ある平日のことである。その日は京も、珍しく気を抜いていた。というのも『体が言うことを聞かない』という割といつも通りな身体異常に罹っていたところ、友人でも屈指の常識人である山吹沙綾が連絡を寄越してきた。これがハロハピの面々だったら大丈夫かとしつこいくらい聞いてくるので鬱陶しいことこの上ないが、簡単に休みをゲット。それだけでなく、普段は短くとも4時間は続く異常事態が幸運なことにものの数分で収まった。
やったぜ、これで1日オフになったぜと喜んだ。そこまではよかったのだが。
「わぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!けーいくーん!!!」
耳をつんざく悲鳴が響く。最初はひどく驚いたが、その声の主に覚えがある事と自分を呼んでいる事に嫌な予感が止まらない。
「あーもううるさい。お静かに願います、香澄さん」
「だってぇ〜……!!」
戸山香澄。下手をすれば彼女が一番京とタイプが異なるかもしれない。常に前向きで行動力に溢れ、強烈なリーダーシップで引っ張っていく。後ろ向きで行動することに慎重で、誰かに追従する事自分を疑わない京にとっては理解の外側にいる人物である。
「聞いて!ねぇ聞いてよ!ねぇ〜京く〜ん!」
「分〜か〜りま〜し〜た〜。分かりましたから落ち着いてください。ちゃんと聞きますから」
そんな香澄も、他の面々と同じように何故か京にしつこく絡むようになっていった。キッカケはもう覚えていないが、ここまでうるさいくらい快活な人間に絡まれるのはかなりストレスだ。突っぱねたらもっと面倒な感じで絡んでくるので、更なるストレスが予想される。そのためこうして受け入れるしかない。
とにかく近所迷惑のクレームが入る前に香澄を落ち着かせ、話を聞く事にした。
「あのね、私疲れたの!」
全然落ち着いていない様子の香澄は、そんな事を言い始めた。
「は?」
思わずいくらかドスの効いた声で京が聞き返す。そりゃ人間疲れもするだろう。わざわざそれを報告するためにやって来たのか。もしそうだったら平手で引っ叩くのも辞さない覚悟である。
「最近イベントで練習ばっかりだし……やっと終わったと思ったらテスト期間だし……それも終わったと思ったら今度は今までの生活がすっごいしんどいの!」
だがそんな覚悟が吹っ飛ぶほどに、哀れに思えてしまった。香澄のような考えるより体が動くタイプの善人はこうなりがちだ。全力投球過ぎてオフになると常人よりも徹底して省エネモードになる。あの香澄が疲れると言うのだから、相当苦労の絶えないものだったのだろう。
「あ〜……それはご苦労様です」
それは、京にとって実に反論しにくい言い分だ。京は当然バンドなど組んだ事などないのでその苦労が分かるはずなどない。よって努力が足りないだの気合いで頑張れなだの無責任な事を言うわけにもいかず、どうしたものかと悩む。
「もぉダメだぁぁぁぁぁ!!私のやる気が消滅したぁぁぁぁぁぁ!!」
香澄はそう叫んで京に縋り付く。
正直投げ出してしまいたいほどにやかましかった。しかし香澄も苦労していると思うとそれができない。元々彼女はこうしてハイテンションゆえに京とはあまり相性がよろしくないが、言い換えれば何事にも真っ直ぐな人間という事だ。実際香澄は裏表のない善人で、それに助けられた事も少なくない。
「私はどうすればいいのですか?言ってくださらないと、戸山さんが望むようにはできません」
ほんの気休めのつもりで発した言葉、香澄はそれに反応を示す。
「……私が言ったら何でもしてくれる?」
「何でもはできませんが……。まぁ、私にできることなら努力はしますよ」
何やら不穏な空気を感じたので、京はあらかじめ予防線を張っておく。これで無理難題を押し付けられたら香澄へのヘイトが溜まってしまいそうだからだ。
「……撫でて」
「撫でる、ですか?」
「そう。頭、撫でて」
香澄はぐいぐいと前のめりになってそうねだる。頭を撫でるという事が報酬となり得るかなど疑問は絶えないが、今はそんな事言っていられない。言ったら実害が及ぶ気がする。
「……それでいいのなら、いくらでも」
「ホントに?」
京は宣言通り、おぼつかない動きでたおやかな髪を梳かすように撫でる。
香澄は目を細めて気持ちよさそうに京を受け入れる。どこか飼い主に懐いた大型犬のようだ。
(何だこれ)
しばらく香澄が満足するまで続けてみようと思ったが、不思議な状況に京は思わず首を傾げる。
香澄と京は恋人ではない。特に放課後集まるだとかそういう事をしない意味では友達とすら呼べない、気の合う知人という程度だ。その程度なのだが、うっかりラブコメ時空のようなものを作ってしまっている。
「差し支えなければ、私に白羽の矢を立てた理由をお伺いしてもよろしいですか?」
「シラハ?なぁに、それ?」
「……数いる友人ではなく、私にこんな事を頼んだ理由をお伺いしても?」
香澄はどのような意図での質問なのか分からず、小首を傾げる。
「深い理由はないよ〜?そんなに、ケイくんみたいにいっつも難しい事考えてるわけじゃないし」
「私だって四六時中難しい事考えてるわけじゃありませんよ」
「なーんかねぇ、京くんと仲良しになりたいな〜って思いながら歩いてたらいつの間にか家の近くにいて」
「ハトですかあなたは……」
答えもまぁ、何というかフィーリングで生きている香澄らしいものだった。どう反応すればいいのやら、京はとにかく呆れるように言っておいた。
とりあえず、求めていたら第六感が京を感知したという事だ。どうやら大人しく満足するまでオーダーに従う以外に、この奇妙な空間を終わらせる方法はないらしい。
「……これは素朴な疑問なのですが、これで疲れが取れるものなのでしょうか」
京はそう呟いた。嬉しいからいいとか、癒されるとか、そういう曖昧な報酬関係は彼にとってはあまり好ましくないものだ。
京の発想なら苦労した分どこかで食事を奢ってもらうとか、残業代が出るとか。そうやって明確な利を得る事に意味があるのではないか。そう思えてならないのだ。
「うん、バッチリ」
「そうですか……。そういうものですか?」
「うん。みんなそうだと思うな。疲れた時とか落ち込んだ時とかは、誰かに一緒にいてほしいから」
「……分かりませんね。そんなものが原動力になるのですか」
どうしても、意見が返ってきたらそれをまた返したいと思うのは京の悪い癖だ。
「なるの〜。好きでやってる事なんだから、疲れてもそういう感じでどうにかなるんだよ」
「なるほど……。では勉強等になるとこうはいかないと?」
「いかない。全っ然ならない。そういう時は京くんと一緒にスイーツ食べ歩きとかする」
「どのみち私は使われることになってるんですね……」
京にとっては些か説得力に欠けるものだが、そういうものかと納得する。
「私の理解が及ばない領域の話でしたか」
京には、燃え尽きるまで何かをやろうとかそういう意思はない。情熱で己を奮い立たせるような自我もない。だからこそ、そういうものに慣れていない。
「え〜。私と京くんって友達でしょ?」
香澄は少し不満げに、頬を膨らませてそう言う。
京にとっては意外な言葉だった。人類皆友達くらいのノリで言ったのだろう。しかし香澄と京はバンドという共通の利害で一緒になった事はあっても、プライベートを共にした回数はかなり少ない。
そんな人物に、しかも異性に友人と言われるのは違和感もあるしどこかむず痒い。
「……定義付けがなされていないので、私の方からは何とも」
「もう、友達ってそういうものじゃないんだよ」
香澄は頬を膨らませる。しかし口調は優しく諭すようにして言った。
曰く、友達というのは打算ではなくフィーリングに合うかという事らしい。その曖昧な部分を直感的にキャッチできるかが重要なのだと言う。
「分からないですね。……まったく分からない」
京は困惑するしかない。フィーリングとか、直感とか、そういうものが理解できないのだ。
「えぇ〜?京くんは頭いいから絶対分かると思ったのに〜」
「限度がありますって」
どういう風に見られているのか不明だが、とにかく京は器用ではないという事だ。
「その直感に従った結果が、今のバンドですか?」
「そうだねぇ。ほんと、私もよくできたなぁって自分で思ってるよ」
京にとってはその香澄の言葉は意外なものだった。てっきりなるようになった結果とばかり思っていたので、目を丸くして驚く。
曰く、香澄にとってもここまでの結果は予想外のものだったらしい。一度は夢破れた人間や葛藤を抱えた人間なんかが集まって、学生の青春という事で時に馬鹿げたような事もやった。
「楽しかったよ、とっても。今考えると、何やってるんだろって思うような事もあったけど」
ここまで来てやっと、香澄が何を言いたいのかについて気付いた。
どうやら自分は心配されているようだ。京は暫し考えていたが、そういう結論に達して、そういう事かと香澄の目を見る。彼女は慈しむような目で京の事を見ていた。いつも目を輝かせてハキハキしている彼女らしくない。
「私は楽しめてはいないと?」
「うん。だって京くん、いっつも難しい顔してる。ホントは楽しいとかそういうんじゃないんでしょ?」
「残念ながら、そういう性格なもので。馴れ合いは嫌いではありませんが、苦手です。無くても生きていけると思っています」
京はそういう話をするのも苦手だ。あまりいい思い出も無いし、そういう考えを持った経緯も明るいものではない。そういうわけで、京はさっさと話題を切り替えようとわざとらしく溜め息を吐いた。
「別に、昔の事を忘れろなんて言うつもりはないけどさ。私は本音でいてほしいって思うよ。昔がどうだったから今もどうなんて、呪われてるみたい」
いつもは腹が立つくらい能天気なのに、今の香澄は腹が立つくらいに的確だ。
京にだって自覚はある。危機感もある。昔に囚われ過ぎてその傀儡になっている事なんて馬鹿らしいと思っているが、刻まれてしまったものは拭えないものだ。気概一つでどうにかなるようなものではない。今までの京ならば『くだらない事を言うな』と一蹴していただろう。
「……慎重に協議を重ね、前向きに検討させていただきます」
「わっ!京くんがデレた!いつもならスゴい勢いで馬鹿にされるのに!」
「自覚あったんですか……。というかデレていません。そういう感情はありません。私も必要と判断したまでです」
だがそれができなくなったのも香澄のせいだ。彼女が余計な友情などを教えたせいでこうなった。
それを余計なお世話だったとさえ言えず、受け入れてしまった京本人も難儀なものだ。彼自身もどうしたものかと頭を捻るしかない。
何か自分を省みるのに、円滑なコミュニケーションのためなんてお題目を背負うのが初めてだったからだ。