銀河英雄伝説異端録 ~白銀の鷲は銀河に羽ばたく~ 作:中澤織部
多分、このくらいのペースになってしまいそう。
「全く、シュターデン教官は私の戦い方が間違っているとでもお思いなのかしら?」
寮室に戻るなり早々、リーゼロッテは不機嫌さを隠しもせずにビルギットが淹れた紅茶を、無駄に優雅な所作で飲んでいた。
シュターデンから提出を命令された山のような反省文と艦隊運用教本とそのレポート用紙は、彼女の机の上に積まれているが、未だに手付かずのままである。
「い、いやぁ…、あの戦い方は流石に無いんじゃないのかなぁ…」
同室ということもあって、何だかんだと茶を一緒に飲んでいたダリアは、先のシミュレーター戦の惨状を思い出しながら言った。
リーゼロッテとアルフレートの艦隊はそれぞれ一万五千隻も用意されていたにも関わらず、双方合わせて無事だった艦は最終的に僅か三千隻未満という、最早泥沼を通り越したナニカとしか言い様のない消耗戦は、艦隊運用に関しては素人のダリアから見ても頭がトチ狂っているんじゃないかと口を悪くしてしまいそうなレベルだった。
「あ゛? 何か言いましたかしらこの平民?」
しかし雉も鳴かずば何とやら、不用意な言葉にリーゼロッテがドスの利いた声色で睨みつけてきた。
「ヒィッ、ご、ごめんなさい…」
平民というのは権威や権力にはとことん弱いものであるが、このダリアという少女は背丈こそ平均的な帝国人女性と比べて長身ではあるのに、その性格は反して殊更に小市民的で気弱な小心者だった。
身体はリーゼロッテよりも大きいのに、睨み付けただけで直ぐに縮こまってしまうのを見て、この傲慢な子爵令嬢は大変悪かった筈の機嫌を、何事もなかったように直してしまった。
「流石はリーゼロッテ様、まことにチョロいですね」
寄越されたリーゼロッテのティーカップにお代わりの茶を注ぎながら、仕える主君を煽り始めるビルギット。
流石に慣れているのか、リーゼロッテの方も機嫌が急転直下とまでは行かないようで、少し眉間に皺を寄せて溜め息を吐いた。
このビルギット、ブランケンハイムに代々仕えてきた名門騎士の長女の筈なのだが、主君を馬鹿にしているとしか思えない言動が多い。
しかし、そのくせに全般の能力が高くそれでいて忠誠心は随一と言えるので、彼女の父母や周りの者たちも叱るに叱れず始末に終えないのだから、一体全体どうして銀河帝国の貴族社会でこんな風に育ったのか、リーゼロッテには甚だ疑問であった。
「まあ、それよりも問題は私につけられる監視役ですわね」
リーゼロッテの呟きに、ビルギットは無言の首肯で同意して、ダリアは少し首を傾げた。
「あ、あれ? 反省文とレポートは、どうするの?」
「ああ、あんなものは小一時間もあれば終わりますし、手間にもなりませんわ」
貴族さまって凄いんだなぁ、とダリアが感心する。
実際のところは、レポートの途中になってリーゼロッテがビルギットに泣きついてくるのだが、ビルギットはダリアの反応が面白そうだったので黙っていることにした。
とは言え、彼女からしても問題はリーゼロッテの監督役になる上級生が誰なのか、という点である。
「誰を選ぶかはロイエンタール上級生に一任されているようですが、さて最上級生ともなれば一年もすれば卒業して任官するのですから、誰もやりたがらないのではないでしょうか?」
「ロイエンタール先輩かぁ。…あの人、何か怖いんだよね」
ビルギットの言葉に、ダリアが娯楽室のシミュレーター戦を思い出して呟く。
彼女は、あの金銀妖瞳の青年に得体の知れない、曖昧で言い様のない不安を感じたのか、少し声を震わせながら呟いた。
「まあ、ロイエンタール上級生は席次一番の優等生ですから、リーゼロッテ様“程度”の指導を任せる相手ぐらいは難なく探しだして来られるでしょう」
「程度!? 程度と言ったわよね、今はっきりと!」
「まあまあ、リーゼロッテ様にダリア様も。そろそろ消灯時間なのですから、寝るといたしましょう」
「話、話はまだ終わってませんのよー!?」
……
翌日、リーゼロッテたちは午前中に集中して行われる座学の後、昼食を終えた後に控えていた午後の実技教練を受けていた。
銀河帝国の教育カリキュラムにおいて、昼食と休憩を挟んだ午後の科目は、総じて体育や実技訓練と決められている。
これはルドルフ大帝が、『体育は毎日欠かさずに行うべき科目である。何故ならば、健全な精神とは健全な肉体に宿るものであり、常に鍛え続けているのならば、怠惰で堕落した考えなど浮かばないからだ』という類いの主張を常々していたことに起因する。
大帝は銀河連邦時代の教育機関が抱えていた学力低下問題に対して、午後に行われる座学が総じて成績低下に繋がっていると気づかれ、昼食の後には休憩を挟んで英気を養い、午後に身体を動かすことで健康な肉体を維持する方針を掲げた。
この新しい規則により、ルドルフ大帝は帝国の教育水準を銀河連邦末期の頃から急激に回復させたと言われている。
…もっとも、この教育方針が出来上がる経緯には、ルドルフ大帝がまだ学生だった時代に、午後の座学で頻繁に居眠りをして大恥をかいたことが原因であったと、由緒ある門閥貴族の間で密かに伝えられているが、真偽の程は不明である。
それは兎も角として、リーゼロッテ・フォン・ブランケンハイムは運動が嫌いである。
小さい頃から模造品の剣を片手に庭を駆け回ってこそいたが、彼女が真に好んでいるのは艦隊指揮であって、自らが汗を流して戦場を駆け回ることではない。
「ゼェ…ゼェ…こんな、こんなこと、高級士官がすることでは、ありませんわぁ…」
リーゼロッテは現在、士官学校の運動場で息も絶え絶えに走っていた。
最初の授業ということもあって、基礎能力の確認のために始まった持久走であるが、まるで一面の荒野にも似た広大や運動場を延々と走り回されてから、既に二時間は過ぎている。
隅には既にリタイヤした者たちが倒れ、また座りこんでいるが、そこにはダリアの姿もあった。
ダリアは走り始めて早々に足を滑らせて顔面を地面に叩きつけるというアクシデントを起こしてリタイヤし、医務室で治療を済ませた後は運動場の隅で体育座りをしながら風景を眺めている。
既に殆どの生徒がリタイヤしているなかで、リーゼロッテは未だに走り続けている。
昨日には一悶着があったアルフレートとその取り巻きたちも、既に大の字状に転がっているが、しかし、リーゼロッテの目の前には走るのを止められない理由がいた。
「まだまだ走れる奴は続けろ! 手を抜いた奴は痛い目を見るからな!」
教官の張り上げた声もどこ吹く風か、息も絶え絶えのリーゼロッテとは対照的に、ビルギットはペースを崩しもせず、呼吸の乱れもなく淡々と走っていた。
これだけ走っていれば、正規の帝国軍人といえど消耗していておかしくはないのだが、彼女は走り始めた時点と変わらない速さとペースで続けている。
手を抜いている訳でもないのに、これだけ走り続けられているのは一体どういうことか。
「お嬢様、お疲れでしたらお休みになられた方が宜しいと思いますが?」
「っ…あ、貴女ねぇ…」
走りながら、平時と変わらない調子で言ってくるが、それに答えられるほどの余力は、既にリーゼロッテには残っていない。
「…駄目、もう…無理ぃ…グハッ」
走り始めてから二時間十七分を過ぎたところで、遂に限界を通り越していたリーゼロッテは倒れた。
同時に、サボる生徒がいないか監視していた元装甲擲弾兵の、顔面に幾つもの傷が残った中年の教官がビルギットに声をかける。
「ようし一旦止め! ……さて一応確認するが、ビルギット・フォン・シュレディンガー候補生は、後どれ程走れるかな?」
「ハイ、まだ体力には余裕が御座いますので、後二、三時間ほど走れますが」
教官は「うむ」と頷くと、ビルギットの肩に筋骨粒々とした、岩のような手をおいて朗らかに言った。
「喜べシュレディンガー候補生、貴様を地上軍並びに装甲擲弾兵に推薦してやるぞ! 我らが英雄オフレッサー閣下もお前ならば喜んで受け入れてくれるだろう!」
満面の笑顔を浮かべて告げた元装甲擲弾兵に、ビルギットは何時もの能面で答えた。
「いえ、お断りします」
……
午後の実技が終われば、その日の授業は終了するのが帝国軍士官学校のカリキュラムだ。
士官学校に通う生徒たちは、各々の判断で夕食までに空いた多少の時間を埋めることになる。
これは実戦における現場判断を養う一貫として用意されており、自己裁量による最善の判断が求められている。
勿論、生徒よりも数が少ない教官が一々採点するわけではないし、以前には記録用にも兼ねて至るところに設置されていた監視カメラ等を用いた評価システムも、ダゴン会戦の頃には『やりすぎ』と当時の皇帝から態々苦言を呈された上に、ティアマト会戦以降の帝国が抱える問題とされる我が儘な門閥貴族の干渉を受けてカメラの悉くが排除され、評価基準にはならなくなってしまった歴史がある。
故に、現在の評価基準として束縛されることがなくなったこの時間帯は、多くの貴族子弟が遊びに使い、平民の学生らも息抜きに消費する帝国内でも珍しい自由で陽気な時間として扱われている。
そんな時に、リーゼロッテは全身を襲った疲労と筋肉痛によって、教室の机にだらしなく突っ伏していた。
「ぐぇ……身体が……」
現在の彼女は制服の下に満遍なく湿布をベタベタと貼りつけており、自慢の美声を紡ぐ喉からは潰れたヒキガエルのような声が出ている。
「お嬢様、人には生まれながらの向き不向きというモノが御座います。ぶっちゃけお嬢様が見た目と家柄以外に取り柄がないロクデナシでも、それはお嬢様の持つ個性であり事実なのですから仕方がありません」
「…あ、貴女、何か最近になって段々と対応が非道くなってきていないかしら…?」
「だ、大丈夫? 夕食は抜いて休んだほうが…」
何故だろう。普通に心配してくれる分、ダリアのほうが忠臣であるかのように錯覚しつつある。
「そ、そうです、わね…。流石に身体が…」
確かに、ダリアの進言通りに今日はこれで休んで寝ようと、そう考えたリーゼロッテは筋肉の痛みが酷い身体を起こし、席を立とうとして…。
「おい、リーゼロッテ・フォン・ブランケイハイムは居るか!?」
バン、と壊しかねない勢いで扉を開けて、その男は教室の中には入ってきた。
最上級生であることを示す記章を胸に着けた、筋骨隆々で大柄な体躯に不釣り合いな細面に、オールバックにしたオレンジの髪をした青年は、教室中の視線が自身に集中しているのを気にすることもなく、室内を見渡す。
「え、えぇっと、失礼ですがお名前は…」
「何だ、お前がブランケンハイムか?」
「い、いえ…、わ、私の名前はヴィンツ…」
「俺が探しているのはブランケンハイムだ! 何処に居る!」
「ヒッ──、え、えっと、彼方に…」
丁度扉の側に居たがために、理不尽にも怒鳴り散らされたヴィンツ少年は縮こまり、恐る恐るリーゼロッテに指を向けた。
「おお、感謝するぞヴィンツ候補生、怒鳴って悪かったな」
そう言ってズカズカと近寄ってきたオレンジ髪の男は、リーゼロッテの前に立ったのと同時に、大きな声で言った。
「貴様がリーゼロッテ・フォン・ブランケンハイム候補生だな?
俺はシュターデン教官殿から、貴様の監督役を任せられたフリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルトだ」
「あ、貴方が監督役の上級生でいらっしゃいますのね? でも失礼、今日は身体が限界なのでまた後日に…」
そう言ってそそくさと帰ろうとしたリーゼロッテの左腕をガッシリと掴んだビッテンフェルトは、これまた大きな声量で言う。
「そんな甘やかしは通じんぞ! 馬鹿な上に常識知らずの貴様にミッチリと用兵や艦隊戦を教えるようにと、任官先が未定で暇を持て余していた俺に、マニュアルバカのシュターデン教官が押し付けてきたのだからな!」
「あ、貴方は他人への言葉選びとか、配慮というのを考えておりませんの!?」
「我が家には『人を褒めるときは大きな声で。馬鹿にするときはより大きな声で』という家訓があるのだ」
「それ、要は『悪口を言うな』って意味じゃありませんの!? あ、あと、本当に痛いのですけれど──!」
「む、それはすまんな」
ヒョイ、と引き摺られていたリーゼロッテは突然に肩に担がれて、そのまま連行されていく。
「だ、誰か助けてくださいましぃぃぃぃぃ──!?」
喚きながら連れていかれるリーゼロッテを、流石に一人にはしておかなかったビルギットとダリアの両名は、彼女の鞄を抱えてビッテンフェルトの後に付いていくことにした。
……
監督役としてつけられたビッテンフェルト最上級生からの指導に振り回されるリーゼロッテだったが、夏期休暇に合わせて故郷であるブランケンハイム伯爵領の別荘で過ごそうと計画する。
側近であるビルギットと、序でに数少ない友人としてダリアも連れて、別荘のある惑星に向かうのだが…。
銀河の歴史が、また一ページ…。