ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
夕方に迅が忍田家に迎えに来てくれるということになっているので、ツグミは本部基地からの帰宅の途中でスーパーマーケットに寄って買い物をした。
この買い物とは忍田のための料理の材料ではなく今晩玉狛支部に残るメンバーとゼノンたちの夕食のためのもので、テオが心待ちにしているであろうハンバーグをメインとした料理3品とデザートである。
突然姿を消してしまって心配かけたことと不便を強いることとなったお詫びを兼ねたものであり、本部異動になった彼女はもう玉狛支部に顔を出すこともできなくなるから、まさにこれが「最後の晩餐」となるわけだ。
(このまま彼らが玉狛支部に滞在し続けるなら、きっとわたしが彼らと話ができるのは今日が最後になる。それにリヌスさんのトリガーの解析も終わったことだし、このまま彼らを拘束する理由もなくなったから彼らが帰国する日も近いだろう。彼らが帰国すれば任務失敗の責任を取らされてしまうのは確実で、有罪であってもせめて
オーブンレンジの中ではフォカッチャがきれいな焼き色になり、コンロの上の鍋の中ではトマトソースで煮込まれたハンバーグが良い匂いを漂わせていた。
後は蒸し器で温野菜サラダを作り、冷蔵庫に入れてあるレアチーズケーキが固まれば完成する。
それを持って行き、玉狛支部の厨房で再加熱して出す予定なのである。
(今夜は全員で本部へ行ってオサムくんたちの応援をすることになっていて、林藤支部長が留守番をするってことだから…全部で7人分か)
今シーズンの最終戦であり、玉狛第2が全員で遠征部隊に選ばれるためには必ず勝たなければならない重要な試合である。
そうなれば陽太郎を含めた全員で応援のために本部基地へ行くのは当然で、本来ならツグミも玉狛支部のモニター越しに応援するはずであったのだ。
しかし今の彼女は本部所属の隊員であり、荷物の運び出しがあるから観戦するような時間はない。
そして作業を終えたらもう玉狛支部に任務以外で足を踏み入れることはなくなるだろう。
(玉狛支部所属となってから2年、支部内に住み込むようになって1年弱。長かったような、短かったような…。特にこの数ヶ月、ユーマくんが
ツグミは少々感傷的になっているようで、目頭が熱くなってくるのを感じたものだから、それを振り払うように別のことを考えることにした。
(近いうちに唐沢部長から寮の話を聞いて選択肢のひとつに入れておくべきだけど、忙しい人だから
「思い立ったらすぐ行動」のツグミは作業台の端に置いてあった携帯電話を手にすると、唐沢の携帯電話のアドレスにメールを送った。
すると予想を裏切って5分も経たないうちに電話があり、話の内容は「これからすぐに本部基地を出るから20分以内に
事情を訊く暇もなく、唐沢がここを訪ねて来るとなれば急いで迎える支度をしなければならないと、夕食の調理を一次中断することにした。
(とにかくお茶菓子を用意しなきゃ。今からじゃ買いに行くには時間がないし、チーズケーキが固まるにはまだ時間がかかるし…。せめて30分あったら用意できるのに。どうしようかな…?)
玉狛支部にいた時には
(仕方がない。お客様に出せるようなものじゃないけど何もないよりはマシだもの!)
ツグミはあり合わせの材料を使い、あっという間にパンの耳と砂糖で「かりんとう」を作り上げた。
できあがりの熱々のかりんとうを小洒落た器に盛り、湯を沸かしてお茶を淹れる支度をしていると玄関チャイムが鳴った。
◆
「ようこそいらっしゃいました。どうぞお上がりください」
着替えをする時間がなかったものだから、杢グレーのタートルネックのプルオーバーとデニムのジャンパースカートという普段着のままでのお出迎えとなってしまったツグミ。
しかし唐沢には思いのほか好評のようだ。
「急に押しかけてしまってすまないね。でも飾り気のない普段着のきみの姿もなかなかいい。良く似合っているよ」
玄関で唐沢が靴を脱ぎながらそんなことを言うものだから、ツグミは苦笑するしかない。
「そんなお世辞を言っても何も出ませんよ。お会いしたいとメールしたのはわたしですけど、わざわざ唐沢部長にお越しいただけるなんて思ってもいませんでしたから。お忙しいのに申し訳ありません」
「なに、大したことじゃないさ。きみからメールをもらったのが幹部会議の終わったタイミングで、次の仕事は夕方からだからちょうど暇な時間なんだよ。それにおれ自身もきみに用事があったからね」
「わたしに用事、ですか?」
「そう。だけどまず先にきみの用件を済ませてしまおうか」
「はい。…こちらで少々お待ちください。今、お茶を淹れてきますので」
ツグミは唐沢を居間に案内し、座布団を勧めると台所へとすたすた歩いて行った。
「いや、おかまいなく」
唐沢はそう言ってツグミの後ろ姿を見送る。
(以前と変わりはないようだが、いろいろなことがあってそれどころじゃなかったからなんだろうか…?)
織羽の旧友である小笠原雪弥とツグミと3人で会食をした際、雪弥が織羽の死亡原因について彼女に不信感を抱かせるような発言をしたものだから唐沢はずっとそのことが気懸りでいた。
忍田や林藤たちにはその事実をメールで伝えてあり、何かあれば情報共有をすることになっている。
しかし誰からも彼女の変化について報告がないので、雪弥に報告する
ツグミは両親の死の真相について調べ、当時の新聞記事やゼノンの証言などから「
残酷な真実に打ちのめされながらも忍田たちが真実を告げなかった理由がわかっているから、彼女は自分に暗示をかけて「両親の死は交通事故であり、疑問を抱いて真相を調べていたこと自体なかった」ことにしてしまったのだった。
だから雪弥から「事故」が「事件」であると聞きながらも、単なる彼の勘違いであるということにして自分が「両親の死の原因に違和感を抱いたことなどない」と記憶の上書きをしているから、態度が以前とまったく変わっていないのである。
そのことを知らない唐沢はガロプラのスパイ潜入事件があったせいで彼女が雪弥との一件を
ツグミが緑茶と菓子を運んで来た。
「こんなものしかありませんが、どうぞ召し上がれ」
そう言って彼女が唐沢に勧めた菓子というのはさっき作ったばかりの「パンの耳かりんとう」である。
それを唐沢は物珍しそうに眺め、1本手に取ると口に入れた。
「…うん、これは…食パンの耳を使っているようだね?」
「はい。食パンの耳をカットし、電子レンジで水分を飛ばします。続いて耐熱性のボウルに砂糖とバターと水を適量入れて電子レンジで熱を加え、その中にカラカラに乾いた食パンの耳を入れて絡めると『パンの耳かりんとう』のできあがりです。まあ、かりんとうというよりはラスクに近いですね。来客用の茶菓子とは言い難いですけど、味の方は自信があります。いかがですか?」
「うん、けっこう美味しいな。それに懐かしい味がする」
「きっと唐沢部長も子供の頃にお母様に作ってもらったんじゃないですか? これはそういうおやつ用の駄菓子に近いものですから」
「なるほどね。…そういえば、さっき城戸司令から聞いたんだが、今日付で辞令が下りたそうじゃないか。きみもとうとうS級か…。これはおめでとうと言うべきなのかな?」
唐沢が目尻を下げて言う。
これまでツグミのことを「最近の若いコにしては賢くて礼儀正しいからどこに出しても恥ずかしくないオジサン受けする女子隊員」として自分の仕事に
事実、彼女の活躍に魅せられたスポンサーたちは自ら支援の増額を申し出てきたし新規開拓も順調に進んだ。
しかし一緒に行動していくうちに唐沢自身が彼女の魅力に取り込まれてしまい、いつの間にか城戸や林藤のように娘を見守る父親のような立場になってしまっていたのだ。
齢を重ねたスポンサーとなる企業のお偉方は現在の立場を得るためにいろいろなものを捨ててきた。
そのために失ったものは多く、後悔はしていないとはいえ自分たちが失ったものを彼女はまだたくさん持っており、そんな彼女が自分の娘や孫に思えてくるからつい応援したくなる。
彼女や彼女と同じように真摯な瞳を持つボーダー隊員の少年少女のために援助をしたくなるのだが、それすらも自社のイメージアップや節税対策といった「損得勘定」による部分が大きい。
それと同じで常に打算で動く自分と比べ彼女の行動は何も見返りを期待しないものに見えてしまうものだから、唐沢は利他的な行動ができる彼女のことが羨ましくてつい肩入れしたくなってしまう。
そんな彼女が本部に戻って来ることは唐沢にとって好ましいことで、少々浮かれ気分になっていたのだった。
ツグミはというと唐沢の気持ちなど知らないものだから苦笑しながら答えた。
「S級といっても特別に良いことがあるわけではありませんし、わたしの場合は
「ああ、そうさせてもらうよ。…それにしてもきみはどうしてそこまでボーダーという組織のために身を削ることができるんだい?」
ちょうど良い機会だと思い、唐沢はツグミに自分の疑問をぶつけてみた。
するとツグミは不思議そうな顔をして首を少し傾げた。
「わたしは当然のことをしているだけなのに、唐沢部長にはそう見えるんですか?」
「そりゃそうだよ。おれの手伝いをしたところできみにとって何も得はないんだから。きみの働きは上層部の人間しか知らないし、特別なボーナスが出るわけでもない。誰もきみの働きを知ないから感謝や労いの言葉もない。もちろんおれはきみに感謝していて、きみの働きに何か報いたいと思っているんだが…」
口ごもる唐沢にツグミは言う。
「わたしがお手伝いをするのはボーダーのためのように見えますけど、実際は私情というか…エゴなんですよ」
「え?」
「まさかわたしが無私無欲で、みんなのために滅私奉公しているとでも思っていたんですか?」
ツグミの言葉に唐沢は唖然としているが、彼女は淡々と続けた。
「わたしは唐沢部長が考えるほど自己犠牲的な人間じゃありませんよ。むしろ誰よりも利己的で、自分と自分を中心とした手の届く範囲内の人たちが幸せならそれで十分。ですからボーダーのために身を削っているなんていうのは大きな勘違いです」
「……」
「ただわたしが自分のために行動すると、その結果がボーダーのためになっているからそう思えるんですよね…。そもそもわたしの入隊動機は自分が
「……」
「ボーダーの財政が健全であれば隊員を増やすことも、新しいトリガーの開発も今よりずっと楽になります。逆にお金がなければ組織を維持することすらできなくなるでしょう。だからわたしは唐沢部長のお手伝いをしているんです。でもそれは三門市民のためではなく、ジンさんが
「……」
「もしかして幻滅しました? 種を明かせばこんなものですよ。でも理由はどうであれ結果がボーダーや三門市民のためにもなっているんですから好都合じゃありませんか。まあ、そういうことですので唐沢部長もお気遣いなく。お互いに利用し合っている関係なんですから。それでも何かお礼をと考えているなら、いつかわたしが困った時にわたしの味方になってください。わたしがこれからやろうとしていることにはいくつもの障害がありますから、味方は多ければ多いほどありがたいです」
「そのきみがやろうとしていることって何だい?」
「それは…今はまだ言えません。あまりにも突拍子もないというか…雲を掴むような話で、自分でもどうしたらいいのかまだ良くわからない状態なものなんです。でも今できることをひとつひとつクリアしていけば、その先にゴールがあるということはわかっています。ただそのゴールはとても遠い場所にあって位置もはっきりしていないものですから、まだ人に話せる段階ではないということです」
ツグミはそこまで言って大事なことを思い出した。
「あ…そういえば教えていただきたいことがあってお会いしたいとメールしたんです。須坂会長の会社の社員寮だった建物を譲ってもらったそうですね?」
「ああ。きみが聞きたかった話というのはそのことだったのか。先月の末に須坂会長にお会いして、その時に自社の社員寮として使用していた建物を無償譲渡するという契約をしたんだ。…しかしその話をもう知っているとはさすがツグミくんだね。城戸司令から聞いたのかい?」
「はい。でも詳しいことは唐沢部長に聞くようにと言われましたので。それでどんな物件なのか知りたくて。くだらないことでお手間をかけて申し訳ありません」
「いや、かまわない。その元社員寮というのは旧弓手町駅の北口から徒歩10分くらいの住宅地の中にある築8年鉄筋4階建ての建物でエレベーター完備。1階がピロティー式になっていて駐車場と駐輪場として使われている。2階から上が居住部分で各フロア3室ずつ。各部屋の間取りは全部同じタイプで1DK。寝室は6畳でウォークインクローゼット付き、ダイニングキッチンは約8畳の広さで、どちらの部屋も採光はバッチリの全室南向き。バス・トイレは完全分離型。典型的な単身者用の部屋だな。水道・光熱費は本人負担だが、家賃はボーダー負担でタダ。あえて問題があるとすれば…近くにコンビニやスーパーマーケットといった店がなく、そういった面では少し不便かな」
唐沢の話を聞く分には買い物に関する部分を除けば、これまでに見た他の物件よりも条件はかなり良い。
「買い物に不便なのは仕方がありませんね。あの辺りは警戒区域外ではありますが、大勢の住民が引っ越してしまいましたからゴーストタウン化していますもの。でも隊員の多くは食生活を本部基地の食堂に依存していますし、ちょっと離れた場所に大型ショッピングセンターがありますから問題ないでしょう。少なくともわたしにとっては好物件です。通勤には便利ですし、自炊はしますけど買い物は非番の時にまとめて買っておけばいいだけですから」
「そうなると、きみが入居第一号になりそうかな?」
「いちおうリフォーム具合をこの目で確かめてからになりますが、たぶんお願いすることになると思います」
「そうか、きみが入居してくれたら須坂会長も喜ぶだろう。…なるほど、つまりきみは自分にとって都合の良い部屋を見付けただけなのだが、須坂会長を喜ばせることにもになる。どちらにとっても結果オーライということだ」
「そういうことです。そして須坂会長の機嫌が良くなれば、ますますボーダーに肩入れしてくれることでしょう。そして唐沢部長にとっても喜ばしいこととなるんですよ。でもまだ入居するとは決まっていませんから、この話はまだご内密に。もっとも寮の話自体がまだオフレコですものね」
「もちろんだ。…ところで、今日の午前中に小笠原社長と面会してきたよ」
会話の流れが良い雰囲気なものだから、唐沢は自分の「本来の目的」を果たすために話を切り出した。
「小笠原社長との面会ということは、支援のお話が進んでいるということですね?」
「そう。きみとの会食が楽しかったらしく、ボーダーへの個人的な援助を決めてくれたものだから、今日書面にサインしてもらって来たんだ」
「それは良かったですね。会ってお礼を言いたいですけど、相手が現役バリバリの社長さんですからちょっと無理そうなのでお手紙を書きたいと思います」
「いや、小笠原社長がきみとぜひもう一度会って話がしたいと言っていたから、近いうちに向こうから連絡があるんじゃないかな」
「じゃ、それを楽しみに待ってます。…実を言うと、あの会食の最後でわたしの態度が小笠原社長の機嫌を損ねてしまったんじゃないかと気にしていたんです。わたしが些細な間違いを気にしたものだから、せっかく上機嫌だった社長が顔を真っ青にしちゃって…」
「…!」
「事故を事件と言ってしまったのは、たぶん別の人物と父のことを勘違いしただけでしょう。それなのにわたしったらそんな些細なことで大騒ぎしちゃって、あの後反省してしまいました」
「どうして?」
「だって真史叔父さんたちが交通
ツグミが自身の記憶を封じてしまったことなど唐沢は知らないから、彼女の態度の変化に意外なものを感じていた。
もしかしたら周囲の人間に迷惑や心配をかけたくなくて気にしないフリをしているのではないかと考えてしまう。
(彼女は聡明なコだからおれたちを困らせないようにしているのかもしれない。たぶん忍田さんたちも彼女の気持ちを察して何も言わないのだろう。ならばおれも彼女の意思を尊重してこれ以上は何も言うまい)
唐沢も心配事がなくなったものだから、安心してかりんとうに手を伸ばした。
そんな彼にツグミが尋ねた。
「そうれはそうと、唐沢部長はわたしに用事があっていらっしゃったんですよね? また営業のお手伝いですか?」
「ん? …ああ、そうではないんだが…ちょっときみの顔が見たいと思って」
本当の理由を言えず適当な言い訳をしようと考えていると、ツグミが先走って言った。
「あー、もしかして須坂会長にわたしの様子を見て来いって言われたんじゃないですか? 須坂会長とはわたしが先月トリオン切れで倒れてからずっとお会いしていませんから、きっと心配しているんじゃないかって気になってはいました。体調が回復したらお会いしたいと思っていたんですけど、このところキオンとかガロプラとか
「そうだったね。S級になったことの報告も兼ねて面会できるようにおれがセッティングしようか?」
「はい、ぜひお願いします!」
ツグミが上手い具合に