思えば、兆候はあった。なのに何もしなかった?そうではない。彼は許さなかった。自分のための慟哭も、憐憫も。これが許されないのなら、しかしそれで友人であれるのなら、それは矛盾なのではないか?それを友情とは呼べないだろう。
「ねぇ、京」
「はい」
「貴方、芸能界に入ろうとは思わなかった?」
「ある芸能人のファンというだけで芸能界を志す人間はいませんよ。例外なく、存在しないでしょう」
「………そうね」
案外、憧れの目なんてそんなもの。憧憬というのは冷めるもので、千聖もまたその1人であった。
「千聖さんは逆に、芸能界を放り出したくなる事はないのですか?」
「いっぱいあるわよ」
「ですよね」
「でもそういうわけにはいかないわ。一度でも世間様に顔を出してしまったら、抜け出すのは容易ではないもの」
「まったくその通りで」
ある時、いつものように茶を嗜みながらこの救いようのない世界を学生なりに見据えていた時の事。
「京、平日は空いてるかしら?」
「ええ、基本的には。どうせ保健室登校ですし、どうとでもなります」
「平日の真昼間に投稿してると思ったら、そういう事だったのね………」
彼がアイドルバンドことパスパレに曲を提供してからも、本人名義ではなくハンドルネームでインターネットに投稿している。本人曰く『こっちが本業』らしいが、楽しみなようで何より。
ではないらしい。
アレルギーを患っているが如く、彼は芸能界をひどく忌避していた。バンドのメンバーに会う度、取り繕ったような急造の笑顔で誤魔化す。今でもまともに話せるのは麻弥と千聖に限られる。
「人と接するのは苦手なの?」
「何をカウンセラーみたいな事を」
「ふふ、そうね。私とした事が」
2人とも、色々な人間の顔色を伺ってきた。
1人は身を投じた世界で必要なものだったから、もう1人は………
眩暈。
「どうして………」
「……………」
懐疑。
「ごめんなさい………許して………」
「……………」
そして決壊。
「え………そんな………それ、本当なんですか?」
ある程度規制がかかっているとはいえ、芸能事務所というのは不特定多数が集まると言える。
事務所は本人の許可を得て、作詞作曲の名義を出水京ではなく、ネットのハンドルネームを使い、謎多きシンガーソングライターとして紹介した。千聖も満足な出来だったのだが、問題はその後だ。
「出水君がパーソナリティ障害………本当ですか?」
彼は何も言わなかった。言えなかったのではない。少なくとも、彼は仕事に関係する全てを千聖に告白してきたし、千聖も丁寧にそれに応えて、逆もこなしてきた。
「わかりました。本人に………ええ、問題ありません。彼は私を信用しているので」
電話が2台があればと思ったのは初めてだ。震える手で画面をタップし、コール音にもどかしさを感じる。ガチャリという音と共に堰を切ったように話す。
「京?今どこ?ちょっと今から会えないかしら?どうかしら」
「珍しいですね、千聖さん。何をそんなに慌てていらっしゃるのですか?」
「………貴方の事で話があるの。緊急よ」
「そうですか。そう………ははは、もしかしてバレてしまいましたか」
「………隠してたの?」
「千聖さん、どうして私と貴女が今の関係になれているか、おわかりですか?」
「その話は会ってしましょう。ここで待ってるから」
「こことは、どこでしょう」
「わかってる癖に」
自ら首を絞めたのかもしれない。日中は、仕事も含めて全てが頭に入らなかった。
夜はどうにも、千聖の職業柄と言うべきか何と言うべきか、とにかく苦手だ。暗いというのはそれだけで不安を掻き立てる。見えないというのは、余計な想像力を働かせる事になるからだ。
「待ちましたか」
「本当に来るのね」
「呼ばれたから来たんですがねぇ」
「ウソウソ。待ってたわ」
冗談めかして千聖は笑う。
「その………嫌だった?」
「何がです?」
「ゴメンなさいね、知らなくて」
「別に構いません。私が言わなかっただけですから」
いつもの皮肉も、愚痴も、全て無くして急にしおらしくなった千聖は今まで見ないような儚げで、散りそうな顔で俯いていた。
「違う。もっと早く気付けた筈。ごめんなさい、ごめんなさいね………」
「どうか気に病まないでください。私が意図して言わなかった」
「どうして………?」
「………
違う。そんな言葉を、そんな顔で、声で、絞り出すように、苦痛のように、話してほしくなかった。
「友達だったら………もっと頼ってよ………」
「わかりませんね、まったく」
まったく不器用なもので。初めて異性の口から聞いた友人という言葉に、まるでプロポーズを受けた生娘のように少しだけときめいてしまったのである。
「どうして………どうしてっ、そんな!」
そして、眩暈。
そんな事で、友達を語って欲しくなかった。友のあり方を、そんな風に解釈してほしくなかった。
それがたとえ、献身だとしても。
貴方が自分を自分で守らないのなら、私が———
千聖は変わっていた。突然、二重人格がスイッチするように変貌したのではない。
どこかで人を避けているように見えた。しかしそれは千聖の見当違い。
本当は、選んでいた。完全に隠し通せるほど抜けた人間………ではない。彼が求めていたのは、うっかり事故で漏れてしまった時に、切り捨てても、あるいは切り捨てられてもダメージを受けない人間。
そういう意味では、ビジネスパートナーでしかない彼女はうってつけであった。
「私のためにそんな事しないで。私は、貴方にそんな事させてまで………」
「………すみません。これは私の咎です」
「……………」
強く抱き締めた。彼はいつ爆発するとも知れぬ時限爆弾を抱え、それを無邪気に爆発させようとする人間から守り通してきた。
無神経だ。無理筋だ。それでいて、私は勝手だ。
罪悪感が千聖の全身を突き刺す。結局のところ、自分は彼の力と才能以外に目を瞑った。
出水京を選んだ自分は間違っていない。その証明のためだけに、彼の心など最初から存在しなかったように、彼を引き摺り出した。
「………私、最低だわ」
「千聖さん、どうかそれ以上は」
「京………」
「はい」
「私の事、許してくれる?」
違う。私が言いたいのは違う。こんな浅ましい、おこがましい事じゃない。
「許すも何も、貴女を恨んだ事は一度だってありません」
違う。そんな優しい言葉をかけないで。いっそ罵って。私は何て………
「償わせて………そうじゃなきゃ………私、おかしくなりそうよ」
京は、彼女を諭そうと出かかった言葉を嚥下した。彼女の信じる贖罪を、償うべき人間がいるのに許されない。それほどの生き地獄で彼女は、きっと壊れてしまう。
気にしないでほしいという言葉が、千聖の心を思う正義から、自分の言葉で人を壊したくないという偽善に堕ちた。
「辛かったのよね………ごめんなさい………」
千聖もまた、彼を慈しみ、この手で抱き締める間は、ほんの少しだけ罪悪感を紛らわす事が出来た。
彼女の贖罪は、何も苛烈を極めるというほどの事でもなかった。罪悪感はあるものの、それで自傷に走れば京が悲しむ。それがブレーキになっていた。
その代わり、と言ってはなんだが。
「いいのよ、京。私がやっておくから」
だとか
「貴方はゆっくりしてて」
果ては
「何だか………おかしいわ。貴方に頼られると、満たされるの」
どうやらその嗜好すら捻じ曲げられてしまったようで。最早彼女の贖罪という言葉は形骸化してしまい、言い訳に成り下がってしまった。
千聖にとって、彼がどうしようもなく愛しい。
力なく項垂れる彼も、救いを求めてもたれる彼も。
いけないわ………これは罪を償うためなのに………
「やん………」
どうにも、面白くない。しかし、素敵だ。罪を償う、なんてもっともらしい大義名分を盾にして自分の欲望を満たしている。背徳的な快感が全身を駆け巡ると………
彼がどう考えてるだろうか。そんな事を忘れ、望むべき姿の自分との乖離を想像すると、また何か人道にさえ背くような罪の味がする。
「………落ち着いた?」
「はい。もう大丈夫、大丈夫です。ありがとう」
余韻のように罪悪感が千聖を苛む。あぁ、彼の気持ちを踏み台にして快感を貪るなんて………
しかし、それに気付く様子のない京はいつも通りの鉄面皮を被ると、感謝の言葉まで述べた。
「ねぇ、京………」
「はい」
「偶に、偶にでいいから、こうして抱き締めさせてほしいの。そうすれば、落ち着くでしょ?」
まるで京が望んでいるからしてやるんだとばかりに。どうしたって自分の汚さを見せず、彼のためと盾を構えて。今の千聖の中にあるのは、この期に及んで彼を騙す罪の意識と、それを知らずに彼女に安息を求め続ける憐れで、それでいてどうしようもなく愛おしい彼を抱き締めた残り香の快楽である。
「ごめんなさい、ごめんなさい………あぁ、はは………」
泣いているのやら、笑っているのやら。折衷したような彼女は一見矛盾する感情を抱えて、涙を流しながら口元を歪ませた。
「ごめんなさい………気持ちいいのが止まらないの………」
相反する筈の感情がかき混ぜられる。
もう、手をこまねくのはやめよう。
千聖は京を抱き締める時、絶対に顔を見せない。
自分は罪を償わなければならない。快感に蕩けてはいけない。僅かに数センチ顔を上げれば顔を赤らめ、惚気るように上気した千聖の顔がある。
「ええ、ごめんなさい………私の勝手で、貴方の傷を………」
言葉は彼に浸透する。しかし彼女の本意は、どこまでも、京の信じる千聖を裏切る。
「千聖さん?」
「ん、どうしたの?」
「例えば私が、必要ないと貴女を突っぱねたら、貴女は納得しますか?」
「おかしな事を言うのね、京」
それはタラレバの話であった。が、それを興味本位で話してしまった事は避けるべきだったかもしれない。理路整然としていれば良かったのか、と問われればそれには頷きかねるところだが。
「必要ないなんて言わない、いいえ、言えないでしょ?」
「………まったくその通りで」
遅効性の毒に侵されるように、お互いはお互いに既に依存していた。
京は千聖の醸し出す自己満足と背徳の優しさに、千聖は京の持つ本質的な弱さに。
京は最早、彼女のもたらす充足感に絡め取られ、千聖は彼に依存される事に依存してしまった。
恋は盲目とは言うものの。それは傍目からすれば需要と供給の関係でしかない。しかし、たとえそうだとしても、第三者が愛を疑おうとも。
偽ろうとも
欺こうとも
「愛してるわ、京」
「はい、私もです。千聖さん」
それは、確かに愛だった。
人によっては後味悪いエンドかな?