ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
ツグミはアマドたちの元に戻るとさっそく医師からの指示について話をした。
アマドはその話を理解したものの外に出るのを拒んでいる。
少しでも妻のそばにいたいという気持ちはツグミにも理解できるので無理強いはせずに好きにさせることにしたが、リーノだけは外で遊ばせるよう勧めた。
昼も夜もない暗い坑内でじっとしているよりも外で思い切り身体を動かして遊ぶ方が心と身体の健康に良いのだと説明するとアマドはすぐに納得してくれた。
リーノはまだ発症しておらず元気なので母親のことがなければ外を駆け回りたいわけで、ツグミがパメラのことは自分に任せても大丈夫だと言うと安心し、迅が外で待っていると聞くとボールを持って全力で走って行ったのだった。
そしてツグミはアマドと一緒にパメラの様子を見に行った。
するとちょうど良いタイミングでパメラが目を覚ます。
「アマド…」
弱々しい声で夫の名を呼ぶパメラ。
そんな彼女の手を握りながらアマドは優しく声をかける。
「パメラ、具合はどうだい?」
「うん…少しだけど楽になったわ。額に冷たい何かが貼ってあるみたいだけど、それが気持ちいいの」
「そうか。それはこの人が貼ってくれたんだぞ。この人は
アマドがツグミのことをパメラに紹介した。
「
アマド一家が到着したのは2日前で彼女はずっと昏睡状態であったわけではない。
高熱が続いていることによる意識障害が発生しているのだ。
ならば一刻も早く適切な治療が必要である。
「パメラさん、この薬を飲んでください。熱を下げる薬です」
ツグミはパメラに錠剤を見せた。
見知らぬ人間から飲めと言われても戸惑ってしまうが、アマドが大きく頷いて言うので信用する気になった。
「大丈夫。この人のことは信用できる。リーノがそう言うのだから間違いはない」
「わかったわ。アマド、身体を起こしたいから手伝って」
パメラはアマドに支えられて身体を起こすと、ツグミから薬を受け取って飲んだ。
「あなたの病気は
ツグミの説明はパメラやアマドにとって手放しで喜べるものではないが、それでも目の前に差し込んだひと筋の希望の光である。
こちら側の世界にやって来たのもイチかバチかの賭けのようなものであるから、この待遇に不満などあろうはずもない。
「わかっています。わたしたちは縁もゆかりもないあなたの善意に縋るしかない身ですから。どうかよろしくお願いいたします」
パメラはツグミに頭を深く下げて言う。
それに合わせてアマドもツグミに頭を下げた。
「妻のことをどうかよろしくお願いします」
「こちらも全力で善処しますので、もう少しだけ耐えてください。パメラさん、お腹が空いているでしょ? 固形物を食べるのは難しいでしょうから、このゼリー飲料を召し上がれ。これなら噛まないで済みますし、喉越しも良いですから口に入ると思いますよ」
パメラの枕元に置いておいたゼリー飲料のパッケージを開いて彼女の手に持たせる。
「ここに口を付けて吸ってください」
ツグミに言われたとおりにゼリー飲料を吸うパメラ。
ひと口吸うと彼女は大きく目を見開いた。
「美味しい…。何かわからないけど果物のような爽やかな味がするわ」
「ええ。それはグレープフルーツという果物の味がついているんです。発熱で汗をいっぱい掻いたでしょうから汗で失われたナトリウムやカリウム、カルシウム、マグネシウムなどのミネラル成分が含まれているこのゼリーは今のあたなにとって最適な食べ物です。全部食べられるなら食べてください。そうしたら水分の補給もして、また眠りましょう。今は体力の回復に努めるのがあなたのなすべきことですからね」
「はい」
力なく応えるパメラの目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
◆
パメラが目を覚まして薬を飲んだことは迅に内部通話で知らされた。
そして一緒にキャッチボールをしていたリーノに伝えられる。
「リーノ、おまえの母さんは薬を飲んだってことだから、ひとまず安心していいぞ」
「ほんと!?」
リーノは迅のそばに駆け寄って来ると彼の手を握って彼の目を見ながら訊いた。
「ほんとにかあさんはおくすりをのんだの? あんしんしてもだいじょうぶなの?」
「ああ、もちろんだ」
迅がそう答えると、リーノは満面の笑みを浮かべた。
「うん、おにいちゃんのいってることはほんとうだね」
「そりゃそうさ。俺がおまえに嘘をつく理由はないからな。だけどどうして俺の言っていることが本当かどうかわかるんだ? さっきも同じように手を握って俺とツグミに訊いただろ」
するとリーノは少し困った顔をする。
「とうさんがいっちゃダメだっていうからおしえられない」
「そうか…。父さんが言ってはいけないと言うなら誰にも教えちゃダメだよな。じゃ、俺はもう訊かないよ。さあ、キャッチボールの続きをしよう」
「うん!」
リーノは元気よく走って行き、迅の方を振り向いた。
「おにいちゃん、ボールなげるよ~!」
「よし、来い!」
迅はリーノとキャッチボールをしながら考えた。
(あいつ、もしかしたらサイドエフェクト持ちなのかもしれないな。相手の嘘を見破る力とか、人の心の中を覗くことができるとか。だとしたら気を付けないといけない。ツグミなら純粋にあの家族を助けることしか考えていないが、俺は…)
迅の心の中にはアマド一家のことよりも優先すべきことがあり、彼らの利益とボーダーの利益が相反することになれば迷うことなく後者を選ぶことになる。
そのことをリーノに知られると面倒なことになるだろうとと考え、力の発動条件と思われる「手を繋ぐ」「リーノの目を見る」を避けることにした。
◆
城戸からの新たな指示がないままに日は暮れていった。
このままではツグミと迅はこの採石場で野営するしかないのだが、迅はこうなる未来が視えていてその準備は万全である。
彼がガスバーナーやコッヘル、食材を持って来たのはこのためで、この日の夕飯はいわゆる「山ごはん」になる。
といってもツグミ・迅ともに山登り未経験者であるから簡単なものしか作れず、湯煎で作る炊き込みご飯、ランチョンミートをスライスしてアスパラガスと炒めたもの、インスタントラーメンなどの「山ごはん
それでも生まれて初めて見る
パメラの症状がだいぶ落ち着いてきたのでアマドを誘って外でキャンプのように焚き火を囲んでの晩餐となった。
「三門市でも周りに明かりがなくて真っ暗だと空の星がこんなにたくさん見えるのね…」
夜空を見上げながらツグミがしみじみと言った。
普段は見ることのできないような小さな星まではっきりと見えるものだから、彼女の思考はその星空の世界に飛び、続いて
(
ツグミの正面には焚き火を挟んでアマドとリーノの親子が和やかな雰囲気の中で料理を食べている。
箸で麺類を食べるのは初めてらしく、親子で箸使いに苦労しているのを見るとなんとも微笑ましい。
パメラのことが心配だろうが、それでもツグミが与えた薬でいくらか症状が緩和されたものだからこうして食事を楽しむ余裕ができたわけだ。
(もしここでわたしたちが手を引いてしまったら、彼らは途方に暮れてしまうだろう。それにアマドさんとリーノくんは症状が出ていないだけで感染はしているはず。もしこのままパメラさんの回復を待たずにアマドさんが倒れたらリーノくんの面倒を見てくれる人がいなくなってしまう。彼らには何の罪はない。…城戸司令は新たな指示を待てと言ったけどそれっきり。さっきジンさんが電話をかけていたみたいだけど、これといって進展はなかったみたい。そして夜になっちゃった。たぶん関係各所との折衝に手間取っているんだろうな…。うん、希望を捨てちゃダメ! 明日になればきっと明るい未来が見えてくるはずだから)
◆◆◆
ボーダー本部基地ではアマド一家の処遇について上層部メンバーによる会議が開かれていた。
ツグミが想像していたのとはまったく違い、まだ関係各所との折衝にまで至っていない状態である。
城戸は
忍田は人道的な面を考えて助けようとは思うのだが、市民の安全を考えると採石場から一歩も出すわけにはいかないと考えている。
林藤は亡命を認めなくても治療だけはしてやるべきだと主張し、病院への搬送がダメでも採石場に医師を派遣すればいいと言う。
根付は病気の
鬼怒田はトリオンやトリガーの情報が手に入らないのであれば亡命を認める訳にはいかないと主張。
そして唐沢は自分では判断できることではないので5人で話し合った結果に賛同すると言うことで、意見がなかなかまとまらないのだ。
ただひとつ一致しているのは三門市民の安全を最優先することで、市民の安全が脅かされるとわかればその時点で
アマドたちはこれまで受け入れてきた亡命
以前に受け入れた
迅がアマドに
それを城戸に報告したものだから、ますますアマドたちの
迅は真実を報告すべきか否か悩んだが、隠したり嘘をつくことによってアマド一家に不利益が生じる未来を予知したために正直に話したのだが、これによって彼らの未来は確定した。
休憩を挟んで3時間にも及ぶ会議の結果を踏まえ、城戸たちが行動を開始したのはツグミが夜空を見上げていた頃であった。
◆◆◆
アマドとリーノが坑内へと戻り、迅はツグミとふたりきりの時間を楽しんでいた。
満天の星空の下、秋の虫たちの声を聞きながら身を寄せているだけで十分幸せを感じていたが、この後に起きることを考えると自分の視た未来が残酷なものに思えてきた。
(いくらこれが最善の未来へと続く道と言っても本当に正しいことなのだろうか?)
迅の予知した未来は確定したものとなり、もう変更することは不可能な段階になっていた。
(城戸さんたちの決定は覆らない。俺もあの人の命令には従わなければならないし、今の状況では他にできることはないのだから仕方がないんだ。だがそのためにこいつの□□□□□ことを正しいと言える自信はない)
自分の隣で夜空を見上げているツグミの横顔はとても幸せそうだ。
(俺にも城戸さんたちにもこいつに無断で□□□□□権利や資格などない。それはこいつにとってかけがえのないもので、それを俺たちは奪おうとしている。もしそんなことを知られたら俺はもうこいつに顔向けできなくなる。…いや、誰かが口を滑らさない限りバレることはないだろうが、俺の心の中に罪の意識があれば、勘のいいこいつはきっと気付くに決まっている。だったら俺も…)
迅は思わず自嘲の笑みを浮かべる。
(フッ、つまり自分のためってことじゃないか。こいつに対して酷いことをするという罪の意識から逃れたいだけの自己欺瞞。いや、自分を騙すなんてもんじゃない。なかったことにしようって言うんだからな。…ん?)
迅の携帯電話に城戸からの連絡が入ったので、彼はツグミに会話を聞かれまいとしてその場を離れた。
「はい、迅です」
「
「その言い方だとツグミが承知しそうにない
「ああ、当然だ。ツグミが納得する手段などあろうはずがない。私がボーダーの最高責任者である以上、おまえだけでなく彼女にもわたしの命令に従ってもらわなければならない。くれぐれも邪魔はさせるな」
「だけどきちんと説明すればあいつだってわかってくれますよ」
「おまえも忍田や林藤と同じことを言うのだな。だがボーダーは界境防衛機関だ。断じて
「……」
「彼女は先の大侵攻で
「……」
「とにかく忍田も林藤も不承不承だが首を縦に振ったのだ、今さら計画の変更はない。これがボーダーの総意であることを忘れるなよ」
「了解しました」
迅はやりきれない思いを抱えたまま電話を切った。
(城戸さんの言うことはもっともなんだよな…。あいつ、俺が見てもアマドたちに入れ込み過ぎている感がある。彼らが
ツグミは他人 ── 家族やボーダーの仲間たち以外という意味 ── に対して冷淡である。
他人が自分のことをどう思っていようとも無関心であり、彼女自身も他人にあまり興味がない。
これが
ツグミはアマド一家のささやかな幸せを守りたいと必死になっており、城戸たちのやろうとしていることを知れば間違いなく反対するだろう。
そして迅には城戸がこの一件をどういう形で収めるかが視えている。
(それが正しいとか間違っているとかじゃない。そうすることが最大多数の最大幸福になるのならそれを黙って受け入れるしかないんだ。それに城戸さんが言うようにあいつの考え方や行動の多くが過去の
迅がそう考えてしまうのも無理はない。
ツグミの
それに敵であろうと助けを求める者であろうとも彼女が相手を「死なせない」ことを前提に行動しているのは、やはり自分の過失で死なせた
一方、彼女にとっての三門市民は守るべき存在であるのだが「
彼女がボーダー隊員であり続けるためには「
(別にあいつがどんな理由で戦おうともかまわない。
視線の先にあるツグミの姿はごく普通の13歳の少女で、迅はその小さな少女が自分よりも重い宿業を背負ってしまったのだと思うとやるせない気持ちで胸が締め付けられてしまう。
(あいつをこの宿業から解放するためには、あいつの価値観の根底にあるものを壊さなければならない。しかしこのままボーダー隊員としての日々を過ごしていることでボーダー隊員としての積み重ねがどんどん増えていって、ますますあいつはボーダー隊員である自分
明日起きる確定した未来に納得できずにいた迅だが、自分で自分に言い聞かすようにして無理やり納得させたのだった。
文章中の「□□□□□」には同じ言葉が入りますが、次回202話のネタバレとなるために伏せておくことにしました。