1日がもうすぐ終わる。…今日は野宿だ。
あたたかいこの春島で野宿は苦ではない。そのため気分がいいのか、姉は船に積んである酒とつまみを追加で取りに行った。
ロシナンテはひとり、先程まで座っていた場所に再度座ると、考え事をし始める。ローのことだ。
ーー最初心にあったのは同情だと、彼は断言できるだろう。
ドンキホーテ・ロシナンテ。ドンキホーテ家という天竜人の一家に生まれた可愛い次男は、ある日突然地獄へと落とされた。
初めて感じる痛み。初めての空腹。初めて衣食住に困るという初めてづくしの経験は、まさに不幸と言えるものであった。
その途中母を亡くし、姉を犠牲に生き延びる。だが父は兄に殺され、兄は極悪非道な海賊へと堕ちていく。不幸の連鎖。
頼れる者がいない。人が恐ろしい。明日生きているのかわからない、といった恐怖はロシナンテもよく知っていたし、知っていたからこそ、このローという少年を可哀想と思った。
だが、その同情というもののみでできることは限られていた。いつしか少年を救ってやりたいと彼の正義感が訴えるようになり、とうとうたまらず飛び出してきて約半年。
ホワイトモンスターだ何だと貶されることはあれど、明確な治療法は今のところ見つかっていない。
珀鉛病という病気の重さと、迫害の根深さを甘く考えていたロシナンテの失態だった。
唯一姉が十数年探して分かったのは、肝臓に鉛がたまっているというもの。かなりの収穫ではあるが、まだ足りない。
可哀想だと思った。いつ死ぬかわからない不安を、恨みと世界への怒りで塗り潰そうとしているこの少年が、幼い頃の兄と重なった。
あのとき自分がもっと強かったら? あんなに子供じゃなかったら?
もしもの世界なんてないけど、あの頃からずっと、そう考えてしまっている。今だってそうだ。己の不甲斐なさに泣けてくる。
「…ロシー」
顔中から出るもの全て出しているロシナンテに、そっと影が歩み寄った。
月明かりに照らされて輝く、母と似た指通りの良さげな髪。華奢な腕にはビール瓶が二本と、スルメイカが抱えられていた。
姉はビールを一本、瓶ごとロシナンテに渡すと、横に腰かけた。しんみりとした雰囲気に、なにも話せなくなる。
「久しぶりね、こうやってのんびり話すの」
「あァ…そうだな」
姉の声は不思議と心地よく、流れるように耳に入ってきた。
そういえば、昔話や子守唄を歌ってくれていた母の声も、こんな風に聞きやすかった覚えがある。
人が人を忘れるとき、一番初めに忘れるものは声だと聞いたことがあるが、姉の声はきっと一生忘れないだろうという自信がロシナンテにはある。
昔話。昔よく、母や姉、そして兄までもがDの話をしてくれていたのを覚えていた。
悪い子はDに食べられてしまう、といって子供をしつけるのが主流だった。かくいう姉も、ドフラミンゴやロシナンテにそう言っていたものだ。
昔はDなんて何なんだか分からないし、教えてももらえなかったので普通の子なら「嘘だ」と言うのかも知れないが、ロシナンテの場合は情報量が少なく胡散臭くても信じてしまっていた。純粋だったのである。
「私、ローを助けたい」
ポロリと無意識に出たような姉のその言葉に、ロシナンテは横を向く。
すると同じように柔らかくこちらを見ているロレンソと目が合い、つい「お、おれもだ」と声がうわずってしまった。
ローを助けたい。その気持ちに、嘘はない。もちろん姉もだ。
けれど心のどこかで、姉を巻き込みたくないと思っている自分がいる。今自分がしているこの行動で、ドフラミンゴは確実に自分が裏切り者だと悟っただろう。もうファミリーには戻らない。戻れない。この旅が長引いたときから、そう決めていた。
戻れば海兵だという証拠をつきつけられるか、気付いていないフリをして利用し、殺されるか。とにかくもう弟という立場を利用して潜入することは不可能だろう。
背中を冷や汗が伝う。殺されるかもしれないという感情が見えてきて、すがるように姉を見た。
「あのさ…ありがとうね、ロシー」
「え……?」
唐突に礼を言われて予想外だったロシナンテは、返す言葉を見失ってしまった。
横に座る姉は自分を見て、優しく微笑んでいた。張っていた気が緩んだ気がする。
「今まで私の代わりに、ドフィを止めようとしてくれたんでしょ?」
「! い、いや…その」
姉が居なくなって義父に引き取られ、自分の弱さを知った。助けられないと、支えられないと生きていけないのだと痛感して、姉の大切さと苦労を知った。
昔から頭のいい姉は先を見越したように行動をとり、勘もよく、少し体は弱いが運動神経は抜群だった。おまけにドフラミンゴの扱いもうまい。
そんな姉が輝いて見えていた。ああなりたいと思った。姉ならきっと、海賊に堕ちていった兄の手を掴もうと、引き上げようとするだろうと思ったから、自分の生き甲斐をそれにした。
微力でも、姉の代わりになろうとした。
だからつらい訓練も頑張れたし、兄を見捨てようと思わなかった。
どんな形であれ、救う。弱い弟だけど、泣き虫な弟だけど、兄が好きだったのは事実だ。
だからその反面、本気で兄と敵対してしまったとき、兄に銃を向けられるのか不安でもあったのだけれど。
「私ね、ずーっと…逃げてたんだと思う。ドフィと出会ってからの4年間」
「逃げてた? …いや、姉上は、」
「ううん、逃げてた。…怖かったの。あの、倉庫に居た人たちの目が。濁って、感情のない…私の苦手な目」
そういえば、ロレンソは昔から「奴隷の目が苦手」と言って奴隷を持とうとしなかった覚えがある。
苦手ならくりぬけばいい、などとのたまったドフラミンゴの尻を叩いていたっけ。あの頃が懐かしい。
「その目をした人にはきっと復讐される。昔もそうだったでしょ? だからあの倉庫に行くのは正直いやだったし、ドフィにも軽くしか注意してなかったわ。…でも、それじゃダメ。もっとしっかり叱らなきゃ。じゃなきゃ、それは逃げてることになる。目を逸らしてることになる」
まっすぐと水平線を見つめながら、自分に言い聞かせるようにロレンソは語っていた。
逃げてはいけない。目を逸らしてはいけない。それはロレンソの生き方そのものであったし、ロレンソの償いのようなものなのだろう。
天竜人が人を幸せにすることは難しいと、そう幼い頃姉は呟いていた。諦めも混じったようなその言葉を、小さかったロシナンテは首をかしげながら聞いていた。
でも今、姉はその考えを壊そうとしている。諦めずに、希望を持とうとしている。
昔から何事も達観し、先を見すぎていたせいで足元のおぼつかないロレンソの、小さな成長であった。
「…私もう、逃げない。他人からも、ドフィからも、ロシーからもローからも」
見たことのないくらいたくましい笑み。
それは後先考えなしなのに変わりはないはずなのに、昔自分自身を犠牲にしてロシナンテたちを生かそうとしていた姉の笑みとは、少し違う気がした。
「ロシーだって、こんなに立ち向かっているんだもんね」
「…姉上……」
「ありがとう、ロシー。他人のために泣ける子に育ってくれて、姉上すごく嬉しい」
ロシナンテの顔からボロボロと落ちる涙を拭って、ロレンソは思いきりロシナンテを抱き締めた。
約20年。長い月日を経て、こんなに立派になった弟を誇りに思わない姉がいるわけがない。
すん、と鼻から息を吸うと、懐かしい姉の香りがしてロシナンテはまた泣いた。
変わっていない花のような香り。転けて泣くといつも抱き締めてくれていた、大きな大きな存在。
それが今、すっぽりと包み込めてしまうほどに小さい。なんと華奢な体なのだろう。ロシナンテは知らなかった。
「絶対、ぜーったい、ローを助けて幸せにしよう」
「…っん"、う"ん…!!」
「楽しみだなぁ。きっとお父さんに似るぞ、ローは」
ロレンソは少し先でこちらに背を向け眠ったフリをし、肩を震わせて泣いている少年を視界に入れると、心から愛しそうに笑った。