ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
「ツグミ、おまえの仕事を増やしたくないって考えていたのに、逆に仕事を増やしちまったな。悪かった」
廊下を歩きながら迅がツグミに謝る。
しかしツグミは首を横に振った。
「別にジンさんが謝ることじゃありませんよ。わたしにはトリオン切れで倒れたという
「だけど睡眠不足だろ? 屋上で爆睡していた眠り姫が何を言ってんだ」
「ううっ…。それは否定できませんけど、ちゃんと夜は11時に寝て朝は5時起きです。睡眠時間は6時間あれば十分ですから大丈夫です」
そうは言うものの、ツグミの毎日のスケジュールはギリギリの状態である。
どこかの人気アイドル並に分刻みで予定が入っていた日もあるし、今回の超小型ラッドのようなイレギュラーなトラブルが発生すればスケジュールを全部組み直さなければならなくなることも考えられる。
そしてその場合犠牲になるのは彼女のプライベートな時間で、忍田との約束があるから睡眠時間は削れないものの、彼女が16歳の少女らしく生きる時間はますます失われていくことだろう。
「生身で肉体労働やハードな運動をするのではなく
ツグミは自分の頭を指差して微笑みながら言う。
「それにちゃんと1日の中で1時間くらいはボーダーのことを一切考えないでぼんやりする時間を作っていますから」
「ぼんやりする時間?」
「はい。自分の部屋から庭を眺めて季節の花を見たり鳥の声を聴いたり風を感じたり…。あ、そうそう、庭の桜の蕾がもうこれくらい大きくなっているんです。開花まであと4-5日くらいってところです」
親指と人差し指で今朝見た桜の花の蕾の大きさを迅に示した。
「今年はゼノン隊長たちを誘ってのお花見を計画していますから、ジンさんとのふたりきりのお花見は夜桜デートということにしましょうね」
いくらツグミがボーダー活動に熱心だといっても彼女は「人は自分のために生きるもの」という考え方を持っているから、自らを犠牲にしてまで他人に尽くすなどということはしない。
ただ、周囲の目に「自分を犠牲にしてでも他人のために尽くしている」ように見えるだけである。
そしてそれも何か不都合があった時に自分に「全力を尽くしたのだから悔いはない」と言い訳をするためであるから、他人から心配されたり無理をするなと言われたら全否定するわけだ。
だからこれも迅に心配をかけまいとして強がったり嘘をついているのではなく、彼女は彼女なりに普通の少女の人生も送っているのである。
全日制の高校へ通ってクラスメイトと駄弁ったり、放課後に部活動に熱心になることや、休日には映画やテーマパークへ友人と遊びに行くことが「普通」だとか「楽しい」と考えている人間とは違う価値観を持っているだけ。
ツグミがボーダー活動に精を出してアフトクラトルへの遠征を成功させようとしているのは甲子園に行きたい高校の野球部員や、夏と冬のコミケ出店を楽しみにしているサークルメンバーとベクトルの向きが違うだけでほとんど同じもの。
自分がやりたいと決め、目標を目指して有り余る情熱をぶつける対象がツグミにとって「ボーダー」なのだが、「自分のやりたいことを我慢して三門市民のために戦っている」と勘違いする人間が大勢いるというだけのことである。
今のツグミは迅とのデートを楽しみにしている普通の少女で、何も心配することはないのだ。
しかし頭の切り替えも早く、花見のことを考えていた次の瞬間にはもう別のことを考えていた。
(あの超小型ラッドがハイレインの仕業だというのはほぼ確定で、ガロプラの人たちの報告を完全には信じられないからこそこんなことをしてきたのよね、きっと。100%信じているのならこんなことをする必要はないもの。まったく信じていないなら小細工ではなく、大型トリオン兵を送り込むとかしてもっと派手にボーダー内を混乱させるようなことをするはず。かなりの確率で信じているけど100%は信じられないから、こっそりと情報収集をしようとしたに決まってる。わたしならそうするもの)
さらに考えた。
(あのラッドの数はわからないけど、今回の情報収集はボーダーの遠征計画がどのようになっているかを知りたいというものだから、前回みたいに街中に放っているとは思えない。数は多くても数十匹程度。
ツグミは何も言わないが、表情が険しくなったものだから迅は彼女の頭の中から自分の存在が消えたことに気付いた。
(ツグミのヤツ…俺のことでなくまたボーダーのことを考え始めたな。アフト遠征を成功させることが『今やるべきこと』の最優先事項で、1日でも1時間でも早く行動することで遠征の成功率がアップするとなればやるしかない。俺だってこいつと一緒にいたいと思いながらも、優先すべきはアフト遠征の成功で、今はふたりともどうしようもない。遠征さえ無事に終われば俺たちにもふたりでいられる時間が持てるはずだが、それはいつになることやら…)
迅はツグミの思考の邪魔をしないようにと黙って隣を歩いていて、ツグミの作戦室に到着したところで再び声をかけた。
「ツグミ、実は ──」
「しっ、静かに」
ツグミが人差し指を立てて迅の唇に軽く当てて言う。
「中に
ツグミはそう言ってメガネを外し、裸眼でドア越しに作戦室を覗いた。
「います。たぶんわたしがいない間に入り込んだに違いありません」
「見えるのか?」
「ええ。だってトリオンでできているんですもの、こんなドアなんて透過して見えちゃますよ。1匹しか見えませんが、歩き回っているようです」
彼女の目にはドアの向こう側で動いている超小型ラッドの姿が見えていて、その動きを眼球が追っていた。
「おまえの部屋にも捕獲器を仕掛けてある。たぶん人間の気配があれば机の下や書庫の裏なんかに隠れるだろう。上手くいけばもう1匹捕まえられるぞ」
「じゃあ、わたしは何も気付かないフリして入ってみます。部屋の主がいれば新たな情報を手に入れられるとなって部屋から逃げずにどこかへ隠れるでしょうから、罠にかかる確率は上がるでしょう」
「わかった」
ツグミはひとりで作戦室に入ると、ドアを開けた瞬間にトリオン体の反応がサッと机の下に移動した。
しかしそれは捕獲器の粘着シートに捕われてしまい身動きできなくなってしまう。
そしてツグミは机の下に
しかし何もせずに作戦室の外に出て迅に報告する。
「やっぱりいましたね。たぶんこれは人のいない時に侵入し、人間が活動をするとこうして机や棚の下や隙間に入り込んでそこから情報収集をするんじゃないかと思います。午前中はずっとここで仕事をしていましたが、
この手の「カサカサ動く生き物」が苦手なツグミが超小型ラッドの存在に気付かないはずがない。
それに彼女の強化視覚ならどんなステルス性能あってもトリオン体の物体を見付けられるのだから、彼女の推測はまず間違いないだろう。
「それにしてもどうしてわたしの作戦室にアレがいたのかしら?
ツグミは考え込んでしまうが、その姿を見ている迅にも皆目見当がつかない。
そしてしばらく考えた末にツグミはひとつの仮説を立てた。
「城戸司令と忍田本部長のところへ行ってみましょう。…あ、ジンさん、捕獲器は本部司令執務室と本部長執務室にも仕掛けたんでしたね?」
「ああ」
「わたしの仮説が当たっていれば、本部司令執務室では捕まっていなくて、本部長執務室の捕獲器には引っ掛かっているはずなんです」
「どうしてだ?」
「説明は後です。もし忍田本部長が
◆
ツグミが「予言」したように本部長執務室には超小型ラッドが1匹いた。
それも部屋の主が留守中であったものだから部屋を勝手に歩き回っており、ツグミと迅が入室した気配に驚いてソファの下に潜り込んだものだから、そこに仕掛けてあった捕獲器に引っ掛かってしまったのだ。
一方、本部司令執務室には城戸がいたので事情を説明してから捕獲器を全部調べたが1匹も掛かっていなかったのだった。
「おまえが言ったとおりだったな。どうしてわかったんだ? さっき仮説がどうとか言ってたが、わかるように説明してくれ」
迅がツグミに説明を求め、城戸も気になるらしく彼女に言った。
「私にも説明してもらおう。ふたりともそこに座りなさい」
城戸に促されてツグミと迅はソファに腰掛けた。
そしてツグミは自分の仮説について話し始める。
「この超小型ラッドがどの部屋に潜伏しているのかですが、これは大規模侵攻でエネドラが侵入した時とガロプラの本部基地襲撃時のデータがハイレインの手元にあるとして考えますと、敵はこの建物のいくつかの部屋の場所を知っていることになります。エネドラは通気口から侵入し、通信室で暴れた後に
ツグミが迅に訊くと、彼は黙って頷いた。
「つまりハイレインたちはトリガーの位置情報によって
「なるほど…」
「さらに大規模侵攻の際に遭遇したボーダー側の要注意人物に対しても様子を探ろうとしているのではないかと考えました。そうなるとエネドラと戦った忍田本部長の執務室、ハイレインと戦ったわたしの作戦室にラッドがいて、この本部司令執務室にはいなかったのはアフトクラトル側に城戸司令の顔のデータがないからだと思うんです」
大規模侵攻でハイレインたちはボーダーに痛い目に合わされている。
その時に直接戦った隊員たちの中でも注意すべき人物の顔のデータをラッドに入力し、対象の人物を見付けると後を追いかけて都合の良さそうな場所、つまり作戦室や執務室に潜んで様子を探ろうとしたのではないかとツグミは仮説を立てたのだ。
「この仮説が正しいとすれば、他にも諏訪隊や風間隊、他にも太刀川隊や三輪隊などの作戦室にも侵入している可能性は高いです。今からでも遅くないので捕獲器を仕掛けておいた方が良いかと思います。念のために玉狛支部にも。なにしろあそこにはジンさんを始めとした主要人物がいっぱいいますからね。おまけに遠征に参加するメンバーだらけですから、情報がアフトクラトル側に漏れたら大変です。そっちはジンさんにお願いします」
「わかった。帰ったらすぐにやる」
「それともうひとつ重要なポイントですが、わたしはメカ系に詳しくないので良くわかりませんが、たぶんラッドのエネルギーカプセルみたいな部分、あれが人間の心臓みたいなもので、それが破壊されたりエネルギー切れになると活動停止になるんじゃないかと思うんです。それで単純にエネルギー切れなら事故として扱われるでしょうけど事故の割合が多くては不自然です。さらに破壊されて活動停止したとなればボーダーに発見されたと考えるのが自然です。それは避けたいです。潜入作戦は敵側に知られたらその時点で失敗ですからね、こちらとしてはハイレインたちに失敗したことを悟られたくはありません。だから破壊しちゃダメです」
「了解。寺島さんたちにも壊さないようには言ってあるから大丈夫だろう。忍田さんには俺から言っておく」
「お願いします。それと…」
ツグミはそこまで言いかけて、迅と城戸の顔を見てから続けた。
「以前にはこういう仕事はジンさんとわたしのふたりでやってきたのに、今回はわたしに内緒で動いていましたよね? もちろんそれがわたしへの気遣いだということはわかっています。でもわたしには隠さずに教えてください。そして無理をせずにできる範囲内でお手伝いしますから、変に気を回さないでください」
「そうだよな。こうして結局おまえの知恵を借りることになったんだから、初めから協力してもらった方がいいだろ。城戸さんもそう思いますよね?」
迅に同意を求められ、城戸は頷いた。
「ああ。遠征が終わるまで無理をさせることもあるだろうが、自分の体調を管理しながらやれるだけのことをやってくれ。すべてが終わったらその分の穴埋めはする。1週間の特別休暇、とかどうだ?」
「素敵ですね。じゃあ、それを楽しみにしながら任務に励みます」
そう言ってツグミはおどけて敬礼をする。
「どうもお騒がせしました。では、わたしはこれで失礼いたします」
「じゃ、俺も行きます」
ツグミと迅は城戸に会釈をして本部司令執務室を退室した。
◆◆◆
その後、本部基地内のすべての作戦室に捕獲器が設置されたのだが、翌朝そのうちの太刀川隊、風間隊、三輪隊の作戦室から超小型ラッドが回収された。
そして寺島たち
さらに本部基地の南東約200メートルの警戒区域内にある廃墟となった民家に
ツグミの指示により巣穴は放置してラッドを好きなように活動させることにし、
捕獲した8匹を巣穴に戻すと、トリオン満タンのラッドが10匹出て行った。
これが本部基地内に侵入して偵察行動をする…これを繰り返して情報収集をするのだろうとツグミは判断した。
そうなると偽情報を記録したラッドをアフトクラトルへ帰還させてハイレインを出し抜くというツグミの考える「理想的な結果」が得られることになるわけだ。
さっそくツグミはひとつのシナリオを作成した。
内容は「ガロプラによって遠征艇を破壊されたことで新たな艇の建造の目処もつかず、遠征計画が少なくとも半年以上遅れる」「遠征艇の定員は20名くらいが限界」「ヒュースが頑固でなかなか口を割らないのでアフトクラトルの情報が得られない」といった嘘のオンパレードである。
それを寺島や忍田や迅の協力を得て
最終的に偽情報を持っているラッドが4匹、その他の本部長執務室や作戦室に現れた「知られても問題のない情報」を持っているものが5匹、情報なしのものが7匹、そして
今回の「超小型ラッドによる情報収集」がボーダー側に知られれずに行われたとハイレインが勘違いしてくれたなら、少なくともあと半年は遠征が行われないと油断することだろう。
遠征艇の定員が20名までとか、アフトクラトルの情報が皆無であるということにしておけば、さらに敵はボーダーに対する警戒感が薄れてくるというもの。
ハイレインが信じなかったとしてもボーダー側に失うものはなく、予定どおりに計画を進めれば良いだけのことだ。
◆◆◆
ツグミたちボーダーの人間は知る由もないのだが、この超小型ラッド事件の顛末はこうである。
三門市にラッドが現れた日から5日後、再び
当然防衛隊員が迎撃に向かうが、バムスターは隊員の到着より先にラッドを回収して
この頃、アフトクラトルではハイレインたちの
なにしろこれまで一番の勢力を誇っていたベルティストン家が国宝・
エネドラは戦死ではなく
アフトクラトルではトリガー使いにとって敵の捕虜となることがもっとも屈辱的なことなので、死んだということにして本人の名誉を守るのが通例であったからエネドラとヒュースは名誉の戦死をしたということになったのだ。
大量のトリオン兵を失い、トリガー使いもふたり死亡したという犠牲の割には成果が低すぎるとして、ハイレインは他の貴族たちから軽んじられるようになってしまった。
こうなると他の3領主がこの機会にベルティストン家の弱体化を図ろうと考えるのはごく自然な流れである。
ボーダーがさらわれた仲間を奪い返しにやって来ることは明らかで、国内でゴタゴタしている状態のところに来られてはたまらないとしてハイレインは従属国・ガロプラのガトリンたちを使ってボーダーの足止めをするよう命じた。
ボーダーの本部基地に侵入して遠征艇を破壊することで足止め工作をしたというガトリンの報告には特に矛盾もなく、遠征艇の破片という物証まであるのだからボーダーの遠征計画は遅れると誰もが考えるのだが、このハイレインという人間は疑ってかかっていた。
ガトリンたちの仕事に特に何か不満があるというのではないのだが、状況が自分たちにとって都合が良すぎるものだから逆に疑ってしまうという
こういったハイレインの性格や考え方、心理状態などを考慮してツグミは送り込まれた超小型ラッドを逆に利用することにしたのだった。
(ラッドの帰還率は80%…まあ、こんなものだな。そして有益な情報が20%で役に立たないものが60%。これもおおよそ想定していた数値で、遠征艇が破壊されて遠征計画が遅れていることはガトリンの報告と相違ない。さらに新しく建造する遠征艇の定員が当初の計画よりも減って20名とわかったことは都合が良い。この結果に不満などないのだが、気持ちが晴れ晴れとしないのは何故なんだ?)
自分にとって不都合な展開に我慢ならないというのでなく、上手く進んでいることに疑いを持ってしまって不満なのである。
そんな兄とは正反対の性格のランバネインがハイレインに声をかけた。
「兄者、何を不満そうな顔をしているんだ? ようするに
ベルティストン家の当主に対してここまで言えるのはさすがに実の弟であるからなのだろうが、お互いに相手を家族として認め合っているからこそである。
「俺は疑い深い性格などではない。すべてにおいて慎重なだけだ。…まあ、疑う理由のない証拠と情報があるのだ、信じてもよかろう。それに万が一奴等が攻めて来たとしても今度はこちらが地の利を活かして優位に戦えるというもの。仲間の奪還作戦なのだから精鋭を揃えてやって来ることだろうが、それを上手く捕獲して利用してやるのも悪くない」
「しかし兄者、ヒュースの奴が裏切ったりしないだろうか? 奴は俺たちに裏切られたと知って復讐しようと考えているかもしれないぞ」
「いや、それはないだろう。あの忠犬が祖国を裏切ることは絶対にない。それにこちらにはあの男がいる。人質…というわけではないが、奴が我々を裏切れば主君がどうなるかわからぬようなバカではないからな。…ひとまず時間は稼げたのだ、この時間を利用して国内の勢力をもう少し広げておかねばならない。神の代替わりはまもなく訪れるのだから、それまでに人柱の候補をもうひとりくらい探しておいた方がよかろう。エリンは優秀なトリガー使いだ、人柱にするには惜しい」
「じゃ、またどこかの国でひと暴れして適当な奴を ──」
「ランバネイン、おまえの好戦的な性格は変わらんな。
「当たり前だろ? 俺は強い奴と戦うことが三度の飯よりも好きなんだからな。チャンスがあれば再戦したいって思ってるんだ、俺としては奴らが早くやって来てほしいくらいなんだぜ。次は俺が絶対に勝つからな」
「フッ…勝手に言ってろ」
ハイレインは呆れたように言い放った。
(だが今の状態で実際に来られては非常に面倒だ。…とにかく
こうして大規模侵攻、ガロプラ侵攻と続く「Round3」もハイレインはツグミの策略にまんまとハマってしまったのだが、ふたりの戦いはまだ続くのである。