ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
(ちょっと無理したみたいだけど、仕方ないよね…)
失われたトリオンの回復も8割方終わっていたという段階で風刃を使用し、さらにミリアムの
それも短時間で大量に使用したことで、弱っていた生身の身体にもさらなるダメージを与えてしまい、再び戦闘に耐えうるまでにトリオンを回復させるには長い時間がかかることになるだろう。
それでも彼女はこうするしかないと判断し、大きな犠牲を払ったものの作戦自体は成功した。
(後はゼノン隊長たちに協力してもらわなきゃならないわけだけど、たぶん彼らならわたしの気持ちを理解してくれるはず。ダメならわかってもらえるまで説得するだけよ!)
ツグミはそう気合を入れて立ち上がるが、肉体的ダメージは相当なもののようで、崩れ落ちるようにソファに座り込んでしまった。
ミーティングルームに集まった玉狛支部のメンバーは既に解散して自室へ戻ったり帰宅していたが、彼女は「少し休んでから自分の部屋に戻る」と言ってひとり残っていたのだった。
(はあ…。これじゃB級ランク戦復帰はもうできそうにない。せめて最終戦だけでも参加したかったけど、ダメっぽい…)
そもそもB級ランク戦に参加するつもりなどなかった彼女だが、やってみると面白いものだから本気でA級を目指して戦っていた。
しかし中途半端なままに終えようとしている。
ミリアムの
楽しみにしていた修たち玉狛第2との直接対決もできなくなり、それが心残りであった。
(それでもノーマルトリガーを使用した
ツグミがそんなことを考えていると、迅がミーティングルームに戻って来た。
「やっぱりまだここにいたか。さあ、部屋に戻るぞ」
迅はそう言うとツグミの身体を軽々と抱え上げ、お姫様抱っこをしてしまう。
以前に本部基地の医務室でも同様のことがあったが、あの時は恥ずかしいと言って暴れた彼女だが、今回はおとなしく抱きかかえられた。
さらに自分から迅の首の後ろに腕を回して身体を密着させる。
「今日はおとなしいな? そんなに具合が悪いなら無理をせずにもう寝た方が良い」
「うん、そうします。でもおとなしいのは具合が悪いからじゃなくて、ジンさんにお姫様抱っこしてもらっているからです。今日は誰かに見られても、具合の悪いわたしをジンさんが部屋まで運んでくれていると思うだけでしょ? だからこのささやかな幸せを噛みしめているんです」
迅に恋人として認めてもらえたことで、これまでは恥ずかしいと感じていたことも素直に嬉しいと思えるようになっていたツグミ。
だからお互いの息が顔に掛かるほど近くにあっても、もう恥ずかしいと言って顔を背けることはなく、物理的な近さが心の近さであると感じて嬉しくなってしまうのだ。
「ジンさん、今は生身のままでしょ? わたし、重くないですか?」
「どうして俺が生身だとわかった? 表情が優しくて穏やかだからか?」
以前にツグミはトリオン体の迅は男前で、生身の時は表情が優しくて穏やかだから区別ができると本人に教えていた。
だからわかったのだろうと迅は考えたのだが、ツグミは小さく首を横に振った。
「ううん、それだけじゃないです。こうしているとジンさんの体臭をハッキリと感じるんです」
「俺、そんなに臭い?」
「そういうことじゃありません。恋人の匂いにはリラックス効果があって、それは科学的にも証明されています。それに人は自分にはない匂いを求めているらしいんですよ。人間の血液にはHLAと呼ばれる白血球のパターンがあって、人は自分と違うパターンのHLAを持つ異性の匂いに惹かれる傾向があるらしいんです。だからジンさんとハグしたりキスするとすごく幸せな気持ちになるんです」
ツグミの潤んだ目がすぐ近くにあって、喋るたびに赤い唇が物欲しそうに開くものだから、迅は口付けずにはいられない。
迅はツグミの唇を唇で塞いだ。
「「……」」
ツグミと迅はふたりとも室内には誰もいないのだからと油断したのが失敗であった。
背後のドアが音もなく開き、そこから侵入者があったのだが、キスに夢中で気付かなかったのだ。
「ゴホン」
「「…!?」」
小さな咳払いの発生源に目をやると、そこには陽太郎が立っている。
「ど、どうしておまえがそこにいるんだ!?」
キスシーンを見られたとあって、迅は狼狽する。
ツグミは真っ赤になった顔を隠すことしかできず、迅の胸に顔を埋めてしまった。
「おれはらいじんまるをむかえにきた」
特に驚いたような様子はない陽太郎はそう言って室内をキョロキョロと見回し、テーブルの下で眠っている雷神丸を見付けた。
「おきろ、らいじんまる。おまえのねどこはそこじゃない」
陽太郎は気持ち良さそうに眠っている雷神丸を無理やり起こし、大あくびをした雷神丸に跨るとそのままミーティングルームを出て行こうとする。
しかしドアのところで振り向かずに言った。
「おれはジンとツグミがむかしからおたがいをすきだということをしっていた。だからだれかにつげぐちしたりじゃまをするような
そして「おやすみ」を言うとそのまま自室へと去って行った。
「ヨータローに見られちゃいましたね…」
真っ赤な顔で迅を見上げて言うツグミ。
「ああ…」
気まずい雰囲気がふたりの間に漂うが、いつまでもこうしていてはまた誰かに目撃される恐れがある。
「ひとまずおまえの部屋に行こう」
「はい」
◆
ツグミは抱きかかえられたままで自室に戻ると、迅にベッドの上に下ろしてもらった。
「陽太郎に見られたのはまずかったな…」
「ええ。でもあの子がみんなに言い触らす心配はないから大丈夫ですよ。…それよりも明日、わたしは城戸司令にミリアムの
「わかった」
迅はそう言うとなんとも幸せだと言わんばかりに笑った。
「どうして笑うんですか?」
すると迅はツグミの腰を引き寄せて言う。
「おまえにとっての一番が俺になったんだと実感したんだ。これまでのおまえならこういう時に一緒にいてほしいと頼むのは忍田さんだったはずだろ? だから嬉しくなってさ、つい顔が緩んでしまうのさ」
「ジンさんにはわたしにとって良いことも都合の悪いことも知っておいてほしいんです。もしあなたがわたしの醜い部分や愚かな部分を知って心が離れていってしまったら、わたしはそれだけ人間だったということ。逆にそういうマイナスの面を知ってもなおわたしのことを好きでいてくれるのなら、わたしはあなたに命から何からすべて捧げる覚悟でいます。それくらいわたしはあなたのことを愛しているんです」
「ツグミ…」
迅は愛しい女性の名を呼び、彼女の身体をグッと引き寄せた。
愛しいツグミの口から「愛している」と言われて動じないでいられるはずがない。
場所は彼女の部屋で、ドアには鍵が掛かるようになっている。
ふたりきりでベッドに腰掛けていて、身体も体温がわかるほど密着している。
どんな自分であっても好きだと言ってくれているし、すべてを捧げる覚悟だとも今言ったばかりだ。
もしここで彼女を押し倒して
自分に都合が良い条件が揃っていて、後は自分が溢れる気持ちを押し留められるか否かである。
だから迅は自分の正しいと思う気持ちに従うことにした。
「俺もおまえのことを愛している。世界中の誰よりも大切にしたいと思っているから、今夜はこれで自分の部屋に戻ることにするよ。そうしないとこの手でおまえとの幸せな未来を壊してしまうことになりかねない」
「ジンさん…?」
「今日は疲れただろうからぐっすりと眠れ。夢の中に俺が出てきたら嬉しいな。…おやすみ、ツグミ」
そう言ってツグミの額におやすみのキスをすると彼女の部屋を出て行った。
ツグミには迅の言っていることの意味が半分しかわからなかった。
自分のことを愛してくれていることは十分に伝わったのだが、後半の「この手でおまえとの幸せな未来を壊してしまうことになりかねない」は意味がまったくわからない。
(自分の部屋に戻らないとわたしたちの幸せな未来を壊してしまうというのはどういうことなんだろう? ジンさんの言っていることの意味が良くわからないけど、わたしのために最善の未来を模索して一緒に前に進もうとしているジンさんのことだもの、彼の言っていることに絶対に間違いはないわ)
迅はと言うと、今すぐにでもツグミを抱きたいのだがまだ
熟れた果実は時が来れば自然に落ちる。
まだ熟れていな果実を無理に引っ張れば大切な枝まで折れてしまうこともある。
それではすべてが台無しだ。
それは人間でも同じことで、タイミングを誤ればすべてを失うことにもなりかねない。
(俺が手を伸ばさなくても、おまえが自分から俺の手の中に落ちて来る時は必ず来る。俺はそれを待つことにするよ。その間に風雨に晒されて落ちそうになるかもしれないが、その時には俺が全力で守る。問題は俺がそれまで我慢できるかだが…たぶん大丈夫だ。もう何年も我慢し続けていたんだから)
迅がツグミを異性として意識し始めたのは、彼女が中学に入学した時である。
セーラー服姿の彼女に艶めかしさを感じた迅。
一方、ツグミはこれまでと変わらず迅を兄として慕うものだから、迅は彼女のことを異性として見ることを罪悪であると考えてしまう。
よってツグミに嫌われないように、良き兄でいることを自分に課した。
彼女の尻に触ろうとしなかったのも、妹の尻に触るような兄がいるはずもなく、兄であり続けるためにはけっして触ってはいけない
その反動なのか本部基地へ行った際に沢村や熊谷 ── ツグミに言わせれば大人で色っぽい女性 ── にちょっかいを出していた。
そのこともあってツグミは迅が自分にセクハラをしないのは女性としての魅力がない子供だからと盲信しており、迅のそばにいるためには妹でいようとしていた。
だから迅から恋人として認めてもらえたことは同時に大人として認めてもらえたということにもなり、性的な接触を恥ずかしいとは思わず、むしろ嬉しい、幸せだと感じていた。
さすがに他人に見られるような場所では控えるが、その行為自体と恥ずかしいとは思わないためにふたりきりになると大胆な行動もしてしまう。
それが何の下心もないものだから、迅を煽ることになってしまってもツグミ本人に自覚はまったくない。
迅は彼女のことを果実だと見立てており、それが自然に落ちて来るのを待つと言っているが、実際のところ彼女自身はもう十分熟れていて、そのことを知らない迅はもうしばらく悶々とすることであろう。
◆◆◆
迅が退出したことで再びひとりになったツグミはミリアムの
起き上がるのは身体に負担がかかるので、ベッドに横たわった姿勢のままである。
(ミリアムさん、そこにいますよね?)
心の中で呼びかけると、ミリアムの
(どうしたの? 貴女のトリオンは起動するのが精一杯のはずだし、使わないことに決めたのではなかったかしら?)
(あなたと話がしたかったんです。明日には
(そういうことなのね。それで話って何かしら?)
(あなたが
(私だって
(でもあなたが
(……)
(わたしにも守りたい人が大勢います。その中でも特に大切な人がいますが、わたしが
(……)
(もちろんあなたの判断を否定しているのではなく、わたしにとっては理解できないと言っているだけです。でもあなたには自分がどんなことになってでも守りたい大切な人がいて、その人が哀しんだり苦しんだりしても命を永らえさせたかったのでしょうね。それがどんな人なのかわたしには知る由もありませんが、きっとわたしにとってのジンさんと同じだということはわかります。さっきは『人たち』とか複数形で言っていましたが、本当はただひとりの人のためではないですか?)
(…貴女の言うとおり、私にはどんなことをしてでも守らなければならない大切な人がいたの。私にとって
(わたしにとっての大切な人とは違う形の大切な命、とはどういう意味ですか? 恋人…ではないということですよね?)
(ええ。貴女にはまだわからないでしょうけど、恋人や夫よりも、そして自分の命よりも大切なものはあるのよ)
(それって…もしかしたらあなたのお子さんですか?)
(そのとおりよ。私には16歳…今の貴女と同い年で産んだ息子がいたの)
「ええっ!?」
ついツグミは声を上げてしまった。
それに気付いて、また心の中で呼びかける。
(そんな若さで赤ちゃんを産んだということは、つまり…)
(フフッ、そうよ。エウクラートンでは女性がそれくらいの年齢で結婚・出産するのは珍しいことじゃないから。…私は事情があって息子を育てることができなったものだから他人に預けたのだけど、偶然再会した彼は私のことを師匠として慕ってくれたわ。私は母親であることを告げずに
(え? それはどういう…?)
(…そろそろ貴女は眠った方がいいわね。いくらトリオンが普通の人よりも多いといっても、今日一日で使い過ぎたから。無茶をするのは
(それではまたいつかこの続きの話をしてもらえますか?)
(ええ、いいわよ。貴女が
(はい。…トリガー、
ツグミは生身の状態に戻ると、そのまま吸い込まれるように深い眠りの中に落ちていったのだった。