ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
ボーダー本部基地へ向かう道すがら、ツグミはリヌスと一緒に歩いていて気が付いたことがあった。
「リヌスさんたちとこうして街歩きをしている時、みなさんはわたしの歩調に合わせて歩いてくださっていますが、そうでない時には3人が3人とも同じ歩幅で同じスピードで歩いているように思えたんですけど」
ツグミがそう言うと、リヌスは少し驚いたような表情を見せたがすぐにいつもの笑顔に戻った。
「そこに気付きましたか…。ええ、私たち軍人は歩幅と歩行速度を一定に保つように訓練されています。一定のパターンで歩くことができれば計測器がなくても歩いた歩数や時間で距離を測ることができるという理由です」
「ああ、なるほど…。たしかにそれは便利ですね。わたしも試してみようかしら?」
「それがいいです。あなたは歩く姿勢が良いですし、コツさえ掴めば難しいことではありませんから」
笑顔で言うリヌスにツグミも同様の笑顔で頷いた。
ツグミは新たな知恵を身に付けた。
自衛隊では隊員が行軍する際の歩幅は約75センチ(女性自衛官は70センチ)で、駐屯地には75センチごとにラインが引かれている箇所があり、普段から75センチの歩幅で歩くように意識しているそうだ。
一般に知れ渡っているものではないからツグミが知らなかったのも無理はない。
ボーダーは
専門的な知識などを教える仕組みもなく、訓練も単にトリガーを使って仲間同士で模擬戦をする
よって
リヌスはツグミが自分のことで多少でも興味を持ってくれることが嬉しかった。
敵として出会い、拉致する時に喉元にナイフの切っ先を突きつけて監禁したことを許してくれただけでなく、帰国して重い処分を受けるであろう自分たちのために動いてくれている彼女に好意を抱かないはずがない。
もちろん彼女がボーダーのために自分たちを利用していることは知っているし、それに納得して協力しているのだが、それでも彼女の厚意に感謝したくなるというものだ。
捕虜となった時に彼らのトリガーはボーダーに接収されていろいろ調べられたのは仕方がないとしても、こうして自らすすんでトリガーを提供しようというのだからキオンの軍人としては祖国への裏切り行為となる。
ゼノン隊の行動原理は「祖国キオンのため」で、ツグミをさらって
しかしそんな彼らがツグミに頼まれたのでもなくトリガーの機密漏洩をするというのだから、それだけ彼らの価値観も変わってきたということでもある。
ツグミはこれまで多くの
敵であったり助けを求めてきた亡命者であったり、そして殺されそうになったり殺してしまったり…
出会いと別れはさまざまだが、ツグミにはひとつの信念が生まれた。
それは同じ人間として会話という手段で交流をすることができるのだから、敵意のない相手にはこちら側から歩み寄ることで関係は改善できる可能性が生まれるというもの。
問答無用で襲撃してくるアフトクラトルの連中のような輩には「力には力」で対応しなければならない。
しかし相手にこちらの声に耳を傾ける意思があれば対話によって問題を解決したいと考えるから、彼女はゼノンたちを
その気持ちが相手に伝わり、良い関係を築くことができるという結果となっている。
ガロプラによる誘拐事件でも彼女が関わったおかげで戦闘になることはなく、穏便に済ますことができた。
その事実を無視できない城戸は彼女の意思を尊重すると同時に
ゼノンたちを追い出すような素振りもなく、監視のない状態での滞在を認め、さらにはボーダー本部基地への入館をも認めたのはその表れである。
同盟国ではないキオンの人間を協力者として
キオンというアフトクラトルに並ぶ軍事大国のトリガー技術なら開発室の
そうでなければ城戸の指示であっても予定外の仕事をひとつ返事で引き受けるはずがなく、リヌスは歓迎されていると考えて良いだろう。
◆◆◆
来賓客用の玄関から入館し、他の隊員や職員に見付からないようにしてツグミとリヌスは
ツグミの拉致事件で捕虜となったゼノンたちのトリガーの解析をしたのが鬼怒田と寺島のふたりであったため、今回の変身トリガーに関しての解析や新トリガーの開発もこのふたりが行うことになっている。
なにしろキオンの諜報員が三門市にいることを知る者は玉狛支部のメンバーと本部の一部の人間だけで、仮にその存在が公になってしまったら、最悪の場合ツグミの父親が
そうならないためには限られた人間しか使用しない来賓用玄関から入館するのが良いと考えた忍田が手配してくれていたのだった。
そして無事に
いくらか驚いたツグミだが今のリヌスは捕虜ではなく協力者であるのだから、ボーダーの最高司令官としての礼儀なのだろうと納得することにした。
初対面であるリヌスと鬼怒田と寺島がお互いに挨拶をしてからすぐに本題に入る。
なにしろここにいるのは誰もが忙しい人間であるから、余計な話などで油を売っている暇などないのだ。
そこでツグミがリヌスのフォローを受けながらバッグワーム改良の件を説明した。
アフトクラトル側にはボーダーのステルスは効果がない可能性があることを話したのだが、鬼怒田たちは意外に驚く様子がなかった。
「それはわしらも考えていた。そもそもわしらは例のラッド事件でアフトのトリオン兵のステルス性を無効にすることに成功している。それもたった2時間でだぞ。ならば同様にアフト側がボーダーのステルス性を無効化するのも簡単なことだろう。よって現行のバッグワームは効果がないと判断し、それに代わるステルストリガーの開発を考えていたところだった」
鬼怒田たちも対策は考えていたが、いかんせんトリガーに関しては
そこにキオン側から情報と技術の提供を申し出てきたのだから、まさに「渡りに船」である。
しかしキオンのトリガー情報をボーダーに渡してしまえば、今度はキオンのステルストリガーがアフトクラトルに対して効果がなくなるわけで、ツグミは今になって不安になってきた。
するとリヌスがツグミを安心させるように微笑みながら言う。
「大丈夫ですよ。これはテオが言っていたようにとても古いタイプのトリガーで、現在では我々のような諜報員でも数人しか使用していません。ですから情報がアフトクラトルに漏れたとしても大した問題ではありません。今度の遠征でもベルティストン家の城下町に潜入する時にしか使えないでしょうが、それでもボーダーの隊員たちに及ぶ危険性が格段に減るのなら意味のあるものとなるはずです」
ツグミはリヌスの言葉に小さく頷いた。
(一度でもアフトクラトル側と交戦したトリガーはすべて解析されていると考えた方が良いということで、恒久的なものにはならないトリガーを作るのだから忙しい
ツグミには鬼怒田たちに直接仕事の依頼をすることはできない。
この訪問は情報提供までで、やるかやらないかは開発室の判断となり、それを許可するか否かは最終的に城戸が決めることになる。
城戸は自分の耳でツグミの話を聞き、その上で自身が判断を下そうと考えて同席していたのだった。
城戸や忍田にとっては専門外の話であるからどれくらい時間や経費がかかるとか作業が難しいのかなどわからないが、すべては遠征に参加する隊員や職員たちの安全を確保するためのものであるなら答えはひとつしかない。
「室長、やってもらえるかね?」
城戸が表情を変えずに淡々と訊く。
「もちろんですとも。ただし仕事が増えるわけですから、遠征の実施時期を先延ばししなければならないでしょう」
「それは承知の上だ。今回の遠征は何よりも参加する隊員の安全を第一とし、そのために時間や経費がかかるというのならそちらは私や唐沢部長とで何とかする。心置きなくやってくれたまえ」
「わかりました。全力を尽くしましょう。しかしそれにしても問題は山積みで、何から手を付けて良いのやら…。とにかく人手がまったく足りんのです。城戸司令、冬島くんをしばらく借りれんでしょうか? あとは玉狛のクローニンチーフにもこっちへ来てもらって手伝ってもらいたいところです」
「その件については私の方で手配しておく」
アフトクラトル遠征用のバッグワームの改良の件はこれでツグミの手を離れて開発室の預かりとなったが、他にも彼女の手元にはたくさんの案件が残っている。
どれも彼女だけでは手に負えないものばかりで、16歳の少女がひとりで抱え込むのは無茶ともいえる。
しかし彼女はひとりではない。
本人は無自覚であるがこちら側の世界の人間だけでなく
これまでのボーダー活動の中で彼女はいくつもの
もちろん彼女はそんなことに気付いていないのだが。
◆
(城戸司令がいることだし、ちょっと訊いてみようかな?)
ちょうど良い機会であると考えたツグミは寺島がリヌスの生体データを採取している時間を利用して、問題点として重要なポイントであった遠征艇のことを忍田に訊いた。
「忍田本部長、アフトクラトルへの遠征ですが…救出したC級をどうやって連れ帰るんですか?」
すると当然だと言わんばかりの顔で忍田は答える。
「もちろん遠征艇に乗せて一緒に帰還するに決まっている」
「遠征艇の定員は?」
「今のところ約30人から最大40人くらいになると思う」
「遠征に参加する隊員と職員の数は?」
「予定では30人ちょっと、だな?」
「さらわれたC級隊員の数は?」
「32に…」
そこでやっと忍田は重大なことに気付いたようであった。
その場にいた城戸と鬼怒田もそのことに関してはすっかり失念していたようで言葉がない。
そんな彼らにツグミが訊く。
「同じくらいの規模の艇をもう1隻造るようなトリオンはありませんよね?」
「ああ…」
忍田が真っ青な顔で答えた。
「実は奪還したC級隊員をどういう形で連れ帰るかは明日にでも提案書を提出しようかと思っていたところです」
ツグミがそう言うと、鬼怒田が身を乗り出して訊いた。
「何かいいアイデアでもあるのか!?」
「これは素人考えですから怒らないでくださいよ。わたしはC級たちをもう一度キューブの状態にして、本部基地に帰還して元に戻すことにすればいいかな、って思ったんです。そうすれば彼らの分の食料は不要ですし、遠征に参加する隊員たちの居住スペースを圧迫しないで済むので」
「そうか!」
鬼怒田はすぐに寺島に指示をした。
「検討の余地ありだ! 寺島、大規模侵攻の際の隊員のキューブ化に関する資料を出してくれ」
「了解。こっちが終わったらすぐにやります」
鬼怒田たちの様子がツグミの目には「脈アリ」だと映った。
しかしこれらはまだ問題提起の段階で、解決したわけではない。
それでも遠征計画は一歩も二歩も進んだことは間違いなく、鬼怒田たちの仕事の邪魔にならないようにとツグミは
◆◆◆
ツグミとリヌスは用事が済んだということで帰ろうとしたのだが、城戸に呼び止められた。
「きみたち…特にリヌスくんの口から聞きたいことがある。私に少し時間をくれないか?」
ボーダーに対して非常に協力的な
その機会を設けてくれたのだから、むろんツグミとリヌスは大歓迎である。
「城戸司令がお望みであれば何でも正直にお答えしますよ。リヌスさんも異論はありませんよね?」
ツグミがリヌスに訊くと、彼は大きく頷いて言った。
「もちろんですとも。私たちは間もなく帰国しなければなりません。それまでの間にできる限りの情報提供をしたいと思っています。それは彼女に対する恩返しでもあり、忠誠を誓うキオンへの利益となり、そして
その言葉に城戸が怪訝そうな顔をして訊く。
「恩返しというのは意味がわかるが、キオンの利益やエウクラートンの同胞の未来ということの意味がわからない。それを説明してもらえるかね?」
「ええ。キド司令にはこれから彼女のやろうとしていることでお世話になるでしょうから、きちんとご説明させていただきます」
リヌスはそう答えて静かに微笑んだ。
「では私の部屋へ行こう」
ツグミとリヌスは城戸と一緒に本部司令執務室へ向かうが、途中で根付や唐沢といった幹部や職員たちとすれ違うものの、リヌスのことを怪しむ気配はまったくなかった。
なにしろリヌスの顔は日本人に良く似ており、いかにも
そして本部司令執務室に着くと、城戸はすぐに本題に入った。
リヌスの顔をじっと見つめ、厳しい表情のままで言う。
「きみたちはこれまでずっと情報提供を拒んできた。その方針の急変はきみたちの心に何らかの変化があったと思うのだが、やはりツグミが大きく影響しているのか?」
「はい。私たちは彼女を拉致し、一時は命の危険に晒すような非道なことすらしました。憎まれて当然のことをしたというのに、彼女は捕虜となった私たちのことを友人として扱ってくれたのです。彼女とは任務ではなく人と人として出会っていればこのようなことにはならず、きっと良い友人になれたでしょう。任務に失敗した以上はもう私たちはタダの
「それで情報提供することで礼をしているつもりなのか?」
「それはそうなのですが、単に礼をするだけであれば国家の機密情報を教えることはありません。現に私たちは彼女にずいぶん世話になっていましたが、ずっと彼女に教えはしませんでした。なにしろ私たちはこれから帰国するわけですが、
「では今になって情報提供するようになったのはどうしてなのだ?」
「彼女は帰国する私たちが
「……」
「私たちが軍人となったのは『祖国のために尽くす』高尚な職業であるからという理由で、これはゼノン隊長やテオも同じです。ですが本心を言えば祖国のためといっても自分の周囲の親しい人間たち、つまり家族や友人と自分が静かに平和で安心して暮らすことができれば良いというもの。国とはそれを構成する人間あってもので『祖国のため』はすなわち『そこに住む同胞のため』なのです。しかし『国家そのものではなく同胞のために』などと公に言うことはできず『すべてはキオンという国のため』ということにしていただけですが、ツグミはそんなことを気にせず『自分がボーダー隊員を続けているのは家族と仲間と友人という手の届く範囲の人間が幸せであればいい。その結果他の人も幸せになれたら、それはそれで良いことじゃない?』と堂々と言うのです。そんな勇気ある彼女のことを私は尊敬しています」
「……」
「彼女がボーダー隊員であることを理由に他人から感謝されたり称賛されることもあるようですが、同時に
「……」
「少なくとも私はキオンの諜報員という仕事に誇りを持っており、任務のためには全力を尽くすことを是としています。しかし私は戦争をしたいのではありませんし、人を傷付けるようなこともしたくはありません。これまでの行動はすべて『
「……」
「そんな彼女の姿を見ていて私たちは重大なことに気が付いたのです。彼女に
「……」
「彼女はこうも言いました。『わたしはボーダーのためにキオンとあなたたちを利用する。だからあなたたちもキオンのためにボーダーを利用すればいい』と。だから私たちはボーダーのアフトクラトル遠征を利用させてもらいます。遠征を成功させ、アフトクラトルの軍事国家としての体面をボロボロにしてもらいたい。そうすればキオンは今後もアフトクラトルと戦わずに済むでしょうし、キオンが
「つまり我々ボーダーを味方につけるために情報提供をする。キオンの情報であっても結果的に同胞のためになるのであれば機密漏洩も厭わない…という訳か」
ずっと黙って聞いていた城戸が静かに言った。
「はい。今はまだ私たちの頭の中で徐々に固まっていく理想というレベルですが、我がキオンの元首は聡明な人間ですから一蹴せず耳を傾けてくれることでしょう。そしてあの方は自国の利益と自らの矜持を秤にかけて、どちらを優先すべきか正しく判断できる人です。ただし自分にも他人にも厳しい人ですから、私たちの処分は厳しいものとなるかもしれませんが、保身のためにやれることをやらないのは自分自身を裏切ることになります。一度は極刑を覚悟した身ですから、怖いことはありません」
リヌスの言葉に嘘はないと確信した城戸は深く頭を下げた。
「ありがとう。私はボーダーの責任者として心からきみたちの厚意に感謝する」
「すべての
もちろんこれが城戸による「
しかしツグミには城戸の心の中が見えたような気がした。
(この人もまた自分の手の届く範囲の人間の幸せを願うだけの普通の人間。キオンを利用できるのなら徹底的に利用してやろうというのね。それは間違っていないし、今はまだそれで十分。そしていつか状況が変わって城戸
この城戸とリヌスの会談 ── リヌスが一方的に話をしただけだが ── は成功だったといえよう。
ここにいるツグミと城戸とリヌスの3人だけであるが、目指すものをひとつに定めたことで言葉に表すのが難しいがひとつの「連帯感」のようなものが生まれた。
ツグミにとってはボーダー最高司令官を味方につけたようなもので、城戸がリヌスの人柄を知ったことで彼女の「野望」がほんの少しだけ前進したことにもなる。
とはいえ難題は山積みの状態だから楽天的ではいられないのだが。