「ゼノン隊長、これから三門市の繁華街へ向かうわけですが、どこか行きたい場所はありますか? いきなり訊かれても答えるのに難しいかもしれませんが漠然とでもかまいません。希望の場所にご案内しますよ」
ツグミがそう言うと、ゼノンは苦笑する。
「俺たちはキオンや近界の情報を秘密にしているのに、きみは玄界のことを俺に教えてしまってもかまわないのか?」
「ええ。別に隠さなければならないことではありませんからね。むしろ知ってもらいたいことの方が多いです」
「それはどういう意味だ?」
「キオンはトリオンが欲しいからといって玄界の人間をさらうとか、アフトクラトルのように大規模な攻撃を仕掛けてくることはありませんからボーダーと直接戦争をすることは今のところないでしょう。それにもしキオンの元首がこれまでの方針を変えて敵となるにしても、玄界のことを詳しく知っていれば戦争しようなんて考えなくなるはずですから」
「……」
「近界と同様に玄界にも多くの国がありますが、近界と大きく違うのは、国土が母トリガーなどというもので維持されているのではなく、ひとつの大きな星の上に200近くの国家があり、そこには70億を超える人間がいるところですね」
「70億…!?」
「ええ。たぶん近界の国々全部の人口を合わせたところでこの国の約1億2600万人に満たないことでしょう。この地球という名の惑星は約46億年前に誕生し、気が遠くなるほどの時間をかけて現在のように繁栄したのです。それは近界の国々と違って安定した国土があり、トリオンという人間由来のエネルギーに頼らない文明を築き上げてきたからです。トリオンとトリガーに関しては未発展な玄界ですが、他の面では近界の国々よりもはるかに進んでいます。しかしボーダーが組織されたことで近界民による襲撃があっても対抗できるようになりました」
「……」
「玄界には70億人の人間がいて、仮にその1万人にひとりがトリオン能力者であったとしたら全世界で約70万人がボーダー隊員のように近界民と戦う兵士になりうるのです。現在はボーダーしか戦う組織がありませんから、兵士の数は訓練生を入れても約500人しかいません。ですが今後近界民が更なる脅威となるのであればいくらでも組織や兵士を増やすことができるというわけで、そのことを知っていれば玄界に手を伸ばそうだなんて考えなくなるでしょう」
「ああ。たしかにそうだ。俺たちは玄界に来るまで何も知らなかった。三門市というひとつの街が近界の小さな国ひとつと同じくらいの規模だというのだから驚いたよ」
「ですから他の国々も三門市を玄界にある国のひとつというレベルで考えているに違いありません。玄界にある国のひとつの都市が近界における国家レベルの規模であると知ったらどうなるでしょうか? 玄界の真実を知ることでキオンだけでなく他の国々も無駄に戦争を仕掛けてくることはなくなると思うんです。ボーダーはアフトクラトルの大侵攻の際には民間人に犠牲者をひとりも出さずに済みました。4本の黒トリガーを持つベルティストン家の精鋭に対して対等以上の戦いを繰り広げ、最終的には追い返した戦力を持つという事実はキオンのベテラン諜報員ですらその目で見なければ信じられなかったことでしょう。だからみなさんには玄界のことをもっと知ってもらいたい。そしてキオンへの帰途に立ち寄る国で『玄界にはアフトクラトルの黒トリガー使いすら返り討ちにする凄い兵士を擁する組織があり、下手に手を出せば大やけどする』言い触らしてもらいたいと思っています」
アフトクラトルが反撃に遭って尻尾を巻いて退散したとなれば、玄界を敵に回してはいけないと考える国が出てくるだろう。
さらにアフトクラトルは求心力を失い、ガロプラのような従属国が離反するきっかけにもなるとツグミは考えている。
近界における軍事大国のふたつが「玄界には手を出さない」「玄界にボロクソに負けた」となれば、他の国はわざわざ異世界までハイリスク・ローリターンを承知でトリオン能力者をさらいに来ることはなくなる。
もっとも人間が大勢いるとなればこっそりとさらおうという連中が増えるかもしれないが、現在のボーダーは防衛態勢を万全にして拉致被害をほぼゼロにしているのだから不安はない。
そしてキオンが玄界と友好的な交流を進めることで国民の生活水準がアップすれば、それを見習おうとする国が現れるのではないかとツグミは踏んでいる。
近界においてキオンがリーダー的な立場となることをアフトクラトルは好ましく思うはずがないが、軍事力によって抑え付ける支配のアフトクラトルよりも玄界の優れた文化を広めてくれるキオンでは、どの国であろうともキオンの傘下に入りたいと思うようになるだろう。
そうすればキオンも武力で他国を従わせるのではなく、平和的な手段で食料を得られやすくなる。
だからまずゼノンたちに真実を知ってもらい、それを広めてもらうことで敵となりうる近界民を減らそうという策なのだ。
ゼノンはツグミの見ている未来が壮大な夢物語であることは理解している。
ツグミ本人もそれは認識しているわけで、彼女に「不可能だからやめておけ」とは誰も言えない。
経験不足や現実の理不尽さをまだ知らない若者にありがちな夢想だが、もし十代で世の中を悲観して諦めてしまうようになればそれこそ悪夢というもの。
だから子供たちのやりたいようにさせてやるべきだと考えて見守り、危ういことがあれば止めるくらいがちょうど良いと大人たちは考えるわけだ。
(きっかけは俺たちの減刑のためであったはずなのだが、彼女の計画が実現すれば近界の文明を大きく変えてしまうことにもなるかもしれない。そんなことができるはずないのだが、だが彼女の言うことなら実現しそうな気になるし、応援したくもなる。…そしてあと何日かすれば別れの日がやって来る。その日が一日も先に延びるようになれば良い、彼女との別れが名残惜しいと思ってしまうのは、俺が彼女の優しさに絆されてしまったからなのだろうな…)
嬉々として夢を語る若者の輝きを眩しく感じ、ゼノンは自分が歳を取ったのだと思い知らされてしまう。
しかし嫌な気分になるのではなく、逆にかつて自分が夢見た未来をツグミが実現させてくれるのではないかという希望が生まれて清々しい気分になったくらいだ。
ゼノンが軍人になったのもキオンの同胞が安らかに暮らせるようにとの想いで、祖国のために働きたいと考えたからである。
軍人だからといって戦争がしたいわけではない。
どこの国でも戦争をしたがる輩は自分が死なない場所で安穏としていられるごく限られた一部の人間たちだけで、実際に戦場で戦う兵士は戦争など大嫌いで家族や友人たちと平穏な暮らしを望んでいる大多数の弱い立場の人間だ。
そしてそういう弱い立場の人間は誰もが戦争のない世界を願うが、同時に誰もが不可能だと諦めてしまう。
しかしツグミはそれを初めから諦めるのではなくできることをやってみようという立ち上がり、ゼノンは気付かぬうちに彼女に自分の夢を託し、彼女に心酔し始めていたのだった。
◆
ゼノンの「ツグミが見せたいものがある場所」に行きたいというリクエストをしたものだから、ツグミは少し考えた上で市立図書館へと連れて行った。
平日の昼間の図書館なら顔見知りに出会うこともなく、玄界のことを説明するには静かで落ち着いた空間がちょうど良い場所なのだ。
館内に入ると、ツグミは世界地理や世界史の本を数冊選んでから閲覧室へ向かった。
幸い彼女たちの他には誰もおらず、一番奥のテーブル席に向かい合って腰掛ける。
ツグミが館内を案内している間、ゼノンはずっと驚きの表情でキョロキョロと周囲を見回していて、ツグミに話しかけたくてウズウズしているようであった。
「ツグミ、ここは一般人が勝手に入っても大丈夫な場所なのか?」
ゼノンの第一声がこれであったものだから、ツグミは苦笑してしまう。
「ええ、もちろんです。ここは三門市立の図書館ですから三門市民なら誰でも自由に本を読むことができます。わたしは読書が好きなので、小学生の時から良く通っていましたよ」
「しかしものすごい数の蔵書だな。キオンにも図書館はあるが軍人や一等市民しか利用できない上にこれほどのたくさんの本はない。いや、キオンだけでなく近界の国のどこにもこれほど立派な図書館はないだろう」
「そうなんですか? 玄界ではこれくらいの規模の図書館は都市単位で普通にありますけどね。それに国立図書館ともなればその国で流通する全ての出版物の書誌情報を収集していて、古文書から娯楽のための雑誌、CD-ROMなどあらゆる種類の資料を基本的には誰でも利用できるんです」
「…それはすごい。近界では知識や技術といったものを一部の限られた人間だけで独占し、一般には情報公開しない。以前にきみから聞いた話だとこの国では国民に身分や階級などなく、一定の年齢に達すれば誰でも教育を受けられるそうじゃないか。そしてこのように誰でも知識を得られる環境が整っているから、この国では誰もが豊かな暮らしを営めるわけだな」
「わたしたちにとってはこれが当たり前のことなのでピンときませんが、ゼノン隊長の目から見ると凄いことなんですね。この国でも150年くらい前までは厳しい身分制度があったり、鎖国…国を閉ざしていたので外国から遅れていた部分もありました。ですが今では他国に負けないほどの国力を有しています。それについては本を見ながらお話しましょう」
ツグミはそう言って世界地図の載っているページを開くとそのすべてが玄界と呼ばれる場所であり、その中に日本やいくつもの国があることを説明した。
さらに日本地図を開き、三門市の場所を示す。
「三門市は玄界という世界の中ではこのような小さい一都市でしかありません。近界民はこの三門市をひとつの国だと勘違いしているようですが、もし玄界の人間が本気になって近界を侵略しようとしたらどうなると思いますか?」
「……」
「現在のボーダーの武器は近界民のものに比べると劣るでしょうが、近界の文明がトリオンに依存している以上は人間の多い玄界に敵うわけがないんです。ボーダーには短期で優秀な兵士を育成するシステムがありますし、いくら優れた武器やトリオン兵であってもエネルギーとなるトリオンがなければただのガラクタや玩具に過ぎません。ボーダーは玄界の人間を守るための防衛機関ですから無闇に近界の国に侵攻することはありませんが、アフトクラトルは同胞をさらったのですからボーダーは全力で取り返しに行きますよ。敵地での本格的戦争は初めてですが、初めてだからこそ慎重に計画を進めて完全な体勢でアフトクラトルへ乗り込もうと準備を進めています。わたしはそのためにゼノン隊長たちを利用していますが、そのことをあなたはどう感じますか?」
「好きなだけ利用すればいい。その代わり俺もきみを利用させてもらう。俺はもっと玄界のことを知りたい。それがキオンのために役立つことだと信じるからだ。…しかし立場上キオンの軍事情報は与えられない。それでもいいか?」
「もちろんです。キオンと戦争をするようなことにはならないでしょうからね」
それから閉館時間までツグミはゼノンに請われるままに様々なことを教えた。
地球というひとつの惑星の中でも熱帯や温帯、寒帯といった気候の違いがあり、それぞれで気候に合った作物が作られていて、貿易という手段で自作できないものを手に入れていること。
国同士のトラブルが発生しても近界のようにいきなり戦闘状態になるのではなく、国同士での対話を求める仲介役となる機関があって無闇に戦争にならないように努力をしていること。
玄界では地中にある化石燃料を主にエネルギー資源として利用していたものの、それには限りがあるということで代替えエネルギーとして太陽光や風力、水力、地熱による発電を可能にし、廃棄物を利用したバイオマス資源による発電までしているなど、ツグミが説明するとゼノンはトリオンのみに頼る近界民がちっぽけなものに思えてきた。
(これでは近界の国がすべて団結しても玄界に敵うはずがない。単純な兵力では上であっても、俺のように玄界の現実に触れてしまった途端に戦意を喪失してしまうに違いないのだ。玄界はトリオン関係の技術においては近界民に劣るものの、それ以外の面ではすべてにおいて進んでいる。逆に言えば俺たち近界民は玄界よりも100年も200年も文明が遅れている上に物量の面で圧倒的に不利だ。ならば他国よりも早く玄界と手を結ぶことで近界において武力に頼らずに勢力を広げていくのが良かろうな。そうすれば俺は軍命で人を殺めることをせずに…いや、リヌスとテオにもさせずに済むだろうから)
ゼノンも遠慮をせず積極的にツグミを利用することに決めた。
(まずは任務の失敗を上回る別の成果を見せることで上官の信頼を回復し、総統閣下に謁見して玄界で見聞したことを直接話すことができるようにしなければならない。そのためにも今は知ることが重要だ。時間の許す限り玄界の歴史や文化、最新の技術について調べ、導入が可能なものであればツグミに協力してもらって持ち帰ることにしよう。そのためには多少の機密漏洩も仕方がない。これもお互いが得をするためだ)
◆◆◆
家に帰ったツグミは忍田の帰宅を待つ間、翌日の準備をしていた。
昼間のうちに十分とはいえないまでも必要と思われる情報を入手したことで、それらを元に遠征選抜試験の概要をまとめて提出する書類を書いているのだ。
これまではキオンのことだけでなく近界の国々の情報もなかなか教えてくれなかったゼノンたちであったが、自国のためにはやむを得ないという考え方に変わったようで、アフトクラトルのことに関してのみ教えてくれるようになったのだった。
とはいえ四大領主のパワーバランスや、黒トリガーの数、人体にトリガーホーンを植え付ける技術などトップシークレットとなることは彼らにもアバウトにしかわからない部分が多いために謎のままだが、それでも役に立つ情報を手に入れられたのだから大きな進展だ。
(もっとも城戸司令たち上層部の面々がこの情報を信じるか否かは別物で、わたしの提案も一蹴にされるかもしれない。でも信じる根拠がないからといって嘘であるとも断定できないわけで、そもそも遠征の本作戦では却下されたとしても選抜試験においてはマイナスにならない。だから採用されると考えてもう少し深く掘り下げておこう)
ツグミの頭の中にはすでに大まかな構想図がある。
彼女ひとりでは不可能なことだが、これまでの彼女の働きや交友関係などを総動員すれば可能なものとなる。
その手始めが遠征選抜試験の方法で、彼女の案が採用されればそのまま遠征参加者の訓練にも応用できるものだから、遠征の責任者である忍田にとって彼女の働きは手助けになるはずだ。
(遠征艇を大きくするといっても定員には限界がある。MAXで30人くらいかな…? 前回はA級上位3部隊での潜入作戦だから少数で済んだけど、今度はアフトクラトルに正面から戦いを挑むことになるんだから戦力を増強しなきゃならない。三門市の防衛も重要だからA級の全投入は無理。かといって中途半端な戦力で立ち向かって全滅でもしたら、今度は三門市防衛に不安が生まれてしまう。この遠征は民間人にも知られてしまった大規模なプロジェクトだもの絶対に失敗は許されない。…それに大侵攻から40日以上も経っているからC級たちの身体や精神が心配。一日も早く助け出さなきゃ)
C級といってもトリガーを使えるだけのトリオンを持っているのだから戦闘訓練をさせれば短期で兵士として最前線で戦わせることができるようになる。
アフトクラトル…というよりもベルティストン家のために戦うか、それが嫌ならトリオン器官を抜かれて死ぬかの二択になるだろうから、C級隊員たちは前者を選ぶことになるに決まっている。
そうなれば三門市や家族・友人を守ろうとボーダーに入隊した彼らはその純粋な気持ちをハイレインたちに利用され、遠く離れた異郷の地で死ぬことになるかもしれないのだ。
そして彼女が最も恐れているのは、C級隊員たちが洗脳されていて彼らを救出に来たボーダー隊員たちと戦うことになるかもしれないということ。
ボーダーですら記憶を操作する技術を持っているのだから、アフトクラトルにあっても不思議ではない。
ボーダー隊員である記憶を消されてしまったら、彼らはそうと知らずに自分たちを助けに来てくれた先輩隊員たちと戦い、遠征に参加した隊員たちは救出すべきC級隊員たちから攻撃を受けることになる。
そんなことは想像もしたくないが、常に最悪の事態は想定しておかなければならない。
(ハイレインたちはガロプラによるボーダーの遠征艇破壊を信じるだろうか? あと数日もすればガロプラの連中はあの残骸を持ってアフトクラトルへ報告に行くはず。ここで茶番劇がバレたらアウトだけど、たぶん大丈夫。彼らだってハイレインたちに利用されて意味のない戦いを強いられて腹を立てていたんだし、一昨日のあの様子なら信用しても良いと思う。そして信じさえすればすぐには追って来られないと油断する。その油断したところを突くことが重要。早急に遠征を行うことで成功率はアップするだろう。でもボーダーの戦力が不十分であれば返り討ちに遭う。なにしろ今度はホームではなくアウェイで戦うのだから味方の増援はできないし、ベルティストン家と敵対している他の3勢力がどう動くのかがまったくわからない。ここが難しいところなのよね…)
そこでツグミはあらゆる面で遠征部隊をフォローしようとしているのである。
(遠征決行までの間にキオンと手を結んで情報操作による援護射撃をしたいけど、準備ができていないうちに見切り発車してしまったらこれまでの努力が水の泡。ゼノン隊長たちがわたしとボーダーを利用する気になってくれたことはありがたい。初めのうちは情報教えてくれないと言いながら、自分たちの会話をわたしに盗み聞きさせるような方法で伝えてくれようとしていた。でももうそんなまどろっこしいことをせずに済む。全面的に信用して良いのかわからないけど、少なくとも疑う理由はないんだから信じるだけ。わたしのことを彼らに信頼してもらうには、わたしが彼らのことを信頼しなきゃ始まらないものね)
ツグミはゼノンたちが自分の作った料理を美味しそうに食べている姿を思い出して微笑んだ。