ワールドトリガー ~ I will fight for you ~   作:ルーチェ

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198話

 

 

迅が精神力をすり減らして本能を抑えていることも知らずにツグミは「自己完結」してしまったが、その迅本人は必死に耐え続けていた。

背後から抱きしめられた状態でいるから、小さいとはいってもその存在を感じられる柔らかい胸が背中に押し付けられていて平常心でいられるはずがない。

それも布越しではなく直接触れており、彼女の心臓の激しい鼓動が直接伝わってきて羞恥心に耐えながら自分を温めてくれているのだと思うだけで嬉しいと同時に好きな女の子をいじめたくなるというサディスティックな部分が鎌首をもたげてくる。

 

(こいつが俺のために恥ずかしいのを我慢しているのは、俺がこいつにとっての家族だからなんだよな…。こいつが7歳で親を亡くして忍田さんに引き取られた時から俺はこいつの兄として守り慈しんできた。だからこいつも俺のことを信頼しきっている。こうして身体を温めてくれているのも、俺が絶対にいかがわしいことをしないと確信しているからだ)

 

ツグミが身体を寄せているから彼女の呼吸のひとつひとつが耳元で囁いているようで、理性でどこまで性欲を押し止められるか試されているようでもある。

 

(俺はこいつのことが世界で一番好きだし大切にしたい。だけどそんな俺の気持ちに気付かないこいつのことをメチャクチャにしてやりたいとも思ってしまう。そうすれば俺に気持ちに気付くに違いないが、気付いたところで俺を受け入れてくれることは永遠になくなってしまう)

 

ツグミに対する好意が性的なものを含めた感情であると彼女に知られたら嫌悪されると迅が考えるのは無理もない。

忍田が父親として無償の愛を注いでいるからこそツグミは彼を唯一無二の愛情の対象としていて、それと同様の兄としての愛情で接している迅だから彼女は「家族愛」で応えてくれている。

ツグミにいつまでも笑顔を向けてもらいたいなら、自分が兄でいるしかない。

だからツグミに「えっちな気分になったりしませんか?」と訊かれて「妹のようなおまえに欲情するような性癖はない」と答えたのは彼女に対する返答というよりは自分に対して戒めている意味もあったのだ。

しかし心の中の自分とは上手く折り合いをつけても身体の方は正直でどうしようもない状態になっていた。

 

(ヤベェ…。やっぱ勃ってきた)

 

迅はトランクスがテントのように張っている状態であることをツグミに悟られないように両手で隠す。

いくらツグミが奥手であっても学校の保健体育の授業で習った程度の知識はあるのだから、()()が何を意味するのかくらいはすぐにわかるはずなのだ。

この状態がバレたら最悪で、迅は速やかに()()する方法を考えた。

 

「ツグミ、ちょっとトイレに行きたくなった。だから俺から離れて服を着てくれないか?」

 

「あ、はい…わかりました」

 

ツグミは何も疑わずにそう言って迅から離れると、そばに置いてあったキャミソールを着る。

 

「ジンさん、目を開けてもいいですよ」

 

「じゃ、ちょっと行ってくる」

 

迅は股間を押さえながらトイレへと向かって歩いて行った。

ツグミはまったく疑いもせずに用便であると信じ込んでいる。

これで迅は「最悪の未来」から逃れることができたわけだ。

 

そしてひとり残されたツグミは扉を開いて雨の様子を確認することにした。

 

(にわか雨だというのに全然止む気配がない。まだしばらく降り続くのかな? そうなると今日の捜索はもう無理そう。明日の朝一番で捜索再開したいけど、()()()旧道を歩くのは難しい。そうしたらさっきの計画も初めから練り直さないとダメだな…)

 

ツグミは座敷に戻ると地図を広げて採石場と周囲の山の位置関係を確認した。

 

(石切場へ続く専用道路が唯一のアクセス手段だったのに、地震で不通になってしまった。周囲を山に囲まれた鍋の底のような位置になるから、どうしても()()()を越えなければたどり着けない。それもこの旧道しか道らしい道はないからここを使うしかないけど、この雨で歩きにくくなっているはず。そこを苦労して歩いて行って()()()だったら目も当てられない。ジンさんは単独での行動は絶対にダメだって言うけど、やっぱりリスクの分散は必要だと思う)

 

さらにツグミは考える。

 

(危険だけど夜間ならバッグワームを使うことでトリオン反応を消すことができるから、戦闘体に換装して行動ができる。レーダーの範囲外でバッグワームを起動すればわたしと同じ能力を持つ近界民(ネイバー)でなければ見付からないし、トリオンでの攻撃でなければ土砂崩れで埋もれたり崖から落ちたりしても怪我はしない。バッグワームも森林迷彩にすれば昼間でも効果はあるかも。とにかく今日は諦めて準備を整えて、万全の状態で明日もう一度来た方がいいわね。せっかくここまで来たのにもったいないけど、ジンさんとデートできたと思えば有意義な一日だったと思える。だって今日はジンさんとずっと一緒にいられて、ジンさんはわたしだけを見てくれて、わたしとだけ話しをしてくれた。今日一日はジンさんを独り占めできたんだもの、こんな幸せなことはないわ。本当はデートだなんて思っちゃいけないんだけどね。…でもジンさん、遅いわね。トイレといっても()の方だったのかしら? まさかお弁当でお腹壊したなんてことはないわよね?)

 

ツグミは少し心配になって、リュックサックの中にある常備薬を入れたポーチを探した。

 

迅のトイレに少々時間がかかっているのは()()をするためである。

個室の洋式便座に腰掛けるといつものように「ツグミが恥じらいながら胸や局部を見せる姿」を想像して刺激を与える。

これまではエロ雑誌のヌード写真にツグミの顔を合成したようなものを思い浮かべていたが、実際に下着姿の彼女を見たり胸を背中に押し付けられたりしたものだからリアル感が増してきた。

もっとも胸のボリュームは極端に小さくなったが、それはそれで悪くはないと思いつつ手のひらによる刺激で頂点に達した時、僅かだが歓喜の声が漏れてしまった。

トイレットペーパーで綺麗に()()()をすると外に出た。

 

迅が座敷に戻って来ると、ちょうどツグミがリュックサックの中身を漁っていたところであった。

しかしその姿に迅は興奮してしまう。

なにしろツグミは畳の上で四つん這いになっていて、大好物である尻が無防備な状態で迅の方に向けられているのだ。

ショーツで大事な部分は隠されているが、その中身 ── 小さいながらも形の良い桃のような膨らみ ── が想像力によって網膜に映ることなく直接頭の中に映像が投影されてしまい、再び勃ってしまったのだった。

 

(勘弁してくれよな~)

 

迅はツグミに気付かれないようにこっそりとトイレに戻るともう一度()()をして、なに食わぬ顔でツグミに声をかけた。

 

「お待たせ~」

 

「あ、ジンさん、遅かったので心配しちゃいました。お腹の調子が悪いならこの薬を飲んでください」

 

そう言って胃薬の錠剤のブリスターパックを迅に見せる。

 

「いや、別にお腹の具合は悪くない。ちょっと考え事をしていただけだ」

 

「考え事?」

 

「ああ。今日はもうこれ以上の捜索は無理だろうなって。おまえこそ俺がいない間にこれからのことを考えていたんだろ?」

 

「はい」

 

ツグミは自分の計画の変更について説明をした。

迅はその話を黙って聞き、そのとおりだと言わんばかりに頷いた。

 

「それがいい。もし近界民(ネイバー)が石切場に潜んでいるのなら、奴らも艇を使わなければどこにも行けない状態にあるんだ。それに()()3日もある。焦る必要はない」

 

迅が賛成してくれたことでツグミも安心して笑顔を見せる。

 

「あと勝手に決めてしまったんですけど、雨が止む気配がないのでレイジさんに午後5時に登山口まで迎えに来てくださいって電話でお願いしておきました。なのでそれまでここで待機していて、雨が止めばいいんですけどその時にまだ雨が降っていたら雨具を着て下山しましょう」

 

「相変わらず手際がいいな。俺も帰りはどうしようかと考えていたんだ」

 

さらっと嘘をつく迅。

ツグミは迅を疑うはずもなく、その言葉を信じた。

 

「そうですよね。だけどトイレで考えることもなかったんじゃないですか? また身体が冷えてしまったでしょ? 早くこっちに来て暖まってください」

 

「ああ」

 

迅はさっきと同じ場所に腰を下ろし、囲炉裏の火に手をかざした。

 

「天気予報じゃにわか雨って言ってたくせに本格的に降ってきやがったよな…。おかげで当初のプランは台無しになったけど、こうしてふたりっきりでのんびりするのも悪くない。そう思うだろ?」

 

迅に訊かれ、ツグミは彼の隣に座って答える。

 

「ええ。たまには何もしない時間って必要ですから。家にいれば勉強とか家事とかやらなきゃって思うし、本部基地なら誰か対戦相手を探して個人(ソロ)戦をするとか。でも今は雨に降られてどこにも行けないし、何もできない。無駄に時間を過ごしているようでいて、本当はこういう時間を持つことは重要。ゆっくりとこれまでのことを振り返ってみたり、これから先のことを考えてみたりして」

 

「そうだな…。俺たちはいつも何かに追い立てられているようで、ふと気付くと一日が終わっていて、すぐに次の日の朝が来る。それの繰り返しだ。おまえが言うように今はこうして雨が止むのを待つだけ。雨が止めば忙しい日常に戻らなきゃならないが、それまでの短い時間だがのんびりさせてもらおう」

 

ふたりは会話を交わさずにずっと黙りこくったままで囲炉裏の火を見つめていた。

炎の揺らぎは「1/fゆらぎ」といわれる癒しの効果があるとか、あまり見つめ過ぎると心を持ってかれて精神がおかしくなるとか言われている。

燃える火というものには人の魂に何か影響を与えるものであるらしいが、どうやらツグミにはマイナスの作用が働いたようであった。

前触れもなく両眼に涙を浮かべ、ツグミは切ない声で訴える。

 

「わたしはこれまでずっとジンさんと一緒の時間を過ごしてきました。たぶんこれからも同じような時間が過ぎていくのだと信じていたんですが、ふと気付いたんです。ジンさんがお兄さんでわたしが妹であるという関係はこれからも変わらずにずっと続いていくでしょうが、兄妹だからこそいつかそれぞれ別の道を歩いて行かなければならない。それが何年先になるかわかりませんが、必ず訪れるのだと思うと真っ暗な闇の中に吸い込まれていくというか…底の見えない穴の中に落ちるというか…そんな不安と恐怖みたいなもので背筋が寒くなってしまうんです」

 

ツグミはそう言うと迅の身体にぴったりと身を寄せた。

 

「ツグミ…」

 

「何かあった時に自分ひとりで対処できなくてもあなたがいると思うから今は不安などありません。だけどいつかあなたがいなくなって…いえ、いなくなると言っても死んでしまうとかでなく、わたしよりも大切で守ってあげなければならない人が現れたらそちらを優先することになるわけで、そうしたらわたしはあなたの助けなしで困難を乗り越えなければならないという意味です。未来に起きる()()()()()()ことで憂いているなんて愚かですけど、急にそんなことを意識するようになってしまいました」

 

ツグミの様子がいつもと違って情緒が不安定になっていると感じた迅。

そんな彼女を慰めようと、迅は彼女の背後に回って後ろから抱きしめた。

 

「じ、ジンさん…!?」

 

「気持ちが不安定になるのは身体が冷えているからだ。ほら、こうして抱きしめるとおまえの身体はひどく冷たい。俺のために我慢していたんだろ? だから今度は俺がお前を温めてやる」

 

「でもこれじゃジンさんの背中が冷えちゃいます。だから小さいですけどわたしのカーディガンを羽織ってください」

 

「ああ、わかった」

 

ツグミの温もりと匂いの残るカーディガンを羽織った迅は自分の身体と彼女の身体を重ねた。

彼女の小さな身体は迅の身体ですっぽりと覆われ、身体の熱が奪われることはない。

 

「ジンさんの身体、温かい…」

 

「それはおまえの身体がそれだけ冷え切っていたということだ。しばらくこうしていろ」

 

「…うん」

 

小刻みに震えていたツグミの身体が迅の熱によって震えが収まってきた。

それは単に身体が温まってきたというだけでなく、彼をより近く感じることで安心したからだろう。

そんなツグミに迅は諭すように言う。

 

「おまえと俺はいつか別の道を歩くことになるかもしれないが、そんなことで不安になる必要はない。おまえが俺を兄と頼るならば、俺は兄としての責任を果たす。おまえがすべてを捧げても良いと思える男が現れるまで守ってやろう。もちろん俺が認めた奴でなければダメだけどな。俺にとって今一番大切なのは紛れもなくおまえだ。おまえが悲しんだり苦しんだりすることにならないようすべてのものから守ってやる覚悟はある。おまえを託せる相手が見付かるまで俺におまえ以上に大切な人間なんてできるはずがないんだから安心していい」

 

迅の力強い言葉はツグミに勇気を与えた。

ツグミは迅の右手を取るとギュッと強く握り締めて言う。

 

「ごめんなさい、ジンさん」

 

「ん? 何で謝るんだ?」

 

「わたしはこの手を放すのが怖いんです。わたしをずっと導いてくれたこのジンさんの手をいつか放さなければならないというのに、放すどころかずっと握っていたいと願ってしまう。いつまでもわたしだけのジンさんでいてほしいなんて子供っぽい独占欲でいっぱいになって…。だけど冷静にものを考えるとそんなことは無理なんだって気付いて怖くなってしまう。…わたしにとってのジンさんはライナスの毛布のようなものなのかもしれません。小さい頃にいつもあなたの手を握ってもらっていたのでその感触や匂いによって安心感が得られる。中学生にもなってもまだこんなことを言うなんて気色悪いと思うかもしれませんが、自分でもどうしようもないんです」

 

「別に気色悪いなんて思わないし、この手を放したくないっていうならずっと握っていればいいさ。俺も離れないように力を入れて握っていてやるから」

 

そう言って迅はツグミの手を強く握り返した。

 

「ほら、これでもう気持ちが落ち着いただろ? …だけどおまえが俺のことを安心毛布的な存在だと思っていたなんて意外だったぞ。おまえにとって忍田さんがそんな立ち位置にあるわけで、もっとあの人のことしか頭にないと言うか、執着してるもんだとばかり思ってた」

 

「ええ、真史叔父さんもわたしにとってかけがえのない大切な人ですけど、ジンさんとはちょっと違うんです。真史叔父さんの愛情は太陽の光みたいなもの。太陽は常にそこに存在し、けっして失われることはない。そして何か見返りを求めているわけではなく、ただその暖かい光を浴びて生物が成長していく様子を見守っている大いなる存在。真史叔父さんはわたしにとって太陽なんです。唯一無二の存在で、無条件にわたしのことを愛してくれるから、わたしもあの人のことを世界で一番好きだと自信持って言えるんです」

 

「忍田さんは太陽で、俺はライナスの毛布か。ずいぶんと差があるな」

 

「両者を比べること自体がナンセンスですよ。ジンさんはわたしが手を離したら失われてしまう存在。だから絶対に手放したくはないんですが、大人になればそんなことも言っていられません。わたしがジンさん依存しすぎていれば、きっと誰かの手によって引き離されてしまうでしょう。いつまでも子供のままでいてはいけない。いくら大事な思い出の品であっても大人になったら捨てるべきだと言われるに決まっているんです」

 

「……」

 

「わたしはジンさんの妹であり続ける自信はあります。そう決心したばかりですから。ただ…無理やりライナスの毛布を取り上げられてしまったら、その時にわたしは自我を保てるかどうか不安なんです。さっきジンさんは『おまえがすべてを捧げても良いと思える男が現れるまで守ってやろう』と言ってくれましたが、わたしは新しい毛布なんて欲しくない。それがいくら品質の良いフカフカな高級品でも、わたしは小さい頃からわたしのことを包み込んでくれた古い毛布の方が心地良く感じられるのだから」

 

迅はツグミの自分に対する想いを初めて知った。

きょうだいのいない彼女が自分を兄として慕っていることは知っていたし嬉しくも感じていたが、そんな彼女の感情がこれほど複雑で切ないものであったとは予想だにしていなかったものだからどう反応していいのかわからない。

百の言葉よりもひとつの行動の方が効果はあるのだろうが、その行動ひとつで彼女を慰めるどころか絶望の淵に追いやることになるかもしれないのだ。

 

(俺にできることは何だろうか…?)

 

迅はツグミの憂いを取り払ってやろうと考え、優しく耳元で囁いた。

 

「ツグミ、目を瞑れ」

 

そう言って自分の左手の手のひらを彼女の瞼の上にそっと置いた。

 

「炎ってのは心を鎮める効果があるらしいが、あんまり見つめ続けると魂を持っていかれるとも言う。だから炎を見るのはやめて俺の身体と匂いだけを感じていろ」

 

「うん…」

 

ツグミは目を閉じて言われたとおりにする。

 

「こうして俺に包み込まれていれば安心するだろ? 俺もおまえを抱きしめていればどこかに行ってしまうんじゃないかっていう不安を払うことができる。だから俺も目を瞑っておまえの存在を全身で感じることにするよ。…実を言うと俺もすごく不安なんだ。俺はおまえに降りかかる不幸や危険から守ってやりたいと心から思っているが、俺自身がおまえの支えがないと立っていられないほど弱い人間で、忍田さんのような男になりたいと思ってもあの人には敵わない。おまえに幻滅されないように必死になって足掻いていることにおまえは気付いていなかっただろ?」

 

迅までもが自分の心の内を吐露し始め、ツグミは首を横に小さく振った。

 

「ジンさんは今のジンさんのままでいてほしい。真史叔父さんは特別なんです。あなたがあの人と同じになる必要はなく、そもそもなれるはずがありません。それと同じでジンさんも世界にひとりしかいない特別な存在で、あの人がジンさんと同じにはなれません。わたしは今のあなたが大好きで、この一瞬が永遠になればいいとさえ思えるほど満たされています」

 

「そうか…」

 

「真史叔父さんにもこうして抱きしめられたことはありますが、今とは違う安心感がありました。あの人の腕の中にいると心の中がぽかぽかしてきて気持ちが良いんですが、ジンさんに抱きしめられていると胸の中に何か温かいものが生まれるようなカンジがします。それで胸がドキドキして、こそばゆいという表現がピッタリのムズムズする感覚が全身に広がって…。これはあの人に抱きしめられても感じないもので、それはわたしがあなたとあの人を違う存在だと認識している証拠です」

 

「……」

 

「それでどっちが良いかと訊かれても答えは出ません。どちらもわたしにとっての安らぎの場所で、どちらか一方でも失ったらすごく哀しいし辛いと思います。だからわたしはそんなことにならないように戦っているんです。ボーダーに入隊した時は近界民(ネイバー)から自分自身を守るため、そして誰かを守る盾と矛になりたいと思っていました。でも今は違って真史叔父さんとジンさんのふたりといつまでも笑顔で一緒にいたいというエゴイズムで戦っている。わたしのふたりに対する執着は他人から見たら異常といえるものでしょうが、今のわたしを支えてくれているのがあなたと真史叔父さんなんです。いつかその支えがなくひとりで立って歩かなければならないことは良くわかっています。でももう少しだけこうしていてもいいですよね? ()()に降りたら誰にも邪魔されずにふたりきりでいる時間なんて持てないでしょうから」

 

ツグミはそう言って迅に身を預けた。

 

「ああ、そうだな。俺もこうしていたい」

 

迅はそこで口を閉じた。

 

(おまえは俺にとってのライナスの毛布なんだからな…)

 

 

雨音がいつの間にか小さくなり、聞こえるのは囲炉裏で薪が燃えるパチパチという音だけになった。

そんな静寂の中でツグミと迅のふたりはお互いの鼓動と呼吸を感じながら至福の時を過ごしていた。

 

 

 

 

長く降り続いたように感じた雨だったが、時間にすると2時間弱のことであった。

雨上がりの空には虹がかかり、すべてを洗い流したかのようで空気も清々しく感じられる。

完全に乾いたとはいえない少し湿気た服を着ると、ツグミと迅は茶屋の外に出た。

 

「なんだか夢を見ていたような気分です。ジンさんもそう思いませんか?」

 

ツグミは大きく背伸びをして迅に言う。

 

「ああ。現実にあったこととは思えない不思議なカンジだったな」

 

「きっとあれは何か得体の知れないものが見せた幻影だったに違いありません。ジンさんのが言ったように現実にあったことではないんですよ。だからさっきわたしが口走ったことは全部忘れちゃってください」

 

「は?」

 

「わたしはあんなことを言うつもりはなかったんですけど、雰囲気に飲まれちゃったというか…。とにかく忘れてもらわないとこれからの任務に支障が出ると思うんです」

 

「任務に支障って…何で?」

 

「何でって…だって恥ずかしいじゃないですか! ジンさんのことをライナスの毛布とか言って手放したくないだとか、抱きしめられた状態でいて、ずっとこのままでいたいとか…。思い出すだけで顔が熱くなるんです。だから全部なかったことにしてください!」

 

実際、ツグミの顔は真っ赤になっていて、穴があったら文字通りその中に飛び込んで出て来そうにない様子だ。

茶屋の中で囲炉裏の炎を見つめながら切々と自分の心の底にある気持ちを吐露していた時とは別人のようであるが、あの表情こそが彼女の包み隠しのない()()であったことは間違いない。

だから迅は忘れようとして忘れられるものではないが、ひとまずツグミの言葉に頷いた。

 

「わかったよ。なかったことにはできないだろうが、思い出さないように努力する。そうすればいつか記憶も薄れて忘れてしまう。そうすればなかったことと同じになるだろ?」

 

「ううっ…それでいいです」

 

たしかに「なかったこと」にするのは不可能で、忘れてもらうしか解決法はない。

 

「さあ、そろそろ下山するぞ。レイジさんを待たせるわけにはいかないからな」

 

迅はそう言ってツグミと一緒に歩き始めた。

 

(普段は心に秘めて素振りにも見せないあの言葉と態度は真実で、俺のことを心から信頼し愛してくれているのは間違いない。俺の望むものとは違うが、それでもこいつが俺を兄として必要としているのだからそれに応えるしかないんだ。いつかこいつが大人になって俺を男として見ようとしてくれる時が来るかもしれない。その時に見限られないように、俺は今日のことを絶対に忘れずにいるぞ!)

 

 

 

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