ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
翌朝5時、ツグミは玉狛支部の厨房にいた。
理由はゼノンたちの朝食の調理である。
彼女が
冷蔵庫の中から卵を取り出し、実家から持って来ただし汁を使って3人分のだし巻き玉子を作る。
慣れたものだから20分ほどで出来上がり、大根おろしを添えて皿に盛った。
続いてワカメと豆腐の味噌汁を作り、キュウリの浅漬けを切って小鉢に入れると、最後に食事当番になっているゆりに向けて走り書きのメッセージを残した。
『ゆりさんへ わたしは用事があっていつもの時間には来られません。ゼノン隊長たちの分のおかずと味噌汁は作っておきましたので、ご飯と一緒に彼らの部屋に届けてください。昼・夜の分も時間のある時に作って置いておきます。あとの事、どうぞよろしくおねがいします。 ツグミ』
そしてまだ誰もが深い眠りの中にあるうちに、ツグミは玉狛支部を出た。
◆
厨房の作業台の上にだし巻き玉子と漬物、その横に置かれたツグミからゆりに宛てたメッセージの紙片を見付けたのはレイジだった。
ゆりの手伝いをしようとして、気合いを入れすぎたものだから本人よりも早く厨房へ来てしまったのだ。
そして作業台に載っているものを発見。
ついでにツグミのメッセージを読んでしまった。
さらに紙片を手にしているところをゆりに見られてしまい、慌てて後ろに隠すが既に手遅れであった。
「レイジくん、その後ろに隠したものは何? 私に見られたらマズイものなの?」
ゆりがいたずらっぽい目でレイジを下から見上げるものだから、レイジは観念して紙片をゆりに手渡した。
「すみません。ゆりさん宛の手紙を勝手に読んでしまって…」
大きな身体を小さくして謝るレイジ。
その姿がおかしくてゆりは笑ってしまい、紙片のメッセージを読んだ。
「別に謝ることじゃないわよ、レイジくん。これって手紙というよりも伝言じゃない。…でもちょっとおかしいわね? いつのも時間に来られないって…こんなに朝早くツグミちゃんはどこかへ行ったってことかしら? それにしても普通ここは『戻れない』って書くはずよね…」
昨夜の出来事を知らないゆりならおかしいと思うのは当然である。
しかしツグミが「家出」をして忍田家に戻っていることは林藤から聞いて知っており、昨夜の事件の当事者であるレイジに対して
レイジは黙っているわけにもいかず事情を話すことにしたが、話が終わるとゆりは納得したという顔でレイジに言った。
「それでツグミちゃんは家出しちゃったというわけなのね…」
「はい。行き先は忍田さんの家なので心配はしていないんですが、このままずっと帰って来ないとしたら、俺たちはどうすればいいと思いますか? もし帰りづらいというのであれば迎えに行った方がいいのか、それとも…」
レイジは自分たちのせいでツグミが家出をしてしまったと思い込んでいるから、第三者であるゆりの意見を聞いて参考にしようというのだ。
「レイジくんたちは何もしなくていいと思うわ」
「え?」
ゆりのそっけないというか肩透かしな態度に、レイジは意外だといった顔で彼女を見る。
ツグミが相談する相手はいつもゆりだったので、ゆりならツグミのことを良く知っていて何をすればツグミのためになるのか適切なアドバイスをしてくれると信じていたのだから。
「ツグミちゃんはもう子供じゃないんだし、忍田さんのところにいるなら何の心配もいらないもの」
「しかし…」
「私は彼女の気持ちがわかるから、そっとしておくのがいいと言うの。これは私の想像なんだけど、もしレイジくんと栞ちゃんの千佳ちゃんに対する態度がもっと厳しいものだったら、ツグミちゃんは何も言わずにいたと思う。自分が口出しする必要はないってね。だけどあなたたちは千佳ちゃんの考えとかやってきたことをすべて認めてしまって、彼女は全然悪くないということにしちゃったでしょ? ツグミちゃんは千佳ちゃんだけでなくあなたと栞ちゃんにも失望してしまったのかもしれないと思うのよ」
「俺たちに失望…ですか?」
「そう。千佳ちゃんの過去を知れば誰だって彼女のことを腫れ物に触れるみたいに恐る恐る接したり、哀れだと思って甘やかしてしまう。千佳ちゃんだって自分に対して厳しく言う人よりも優しくて何でも許してくれる人の方が好きに決まってる。人を撃ちたくないという理由は別として、自分のことを全部許してくれる人と、否定して厳しいことを言う人がいたらどっち選ぶ? それにレイジくんと栞ちゃんのように甘やかすだけ甘やかして何でも許してくれる人しかいなかったら、彼女の問題を真の意味で解決できるかしら? 私はあなたと栞ちゃんが彼女にかけた言葉だけでは根本的な解決になっていないと思うわ」
「……」
「もちろん人を撃つことに抵抗があるのは当然のことだし、撃たなくて済むのなら撃てなくてもかまわないわ。だけど千佳ちゃんは
「……」
「他人に責められるのが怖いというのは普通のこと。誰だって同じ。自分を悪者にしてはいけない。千佳ちゃんが撃たなかったことで修くんや遊真くんが彼女を責めることはない。誰も責めない。やれることをやっていこう。千佳ちゃんには今でもいっぱいできることがあるんだから。…私にはこれらの言葉からは『千佳ちゃんは何も悪くないのだから、これまでのようにやれること
「……」
「レイジくんや栞ちゃん、修くんや遊真くん、彼女のことを良く知っている人たち、つまり『千佳ちゃんの世界の
「それは…」
「一昨日のランク戦だけど、千佳ちゃんが
「……」
「それに今でもいっぱいできることがあるんだから、やれることをやっていこう…って、それはやれないこと、やりたくないことはやらなくてもいいとも受け取れる。ノーマルの弾丸は撃てないけど
「……」
ゆりがツグミのように厳しいことを言うものだから、レイジは返す言葉もない。
「まあ、撃てるとか撃てないとかの問題ではなく、甘やかしすぎることで彼女に逃げ道を作ってあげてしまって、自分で乗り越えられないものにぶつかってしまった時に『わたしは悪くないのだし、誰からも責められないかなら無理をしないでやれることをやるだけでいい』って、その逃げ道を使って問題回避をすることに慣れちゃうんじゃないかしら? 『無理をしないで』といっても実際は『努力をしないで』だけど。今までだって千佳ちゃんは自分の限界を作って、それを誤魔化すために自分に都合の良い言い訳をしていたんでしょ?」
「本人はそう言ってました。でも ──」
「本人を認めてあげる優しさは必要だけど、それよりも逃げずに問題を解決できるように諭すのが本当の優しさだと私は思うわ。厳しいことを言われるとつい相手のことを嫌っちゃうけど、ツグミちゃんは千佳ちゃんに嫌われることを承知で苦言を呈した。みんなが甘やかしてばかりでいて、このままじゃダメだと思ったからあえて嫌われ役を買って出たのよ、きっと。…そうなると彼女はもう戻って来ないわね」
「それはどうしてですか?」
「理由は…それはレイジくん自身が考えなさい。私が教えることはできるけど、自分で考えるように促すのが私の
「はい、もちろんです」
レイジはそう答えたものの、ゆりに「ツグミはもう帰って来ない」と言われたことが気になってしまい、料理をしていても考え事ばかりでなかなか進まない。
これでは手伝いをするといって厨房へ来た意味がないというのに。
(ツグミが帰って来ないのだとしたら、それは俺たちのせいだ。今さら雨取に厳しくすべきだったなどと反省したところでもう遅い。…そうだ、あいつはどんな時にでも自分の判断を正しいと信じ、後悔をしない生き方してきた。これまでに何度も自分の無力を悔い、その苦しみの中から見付け出した人生訓が『後悔をしないために全力で生きる』だったからな。きっと今回のこともあいつは絶対に後悔はしていない。自分の行為には常に責任を持っていて、そのケジメとして玉狛を出て行ったのだからもう戻らないということなんだ)
ツグミが玉狛支部を出て忍田家に行ったことは昨夜のうちに林藤から聞いて知っていた。
それは単に自分たちと顔を合わせづらいだけで、ほとぼりが冷めた頃にひょっこり帰って来るとレイジは楽観視していた。
しかしツグミが「人を殺した」と告白したことで、千佳と栞が今までと変わらない態度で接してくれるかどうかわからない。
特に千佳はツグミの顔を見ただけで動揺し、その態度の変化によって修たちにも知られてしまうおそれもある。
そうなれば玉狛支部に戻って来るのはツグミ本人にとって針のむしろ状態で、本人の意思に任せた方が誰にとっても幸せになれる道なのかもしれないとレイジは悟った。
「ゆりさん、今日は俺非番なんで、キオンの連中のメシは俺が作ります。明日以降も出来る範囲でやりますから、ツグミにはもう無理をしなくていいって伝えてもらえませんか?」
レイジがゆりに声をかけると、ゆりは手を止めて訊き返した。
「レイジくんが直接電話でもメールでもしたらいいじゃない?」
「そうなんですけど、やっぱりあんなことがあった後なので気まずいというか…」
レイジの気持ちが理解できないわけではない。
これ以上ツグミに負担をかけたくない、そして彼女の
ゆりはちょっと意地悪をしてみたかっただけなので、笑みを浮かべながら承諾した。
「いいわよ。この件は私が頼まれたことだから私が彼女に伝えておく。それから…キオンの人たちのごはんのことだけど私も一緒にやるわ。あなただけに押し付ける気はないから、あなたが学校や任務のある時には私に任せてね」
「はい! ありがとうございます、ゆりさん!」
ゆりの言葉が萎れていたレイジを一瞬で
◆◆◆
忍田の起床前に家に戻ったツグミは何事もなかったかのように自分と忍田の朝食を作り始めた。
昨夜は「おまえが帰って来た理由によっては有給を取ることになるかもしれない」と言っていた忍田だが、通常どおりに出勤することになった。
「理由」が納得できるものであり、ツグミをひとり残しておいても問題はないと忍田は判断したのだ。
ツグミもしばらく滞在することになり、久しぶりに父と娘の水入らずの暮らしが始まる。
(ゆりさんからのメール…ゼノン隊長たちの賄いのことはもう心配しなくてもいいみたい。これでひと安心。でもわたしが玉狛支部を出て行ったことはゼノン隊長たちにきちんと話さなければいけない。それに私物も運び出さなきゃだし。前はレイジさんの車で運んでもらったけど、もうそれはできない。あと、霧科隊の解散届を本部に提出しなきゃならない。用紙って本部に行けばあるだろうけど、窓口はどこかしら?)
そんなことを考えながら器用にだし巻き玉子を焼いているツグミ。
そこに忍田がパジャマのままの姿で顔を出した。
「おはよう、ツグミ」
「おはようございます、叔父さん。ちょうどだし巻き玉子が出来上がったところですよ。ごはんも炊けていますから、すぐに朝食の用意ができますけど、どうします?」
「頼む。いつもよりも少し早いが、今日は徒歩で出勤しなければならないからな」
「わかりました。じゃ、顔を洗って髪を梳かして、さっぱりした顔になって来てくださいね」
そして忍田は台所を出て行く。
これは1年ほど前までは毎日あった光景。
ツグミが玉狛支部に住み込むようになると彼女の祖母が食事を作っていたのだが、彼女が身体を壊して入退院を繰り返しているから冷蔵庫の中が「単身赴任中のお父さん」っぽいものになってしまったのだ。
ダイニングテーブルの上に並んでいるのはだし巻き玉子と茶碗に大盛りのご飯、コンビニで購入した味噌で作った味噌汁と生野菜サラダである。
玉狛支部からの帰り道に朝食に必要最低限のものを買って来たのだった。
「これだけしかないですけど、明日からはしっかりとしたものを作りますから、今日はこれで勘弁してください」
ツグミはそう言うが、忍田にとってはご馳走である。
「いや、おまえの作っただし巻き玉子があれば十分だ。久しぶりだな…。では、いただきます」
心から満足しているという顔で、忍田は両手を合わせて「いただきます」をすると食事を始めた。
「うん、美味い。忍田家の伝統の味はおまえが継いでくれるようで安心だ」
「何を言ってるんですか? 叔父さんが結婚して、その奥さんに作ってもらわなきゃダメでしょ。わたしはいずれお嫁に行くんです。忍田家は継ぎませんよ。そのためにちゃんと手を打ってあるんですから」
「手を打つ?」
「そうです。とにかくわたしでなくても忍田家の味は再現できる人がいるんですから、わたしに期待しないでください」
「あ、ああ…」
「忍田家の味を再現できる人」に心当たりがなさそうな忍田の顔を見て、ツグミはあまりの鈍感さぶりに呆れ果ててしまった。
(バレンタインデーに沢村さんからお弁当をご馳走になったでしょ? まさか忘れてはいないはずだけど、それくらい忙しいってことなのかな? 次の遠征の司令官は忍田本部長に決まったって聞いているし、いろいろやることがあるのはわかる。だけどプライベートだってもっと大事にしなきゃ。この分だとホワイトデーのお返しのこともすっかり忘れているんじゃないかしら?)
ツグミの心配をよそに、忍田は好物を平らげた。
「そういえば、今日はどうするつもりなんだ?」
忍田に訊かれて、ツグミは答える。
「まず叔父さんの食生活を健全なものにするために食料を買い出しに行きます。ですからこれからはちゃんと毎日帰宅してください。少しくらいの残業ならいいですが、本部の仮眠室に泊まるようなことは許しません」
「ああ、わかった…」
「それから新居探しをします。とりあえず本部の総務課に行って説明を聞き、その後は部隊解散の手続きをしようと思っています」
「部隊の解散?」
「そうです。もうB級ランク戦には出られませんから、早いうちに手続きをはしておこうかと。ですので今月の隊長会議は欠席してかまいませんよね?」
「まあ、前日までに事務処理が済めばおまえは部隊長ではなくなるわけだから出席する理由はなくなるが…」
「じゃあ、今日中に書類を提出してさっさと処理してもらいます」
あれだけ熱心にB級ランク戦に力を入れていたというのに、玉狛支部を出ると決まったとたんに部隊解散をする。
その「さも当然であり、未練などない」といった態度の変化を見ていると忍田は辛くなってきた。
(おまえはそうやって玉狛支部との絆をひとつひとつ断ち切っていこうというのか?)
そもそもツグミがB級ランク戦に臨んだのは本部と対立しがちな玉狛支部を守るための手段としてであった。
玉狛支部に集中する戦力を崩すために彼女を本部に異動させようとした城戸の計画に真っ向から逆らった結果がB級ランク戦参加だったのだが、今は逆に自ら本部に異動することを望んでおり、これまで以上に険しい道を歩く気でいる。
(ミリアムの
忍田の不安は他にもある。
唐沢からツグミに関してのメールが届いていており、内容は林藤に送られたものと同じで、ツグミが両親の死亡原因について疑惑を持っているというもの。
記憶がフラッシュバックして恐ろしい思いをする前に自分の口から真実を話すべきだと考え、告白するタイミングを計っていたところだった。
(できるだけ早いうちに話をした方が良さそうだな…)
忍田がそんなことを考えていると、ツグミが声をかけてきた。
「叔父さん、ぼんやりしているとすぐに出勤時間になってしまいます。洗濯済みのシャツがもうないので今日は昨日のシャツをもう一日だけ着てください。洗濯物は今日中に全部やってしまいますから、明日はきれいなシャツで仕事ができますよ」
「わかった」
忍田は自分の部屋に戻ってボーダーの制服に着替える。
管理職というものはパリっとした服装をしないと部下から軽んじられるとツグミに言われており、1年前までは毎日アイロンのかかった清潔なシャツを着ていたのだが、ツグミが出て行ってしまってからはそうもいかなくなった。
さらにひとり暮らしともなるとシャツにアイロンをかけるどころか洗濯すら手を抜きがちになるものだ。
実際ここ2週間ほど自宅には帰ったり帰らなかったりで、脱衣カゴには使用済みのシャツが5枚放り込まれていた。
(やはり結婚しないと無理…なんだろうか? …しかし結婚とは相手がいて成立するもの。まともに家にも帰れないような仕事をしていて嫁さん探しなどしている暇などないというのに、ツグミはどうしろというのだ?)
沢村響子という女性が結婚相手として結びつかないのは、彼女があまりにも見事に「本部長補佐」を勤めているからである。
もちろん好意はあるものの「LOVE」ではなく「LIKE」でしかない上に、彼女が仕事のパートナーとして完璧だから「友好度」はMAXであっても「親密度」がまったく足りておらず恋愛ルートに移行しないのだ。
沢村がボーダーを辞めて一般人となり、別の面から忍田をサポートすることができれば状況は一変するのだろうが、それはしばらく無理だろう。
着替えを終えた忍田はカバンを持って玄関へと向った。
その足音を聞きつけたツグミが彼の後を追う。
玄関で靴を履いて振り向いた忍田は笑顔で「いってきます」を言おうとしたところ、ツグミに叱られた。
「じゃ、いって ── 」
「そんなんじゃダメです」
「え?」
「ネクタイが曲がってます」
そう言ってツグミは忍田のネクタイを引っ張るとさっと外し、手際良くきれいに結び直した。
「シャツがヨレヨレなんですから、せめてネクタイくらいキッチリと結んでください。シャツもネクタイもだらしない男性がわたしの父親だなんて絶対に許せませんから」
「わかったよ。じゃ、いってきます」
「はい、いってらっしゃい」
忍田はネクタイと同じくらいキッチリとした顔でドアを開け、その時にハッと気が付いた。
(今、ツグミが私のことを父親と言った。まだお父さんとは言ってくれないが、ちゃんと父親として認めてくれているのだな…)
たったそれだけのことが嬉しくて、足取りも軽くボーダー本部へと向かうのだった。