ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
ゼノンたちの遠征艇の改造と荷物の搬入が完了したのは30日で、出発の2日前という慌ただしいものとなった。
出発日を4月1日に決めたのはこのタイミングだとアフトクラトルへ向かうのに経由する国が2つで済み、約90時間で到着できるからである。
キオンへ行くことが目的でもアフトクラトルへ立ち寄ることも重要な目的であるため、少々急ぐことになるが出発日を無理やり設定したのだった。
この遠征艇は元々4人定員の艇であるからツグミと迅が加わると5人となる。
定員オーバーであるが、そこはひとり当たりの居住空間が狭くなるというだけで艇の運航に問題はないということでひと安心だ。
まず倉庫を改装して一部をツグミの私室とし、そこに高さが180センチのロフト型のパイプベッドを持ち込んだ。
部屋の高さが約270センチだからベッドに横たわるとすぐに天井があって圧迫感があるが、ベッドの下に彼女の私物を置くことを考えると仕方がない。
それでも畳約3畳分の広さに彼女の完全プライベート空間を作ることができたのだから上出来だ。
倉庫の残りの空間にはゼノンたちが購入した飲料水のペットボトルやカップ麺・レトルト食品などの箱が山積みになっていて、それでも入りきらない分はリビングルーム ── 作戦室という名では味気ないと言ってツグミが変更した ── の片隅にも置かれている。
他にもツグミが買ったポータブル電源やソーラーチャージャー、電気炊飯器などの家電などもあり、狭い空間をますます圧迫している。
それでも食料の内の4分の1はキオンまでの行程で消費してしまう予定だから、キオンに着く頃にはリビングルームも本来の役目を果たすものになっていることだろう。
◆
ツグミと迅はこれまでに何度か
よって約40日という長期にわたって異世界を旅するという経験は現ボーダー関係者の中には誰もいない。
前例のない長期の旅程であること、アフトクラトルに潜入しての工作、キオンの元首との会談という上層部の面々ですら尻込みしてしまう非常に難しい課題を抱えた旅になる。
だから城戸や忍田が不安になるのは仕方がないのだが、これはアフトクラトル遠征と違って戦闘を前提としたものではない。
むしろ同盟国を助けるためという理由で参加して隊員の半数を失った5年前の遠征よりはるかに安全であり、迅の
忍田の不安はツグミの身の安全だけだが、城戸の場合はそれだけではない。
もちろん城戸も彼女の身のことを心配しているが、一隊員のこと以上にボーダーの未来について心を砕かなければならない立場にある。
かつてボーダーは3つの国と同盟を結んでおり、ツグミはキオンと同様の友好的交流を目指していて、それが成功するか否かによって今後のボーダーの運営は大きく変わっていく。
成功すれば
一方、失敗すれば即敵となる…というわけではないが、
そもそも一国の元首が
城戸たちが聞いているツグミの計画では、彼女はゼノンたちが任務 ── ミリアムの
これなら面会する機会を得ることは簡単だが、その後の展開が彼女の思いどおりになるとは限らない。
その場でミリアムの
ツグミが唯一の適合者であり、彼女以外に使えないとわかれば殺されるようなことはないだろうが、20年以上も追っていた
ここでツグミがキオンの元首との会談に持ち込むためには
そこで城戸は自分を
元首と名乗るのは詐称であるものの、現在
そして城戸は
ツグミが
もしツグミを「捕虜」として扱うことになればそれはキオンが一方的に
キオンとは戦争を前提としたものではないからよほどのことがない限り最悪な状態になることはないだろうが、問題はアフトクラトルでのディルク・エリンとの密談の方である。
もしツグミたちの潜入がベルティストン家に知られたらアフトクラトル遠征にも大きな影響を与えることになり、C級隊員の救出がより一層困難なものになる可能性が高くなるのは自明の理。
ディルクがボーダーを信頼して身を寄せてくれるなら利益となる部分が大きいのだが、逆にベルティストン家に忠誠を誓っていて絶対に裏切ることがない人物であれば間違いなくボーダーの敵として立ち塞がることになる。
こちらはヒュースの協力があり、さらに密談に成功すればアフトクラトル遠征がかなり楽になるということで城戸は反対しなかった。
ただしツグミに対して後押ししてやれることは何もなく、黙って彼女を信じて祈ることしかできないのだった。
城戸にとって自分の現在の年齢と立場は非常にもどかしいものだ。
あと10歳…いやせめて5歳でも若かったら自らが
責任者などというものはドンと構えていて何かあった時にすべての責任を取るだけの存在で、独裁者ではないから自分の思うがままに組織を動かすこともできず損な役回りだと本人は考えていた。
自分の子供くらいの年齢も隊員たちに命懸けの戦いをさせて自分は安全な場所で見ていることしかできずにいる。
(私だって好き好んで最高司令官などやっているわけではない。あんなことにならなければきっと今頃は最上がこの椅子に腰掛けていたはずなのだ)
城戸は本部司令執務室でひとり思い出に耽っていた。
(あの遠征自体はアフトクラトルによる侵攻と同じで避けることができなかったもの。同盟国であるからという理由で戦闘に参加したが、参加しなければこちら側の世界にも奴らの手が伸びるという確信があったから
過去を振り返って悔やみ続ける城戸。
彼は自分の力不足のせいで若い隊員の命を散らせたと後悔しているが、あの時の戦いでは城戸でなく誰であっても犠牲を減らすことはできなかった。
それでも自分を責めるのは生き残ったことを「罪」と考えてしまうからである。
それは彼に限ったことではない。
大災害に見舞われた時、自分が無力だったせいで家族や友人を助けることができなかったと悔やむ者は多い。
しかし果たしてそれは無力でなければ助けられた命だったのだろうか。
たとえば大地震で津波に襲われたとして、いくら水泳が得意だからと言って身体の不自由な老人を抱えて泳ぎきることは可能だろうか?
否。
自然の猛威に対して人間の能力など高が知れている。
それなのに「私は助けてやれなかった」と悔やみ続ける。
第一次
それは同じような悲劇を繰り返さないためであり、無力だった自分を否定して強くなりたいと願うからだ。
前向きな姿勢でいる分には良いのだが、どうしても「私は助けてやれなかった」という後悔が付いて回るのは否めない。
城戸も同じで「
ただ…彼はもうかつてのように自ら戦うことはできず、戦いで傷付いていく若い隊員たちを統べる立場である。
自分が強くなって大切なものを守りたいと精進する隊員たちのようにはなれないのだ。
だから自分を責め続けて、それを贖罪としなければいられない。
迅はツグミに救われたが、当時の城戸には救われたいという願いさえなく、自分が救われる価値すらないと考えていた。
彼の行動は旧ボーダーのメンバーからも理解しがたい部分が多く、その容姿と厳格な態度から他人を寄せ付けない印象があるから新たにメンバーに加わった者たちも城戸という人間を知る機会はほとんどない。
ツグミですら最近まで彼の言動に理解ができない部分が多くて避けていたが、大規模侵攻以降は心ならずも接点を持つことが増えたことでお互いの気持ちを察するようになっていった。
そのおかげでツグミが自分の想像以上に高い理想を持って行動をしていることを知った城戸は彼女にボーダーの未来を賭けてみることにしたのだった。
にも関わらず彼はツグミに期待を寄せることすら自分の無力という罪だと考え、過去の罪と合わせて自分を追い詰めてしまう。
せめて彼に家族がいれば心休まる時間もできるのだろうが、独り身である彼にはそれすらできない。
ツグミは彼を父親のひとりと考えていたが、城戸自身は彼女を娘のように思いながらもボーダー最高責任者としての立場の方が強かったことで両者に思いの食い違いが生じてしまっていた。
その結果がツグミの隊務規定違反行為となり、ここで決定的な亀裂が入ったかのように思えたが、彼女が城戸を父親、家族だと思う気持ちを捨てずにいたことが現在の両者の関係を良好なものに変えつつある。
(私はツグミに過剰な期待を寄せ、それがあの子の精神的な重荷になっているのではなかろうか? あの子は昔から周囲の人間に嫌われたくないと考えて相手の望む結果以上のものを出そうと無理をしているフシがあった。そのせいで年齢以上に大人びていて子供らしくない部分の多い娘になってしまった。そこで皆があの子に多大な期待を抱いてしまい、それに応えようとしてアフトクラトル遠征を成功させるために危険を承知でも
城戸の不安はますます募り、これ以上ひとりにしておくとマズイのではないかと思えるほど鬱々としてきた。
そこに林藤から電話が入った。
「林藤、何か用か?」
「この時間ならもうオフだろ? 今、どこにいるんだ? 暇だったら今から俺と忍田と3人で飲もうぜ」
「なぜおまえたちと飲まねばならないんだ?」
「そりゃツグミと迅の無事を祈っての送別会に決まってるじゃないか。もっとも主役のふたりがいない見送るしかできない野郎3人だけの宴会になるがな」
「フッ…それを送別会と呼ぶのか? まあいい、それでどこに行けばいい?」
「俺たちは今『すみかわ』にいる」
「すみかわ」とはボーダー上層部の面々がプライベートで良く行く居酒屋で、第一次
「わかった。私は今本部にいるから20分もあれば着く」
「了解。待ってるぜ」
林藤はそう言って電話を切った。
なんとも強引に飲み会に誘ったようだが、これは林藤による気遣いだ。
「やっぱあの人、ひとりで本部の執務室にいたみたいだぜ。きっとツグミたちのことを考えて悶々としてたに違いない。これで気分転換になってくれたらいいんだがな」
そう言って忍田に同意を求める林藤。
実は最後の夜だからツグミと一緒にいたいと思っていた忍田だったが夕食を済ませた彼女が迅と出かけてしまったものだから不貞腐れてしまい、電話で愚痴る彼を林藤が飲みに誘ったという次第。
ついでに城戸も呼んで気晴らしをしようということになったのだった。
なお、ツグミは今頃迅と夜桜デートの最中であり、娘を心配する父親として神経をとがらせるのは無理もない。
「夜も8時過ぎに男とふたりで出かけるというのはどうかと思うぞ。いくら相手が迅だと言っても、おまえだって娘がいたら反対するだろ?」
忍田はすでに酔っているらしくて林藤の話を聞いてはおらず、まだ愚痴を言っている。
「ああ、そうだな。だけど不純異性交遊ってわけじゃなくて、しばらく留守にするから三門市の様子を見ておこうってだけだろ? それに明日は夜明け前に出発するってんだから、そんなに遅くならないうちに帰って来るって」
「それはわかってるんだが、父親としてだな、娘が
「今さら行くなと言ってももう遅いんだ。泣くなよ、忍田」
林藤はテーブルに突っ伏して半泣きしている忍田を見下ろしながら頭を抱えた。
(あー、こいつは洋酒だと悪酔いしないくせに日本酒となると泣き上戸になるんだったっけ。店の選択を間違えちまったな)
◆◆◆
4月1日、まだ夜も明けきらぬ午前5時。
キオンの遠征艇は70日ぶりにエンジンを起動させた。
こちら側の世界に現れたのはアフトクラトルによる侵攻が開始されたタイミングであったから、ゼノンたちが開いた
さらに艇自体はレーダーに反応しないようになっていたからその存在はずっとボーダー側に知られずにいた。
しかし今回は
よってこの時間帯の司令室は事情を知っている隊員・職員だけしかおらず、一般隊員たちはもちろんだが市民にも悟られないようにと出発を早朝にしたのだった。
見送りを辞退したいと言うツグミだが、さすがにそうもいかないとして城戸、忍田、林藤の3人となぜかヒュースが見送りに来ていた。
「ツグミ、これをディルク様に渡してくれ」
ヒュースはそう言ってツグミに1冊のスケッチブックを手渡した。
「いいけど、中を見てもいい?」
「ダメと言ってもどうせ後で見るんだろ? 別に都合の悪いものは描いてない。見てかまわないぞ」
ヒュースの許しを得てスケッチブックを開いたツグミ。
そこには彼女が思わず笑みを浮かべてしまう絵が描かれていた。
玉狛支部の屋上から見た三門市の風景、雷神丸と一緒に昼寝をしている陽太郎の姿、そして玉狛支部のメンバーの似顔絵があって、その中にはツグミのものもあった。
「わたしの絵まであるのね」
「おまえも最近までタマコマの一員だったからな。それにこれを見ればディルク様もおまえのことを信用するはずだ」
「うん、必ず本人に直接渡すから心配しなくてもいいわよ」
「それからこれも」
続いてツグミに渡したものは包装紙でキレイにラッピングされている玉狛支部御用達「いいとこのどら焼き」である。
「これをレクス…若様に。ヨウタロウの大好物だからきっと若様も喜ぶだろう。これなら10日以上経っても食べられるとリンドウ支部長が言っていた」
「手土産用に脱酸素剤が封入されている長期保存ができるタイプの商品ね。食べたらきっと美味しくて目を丸くするわよ」
ヒュースはエリン一家のためにも彼らがボーダーを信用して一時的に亡命してもらいたいと考えており、スケッチブックやどら焼きを用意したのは自分がボーダーで厚遇されているのかを知ってもらうことでディルクに
「任せておいて。わたしが説得してディルクさんたちを
「ああ、おまえを信用して待っている。おまえが結果を出してくれたなら、俺はアフトクラトル遠征を全力でバックアップする」
「うん、今ちゃんと言質を取ったからね。必ず約束を守ってちょうだい」
そう言ってツグミはボイスレコーダーをヒュースに見せた。
これは
「抜け目ないな、おまえは。敵には回したくないタイプだ。だが味方であれば心強い。…無事に戻って来いよ」
「ええ、必ず帰って来ると約束するわ」
ヒュースとはそんな会話をしている間、城戸たちは迅やゼノンたちと話をしていた。
内容はツグミが無茶をしそうになったらストッパーになれとか、敵対する者が現れたら容赦なく叩き潰せなどの指示などである。
その中でも忍田は迅に対して言いたいことがたくさんあるらしく、うんざり顔の迅に対してまくし立てていた。
内容はツグミにも見当が付くもので、直接言われていない彼女もうんざりしてきた。
「そろそろ行かないとマズイんじゃないのか?」
林藤に促され、ツグミたちは遠征艇へと乗り込んだ。
もちろんツグミは振り返ろうとしない。
見送る側も見送られる側も嫌だという彼女の意思がそこに表れている。
だから誰も何も言わず、ただ城戸たち見送る側の4人は彼女の姿が見えなくなるまで姿勢を正して見つめていた。
そして東の山の端に太陽がわずかに見え始めた頃、
遠征艇は
次回から新章となります。
原作ではほとんど描かれていない