ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
翌朝、ツグミは迅とふたりだけでエリン家へと向かった。
再訪の理由はもちろんディルクから答えを聞くためであるが、その答えはもう迅にはわかっている。
それをツグミに話そうとしたが彼女は「直接本人から聞くのが
(ツグミは俺とは別の
迅だけでなくゼノンたちも同じ思いであった。
ツグミが自分の意思でやりたいことをやっているだけなのは理解しているが、その姿を見ていると不安になってしまうのだ。
だからこそ常にそばにいて見守っていたいと思うものの、迅はツグミのように「自分の手の届く範囲内の幸せ」のみを追い求めて全力を注ぐことはできない。
彼の
だから大規模侵攻の時のようにツグミの命に関わることであってもボーダーの利益を優先させなければならないのだ。
今回の渡航もツグミの行動が成功するか否かは別として、彼女が
(ツグミ本人がどんな結果になろうとも納得できるだろうから凹むことはなさそうだが、俺としては落ち込んだところを慰めてやるという男の包容力を見せることができない。せっかくいいところを見せるチャンスだってのにさ)
そんな迅の気持ちなど露知らず、ツグミたちは南門を顔パスで通り過ぎた。
前日にエリン家の客人として認定されていて、そのことが立哨当番の兵士にきちんと伝わっているからこそ呼び止められることはない。
そういった点でもディルクという主と兵士たちとの密な連絡ができているという証明でもある。
エリン家の屋敷に到着すると、昨日と同じくセリウスが出迎えてくれた。
どうやら何らかの手段でツグミたちがやって来たことが先に伝えられているようだ。
「ようこそいらっしゃいました。旦那様がお待ちでございます」
恭しくお辞儀をするセリウスの態度に昨日とはほんの少しだけ変化が見られた。
昨日はヒュースの無事を知らせるために来ただけでなく「他に何の用があるのだ?」という警戒心もいくらか含まれていた。
しかし今日はそんなものは微塵も感じられない。
主人の友人がはるばる訪ねて来たことを歓待するといった感じだ。
「本日は奥様とお坊ちゃまも同席していらしゃいます。そのお坊ちゃまなのですが…」
セリウスが少々言いにくいといった感で続けた。
「実は事情があって少々
「変わった格好…ですか?」
「見ていただければすぐにわかります。ですからその点には触れないようにお願いします」
「わかりました」
「ありがとうございます」
そう言ってセリウスは頭を下げた。
「では、ご案内いたします」
ツグミと迅は換装を解いたが今日はトリガーを預けることはなかった。
それだけ信用されているということの証である。
(この様子なら、ディルクさんたちと笑顔でお別れできるだろうな。仲違いして別れるのだけは嫌だもの)
会う前から別れの心配もないが、あと数時間でアフトクラトルを発たなければならないのは事実で、その時に気分良く出立できるかどうかはディルクの返事ではなくそれを受け入れるツグミの気持ち次第なのだ。
◆
客間ではディルクだけでなく彼の家族がツグミと迅を歓迎してくれた。
「ツグミ、ジン、良く来てくれました。今日は私の家族をご紹介します。彼女が私の妻のマーナ、そしてこの子が息子のレクスです」
ディルクが紹介をすると、続いてツグミと迅はそれぞれ自己紹介をした。
「はじめまして。霧科ツグミです」
「迅悠一です、どうぞよろしく」
するとマーナが待ちかまえていましたとばかりに自己紹介をした。
「わたしはマーナ・エリン。ツグミ、あなたのことをディルクから聞いて、早く会いたいと思っていたのよ」
「わたしもお目にかかれて光栄です、奥様」
「ううん、わたしのことはマーナって呼んでちょうだい」
「わかりました、マーナさん」
このマーナという27歳の女性は国近柚宇のようなゆるふわ系の少女が大人になった感じだとツグミは思ったのだが、このあと話をしているうちに中身は月見蓮のような聡明で理知的なタイプであることがわかる。
「さあ、レクスもご挨拶しなさい」
「…はい、お母さま。…ボクはレクス・エリンです。はじめまして」
レクスは両手でスカートの裾をつまんで軽くスカートを持ち上げ、腰を曲げて頭を深々と下げて挨拶をした。
これは「カテーシー」と呼ばれる女性が行うお辞儀の一種である。
ツグミは客間に入ってすぐにセリウスの言った意味に気付いていた。
レクスはれっきとした少年であるが、着用しているのは少女らしい淡いオレンジ色のドレスで、髪の毛も豊かで艶やかなブロンドがきれいに結われている。
それにうっすらとお化粧もしているようで、セリウスから話を聞いていなかったら驚いていただろう。
彼女の目の前にいるのはどこをどう見ても貴族の少女でしかないのだから。
(これ、いわゆる『男の娘』? でもすごく似合っていて可愛い…)
ツグミもレクスのマネをしてカテーシーを行う。
「わたしは霧科ツグミと申します。ヒュースからあなたのことは良く聞かされていましたが、こんなに可愛らしい方とは想像もしていませんでした。あなたにお会いできてとても嬉しいです」
するとレクスはディルクとマーナの方を振り返って嬉しそうに言った。
「お父さま、お母さま、この人はボクのことを変な子だって思っていないよ。本当に可愛いって言ってくれて、会えて嬉しいって」
「それは良かったな、レクス」
「良かったわね。一番好きなドレスを着ておしゃれをした甲斐があったわね」
「はい!」
部屋の隅にはお茶を淹れながら笑顔でこの家族の様子を見守るセリウスがいて、ツグミが彼の方をちらりと見ると彼はその気配を感じたらしく視線をツグミに移して軽く頭を下げた。
この一連の流れでツグミは感じ取った。
(エリン家に来客があった時、客の誰もがレクスくんの女装した姿を奇異の目で見て本人はひどく心を傷付けられたんだろうな。『男は男らしく、女は女らしく』なんていう旧時代の考えが一般的な世界であればレクスくんの女装は否定されるに決まってる。『ジェンダーレス』が浸透しつつある
ツグミのは「みんながそうするから」という考え方が嫌いで、人それぞれ自分の価値観で生きていくのが自然であると考えている。
しかし誰もが自分の価値観を優先してしまっては秩序の混乱を招くから法律とか規則といったものがあって個人の自由を制限しているわけで、彼女がメノエイデスで捕虜になったウェルスを逃がしたことは本人の正義であり、ボーダーの規則に違反することであったから素直に罰を受けたのであった。
そんな彼女だからレクスの女装も本人の意思であれば何の問題もなく、むしろ似合っているからいいのではないかとさえ思っている。
「皆様、お茶を淹れましたのでどうぞこちらへ」
セリウスが丸テーブルを囲むようにしてソファが置いてある一角に招く。
前日のように上座にディルク、その向かいにツグミと迅がいて、ディルクの左隣にマーナが腰掛けて、レクスはツグミの隣にちょこんと座る。
おまけに彼女の腕を掴んでいて、何も言わないが離れたくはないという意思が見て取れる。
レクスはツグミのことを安心できる存在と認めたらしく、このあと彼女が屋敷を出て行くまでずっとそばに付きっきりであった。
「さっそくですが昨日の提案の答えなのですが…」
ディルクは申し訳なさそうに言う。
「私は
ツグミも彼の答えに見当が付いていたので、静かに微笑みながら答える。
「ええ、それがあなたの出した答えなのですから心苦しく思う必要はありません。わたしたちは提案をしただけで、決断するのはあなたご自身です。なにしろあなたとエリン家のご家族の未来のことなのですから」
「そう言っていただけると気が楽になります。…私は階級が低いとはいえ貴族という身分にあります。本音は家族と家臣たちのためですが、建前としては祖国のために生きるということになっていますから、我が身に危険が迫っているとしても国を捨てて亡命するなどできはしません。いえ、短期間だけ身を寄せていつか帰国するということも許されません。そんな卑怯なことをしたくはないのです」
先代が叙勲を受けて貴族の一員となった時、ディルクはまだレクスと同じくらいの歳であったから、父親の生き様をまざまざと見せつけられて育ってきた。
若くして当主の座を受け継いた彼は父親のような立派な騎士として生きたいと願うものの、現実は彼の理想とはかけ離れている。
そして自分が
しかしツグミが「自分の手の届く範囲の幸せ」だけを追求することに後ろめたさを感じず、自分の犠牲によって家族や身近な人物が幸せになれるはずがないと説いたことで一時的に心が揺らいだのだった。
ディルクの話は続いた。
「昨日のあなた方がお帰りになる時点で私は亡命をしないことを決めておりました。しかし私ひとりで決めてしまうことができませんのでお時間をいただいて家族や家臣たちと相談をしてから最終的なお答えをしようと考えたのです。そして私はこの国に残ることにしましたが、マーナとレクスのふたりはあなた方の組織、ボーダーで保護していただきたいと思います」
「はい、おふたりが承知しているのであれば責任を持ってお預かりいたします」
「あまり驚かないのですね?」
「昨日いろいろとお話をしてあなたの人間性に触れてあなたが素直に亡命を受け入れるとは思っていませんでした。ここで亡命をしてしまったら二度とこの国には戻って来られない可能性があります。そうなれば家臣や領民のみなさんが頼るべき人を失ってしまうことになりますからね。それに本国の危機に自分たちだけ逃げてしまうあなたのことを軽蔑してしまうかも知れません。それでは『貴族である我々は民草のために戦うことを誇りとせよ』という家訓に背くことになりますから」
「…はい」
「ですが奥様と御子息まで危険な目に遭わせるのは避けたい。ボーダーの遠征がいつになるのかわかりませんがそう遠くない未来に
「できることなら市民を巻き込むような戦闘にならないようにしたいのですが、そちらにも深い事情がありますからそうもいかないでしょう。もちろん私や家臣の兵士たちはその時にハイレインから迎撃の命令を下されて戦わざるをえないのですが、そこはなんとか理由をつけてボーダーと敵対しないように努力します」
「その約束の意味も込めて奥様と御子息をわたしたちに託すということですね?」
「はい、そのとおりです。ひとまず
「ええ、どうやらわたしは御子息に気に入られてしまったみたいですからね」
「この子には特別な能力がありまして、他人の感情が色でわかるというのです。自分に好意的な相手は暖色系、そうでない者は寒色系の色の
ディルクの説明によればレクスはSE持ちであるのだろう。
それも影浦の「感情受信体質」に似たもので、相手が自分に向ける感情が視覚でわかるという能力。
遊真の嘘を見破る能力やテオのように相手の考えていることがわかる能力と同じように「便利だが知りたくないことまで知ってしまう」ものであるから、大人になれば上手く折り合いをつけて利用することもできるようになるが、子供にとっては
自分に笑顔で接近してくる相手の心の中が悪意で満ちていたら、幼い子供にしてみれば理解しがたい恐怖の対象でしかないのだから。
「もうおわかりのようにこの子は他の子供と違っていますから家族や使用人たち以外の人間にはできるだけ会わせないようにしていました。ですからあなた方に会わせることに少々ためらいましたがヒュースが気に入った相手ですから大丈夫だと判断したのです。まあ、ここまで気に入ってしまうとは想像もしていませんでしたよ」
「ですがまだ小さい御子息が父親と離れて暮らすことをよく承知しましたね? 母親と一緒であるといっても
「たぶん一時的に離れ離れになっても必ず再び会えると私が約束したことと、
「それならヒュースの気持ちは十分届いているということですね。彼もきっと喜びますよ」
「それに
ディルクはちらりとレクスの顔を見てから言う。
「この子は物心ついた頃から女の子の衣装に興味を持ち、そのせいもあって同じ年頃の子供たちと接する機会がまったくありません。親としては普通の男の子のようにたくましく育ち、いずれは私のように騎士爵を戴くに相応しい青年になったほしいと願っています。しかしそれが本人の幸せとは程遠いものであるのですから、この子がもっと大きくなってから自分の意思でどうしたいのかを判断させるつもりでいます。もっともいずれはこの子にこの家を継いでもらわなければならず、そのためにヒュースという養子を迎えたのです。彼は優秀な少年で、トリガー使いとしても将来有望な兵士となりました。いざという時には彼にエリン家の当主となるレクスの補佐役として働いてもらいたいと考えています。それにこの子はヒュースのことを気に入っていますから、彼を見習って男らしくなってくれるかも知れないという希望を抱いていもいるのです」
ヒュースがエリン家に引き取られた事情を聞き、ディルクの父親としての愛情と義務感をツグミは感じた。
しかし理由は他にもあったのだった。
「アフトクラトルでは3歳になるとすべての子供がトリオンの計測を行い、そこで数値の高い子供は
「……」
「レクスも3歳で計測を行ってトリオンの数値は平均以上あったのですが、
「つまり強制的に幼年学校に入学させられることになり、本人が望んでもいないのにトリガー使いにさせられてしまうことを危惧しているということですね?」
「もちろんそれもありますが、現在の私のトリオン能力よりも高いのですからこの子の命に関わる大問題となるわけです」
トリガー使いとして役に立たないがトリオン能力が極めて高いということになれば、ハイレインはレクスのことを惜しげもなく
今はまだ屋敷の中で守られて生きているが、9歳の計測が行われたらレクスは厳しい社会に放り出される。
真実を隠し通せるのはそれまでで、そのトリオン能力が世間にバレたら恐ろしいことになる。
ここでレクスを
しかし8歳の子供をひとりで知らない国に送り出すことはできないということで母親のマーナも付き添うことになり、ベルティストン家とボーダーの戦いに巻き込まれることもない。
マーナとレクスだけが亡命するという結果はボーダーにとって何の問題もない。
ふたりがボーダーの手の内にある以上はエリン家とその家臣団はボーダーの敵にはならず、ヒュースは戦力として役に立つだろう。
ツグミはマーナとレクスを利用する気はなく、城戸たちには人質だということにして彼女がマーナとレクスを自分の手で保護することは可能だ。
それにこのふたりだけならアフトクラトルでの
再び家族
「良くわかりました。未来がどうなるかわかりませんが、これが今わたしたちに考えうる最善の選択ということですね」
「そうです。ヒュースには詳しい事情を記した手紙を用意しましたのでこれを渡してください。彼らな私の立場や気持ちをわかってくれるはずです」
そう言ってディルクは封書をツグミの前に置いた。
「必ず本人に手渡しいたします」
ツグミは封筒をカバンに入れると微笑みながら言った。
「難しい話はこれでおしまいですね。そろそろレクスが楽しめるような話題に変えてお茶会を楽しみましょう」