ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
ツグミが肉じゃがの仕上げをしていると、玄関の呼び鈴が鳴った。
忍田家にアポなしの来客があることはほぼゼロなので、こういう場合はだいたい新聞や宗教の勧誘である。
ツグミはそういった種類の人間の扱い方を知っているので、適当にあしらってやろうと玄関の扉を開いた。
「よう」
「ジンさん!? 家に来るなんて何かあったんですか?」
迅の訪問はツグミも想像していなかったようで、目を丸くして訊いた。
「何もないけど、久しぶりにおまえの手料理が食べたくなったものだからさ。今夜のメニューは肉じゃがだろ? 俺の
するとツグミが苦笑しながら答えた。
「ええ、そうですよ。いいですよ、多めに作っていますから、真史叔父さんが帰って来たら一緒に食べましょう。さあ、上がってください」
ツグミは迅を家に上げると台所に行く。
そしてなぜか迅は彼女のあとを付いて行き、一緒に台所へと入った。
「あなたは…」
「なんだ? 何でおまえはツグミんちにいるんだ?」
リヌスと迅はお互いの顔を見るなり不穏な空気を漂わせて言った。
それもその筈である。
リヌスにとってはツグミとふたりきりの時間を邪魔されたわけだし、迅にとっては恋人が他の男と一緒に自宅にいるのだから。
もっとも迅は
ただ城戸の用事でなかなか解放してもらえず、おかげで3時間以上もリヌスとツグミをふたりきりにしてしまったのだ。
ゼノンやテオはツグミに恋愛感情の欠片もないと思い込んでいるから前日と前々日は不安のなかった迅であるが、リヌスについては彼女への好意が目に見えるほど明らかで、以前に太刀川が彼女に「惚れた」とわかった時のようにムシャクシャして居ても立ってもいられない。
(ツグミにはこいつに対してタダの友人レベルで接しているだけなんだろうけど、こいつのそわそわしている様子を見ると嫌な気分になる。太刀川さんの時も同じような気持ちになったけど、今回はちょっと違う。だってツグミは俺の恋人なんだからな。それにツグミは浮気してるわけじゃないんだし、こいつがいくら惚れても実らぬ恋だ。だが悪い予感がするんだよな…)
迅の登場で場の空気が変わったことに気付きはしたものの、原因が自分にあるとは想像もしていないツグミ。
それでもこのままではいけないと、必死になって考えた。
(『久しぶりにおまえの手料理が食べたくなった』なんて言ってたけど、本当は何か重要な用があるんだろうな。だからここにリヌスさんがいると邪魔…というか早く帰ってほしいと思っているに違いない。料理も後は重箱に詰めるだけだし、パパッと仕上げちゃって終わりにしよう。リヌスさんには申し訳ないけど、ゆっくり話をする機会はまだこれからもあるから許してもらえるよね?)
相手の存在が邪魔ではあるものの、それをあからさまに顔に出すとツグミに嫌われてしまいそうだと考えて迅とリヌスは適度な距離を置いてツグミの作業を見守っている。
ツグミは手早く料理を重箱に詰めると、別に用意しておいたご飯と一緒に紙袋に入れた。
そして準備が整うと迅に訊いた。
「ジンさん、今日は車で来ていますか? それとも徒歩で?」
「玉狛のジープだけど、それが?」
「それはちょうどいいです。すみませんがこれからわたしとリヌスさんを遠征艇まで乗せてもらえませんか? バスで行ってクロスバイクで戻って来るつもりだったんですが、そうなると往復で1時間くらいかかってしまうんです。でも車なら30分もかかりませんから、ジンさんを待たせる時間も短縮できます」
「ああ、かまわないぜ。帰りはクロスバイクを後ろの座席に載せてくればいいしな」
「じゃあ、お願いします」
迅は二つ返事で引き受けてくれた。
それはツグミにいいカッコ見せたいだけでなく、リヌスと彼女をふたりきりにする機会を奪うためという魂胆がある。
逆にリヌスは貴重な時間を失ったことで意気消沈してしまったのだった。
◆◆◆
遠征艇からの帰り道、迅は助手席に腰掛けているツグミに訊いた。
「最近のおまえ、奴らに肩入れしすぎなんじゃないか? 前から奴らのためにいろいろやってるけどさ、ここ数日は街へ連れ出していろいろ見せたり教えたりしてるようだが、何考えてんだ?」
「何って…もうすぐ彼らが帰国するから、その時に彼らが重い処分を受けないようにしたいってことはジンさんにも話したはずです。忘れちゃったんですか?」
「忘れちゃいないさ。だけど奴らを引っ張り出して何をやってんだってことだ。奴らのために何かしてやる義理なんてないんだぞ」
「わたしは彼らのために行動しているのではなく、自分自身の利益のために働いているだけです。わたしは自分のことしか考えない利己的な人間ですから」
そう言ってツグミが笑うものだから、迅は逆に腹を立ててしまう。
「利己的だなんて…何でそんなことを言うんだ? おまえの行動はいつも他人の事情や気持ちに寄り添っていて、自分自身のために動いたことなんて一度もないだろ?」
「結果的にそうなっただけですよ。わたしは自分自身が一番大事なんですから」
忍田と同じくらいにツグミのことを大切にし、ずっと見つめてきた迅だから知っている。
彼女が自分を犠牲にして他人のために働き、その陰で何度も涙を流してきたことを。
そんな彼女は自己犠牲というものを否定していて、他人がそういった行動をすることをひどく嫌う。
それは5年前の遠征で「みんなのために」と大勢の仲間たちが命を失ったことがきっかけで、誰かのために命を捧げて戦うことでその誰かが死ぬほど哀しむということを身をもって知ったからである。
しかし彼女のこれまでの行動の数々が自分を犠牲にしてきた事実は否定できず、誰が見ても彼女は自分よりも他人もために生きていると思ってしまう。
本人もそのことをわかっているからこそ「自分は利己主義者」であると称して自分自身と他人を騙して偽悪ぶっているだけなのだ。
(他人の自己犠牲を嫌うくせに、自分は平気でやるんだよな…。俺が言えたことじゃないが、アフトの侵攻の時に自分が死ぬかもしれない状態で千佳ちゃんとメガネくんを守ろうとしたのは紛れもなく自己犠牲の精神によるものだ。あの時はキューブにされて絶体絶命だったくせに、『わたしは自分の強い意思で確定した未来でも不都合なものなら変えてみせる』なんて言って無茶したことを正当化するんだよな。利己主義者だと言うならもっと自分と俺のために生きようとしてくれるはずなんだが…)
迅の心の中などまったく察することもなく、ツグミは言い訳を続けた。
「これまでボーダーは遠征で
ツグミは大きくため息をついて続けた。
「トリオンを奪い合う戦争を延々と続けている
「……」
「そこでゼノン隊長たちのキオンの諜報員という立場を利用させてもらいます。ボーダーはこれまでキオンの人間との接触はありませんでしたから、彼らが
「……」
「そしていずれキオンとボーダーが不可侵条約を結び、キオンに
「……」
「そして彼らの認識は少しずつ変わっていきました。これまではキオンのことだけではなく
「……」
「キオンとの関係は始まったばかりですが、何事も始まりはこんなものでしょ? でもいつまでもそんな関係では寂しいですから、いつかは心から相手のことを尊重できるような絆に変えていきたい。わたしは自分が欲しいと思うものを相手に与えることにしています。信頼してもらいたいなら相手のことを信頼する。愛情が欲しいなら相手にも愛情を注ぐ。自分は何もしないで相手にだけ要求するようではダメ。…今、彼らは
迅にはツグミの言い分に何も反論できなかった。
5年前の遠征によって生き残った人間はさまざまな想いを抱えて生きている。
その中で玉狛支部に集うメンバーは「
一方、ツグミは自分を拉致したキオンの人間に対してでも初めから友好的に接していた。
周囲から反対されても自分の意思を通し、「
もっとも彼女は「
(
迅が何も言わなくなったので、ツグミは納得してくれたのだろうと考えて口を閉じた。
そして目を瞑って考える。
(わたしがやっていることが正しいことなのか間違っていることなのか、それを判断できる人はどこにもいない。だって現在進行形でまだ結果は出ていないんだから。今のわたしができることは未来の自分に恥じないことをするだけ。これまでもそうしてきたし、これからもそれは変わらない。そのせいでジンさんと道を違えることになっても後悔はしない。いくらジンさんに好かれたいとか嫌われたくないからって自分を曲げて生きるなんてできないもの。それにわたしもジンさんも今は恋愛のことに夢中になっている暇はない。ジンさんはアフトへの遠征に参加するのは間違いないんだから、わたしはそのジンさんが無事に帰って来られるように思い付く限りの策を考えて実行するだけ。ジンさんが帰って来なかったら、それこそわたしは未来の自分に申し訳が立たないわよ)
ツグミと迅、それぞれに思うことがあってずっと無言でいたのだが、ツグミの携帯電話の着信音がその沈黙を破った。
「はい、ツグミです。……………はあ、それは大変ですね。……………さすがにそれは無理です。ちゃんと夜食用に残しておきますから、帰って来たら温めてあげます。……………わかりました。それではお仕事頑張ってください」
そう言ってからツグミは電話を切った。
「それ、忍田さんからだな?」
迅が訊く。
「ええ。どうやら定時で上がろうとしていたところに某スポンサーから急遽呼び出しなんですって。
「上客」とは本来の意味は「商売上、店にとって大事な客」のことであるが、ボーダー関係者の間では大口のスポンサーのことをこう呼んでいるのだ。
「だから夕食はジンさんとふたりきりになります。久しぶりですね、ふたりだけで食事をするのは」
ツグミが微笑みながら言うものだから、リヌスの件で苛立っていた気分がサーっと潮が引くように消えていった。
「ああ、そうだな」
嵐の前の静けさとも言うべき穏やかな日々はまもなく終わりを告げることになる。
それにまだふたりは気付いていない。