ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
千佳を含めたアフトクラトル遠征部隊のことに不安がなくなった…というよりも自分ができることがなくなったと判断したことで、ツグミは自分のことに専念する時間を持てるようになった。
残りは4日で、その間にやってしまわなければならないことはまだ残っている。
そのうちのひとつがゼノンたちを招いての花見の宴である。
三門市内にも桜の名所と呼ぶ場所はあるが大勢の市民のいる場所での宴会は遠慮しようということで、忍田家の庭にある桜の木の下でささやかな身内だけの宴会をすることにしたのだった。
ちょうど盛りを過ぎたばかりで、風が吹くと初めの頃に咲いた花がハラハラと散るという趣のあるものとなっている。
ツグミがゼノンたちを招いて宴会をすることを知った忍田や林藤が自分たちも参加したいと申し出たのだが、ツグミは丁寧にお断りをした。
それは忍田たちがいると送別会のような雰囲気になりそうだという
よって彼女の気持ちを理解している忍田たちは諦めることにしたのだった。
迅はこれからキオンまでの往復40日を共にする仲間としての親睦を深めるためにという理由で参加となっていて、彼がゼノンたちの送迎まで買って出てくれた。
もっとも「親睦を深めるため」だけではないのだが、その理由を知らないのはツグミだけであるから4人の男たちは彼女を困らせないようにと和気あいあいと花見の宴を楽しんだのだった。
◆◆◆
その翌日、ツグミはリヌスとの約束を果たすために一緒に出かけた。
三門中央駅から普通列車に乗ったのだが、ツグミはリヌスに行き先をまだ告げていない。
リヌスにとってはどこへ連れて行ってくれるのかなど問題ではなく、ツグミと一緒であることが重要なので始終にこやかだ。
ボックス席に向かい合って腰掛け、車窓の景色で見慣れないものがあるとリヌスがツグミに訊き、彼女がそれに答えるといった会話が1時間ほど続いていた。
「ツグミ、だいぶ遠くまで来たようですけど、目的地はまだなんですか?」
リヌスに訊かれ、ツグミは微笑みながら答える。
「まだあと1時間くらい電車に乗り、下車したらバスに乗り換えて15分くらいかかります」
「どこへ行くのか教えてもらえないのは、それは私を驚かせたいためですよね?」
「ええ。たぶんあなたがこれまでに一度も見たことのないものばかりが見られますよ。楽しみに待っていてください」
「
「
「……」
「遊びたいとか学びたいという欲求は身分に関係なく持っているものですが、生きていくだけで必死になっているからそんな欲求は後回しにされてしまいます。わたしなんて知識欲の塊ですから、暇さえあれば本を読んでいろいろなことを知ろうとしました。それはそういうことができる余裕があるからで、もし
ツグミの話を聞いていたリヌスは自分自身の人生を振り返ってみた。
彼の祖国エウクラートンは彼がまだ物心つかないうちにキオンによって侵略されてキオンの属国となってしまった。
そして優れたトリオン能力と賢さを見込まれてキオンへ渡り、そこで軍人となるための教育を受けることになったのが9歳の時。
キオンという国に貢献すればエウクラートンの同胞の暮らしが楽になると言われてのことだったが、それは彼を懐柔するための方便であり、そのことに気付いたのは1年ほど経ってからだった。
以来、彼は祖国に戻って同胞と共に生きるという希望は捨て、せめてこれ以上同胞への待遇が悪くならないように必死になって勉強をした。
エウクラートンの人間は役立たずだというレッテルを貼られたくはなかったからだ。
その甲斐もあって軍の中でも諜報員という難しい任務に就くことができるほどに優秀な軍人となったわけだが、そんなもので心の中に生まれた大きな空洞が満たされるものではない。
(そんな私の救いとなったのはゼノン隊長とテオという家族同様の仲間ができたことだった。ふたりの存在は私という人間を構成する一部にもなっていて、彼らを失ったら自分で自分を維持できなくなるんじゃないかと思えるほど大きな存在だ。それがこの任務の失敗ですべてを失うかも知れないという事態に陥った。その原因がツグミだというのに憎むどころか私は彼女を愛してしまっている)
車窓の景色を見つめているツグミの顔をチラリと見て物思いに浸るリヌス。
(彼女に惹かれたのは不測の事態であっても動じない彼女の強さを見せられた時だった。我々が危害を加えないとわかっているからだろうが、それでも敵に対して礼を言ったり気遣いができ、何よりも笑顔を見せてくれたことが嬉しかった。…そういえば私はいつの間にか他人に笑顔を見せることがなくなっていた。唯一家族同様のゼノン隊長とテオとは任務で上手くいった時や楽しいことがあった時には笑顔になったが、他人に向けて笑顔を見せたことはエウクラートンを離れてから一度もなかった気がする。それなのに今では自然に笑顔ができるようになった。それはツグミのおかげだ。たぶん彼女は私の気持ちに気付いていないだろうし気付けば彼女に迷惑をかけることになるからこのままでいい。だからせめて今日だけはこうしてふたりの時間を大事にしよう)
◆◆◆
ツグミとリヌスが下車したのは六会駅であった。
「ムツアイといったら…先日あなたがどこかの国の男に拉致されて連れて来られたのがこの街の港湾施設だったはず」
「ええ、そうです。この六会市というのは海との繋がりが強く、古くから海に開かれた街として栄えてきました。ですから市民の暮らしと海との関わりは切っても切れないもので、その象徴というかランドマーク的なものがこれから向かう『Mutsuai Marine Kingdom』なんです」
「そこには何があるんですか?」
「今それを言ってしまったら楽しみが半減してしまいます。さあ、バス乗り場はこっちですよ」
下調べは万全のツグミは真っ直ぐにバス停へと向かい、バスを待っている列の最後尾に並んだ。
◆
「Mutsuai Marine Kingdom」は国内でも有数の大規模な海洋レジャー施設で、約30ヘクタールという広大な敷地の中には水族館だけでなく遊園地や海洋博物館、そして1日では遊びきれないという規模の施設だからホテルも建っている。
ツグミたちが目指すのはそのうちの水族館エリアで、モフモフ好きの彼女にとって今一番
「リヌスさん、今日は週末でこの前の遊園地よりも混雑しています。館内は暗いですからはぐれてしまうと困るので手をつないで行きましょう」
ツグミはそう言ってリヌスに手を差し出した。
本気で迷子になってしまったら困るというだけのことなのだが、リヌスにとってはツグミに触れる千載一遇のチャンスである。
もちろん遠慮なく彼女の手を握った。
「じゃあ、まずは大水槽のある太平洋エリアから回りましょう」
ツグミに導かれるように暗い館内を歩くリヌス。
彼の心の中は複雑だ。
(ツグミに他意はない。言葉どおりこの大勢の人間のいる場所で私と彼女がはぐれてしまってはいけないというだけだ。だから私は勘違いをしてはいけないのだ。彼女には恋人がいて、私の入る隙などないのだから。…だけど今日一日だけは私が心の中で想うだけならいいですよね?)
そんなことを思いつつ歩いていると、急にリヌスの目の前が青い世界になった。
「これは…!?」
それは幅が約20メートル、高さが約10メートルという巨大な水槽のあるホールに入ったからで、中にはサメやエイといった大型の魚類やイワシが群れて泳いでいる。
これがツグミのようなこちら側の世界の人間であれば深い海の中に突然投げ込まれたかのような錯覚を起こすだろうが、海自体を見たことのないリヌスにとっては生まれて初めて見た不思議な光景であった。
「
ツグミがリヌスに説明する。
「その海の生物を展示しているのが水族館という施設で、この水槽は海の一部を切り取ったようなカンジで海洋生物を誰でも気軽に見られるようにしてあるんです。ここにいる生物の内、わたしたちの生活にとても馴染みのある魚もいるんですよ。群れをなして泳いでいるのはイワシという魚で、みなさんと一緒にお花見をした時に出した『イワシのつみれ揚げ』という料理の材料です」
「へぇ…。海の中というのはこんな風になっているんですね。
「
ツグミの姿が水槽の青いぼんやりとした光に照らされていて、そんな彼女の横顔をリヌスはチラリと見る。
「わたしたちは海の中からやって来たわけですが、ではリヌスさんたち
「え?」
「わたしは
「……」
「古代の
ツグミがいきなり
(海が
接点が少ないツグミと自分に共通するものがあるとわかれば嬉しくなるのも無理はない。
思わず笑みが浮かんでしまうのだが、そこをツグミに見られてしまった。
「リヌスさん、わたしの話が荒唐無稽だからといって笑わないでください」
「え? いや、別にあなたの話が可笑しいというのではありません。…ただこの海の中の様子を見ていると不思議な気分になるものですから、もしかしたら自分の先祖もこの海に縁があるのかも知れないと思っただけです」
慌てて誤魔化したリヌスだが、まったくの嘘でもない。
青い世界にたくさんの魚が泳いでいる様子は初めて見る光景で驚いたのだが、見つめていると不思議と引き込まれそうになり、それでいて怖いというよりもその中に身を委ねてみたいという奇妙な衝動に駆られるのだから。
「そうでしたか。勘違いしてすみません。でもあなたがそう感じるということは、わたしの仮説もまんざらではないのかも知れません。
そう言って微笑んだツグミとリヌスはしっかりと手を繋いだまま、しばらくの間青い海に抱かれていた。
◆
太平洋エリアの大水槽を堪能したツグミとリヌスは熱帯魚や深海に住む生き物などの展示エリアを抜け、海と水辺に住む哺乳類の展示エリアに進んだ。
そこまでだけでも十分にインパクトがあったというのに、リヌスにとってさらに衝撃的なものを見ることになった。
それはイルカのショーで、
「イルカという動物は非常に賢いですから芸を覚えることができるんですが、それは人間に強いられているのではなく本人たちが楽しんでやっているらしいんです」
「本当ですか?」
「ええ。人間とイルカ、言葉は通じない両者でもわかり合えるんですから、会話でコミュニケーションができる人間同士ならもっと理解し合えるはずです。だからわたしはアフトクラトルやキオンで価値観や利害関係が異なる初対面の相手と面会することに臆することはありません」
「……」
「リヌスさんたちはわたしがミリアムの
「ですがキオンは軍事国家で他国との交渉は圧倒的軍事力を見せ付けて、相手国に他の選択肢を与えないという追い詰めた状況での対話ですから、勝ち筋の決まっているゲームに相手を誘導しているようなものです。あなたもそれに乗せられてしまったら ──」
「国対国の交渉ならそうでしょうけど、個人対個人の交渉ならこちらにも勝目はありますよ。リヌスさんたちが不安になるのは仕方がないですけど、それならわたしを置き去りにして自分たちだけでこっそり帰国してしまえばいいんです。それをしないということはわたしを信頼してくれているということでしょ? わたしはみなさんの信頼を裏切ったりはしませんから、安心してわたしをキオンまで連れて行ってください」
ツグミの意思と覚悟にブレはなく一貫しているためにリヌスたちが彼女を連れて行くことに変更はない。
しかし不安があるのは事実で、出発まであと3日と迫っている今になってもまだ心が揺れていたことを彼女に悟られていたようだ。
そこで改めて自分の覚悟を話すことで不安を取り去ってもらおうというのだった。
「あなたがそのように考えているのなら、我々はあなたの成功を全力で後押しするしかないですね。あなたに迷いがないのに我々が迷っていては成功するものも成功できなくなってしまいます。私は遠征艇に帰ったらゼノン隊長とテオにきちんと話をします。そして全員であなたのことを応援しましょう。この命に替えても」
リヌスがそう言うとツグミは困ったような顔で笑う。
「ダメですよ。あなたの命を犠牲にして願いが叶っても意味はありません。みんなで笑って思い出話ができるような結果を出さなければダメなんです。大丈夫ですよ、ジンさんの
「わかりました。気張らずにあなたとの旅を楽しむ気持ちでいきましょう」
「ええ、そうしてください。…そろそろショーの開始時間です。難しい話はここでおしまいにしてショーを楽しみましょう」
イルカショーを堪能した後はツグミが最も楽しみにしていたエリアへ行った。
1週間ほど前にゴマフアザラシの赤ちゃんが生まれたというニュースを知ったツグミは
展示施設は大混雑していたが、モフモフ好きの彼女は1時間でも2時間でも待つ覚悟ができていて、念願の仔アザラシを見ることができた時の彼女の表情はリヌス曰く「至高の笑顔」であったという。
こうしてリヌスにとって驚くことの連続であった1日は終わった。
遠征艇に戻った彼はゼノンとテオに報告をしたわけだが、ふたりに羨ましがられたり嫉妬されたりと散々な目に遭い、ひとまず
ツグミがリヌスだけを連れて水族館へ行ったのは、ゼノンとテオにも必ずもう一度
話の中でオリ主が「
原作ではこの件に関してまったく触れていませんが、今後何らかの形で説明されるかも知れません。
ですが拙作ではそういったことがあっても無関係に物語を進めてまいります。