ。まぁ、知ったところでなんだって話なんだけどさ」
ここまで聞いて、京は一体はぐみが何を思っているのか理解してしまった。
「確かに私と貴女はタイプがまったく異なるでしょう。それでも相互理解の隔たりになるだけで不可能になるわけでは……」
はぐみはひとつ思い違いをしている。性格だとか趣味嗜好だとか、そういったものは絶対ではない。睦み合う上で有利不利はあろうが、どうにでもなるレベルだ。
ただしそれに気付くのは容易ではない。
「できないんだよ。みんなそれで挫けちゃうんだから。京くんと他のみんながそうでしょ?」
「それはまぁ、その通り過ぎてぐうの音も出ないんですけど」
何せどうにかなると思っているのは京だけだ。彼と親しいガールズバンドのメンバーは全員彼に隔たりを感じている。偶然か、意図的かは彼女たちの知るところではないが、京は常に一歩引いている。それを例外なくはぐみも知っているので、相容れることはないと思っているということだ。
「そういう風に見えた事については私の落ち度です。しかし———」
「君は一回だって興味を持たなかったじゃない!!」
はぐみは話を聞いてくれそうにない。参ったな、と京は内心で焦る。
はぐみ本人はやや錯乱しているようだが、彼女が言っていることは間違っていない。そもそも京という人間は群れるのが嫌いなタイプだ。その対象が異性ともなれば余計に、勇み足とはならない。
「最初から私に勝ち目なんてなかった!貴方は友達とすら思ってなかった!!だからッ……だから私は眼中になかったんだわ!!」
「北沢さん……落ち着いて」
何か我慢の限界を迎えたのか、はぐみはヒステリーを起こしたようにがなる。
「ねぇ、私が違うタイプだから好きにならないんじゃないんでしょ?最初っから、私に興味なんてなかったんでしょ!そうなんでしょ!?」
はぐみは京に掴みかかる。まるで一度は愛を確認して後からそんな事が判明みたいな言い草だ。どうやら彼女の中では京と良い仲になったらしい。
「いや、ですから……」
「違うの!?」
まず落ち着かせようとするが、どうにも痛いところを突かれるせいで進まない。
というか、そろそろ自分を誤魔化して他人に冷静さを説くという事に対する良心の呵責が限界を迎える。
「……全てが違う、とは言いません。しかし、私にそういうものは似合いませんよ。ほら、こういう人間ですし」
「恋愛はできないってこと?」
「そういうことですね」
「……本当に?」
「残念ながら、本当です」
このまま嘘を貫くか、白状するか。京にとってはどっちを選んでも地獄だった。なのでこれは感情的になったと言わざるを得ない。
「……もういい」
はぐみは冷たい声で言う。それは京に告げるというより、自分の中で何か覚悟を決めた独り言のようだ。
「君と一緒になれない私なんて大っ嫌い……」
カッターナイフを取り出し、その刃を自分の喉に添える。さすがにそれは冗談にならないと京は慌ててカッターを把持する手を掴み、どうにか凶器を床に落とす。
「何やってんだ、死にたいんですか!」
はぐみはその場にへたり込むと、恨めしそうに京を睨む。
「……別に、もういいよ。京くんが好きになってくれないなら生きる意味とかないし」
「本気で言ってます?」
「本気だよ」
少々ドスを効かせてみてもはぐみは絆されない。どうやら時間が経って単なる若者のセンチメンタルではなくなったようだ。
「……はぁ、分かりました」
意地になられているとなると、こればかりはどうしようもない。
「お友達から。そこから先は要相談といきましょう」
可能な限り譲歩して、京は自ら折れる事にした。そうしなければこの場が血まみれになる事態は避けられないだろう。
「ホントに!?嬉しい!!」
そんな打算が丸見えな京の言葉に、はぐみは救いを得たかのような笑顔で京に抱き着く。まるで子供のような純真さで擦り寄るが、それだけでは終わらない。
「……でも、嘘だったらホントに死ぬからね♪」
普段の彼女とは明らかにかけ離れた艶やかな声で、自らの命を人質に取りそんな脅しをかけたのである。