ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
リヌスとテオがツグミの用意したふたり部屋に移動してしまったものだから、残ったゼノンはひとりでぼんやりとしていた。
任務に失敗して虜囚の身となった部隊の隊長ともなれば、考えることはひとつしかない。
(俺のことはともかく、リヌスとテオの将来が不安だ…。任務を完遂すれば一等市民として優遇される身分となるはずだったというのに、これでは帰国できたとしてもそれ相応の処分は免れない。三等市民への格下げくらいで済めば良いが、最悪は強制収容所送りだろうな)
強制収容所はどの国にもあるが、キオンのような軍事国家の場合は劣悪な環境に置かれて過酷な労働を強いられる他、トリオン能力の高い人間はトリオンを搾取される。
仮にゼノンたちが収容所送りとなれば、トリオン能力の高い彼らは毎日トリオンを搾取され続けることになるだろう。
暗くて不衛生な部屋に繋がれ、慢性的なトリオン不足で衰弱死するまで解放されることはない。
「緩やかな死」という極刑に処せられることになり、それを考えたら寝るに寝られなくなるのも当然だ。
(特にテオには家族がいる。若いあいつが諜報という過酷な部隊に志願したのも、家族を一等市民にしたかったからだ。通常は家族にまで処分が及ぶことはないが、あいつが三等市民になれば家族も同様に格下げになるのは免れない。いっそ任務の途中で殉職したことにした方がマシかもしれない。殉職なら遺族年金は出るし、二等市民としてこれまで通りの暮らしは保証されるのだからな。こういう時、俺やリヌスのように独り身は気が楽だ。…いや、そんなことも言ってはいられぬ。
楽しいことを考えて不安を紛らわそうとしても、話し相手がいれば良いがひとりきりになってしまうとそうもいかない。
悪いことばかりが脳裏を掠め、ますます落ち込んでしまう。
そんな軽い鬱の状態のゼノンのもとへ林藤が訪ねて来た。
「よう」
「こんな時間に尋問か?」
怪訝そうな顔のゼノンに林藤は日本酒の一升瓶と猪口を見せながら答えた。
「いいや。通りかかったらドアの隙間から明かりが漏れているのを見つけたもんで、起きてるんなら酒でも飲みながら話をしようかと思ったんだが、少しいいか?」
捕虜に対して破格の待遇をする玉狛支部の人間 ── ツグミの態度に慣れてしまったから、林藤の行動にも疑問はあるが抵抗感はない。
「ああ、かまわない。…しかし貴殿にとって俺は憎い相手のはずだ。なぜ話をしようなどと…?」
林藤はドアを閉めると部屋の中に入って行き、空いている椅子に腰掛けると猪口をひとつゼノンの手に持たせた。
「まあ、まずは一杯やろうや」
林藤はゼノンの猪口に酒を注ぎ、自分の猪口にも同様に注ぐ。
そして一気に飲み干した。
「毒なんて入ってねーぞ。ほら、あんたも飲め。どうせ任務優先ってことで
そう言いながら林藤は空になった猪口に酒を注いだ。
ゼノンも特に断る理由はなく、恐る恐る猪口に口をつける。
「…!?」
「な、けっこうイケるだろ?」
「ああ、なんとも清々しいキレのある味だ。こんな酒は初めて飲んだ」
「これは清酒っていって、米という俺たちの主食になる穀物から作った酒なんだ」
「主食となる米から作るだと? …そうか、
キオンでは慢性的な食料不足が続いており、主食となる穀物を酒に転用するほどの余裕はない。
それでも人間が生きている以上酒が存在しないはずはなく、ジャガイモを原料とした蒸留酒、こちら側の世界のウォッカのような酒が二等市民以上の人間に広まっている。
だからゼノンが清酒に驚くのも無理はないのだ。
「…ところで話とは何だ? 貴殿のその様子だと謝罪の要求ではなさそうなのだが」
「謝罪? …まあ、俺にとって娘同様のツグミに対する無礼は許しがたいが、本人が許すって言ってるものを俺が責め立てるのはお門違いだ。だからこの件に関してはこれで手打ちにしよう」
林藤はゼノンと自分の猪口同士をカチンと合わせてから飲み干した。
ゼノンも猪口を空にし、林藤はそれぞれの猪口に清酒を注いでから本題を持ち出した。
「話ってのはあんたたちの前任者のことだ」
「前任者?」
「ああ。9年前、あんたたちの前任者がミリアムの
「それは本当か!?」
ゼノンは身を乗り出した。
「彼がどうなったのか知っていたら教えてくれ!」
すると林藤は上着のポケットから白い和紙に包んだものを取り出し、紙を開いて中身をゼノンに見せる。
そこにあるのは少しウェーブのかかった明るめの栗色の髪の束で、ゼノンにはそれがひと目で誰の
「事件の真相は俺たちにも不明な部分が多い。俺たちが駆け付けた時にはすでに終わっていたからな。だから現場で見た事実だけを話そう」
そう言って、林藤はゼノンに告げた。
「事件現場にあったのは
「……」
ゼノンは林藤の話を黙って噛み締めるように聞いており、壮絶な最期であったことに胸を痛めていた。
そんな彼に林藤は遺髪を手渡して言う。
「こいつは俺たちの仲間を殺した憎い敵ではあるが、死んでしまえばもう敵も味方もない。よって遺体はこちらのやり方で丁重に供養した。火葬し、遺骨は
「かたじけない。貴殿の慈悲と死者への懇ろな弔いに深く感謝する」
ゼノンは立ち上がると林藤に対して最敬礼をした。
「で、この髪の持ち主ってのはあんたにとってどういう人だったんだ? これを見ただけで誰のもんかすぐにわかったようだし」
「俺の先輩で恩人だった人だ。俺はこの人から様々なこと…剣術、格闘術、諜報員としての心構えや工作技術、それに酒の味と博打と
林藤はゼノンの話を聞いて、有吾や最上のことを思い出した。
忍田と一緒にヤンチャをしていた懐かしい若き日の想い出。
林藤たちも有吾と最上から良いこと悪いこと含めて様々なことを教わったものだ。
しかし彼らはもうこの世にいない。
ついメランコリーな気分になってしまった林藤はそれをゼノンに悟られまいとして彼に酒を勧めた。
「さあ、もっと飲もう。まずはあんたの先輩っていう人と織羽に献杯だ」
ゼノンとしても異論はなく、この林藤という
「ああ」
林藤はゼノンに猪口を空にさせ、新たに酒を注ぐ。
そして自分の猪口にも注ぎ、ふたりで猪口を掲げた。
「「献杯」」
◆
林藤は酒のツマミ用のチーズ鱈と焼きスルメの袋をテーブルの上で開いた。
「これが案外イケるんだ。あんたも遠慮なくやってくれ」
こうしてオジサンふたりの酒盛りが始まった。
彼らは立場上敵同士であり、ゼノンは虜囚であるというビミョウな関係だが、それを離れてしまえば30代前半という同世代の管理職という立場は同じである。
若い部下たちを抱え、反目しあう上層部との間に入って苦労するという同じような悩みを抱えているとわかると同情し、お互い愚痴を言ったり自分の部下を自慢したりと大いに盛り上がった。
そして一升瓶を半分ほどカラにしたところでツマミがなくなり、林藤は一度ゼノンの部屋を出るとしばらくして戻って来た。
彼の手にはキュウリと大根のぬか漬けとイカの塩辛が載った皿がある。
「これは初めての奴にはちょっと抵抗があるかもしれないがこの酒にピッタリなんだぜ。直箸でもかまわないよな?」
そう言いながら林藤はイカの塩辛を口に入れる。
ゼノンもマネをして塩辛を箸で摘み、口に入れる前にニオイを嗅いでみた。
「これは…発酵しているのか?」
「ああ。こっちの漬物も清酒もみんな発酵食品だ。
「野菜や牛の乳を使った発酵食品はあるが、これは…魚介類のようだな?」
「そのとおり。海で漁れるイカっていう魚介類の身や内臓などを生のままで塩漬けにして発酵させたもんだ」
「そうなのか…。
ゼノンはそう言って塩辛を口に入れた。
「ふむ…何とも言い難い味だ。しかしこの酒には良く合いそうだな」
塩辛という未知の味を口内で十分確認し、続いて清酒を飲む。
「…うん、素晴らしい。
「まあ、トリオンとトリガーは20年前に有吾と織羽がこちら側の世界に持ち込むまでは言葉すら知らなかったからな」
林藤はそう言ってゼノンの猪口に清酒を注いだ。
「そもそもボーダーという組織はトリオンとトリガーを専守防衛のみに使用している。だから俺たちの世界ではトリオンなんてものを知っているのはボーダー関係者だけさ。それにこちら側の世界は
「ああ。だからこそ俺たちのような諜報員が暗躍することになるわけだ。俺たちはこれでもキオンでは優秀な諜報部隊だ。手がかりがほとんどないために時間はかかったが、エウクラートンのオリバが
ゼノンはそう言って自嘲の笑みを浮かべた。
彼らは任務に失敗した。
しかし約ひと月という短い時間でツグミが織羽の娘であることを調べ上げ、玉狛支部にトリオン兵を放って彼女を精神的に弱らせ、隙のできた瞬間を狙って拉致するという見事な手腕を見せたのも確かである。
ただツグミがミリアムの
「俺たちもこうして敵同士でなく友好国の人間同士として出会っていればもっと美味い酒になっただろう。それは今からだって遅くはない」
林藤は真剣な眼差しで言う。
「もしあんたたちが祖国を捨てて亡命する意思があるのなら、俺はできる限り力になろう」
「リンドウ支部長…!?」
「もちろんあんたたちの祖国への忠誠心はわかっている。祖国を裏切れと言っているのではない。だがもし…そういう気持ちになったらいつでも言ってくれ。ツグミの奴があんたたちのことをひどく気にしている。あいつはあんたたちが帰国すれば厳しい罰が待っていると承知の上だが、キオンでミリアムの
「……」
「それでもしあんたたちが亡命すると言ってくれたら、あいつは喜んで仲間として受け入れ、その上でシナリオを書き直すことだろう。あいつは自分にとってだけでなく、
「?」
「いつでも全力を注ぐものだから見ているこっちはハラハラしたり心配になったりと疲れるんだよ。頑張りすぎて倒れなきゃいいと思っていたところで突然トリオン切れで倒れ、おまけにあんたたちに拉致されたもんだから…」
そう言って林藤は頭のてっぺんをゼノンに見せた。
「…ほら、この辺の白髪は数日前までなかったんだぜ。今朝、鏡を見たらこうだ。…ったく弱ったもんだ」
「フッ…俺も無茶をしすぎる部下に気苦労が絶えん。なんとなくだがこの辺が少し薄くなってきた気がする。俺の家系はハゲることが多いようだから、俺は白髪ではなく若くしてハゲてくるかもしれん。他人事ではないな」
そう言って自分の頭のてっぺんを撫でるゼノン。
そしてふたりは顔を見合わせて大笑いをした。
「さあ、今夜はガンガン飲もう! 酒もツマミもまだまだあるぞ!」
「それはいい。俺も
意気投合した林藤とゼノンはそれから3時間ほどお互いの家族 ── ツグミとリヌスとテオ ── の自慢話や本人たちが知られたら恥ずかしくなるようなエピソードをツマミにしながら飲み続けたのだった。