ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
(あー、何かムシャクシャする…)
ツグミと太刀川の
このふたりの関係を修復したのは迅本人なのだが、それは彼の視た「最善の未来」のために必要なことであったから仕方がなかった。
仕方がないとはいえ、ツグミが自分以外の男と親しくしているのを見ていて気分が良いはずがない。
もっともこの時点では恋愛未満の好意であり、大切な女の子が自分以外の男と仲良くしているのが気に入らないというレベルだ。
1年前の遠征から帰還して心身共に疲れ果て、最上を喪ったことで絶望していた迅の魂を救ったのがツグミで、その時から彼にとってかけがえのない存在となっている。
(ツグミが太刀川さんに興味ないってことはわかってるけど、太刀川さんがツグミと一緒にいる時にそわそわしているのを見てると嫌な気分だよな…。まあ、ツグミは可愛いし頭も良い。何よりも一緒にいるだけで癒される気がする。だから好きになるのは当然だ。でも俺とあいつの付き合いは5年も前からなんだぜ。少し話をしたくらいであいつのことを全部わかった気になるなよな、太刀川さん)
この時点で迅はイライラしていたが、ツグミにとって太刀川は「弟弟子」でしかなく、太刀川も恋愛よりも弧月を振り回している方が楽しいものだから、迅がフラストレーションを感じていたのは一時的なもので終わった。
さらに迅はツグミとの恋愛よりも興味をそそるものを太刀川の目の前にぶら下げた。
興味をそそるものとは、迅が
おかげでツグミを巡る三角関係に至ることもなく、4年後にはめでたくツグミと相思相愛の恋人同士になるのだが、まだこの時にはそうなるとは想像もしていない迅である。
◆◆◆
ツグミと太刀川は模擬戦の回数を重ねていったが太刀川は全戦全敗が続いていた。
技術的にはほぼ同レベルのふたりだが、知略に優るツグミに軍配が上がってしまうのは無理もない。
太刀川も彼なりに同じ手は食わないようにしているものの、ツグミの頭の中には知恵の泉のようなものがあって次々に戦術が湧いてくるのだ。
実戦形式の戦いであるから「勝つためには何をしても良い」で卑怯だと思えるようなことも平気でするのだが、彼女も太刀川に申し訳ないという気持ちがあるのか、彼の弁当には必ずコロッケを入れている。
そしてとうとう太刀川がツグミに初勝利する日がやって来た。
その日は忍田が本部の仕事を終えてから午後に道場へと来ることになっていたから、ツグミと太刀川と迅は午前中から稽古をしていた。
迅にとっては必要のないことであったが、
そして午前の部を終え、3人でツグミお手製の弁当食べるところまでは何事もなく済んだのだが、問題は午後になって突然起きた。
忍田が道場へ来られなくなったのだ。
これではツグミと太刀川の模擬戦の審判がいないということになり、試合を中止にするかどうか3人で相談をすることにした。
「忍田さんがいないなら今日の模擬戦は中止でいいんじゃないですか?」
ツグミが当然だという顔で言う。
「いや、俺はやりたい。審判は迅にやってもらえばいい」
太刀川は朝からやる気満々であったし、ツグミに勝てなければ迅が相手をしてくれないと言われているので、一日も早くツグミを倒したい。
それに朝からやる気満々でいたから、今更中止となってはその高ぶった気持ちを発散する場がないのだ。
そして迅はこれが自分の視た未来に続くのだと確信する。
(そうか、これが分岐点なんだな。普通に考えればツグミが泣くというのは太刀川さんに負けることが原因ってことになる。だから中止にすればツグミは泣かずに済むだろう。…だが未来に介入して変更させることが正しいのかどうかわからない。遠征の時みたいにこいつが死ぬ未来というならどんなことをしてでも阻止するが、太刀川さんに泣かされるくらいなら様子見で良いかもしれないな。いざとなれば俺が慰めてやればいいんだし)
迅は決めた。
「わかった。俺は審判をすることに異論はないが、ここで模擬戦をしても忍田さんがいないからこの勝敗が有効となるかわからない。太刀川さんがそれでも良いっていうなら試合をやろう」
「いいぜ。とにかく俺は今日のために作戦を練ってきたんだからな」
「じゃあ、ツグミはどうする?」
「もちろんわたしもいいですよ。慶は忍田さんの前で勝ちたいのだとばかり思っていましたけど、本人がそれでいいって言うなら。わたしも試合自体が嫌なわけではありません」
ツグミもここで逃げ腰な態度を取れば太刀川にバカにされると判断し、彼の挑戦を受けることにした。
「じゃあ、これで決まりだ。早速始めるぞ。ふたりとも位置に着け」
ツグミと太刀川は定位置に着いた。
いつもならそこで弧月を構えるのだが、今日に限って太刀川が迅に訊いた。
「なあ、この勝負は相手を倒せば勝ちってことだけど、戦闘不能にするとか、降参って言わせるのでもOK?」
「そりゃ…戦闘不能ならもうそれ以上は戦えないし、相手が負けを認めりゃそれで試合終了にしていいんじゃないかな」
「それとボーダーのルールを守るのは基本だよな?」
「当然。だけど何で今更そんなことを訊くの?」
「再確認しただけさ。…よし、こっちの準備はできたぞ。いつでも来い!」
いつもと違う太刀川の様子に引っかかるものがあるツグミだが、どんな技でも対応できるという自信から深く考えずに弧月の柄に右手を添えてゆっくりと抜いた。
「こちらも準備OKです」
「じゃあ、始めるぞ。…勝負、開始!」
迅が忍田を真似て右手を高く上げて開始の合図をすると、道場に妙な空気が漂った。
本来なら両者の殺気がバシバシとぶつかり合うというのに、今日に限って太刀川は自分が当事者ではなく傍観者の立場でいるかのようにのんびりとしていて殺気どころか緊張感すらないのだ。
いちおう弧月を両手で握り、中段の構えではいるのだが、ツグミに斬りかかる気配はまったくない。
「慶、その不真面目な態度は何よ!? それでわたしに勝とうと言うの?」
バカにされたように感じたツグミが怒鳴りつけるが、太刀川は平然としてどこ吹く風だ。
「もちろん勝負は勝つためにするに決まってる。…来いよ。どんな技でも俺は軽くあしらってやるからさ」
「へえ~、少しは頭を使ってるみたいじゃないの。わたしを怒らせて冷静さを失わせるって戦術ね。でも残念、そうとわかっていたらどうとでも対処できるんだから」
ツグミは太刀川が自分を苛立たせて平常心を失ったところで攻撃を仕掛けてくるのだと考えた。
そして生意気にも挑発をしてきたものだから、それに乗ってやろうなどと馬鹿な気を起こしてしまう。
「それにいつも先制攻撃を仕掛けてくる慶が防御から反撃に移るなんてできるのかしら? 見てみたい気がするからわたしの攻撃を受けてみなさい!」
ツグミは太刀川との模擬戦で初めて先制した。
これが太刀川による罠だとわかっているが、彼が無い知恵を絞って考えた戦術であるものだからそれを確かめてみたいという好奇心の方が優ったのだ。
ツグミが弧月を構えて太刀川の正面から接近する。
太刀川が何を考えているのかわからないのだから、「奇手」ではなく「定石」で打つべきだという意味である。
さらにわざと隙を見せて太刀川の攻撃を誘う「罠」をちらつかせるが、それに反応する気配がない。
(いつもならわたしの策に誘われて自滅するんだけど、引っ掛かるどころか反応すらしない。おまけに殺気がまるでないじゃないの。さすがにわたしにも全然読めない。何を企んでいるのかしら…?)
こうした局面は初めてなので、ツグミは最善の注意を払いながら確実に間合いを詰めて行く。
(慶の方が背の高い分リーチがある。わたしの動きを見極めて即動くつもりなんだろうけど、その前に勝負を決めてやる!)
ツグミは太刀川の間合いに入る直前に呼吸を整えると弧月を握る手に力を込めて一気に踏み込んだ。
「やあぁぁーっ!」
「トリガー、
勇ましい掛け声と共に弧月を振りかざすツグミだが、その耳に聞こえてきた太刀川の声に驚いて動きが止まってしまった。
目の前に弧月を突き付けられた状態の太刀川は生身である。
「な、何…?」
敵を前にして換装を解いてしまった太刀川の真意はわからないが、ツグミは太刀川を斬ることがなく済んだことで一瞬気を緩めてしまった。
するとそれを待ち構えていたかのように太刀川はニヤリと笑うとツグミを足払いして彼女を床に転倒させ、その隙に再換装した。
「トリガー、
再び戦闘体になって弧月を抜いた太刀川はその切っ先を立ち上がろうとしていたツグミの喉元に突き付けた。
少しでも動けば喉を斬られて戦闘体を破壊されるだろう。
「くっ…」
悔しそうなツグミを見下ろしながら、太刀川は居丈高な態度で言い放った。
「勝負あったな。どうだ、このまま降参するか? それとも反撃のチャンスを探してまだ足掻くか?」
「どうしてわたしを斬らないんですか? これまで散々わたしに斬られ続けてきたんだから、ざっくりと斬りたいんじゃないの?」
「まあね。だけどここでおまえを斬ったら戦闘体の修復には24時間はかかるんだろ? そしたら明日の朝の市内巡回ができなくなる。それはマズイからな」
太刀川がそこまで考えて
「わかりました。降参します」
そう言ってツグミは換装を解いた。
もう戦う意思はないという意味だ。
ツグミは黙って立ち上がると太刀川に一礼してからトコトコとひとりで道場の隅へと歩いて行った。
そして部屋の角の方に頭を向け、膝を抱えて蹲ってしまう。
(悔しい…。剣の技術で負けるのならまだ我慢できるけど、慶に戦術で負けるなんてありえないもの…)
ツグミにとって知略で太刀川に負けたことはかなりのショックであったようだ。
(慶が換装を解いたのはとっさの判断じゃなくて初めから計画に入っていたに違いない。生身の人間へのトリガーでの攻撃は死に繋がることを誰よりもわかっているわたしだからこそ効果が増すのよね…。わたしのトラウマを利用するなんて卑怯なヤツ。でも戦闘中に換装を解いちゃいけないなんてルールはないんだから、これは有効。敵の想定外の行動をしろって言ったのはわたしだもの。それにしてもわたしがうっかり斬り付けてしまったら大怪我していたというのに、慶ったら平然としてた。それってもしかしてわたしの腕を信じて賭けに出たってことなのかな…?)
数日前に太刀川とふたりでお互いのことを語り合ったことで、ふたりの間には信頼関係が生まれつつあった。
だからお互いのことを深く知ることにもなったのだが、この戦術はツグミが自分を斬ることは
(そうだったら嬉しいんだけど、やっぱ悔しい…)
迅やレイジ、小南らになかなか勝てないのは昔からのことなので慣れているが、太刀川に負けたことはツグミに大きなダメージを与えていた。
もっともこれくらいで腐ることはないのだが、立ち直るには少々時間が必要だ。
一方、太刀川と迅はツグミの小さな背中を見つめている。
それぞれに思うところがあるらしく黙ったままだ。
しかしいつまでも放っておくことはできず、太刀川はツグミに声を掛けることにした。
「ツグミ、騙すようなことをして悪かったな。おまえがそんなに悔しがるなんて思ってなかったもんでさ」
太刀川はツグミの機嫌を直したいと考えて謝っておくことにした。
しかし今のツグミには逆効果で、結果的に火に油を注ぐことになってしまう。
ツグミは感情的になって叫んだ。
「慶の顔なんて見たくないからあっち行ってよ!」
「はあ? 俺が謝ってんのに何だよその言い草は。卑怯な手を使ったのは悪かったが、おまえだって似たようなことを平気でやるじゃねーかよ」
「わたしは卑怯なことなんてしていないもん! わたしのやったことは『奇策』って言うんだもん」
ツグミは太刀川の戦術を否定はしていない。
むしろ彼が知恵を絞り、一歩間違えれば大怪我をするという無茶な策を講じたことに感心していたくらいだ。
卑怯であっても敵の弱点を突くのは戦術としてアリだし、
だから太刀川のことを褒めることはあっても否定する気はなかった。
しかし自分より格下であった太刀川に負けたことは悔しい。
今はひとりにしておいてほしい状態だというのに、敗者の気持ちを思い図ることができない太刀川は宥めようとして
だからツグミはダダをこねているのだ。
「太刀川さん、ここは俺が」
このままにしておくとツグミと太刀川の子供じみた喧嘩が始まり、結果として「ツグミが太刀川に泣かされる」ことになる。
そこで迅がツグミを慰めてやろうとふたりの間に割って入ったのだ。
「ツグミ、太刀川さんが悪くないってことはおまえもわかっているんだろ? 実戦形式だから手段を問わずに攻撃してくる。敵前で換装を解くなんてさすがのおまえですら想定していなくて、それで負けたから悔しいのと同時に太刀川さんが怪我をしなくて良かったってホッとしている。複雑な気持ちで、自分でもどうしたら良いのかわからないんだろ? こういう時にはひとりになりたいんだよな? だから俺たちはちょっと外に出てる。おまえの気が収まったら俺と一緒に家に帰ろう」
「ううっ…」
迅の言葉をきっかけにして、ツグミは小さな肩を震わせながら嗚咽し始めた。
1年前の遠征で大切なものを失った時、彼女は人目を憚らず号泣したが、その時以来彼女は一度も泣くことはなかった。
泣く暇があったら稽古や任務に専念してもう泣かずに済むようにと努力してきたからである。
しかしそれは自分の感情を抑えて我慢してきたということにもなり、本人が気付かないうちにストレスとなって溜まりに溜まっていたようであった。
ツグミは周りの大人たちに迷惑をかけたくないと考えるタイプだから、何かあっても感情をずっと自分の中に溜め込んでしまいがちになる。
泣くことを我慢して耐える人間は泣き顔を他人に見られたくないと思ったり、皆頑張っているのだから自分だけ泣いてしまうわけにはいかないと思ったりすることが多い。
だからひとりになりたいと思ったのだが、太刀川が彼女の気持ちを察することができずに彼女の気持ちを逆撫でしてしまった。
そんな状態で迅が自分の気持ちを理解して寄り添ってくれたものだから、迅の言葉をきっかけとして溜まってしまった感情が安心感で涙という形になって出たのだ。
「我慢しないで泣いていいんだぜ。大声で泣いて、それでスッキリとしてしまえばいい」
迅のその言葉でツグミはゆっくりと振り返り、迅と太刀川の顔を見上げた。
すると両目からとめどもなく涙がポロポロと零れ落ち、迅の顔を見たことをきっかけにして堰を切ったように大声で泣きだした。
「うわぁぁぁーん!」
ツグミは勢い良く立ち上がると、迅の身体に抱きついて胸の顔を埋めておいおいと泣く。
そんな彼女の頭を右手で優しく撫で、左手を彼女の背中に回した。
その様子は太刀川に負けたツグミが大泣きして迅に慰められているという構図だが、迅はふと重大なことに気付いた。
(あれ? もしかしてこいつを泣かせたのって俺かも。原因は太刀川さんだけど、放っておけば泣かなかっただろう。ってことは泣かせたきっかけが俺の言葉ってことになるじゃん! でもこれでストレスを発散できたならそれは結果オーライってことで特に心配することはなかったな)
ツグミが泣く未来を悪い意味として受け取っていたものだから、迅はこれで自分が無駄な心配をしていたのだと安堵した。
ところがこの道場に現れるはずのない人物が登場して、状況は一変してしまった。
「いや~、スマン。仕事が長引きそうだったんだが、林藤に全部押し付けてきた。これで午後はおまえたちに…って何があったんだ!?」
忍田の目に入ったのは道場の片隅で立っている太刀川と迅、そして迅にしがみついて大泣きしているツグミの姿である。
普段泣かない愛娘が号泣しているとなれば尋常ならざる事態であると判断するのはもっともで、忍田は冷静さを失っただけでなく即座にトリガーを起動して換装すると弧月を抜いた。
「慶、おまえが
これまでに見たことのない恐ろしい目つきと目の前に突き出された弧月の切っ先に太刀川は鳥肌が立った。
もちろんトリオン体であるから物理的に鳥肌が立つわけではない。
それほど忍田の形相に戦慄したということだ。
「お、俺…じゃないですよ。そりゃ模擬戦でちょっとやっちゃいましたけど、泣かせたのは迅です」
すると忍田は迅を睨んだ。
「おまえか…?」
迅がツグミを泣かせることはありえないのだから何か特別な事情があるのだろうと忍田は考えるが、ツグミが迅に抱きついたまま泣いているのだから確認せねばなるまい。
「う~ん…泣かせたきっかけは俺ですけど、忍田さんが想像しているのとはちょっと違う…かな」
迅がそう答えると、ツグミは泣くのを堪えて忍田の方に振り返った。
たった今まで泣いていたものだから顔はぐしゃぐしゃだ。
「違うの…、うっ…ジンさんは悪くない…の…。うっ…悪いのは…うっ…」
しゃくり上げながら事情を説明するツグミだが、感情が高ぶっている忍田にはもどかしい。
ここまでの言葉から判断すると続く言葉は…
「慶」
となる。
迅ではないのなら、残るは太刀川しかいない。
実際「お、俺…じゃないですよ。そりゃ模擬戦でちょっとやっちゃいましたけど、泣かせたのは迅です」と言い訳をしていて、ツグミが迅ではないと断言したのだから、太刀川が嘘をついていると考えるしかない。
「慶…やっぱりおまえか…」
忍田は鬼の形相で太刀川に弧月を振りかざし、彼の身体を袈裟懸けに斬る動きをした。
もちろんそれは「フリ」である。
さすがに私怨で太刀川を斬ることはできないが、極まった怒りをぶつける矛先は必要だ。
そこで斬ったフリをしたわけで、
その光景を呆然と見つめる迅と、驚いて涙さえ止まってしまったツグミ。
そして弧月を鞘に戻すと、忍田はおもむろに言い放った。
「今後二度と私の娘を泣かせるようなことはするな。もし泣かせたその時にはこのくらいで済むと思うなよ」
「は、はい…。もう二度と、しません」
太刀川は恐ろしさとわけがわからないという複雑な表情で言う。
しかしここでやっとツグミは泣き止んだことで続きを言うことができた。
「悪いのは…わたしなんです」
「ああ、そうだよな。悪いのはわたし…って、ええっ!?」
ツグミ自身が悪いのは自分であると言っているのだから、太刀川は「冤罪」であったということになる。
「慶との模擬戦で負けて、わたしは悔しいけど慶が頭を使った戦い方を見せたことで驚いたり少し嬉しかったり、頭の中がごちゃごちゃになって自分でもどうしたら良くわからなくてひとりになりたかったのに、慶がわたしに声をかけてきたんです。わたしを宥めようとしたのはわかるんですけど、こういう時には放っておいてほしいのに気付いてくれなくて、わたしも感情的になって『慶の顔なんて見たくないからあっち行ってよ!』って言っちゃったんです。そうしたら喧嘩になりそうな状態になって、ジンさんが穏便に収めようとしてくれました。今度はジンさんがわたしの気持ちを慮って優しい言葉をかけてくれたものだから、急に泣き出しちゃったんです。ジンさんだけはわたしのことをわかってくれているんだと思うと嬉しくて…。だから慶もジンさんも悪くないんです」
ツグミは事情を説明してくれたことで、忍田は自分が大きな勘違いをしていたことに気付いた。
「慶、すまん! 私はてっきりおまえがツグミを虐めたのかと思ってしまった。すべては私の早とちりのせいだ。許してくれ」
忍田は太刀川の前に膝を着き、土下座をするように頭を下げて言った。
しかし太刀川は動揺したままで、状況が理解できないという顔でいるから、忍田の詫びがその耳に届いているのかわからない。
その状態が数十秒続き、ふと太刀川の目の焦点が合って忍田に食いつくように訊いた。
「なあ、忍田さん、さっきあんたおかしなこと言わなかったか!?」
「おかしなこと?」
「そう。私の娘を泣かせるようなことはするな、って言ったよな?」
ここで忍田は「しまった」という顔をした。
秘密にしていたことだが、つい感情的になって口走ってしまったわけで、誤魔化そうか肯定しようか迷ってしまう。
もっともずっと隠し通すのは難しいと判断し、肯定することに決めた。
「…ああ。ツグミはわたしの娘だ。正確に言うとこの子は私の姉夫婦の娘で、ふたりが亡くなった時に私がこの子を引き取って育てている」
「じゃあ、ツグミが世話になってる親戚って…」
「それが私だ」
「何でそのことを隠してたんだよ!?」
「だっておまえ、そのことを知ればこの子に嫉妬して、素直にこの子と一緒に稽古できなかっただろ?」
「まあ、そりゃね…」
太刀川は自分が弟子入りしたばかりの頃を思い出した。
忍田を取り合ってくだらない喧嘩をしていたから、忍田が本当のことを言えなかったのだと太刀川は反省した。
「そっか、ツグミが家を知られたくなかったのも、忍田さんちに住んでることがバレるからなんだな」
「うん。ごめんなさい」
謝るツグミに太刀川は言う。
「仕方がないだろうな。それにもういいよ。おまえと忍田さんの関係を知ってショックだったけど、ただ驚いただけで別に嬉しいとか哀しいとか悔しいとか言う感じはないから。だけどさっきの忍田さんの顔、メチャクチャ怖かったぜ。マジで殺されるかと思った」
これは正直な気持ちで、以後太刀川はツグミが忍田の姪であることを思い出すたびに忍田の怒りの形相が目に浮かぶというトラウマが植え付けられてしまったのだった。
だから無意識にツグミと忍田の関係を思い出さないようにと頭の中のストッパーが働くようになる。
そのおかげで太刀川の口からツグミの秘密が漏れることはなかった。