ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
「お待たせしました。そして初めまして、キリシナさん、ジンさん。私がこのエリン家の当主、ディルク・エリンです」
ディルクはツグミが想像していたよりもずっと温和で知的な雰囲気を持つ男性だった。
「エリン様、突然の訪問のご無礼をお許し下さい。そしてお目通り叶い恐悦至極に存じます」
ツグミは丁寧に挨拶し、深く頭を下げた。
彼女は神妙な眼差しでありながらも口元には笑みが浮かんでいる。
初対面でありながらも彼女は
たぶんディルクの方も同じように彼女が「自分の欲望に忠実で自由奔放に振舞うが、その行動が周囲の人間の心をつかむ」ことに気付いているようである。
迅はというと、目の前のふたりが挨拶をしただけで意気投合した雰囲気を醸しているものだからどうして良いかわからず、ツグミに促されるまで挨拶するのを忘れてしまったほどだ。
「いえいえ
「恐れ入ります」
「先ほどヒュースからの手紙を読みました。どうやら彼はあなた方の組織でお世話になっているようですね。おまけに彼が
ディルクが口先だけでなく本気で申し訳ないと言っているとツグミは感じた。
誠意のある人物にはそれ以上の誠意で接するのが彼女のポリシーである。
「エリン様、あなたが後ろめたさを感じることはありません。元凶はハイレインなのですし、ヒュースはわたしの友人ですから彼のために何かできるならそれをやるのは当然です。もっとも彼がわたしを友人と認めてくれているかどうか怪しいですけど」
ツグミは
昔から初対面の人間、それも大人であってもすぐに好かれる子供だった彼女を迅は羨ましいというか不思議な少女だと思っていた。
しかし今になってその理由がやっとわかった。
彼女は単に視力が良いというだけでなく、相手の人間の本質を見抜くことができ、その人物の性格や行動パターンに応じた接し方をするものだから気に入られてしまう。
例えるなら野良猫が人間と遭遇し、
それは彼女の見た目が目の覚めるような美人でもなく、また人が避けるような醜女でもないどこにでもいる普通の愛らしい少女であるから相手は警戒せず、それでいて好ましいと思うよう誘引してしまうのだ。
(一歩間違えればあざといと思われて敬遠されるだろうに、そんなことをまったく感じさせない振る舞いができる。それって一種の才能だよな。だけどその反動というか、嫌いなヤツや敵に対しては徹底的に好戦的になる。だからこいつのことを知れば知るほど敵に回したくないということになるんだ。こいつは何をやるにしても全力で、戦う時には手心を加えるなんてことはせず容赦なしで叩き潰す。ボーダー隊員の中にもこいつに敵意を示して挑戦状を叩きつけ、返り討ちになったヤツもいたっけな)
迅がそんなことを考えている間にツグミはディルクにヒュースから預かったものを渡していた。
「ヒュースから預かったものをお渡しいたします。…これは彼が
ディルクはスケッチブックを開いた。
そこには玉狛支部の屋上から見た三門市の風景、雷神丸と一緒に昼寝をしている陽太郎の姿、そして玉狛支部のメンバーの似顔絵が描かれている。
「ほう、彼は今の生活を十分に楽しんでいるようですね。絵を描くだけの精神的余裕があり、描かれている題材に対しての愛情がこれらの絵から伝わってくる。…ハイレイン様からヒュースが
「ええ。わたしは彼と直接戦ってはいませんが、彼が凄腕のトリガー使いであることと並のボーダー隊員では敵わない戦術家であることは承知しています。ですがこちらにも並ではない
ツグミはさりげなく迅が優秀なトリガー使いであることをアピールする。
「そうでしたか。あのヒュースと戦って勝てるというのなら、あなたが護衛として連れているのも頷けます」
ディルクの言葉にツグミは一瞬頭の中に「?」が浮かんだ。
しかしすぐにヒュースが手紙で「迅はツグミの護衛である」と書き、迅ではなくツグミが交渉相手であると教えたのだろうと察した。
(ああ、だからディルクさんはジンさんでなくわたしに
ディルクはスケッチブックを眺めていて、ツグミの姿が描かれたページで手を止めた。
「これはなかなか良く描かれている。遠くを見つめる眼差しに強い意思が感じられます。きっとあなたの心の中に秘めている
その言い方では容姿を褒めているわけではないが、外見よりも内面を重視していてそこに魅力を感じていると言われたようでツグミは赤面してしまう。
「彼にわたしがどのように見えているのか知りませんでしたから、それを聞いて少々面食らってしまいました。…それからわたしのことはツグミとお呼び下さい。わたしの友人や家族は皆そう呼んでくれます」
それはヒュースが「ツグミ」と呼ぶのだから、同じように呼んでほしいと頼むのは友人として認めてくれと言っているようなもの。
初対面の目上の人間に対して無遠慮な頼みだが、その小賢しい態度がディルクの心を揺さぶったようだった。
「わかりました、そうしましょう。その代わりに私のことをディルクと呼んでください。様付けもなしです。そうでなければ対等な話ができませんからね」
「はい、承知致しました、ディルクさん」
「ではツグミ、その箱の中身を確認させてもらってもよろしいですか?」
「はい、どうぞ。口に入れるものなので不安があるようでしたら毒見させていただきます」
「いいや、その必要はありません。あなた方が私や私の家族を暗殺しようとしているなどと微塵も考えていませんから。仮に暗殺をしようとしているのなら、もっと簡単で確実な方法はいくらでもあります。それにヒュースが信頼している人間が私を殺そうとするはずがありません。私は彼のことを誰よりも信頼していますからね。先ほどあなたはヒュースがあなたのことを友人と認めてくれているかどうか怪しいなどと言っていましたが、彼は自分の好きなものしか描きません。つまりあなたのことを気に入っていて、こうして土産を託すほど信頼しているということです」
「そう言っていただけるとわたしも嬉しいです」
ツグミは包装紙を開いて箱のふたを外した状態でディルクの前に置いた。
箱の中にはどら焼きが12個入っていて、その上に桜の花が描かれているカードが1枚載っている。
店のサービスで季節の絵柄のカードをくれるのだが、そこに贈る相手へのメッセージを書くことができるようになっていて、そこには「必ずあなたの元へ帰ります」とだけ書かれていた。
「フッ、彼らしい。…ところでこれはどういう菓子なのですか?」
ディルクの視線はどら焼きに向けられている。
「これは小麦粉と鶏卵と砂糖を混ぜた生地を焼き、そこに煮た小豆に砂糖を加えて練った餡を挟んだものです。
「そうか、それは楽しみだ」
「さきほどの絵の中あった幼児は陽太郎というのですが、どら焼きはその子の大好物で、その子とあなたの御子息を重ねて見ていた様子でしたから、きっと喜ぶと考えたのでしょう」
「ああ、レクスは甘いものに目がない。
「はい。このあと行かなければならない国がありますので」
ここで具体的に「キオン」であるとは言わなかった。
もしヒュースがディルクに知らせるべきことだと判断したなら手紙に書いてあるだろうし、そうでなければ知る必要がないということである。
ディルクも特に訊こうとしないので、ツグミはそのまま話を進めることにした。
「現在のアフトクラトルにおける状況についてはヒュースともうひとりボーダーで保護している人物からある程度は聞いております。それにハイレインたちが
「現在の『神』があと数年で死んでしまい星が滅んでしまう危機にあるため、ハイレインだけでなく他の有力貴族はあちこちの国に遠征を行って次の『神』を探しております。あなた方もご存知のように我が国はトリオン能力が優れたものを遠征等で厳選して『神』にしてきたことで、国力を上げて『神の国』と呼ばれるほどの国となっています。国土を維持するために人間の命を犠牲にしなければならないというのは何とも心苦しいもですが、これが
「それはわたしも承知しております。ですがハイレインは
「そうなると別の国へと遠征して生贄となる人間を探すか、もしくは自分の手駒の中から選ぶしかない、と。…今のところ生活の上で支障は出ていませんが、様々なところに影響は出始めています」
「夜空に月や星が見えない…というよりも失われたのはそのせいですね?」
「ご存知でしたか。今はまだ月や星ですが、いずれ太陽は小さくなって国全体が寒冷化していくでしょう。そうなれば農作物は収穫できなくなり、国民は飢えて死んでしまいます。いえ、少ない食べ物を奪い合って殺し合いが始まるかも知れません。そんなことは絶対にさせられません」
「だからといってあなたが犠牲になると? そんなことを考えてはダメです」
「しかし ──」
ディルクの顔が曇る。
「このままではあなたがハイレインの手によって生贄にされてしまうとヒュースは危惧しております。よって一日も早く帰国したいと考え、ボーダーが遠征を行う際に案内役として同行することを申し出ました。それ以外に手段はないからです。ボーダーも案内役がいることで遠征もやりやすくなりますから利害が一致したということで遠征に参加することが正式に決まっています。ですが彼が帰還することでどうなるのか…本人はまったく考えていませんでした」
「どういうことですか?」
「ハイレインはヒュースの帰国を歓迎するはずがありません。なにしろ
「……」
「わたしはヒュースに取引を申し出ました。彼にとって守るべきはあなたとエリン家の家族のみなさんであり、ベルティストン家に歯向かうことに迷いはありません。そこで彼には全面的にボーダーに協力をしてもらうことにしました。彼の当初の予定ではボーダーの遠征部隊をこの国まで案内したらすぐに離脱してここへ戻って来るものでしたが、彼が戻ったことで起きうる可能性の話をしたら諦めました。ですのでボーダーがあなたとご家族をハイレインの手が及ばない場所で保護し、安全を保証すると約束をしたのです」
「それは亡命をする…ということですね?」
「そのとおりです。もちろんこれはご本人の意思を尊重し、あなたが嫌だと言えばそこでおしまいになる話です。ですがわたしとしては友人ヒュースを悲しませたくはないですし、彼が傷付く姿を見たくはありません。ですのでわたしはあなたにこの提案をのんでもらいたいのです」
「……」
「あなたがベルティストン家に仕える誠実で屈強な騎士だということは重々承知しており、主君を裏切れと言ってもすぐに首を縦に振るとは思っていません。ですがあなたが最も大切にしているものは何ですか? そもそもあなたがベルティストン家に仕えている理由はハイレインを敬愛しているからではありませんよね? 今の暮らしを守るためにやむをえないからではありませんか? 家族や自分を慕って仕えてくれる家臣を守るためにハイレインの言いなりになって敵と戦っているのではないでしょうか?」
「……」
「ヒュースはあなたが優秀なトリガー使いではあっても戦士として戦うことよりも趣味の読書や家族との時間を大切にする温厚な人物だと言っていました。わたしもあなたにお会いしてそう感じました。そんなあなたが自らを犠牲にして他者のために、…いえハイレインの野望のために生贄になろうとおっしゃるですか?」
「……」
「答えに窮してしまうのはあなたが反論できないからというだけでなく、自分が逃げてしまえば他の誰かが身代わりに生贄になると考えて躊躇っているからではありませんか? たしかにあなたが亡命してこの国からいなくなればハイレインは別の人間を選んで生贄にすることでしょう。あなたは優しい人だから自分のせいで誰かが犠牲になることを認めたくはない。ですよね?」
するとディルクは重い口を開いた。
「ああ。あなたの言うとおりですよ、ツグミ。私はアフトクラトルに生まれたことを誇りに思っています。トリガー使いになったのも祖国に貢献するためで、父の教えである『貴族である我々は民草のために戦うことを誇りとせよ』という言葉に従って生きてきました。それなのに我が身可愛さのために逃げるなどとできるはずがありません」
「それは立派な考えです。
「我々と同じですね。だからこそ私は…」
ディルクはそこまで言って急に口を閉じてしまった。
テーブルの上で開いたままにしてあったヒュースのスケッチブックに視線がいってしまったからだ。
(ヒュース…彼にも彼なりの矜持があり、自分を捕らえた
ヒュースの想いに対しディルクは「私は民草のためにすべてを捧げる」と言い切ることができなくなってしまった。
貧しい庶民であったヒュースを兵士として召抱えただけでなく、養子として迎えて家族同様の扱いをしているディルク。
彼に対してヒュースは主君に仕える家臣として以上に第2の家族として慕っている。
いや、本当の家族と別れたのは幼い頃だから父や母の顔などほとんど覚えていなくて、彼にとっての家族はディルクであり、夫人のマーナと息子のレクスこそが唯一絶対の家族となっていて、早く帰国して家族の元に戻りたいと願うヒュースの気持ちはツグミにも痛いほど良くわかる。
だからヒュースがディルクを生贄にしたくないと願い、彼女がその協力をするのはボーダーの利益と相反することがないのだから全力投球するのは当然なのだ。
「ディルクさん、あなたの貴族及び騎士としての誇りや義務といったものは理解できます。わたしはあなたのような高貴な身分ではありませんが、トリガー使いとして強大な力を持つ者ですから、その力を正しく使う義務があります。それを意識して日々任務に就いていますから、あなたの気持ちはわかるのです。ですがそもそもわたしがトリガー使いとなったのは大切なものを守るためで、その大切なものというのはわたしのこの手の届く範囲の中にいる家族や仲間との暮らしを維持すること。だってわたしのような小娘が世界のすべてを守るなんてことは不可能ですから、せめてわたしにできる範囲だけでもと考えています」
「……」
「わたしは家族や仲間を何より大切にしていますが、そんな人たちにいろいろと心配をかけたり不安にさせたりしてしまうことがあります。今回にこの
「…!」
「あなたが生贄になってこの国を維持できるとしても、残されたご家族や家臣のみなさんが残りの人生を泣き暮すようになってしまっては意味がありません。それともあなたの周りの人々はあなたがいなくても普通に生きていけるほど強い人間ですか? それともあなたのことをすぐに忘れて新しい暮らしを送ることができるような冷たい人たちですか?」
「……」
「ヒュースはなかなか自分のことを教えてくれませんでしたが、それは個人的なことであってもペラペラ話すことは情報漏えいに繋がるとして口を固く噤んでいたのでしょう。しかしあなたのことを心配し、自分の力だけではどうすることもできないと気付いた後は積極的に協力してくれるようになりました。あなたは彼の気持ちを知ってなお彼の想いを踏みにじるようなことをなさるおつもりですか?」
「それは…」
「そんなことをしたくないという気持ちは承知しています。ですが自分が生贄になることで救われる命があると思えばその人物のために身を捧げようと思いたくもなるものです。そうなるとあなたの犠牲の上に成り立つ自分の人生なんて糞くらえとヒュースは憤慨することでしょう。さらに自分の未来に希望を持てず、あなたを追って殉死するかも知れません」
ここまでツグミに言われっぱなしで反論できなかったディルクがやっと彼女に意見した。
「ではあなたは見ず知らずの赤の他人が犠牲になるのなら良いと言うのですか?」
するとツグミは迷わずに答える。
「いいえ。それが誰であっても犠牲になれば悲しむ人がいるわけですから『良い』とは言えません。本来なら
そう言ってツグミはディルクの目をしっかりと見据えた。