ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
医務室での夜を迎えたツグミはあっけないほど簡単に深い眠りに落ち、その夜は悪夢を見ることはなかった。
そして目覚めもすっきりとしていて、あの悪夢を見たという事実こそ悪夢であったのではないかとさえ思えてくるほどだ。
「先生、昨日はぐっすり眠れました! ここ数日の寝苦しさとか悪夢から開放されたカンジですごく調子いいです」
「それは良かった。『病は気から』という言葉もあるように、きみの不調は心理的な不安によるものが大きい。環境が変われば症状が改善するのもごく自然な流れだ」
「それは玉狛支部に戻るとまたぶり返すということですか?」
「今すぐにならそうなるかもしれんが、原因を取り除けば以前のように普通に暮らせるようになる。なに、焦ることはない。今日は丸一日かけて身体の隅々まで検査しよう。結果が良好で、トリオンが完全回復して自分の役目を果たせるとなれば仲間たちへの後ろめたさもなくなる。そしてきみが抱えている『きみが迅くんたちの前からいなくなる未来』という不安も解消されるだろう。自分が何の役にも立たないから、仲間たちに不要とみなされて追放される? そんなバカなことがあるはずがない。そんな妄想は心が弱っているからしてしまうんだ。きみはボーダーにとって欠くことのできない貴重な人材なのだから、きみが自らの意思で辞めると言い出さない限り絶対にありないことだ」
この医師も迅と同じことを言う。
「そうだといいんですけど…」
不安げな顔になるツグミ。
「ほら、そうやって自分で自分を不安にさせてはいけない。きみはこれまでほぼ順調に成長してきたから、ちょっとつまずいただけで大きな不安を抱えてしまったわけだ。しかし多くの青少年は『自分の居場所』について様々な悩みを抱えているものだ。居場所といっても単なる空間を意味するものではない。文部科学省では『居場所』を『児童・生徒が存在感を実感することができ、精神的に安心していることのできる場所』と定義している。『心理的居場所感』というもので、『自分の存在が確認できる場所』と言っていい。とある研究者は他者との関係の中で個人が『ありのままでいられる』ことと『役に立っていると思える』こと、つまりは他者との関係に対する意味付けを居場所の心理的条件としている。この条件を踏まえ別の研究者は『心理的居場所感』を、『自己の存在感を実感し精神的に安心していられ、ありのままでいることができ、役に立っていると思えること』と定義している」
「……」
「きみにはちょっと難しかったかな?」
医師は自分の話が難しい内容であったので、ツグミが黙ってしまったのだと思った。
しかし彼女は考えていたのだ。
「いえ、先生の言うことはなんとなくわかります。…居場所として一般的なのは家族のいる『家』で、わたしには父や祖母のいる『家』があるんですけど、そこよりも玉狛支部の方がわたしにとってしっくりくるカンジがします。忍田家の居心地が悪いというのではありません。真史叔父さんはわたしのことを本当の娘として大事にしてくれました。不満など欠片もありません。でもそれが逆に違和感というか…大事にされすぎることによる居心地の悪さみたいなものを感じていました。ずっとここにいたいと思う反面、ここにいたくはないという気持ちがあり、わたしは実家を出て玉狛支部で暮らすようになりました。玉狛支部のメンバーは旧ボーダー時代からの仲間で関係は良好です。でも他人ですから適度に距離があって、それぞれが自分の役割を果たすことで上手くやっていけているというカンジで居心地が良いと感じました」
「ふむ…」
「それで先生がさっき言っていたお話ですと、わたしにとって『心理的居場所』が玉狛支部であるということになりますが、そこが ──」
ツグミはそこまで言いかけて口を閉じた。
「そこが自分の居場所ではなかったとわかった時に自分はどこへ行けばいいのか?」と問い、その答えが不都合なものであった場合のことを恐れたのだ。
「いえ、もういいです。これは今考えるようなことではありませんし、自分で病の原因を作るなんて愚かなことですものね。それよりも今日の検査を無事に終えることが一番重要です。すぐに支度をします」
「ああ。今日の検査はきみの健康状態を確認するだけでなく、今後どういった方法でボーダー隊員の育成を進めるか、または健康管理の注意点などの指針となる非常に貴重なデータ採取ができるだろう。…私は少し用事を済ませてから行く。きみは先に駐車場に行って待っていてくれないかな。職員用駐車場のC-5に停まっているシルバーのセダンが私の車だ」
ツグミ検査は彼の兄が院長である個人病院で行うことになっている。
人間ドック並みの検査をするとなればボーダーの医務室でできるものではなく、ボーダーという組織とツグミの身体の秘密を守るためには必要な処置である。
もちろん城戸の許可は下りている。
「はい、わかりました」
◆
ツグミが医師に言われた職員用駐車場のC区画に歩いて行くと、入口の近くに迅が立って待っていた。
「よう」
迅が先に声をかけてきた。
「おはようございます、ジンさん。でもなんでこんなところにいるんですか?」
「おまえに聞きたいことがあってな。おまえ、昨日
ツグミにとってはなぜそんなことを迅が聞きたがるのかわからなかった。
「は? どういうことって…わたしがトリオン切れになることをジンさんは知っていましたよね? でもわたしに言っても無駄だから言わなかっただけだって。でも言わなかったのはちゃんと理由があったからです。ジンさんには
Round4が終わった時点でツグミの玉狛第3が32得点で1位。二宮隊が28点で、影浦隊が26点と続く。
玉狛第2にとって一番面倒なライバル、すなわち玉狛第3をレースから除くことで玉狛第2が有利になる。
そして玉狛第3抜きのRound5が終わり、二宮隊が34点で1位に返り咲き、玉狛第3が32点のままで2位。
影浦隊は31点で、玉狛第2が26点となり、玉狛第3が最終戦まで不参加=得点ゼロでいれば、玉狛第2が2位以内に入る可能性がずっと高まるというわけだ。
「もしわたしが参加していたら、さすがに4試合すべて得点ゼロということはできません。そして玉狛第2と直接対決することも避けられず、彼らの障害となってしまうのは明らか。だからといって彼らに得になるような負け方をすれば周囲から八百長試合だと疑われます。本気で戦った結果オサムくんたちが勝っても疑惑の目が向けられて、下手をすると城戸司令に
「…あ、ああ」
迅は歯切れの悪い返事をするが、ツグミは自分の仮説が当たったことでそんなことを気にもしない。
「でもこれだってある意味八百長みたいなものですから、ジンさんが
「そうだな。おまえがみんなに謝る時には俺も一緒に謝ってやる。共犯だからな。…じゃ、俺はもう行く。それと今日の検査の結果、わかったら教えろよ」
迅はそう言ってツグミと別れた。
(
「はあ…」
そして大きくため息をつく。
(あいつは『俺が考える
◆◆◆
医師は助手席に座っているツグミの様子を見て妙だと感じた。
別に具合が悪そうだというのではない。
逆に何もなくて、普通に乗っているからこそ違和感を覚えたのだ。
「ツグミくん、きみのご両親はきみが幼い頃に交通事故で亡くなったそうだね?」
「はい、そうです。でもそれがどうかしましたか?」
「ああ、いや…ドライブ中にご両親が無残な亡くなり方をして、それを見ていたきみは車に乗るのを拒まない。きみのようなケースでは車に乗ることで事故の記憶がフラッシュバックして怯えたり、乗っている間に体調を崩す場合が多い」
「そのことでしたら、わたしは事故の時の記憶が一切ないからでしょう。両親が交通事故で亡くなったというのも真史叔父さんから聞いた話ですから車に乗ることに何の問題もありません」
「そうなのか?」
「はい。でも少し変だと思うこともあります」
「どういうことだい?」
「わたしは事故の記憶は完全に欠如していますが、その前の記憶はわずかですけどあります。その中でわたしたちの家族は車で外出したということはないんです。忘れているだけかもしれませんけど。それに交通事故であれば現場にお花を供えるというのは普通ですよね? それなのにわたしは一度も事故現場に行ったことがない…というより場所を教えてもらったこともないんです。おかしと思いませんか?」
「たしかにおかしいな。だがそれは事故現場にきみを連れて行って辛い記憶が呼び覚まされてしまったら取り返しがつかないことになると考えたからではないかな。何かのきっかけで記憶が戻るということはある。それが辛いものだったら思い出さずにいた方がいい」
「なるほど、そういうことだったんですね」
「記憶がないというのは不安になりがちだが、心と身体を守るために自己防衛として記憶が戻らないという場合もある。事故による記憶障害の場合は外傷性のものが多いが、心的外傷やストレスにさらされたことで起きる心因性のものもある。こちらの場合は脳に器質的な障害はみられない。今日の検査にはMRI検査も含まれているから、そっちも詳しく調べてみるかい?」
「はい、ぜひお願いします」
「でも調べたからと言って記憶が戻るわけではないし、そもそも思い出さない方が良いことなら無理に思い出すべきではない」
「それは承知しています。ただわたしは現在の状況、与えられた情報を元により良く生きたいと願っているだけです。ですから少しでも情報が欲しい。何も知らずに後悔するより、知って後悔する方がいくらかマシですからね」
それがツグミの信条なのだろうが、この言葉を聞いて彼はなぜかツグミが生き急いでいるように感じた。
「なあ、きみはジョージ・バーナード・ショーという人物を知っているかい?」
「聞いたことはあります。…たしかノーベル文学賞を受賞したアイルランドの作家だったかと」
「そのとおり。きみは物知りだね。それで彼の言葉にこんなものがある。『精神にとって、休閑期は種まき時と同じように重要だ。肉体だって耕作しすぎたら疲れてしまう』とね。今のきみに贈る言葉として最適だと思うよ」
「…とにかく今は身体を休めろということですよね。ならばB級ランク戦が終わるまでお休みさせていただきます」
そう答えたツグミは再び正面の景色に視線を戻してじっと見つめた。