ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
ツグミの隣でおとなしくしていたレクスは大人たちの話が終わると今度は自分の番だとばかりに会話に加わった。
その会話で気付いたのは、レクスが8歳という年齢の割に賢くて芯の通った子供であったということだ。
ツグミと同じように「みんながそうするから」という考えを嫌い、自分がやりたいことや好きなことが常識から外れていると言われても気にせず、女装だけでなく手芸や読書などを趣味としている。
そのせいで同世代の少年たちと交流することはないものだから友人はいないが、彼のことを理解し慈しんでくれる両親や使用人たちの中で健やかに育ってきたようだ。
姿が完璧な少女だから弱々しげに見えるものの、精神的には並の少年を凌ぐものを持っていると感じられるほどであった。
特に父親と離れ離れになるというのに泣いたり寂しいと口にすることはなく、エリン家の嫡子であるという矜持をしっかりと持っている。
もっともマーナとレクスがアフトクラトルを離れるのはツグミたちがキオンからの復路で立ち寄る時だからまだ30日も先になる。
別れの間際には泣くこともあるだろうが、それは8歳の子供として当然の成り行きだ。
マーナは庶民階級出身のトリガー使いであった。
9歳のトリオン計測で高い値を出したことで幼年学校に入学し、その時の教官であったエリン家の前当主に認められてディルクと出会い、18歳の時に結婚をしたそうだ。
その頃は夫婦でトリガー使いとしてベルティストン家に仕えていたわけだが、懐妊によって彼女だけが現役を去る。
そしてレクスが生まれ、貴族の夫人として、母としての人生を送ることとなったのだった。
ディルクによると彼女は見た目によらず非常に優秀なトリガー使いであったらしく、レクスが生まれたばかりの時には自分のトリガーと技を伝授する気でいたのだが、それが叶わないとわかった時には落胆したそうだ。
それでも息子が女の子のように愛らしく健やかに育ったことで、今では
マーナ本人は息子と娘がひとりずつ欲しかったそうだが、レクスひとりで両方を兼ねているようなものなので子供は彼だけで良いらしい。
もっともヒュースという優秀な息子がいるのだからそれで十分だろう。
ディルクの半生は短編小説が1編書けるほど波乱に富んだものであった。
彼の父親はベルティストン家に仕える下級の兵士であったために幼少時は庶民としての苦労があり、日々の暮らしに苦しむことはなかったものの、父親がトリガー使いとしてどれだけの貢献をするかで給与が決まるようなものであったから、遠征があれば家計が潤うことになる。
戦争を賛美する気持ちはないが、父親が戦争で活躍して褒美をたくさん貰ってくることが子供の彼にとって喜びであった。
幼くして母親を病気で亡くしているから父親だけが自分を守ってくれる唯一絶対の存在で、そういった点でも彼は父親の生き様こそが「正義」であると信じていたのだった。
ディルクにとって父親は偉大な存在であったから自分もいずれは父親のような優れたトリガー使いになりたいと一念発起し、父親の剣の師匠であったヴィザから剣を習うことになった。
トリオン能力が高く剣の腕が抜群であれば重宝されるのは当然で、父親の死後はディルクがエリン家の当主の務めを立派に果たしていたのだが、運の悪いことに
自分がトリガー使いであることを誇りに思い、祖国のために働くことができるのだから同胞のために死ぬことなど恐れてはいない彼だったが、そんな彼の姿を見ている夫人と息子の気持ちまでは考えていなかった。
そんな時にツグミたちがやって来て亡命の話を提案したのだった。
ディルクの父親は息子を男手ひとつで育てていくために
彼は自分の父親が祖国や同胞のために戦っていたと考えていたが、それは幼い頃の記憶を自分に都合の良いように改ざんしていただけ。
真実とは案外そんなものである。
所詮人間なんてものは自分を中心として手が届く範囲内のことだけで、他人のことにまで手を伸ばす余裕はない。
そしてその範囲内の大切なものを守る力があればそれだけで十分なのだ。
そんなことを言えば身勝手だとかエゴイスティックだと言う人間も現れる。
しかしそいつも全世界の平和やすべての人間に幸福を与えられるかと問えば答えに窮するはずだ。
ディルクもツグミに「あなたは何のために戦うのか?」と問われ、己の身を犠牲にしてでも守りたいのは家族であると気付かされた。
父親が自分を育てるために必死になって戦ってそのせいで死んだということになれば「自分さえいなければ父親は死なずに済んだ」と自らを責め、自分自身の存在を否定することになる。
そこで彼は父親の記憶を美化し、父親は祖国や同胞のために戦って死んだ英雄であると思い込むことで自分のせいではないということにしただけだったのだ。
ツグミに出会ったことでディルクは自分の父親と現在の自分を重ね合わせ、そこでやっと父親が誰のためでもなく息子である自分のために生きて死んだ事実から目を背けず正面から受け止め、自分も家族のために死ぬのではなく生きることが父親と同じ「正義」であるのだと言える
おかげでこの家族はディルクが生贄となり、残されたマーナとレクスが悲嘆に暮れるという最悪の結果を迎えることはないだろう。
エリン家の家族がプライベートな話をしてくれたことで、ツグミや迅もボーダーの隊務規定違反にならない程度に自分たちの過去や現在の状況などについて話をした。
お互いに
ツグミの父親が
半分であっても自分たちと同じ世界の人間、つまり
それもアフトクラトルと敵対していないエウクラートンの人間であるからすんなりと受け入れられるというもの。
レクスにいたってはツグミのことを姉のように思えてきたらしく、出会って1時間ほどでヒュースに対するものとほぼ同レベルの親愛度を得たのだった。
約30日後に再び来訪してマーナとレクスを連れて行くことを約束し、ツグミと迅はエリン家の屋敷を後にした。
◆◆◆
「まだ時間もあることだし、少し街の中を歩いてみないか?」
迅の提案にツグミは快諾した。
「ええ、大賛成です。できるだけ多くの人間を見ておけば後で役に立つかも知れないですからね。わたし自身も
何度か遠征に参加したとはいえ、留守番か郊外の野原くらいしか歩いたことがなかったものだから、
だから短時間でも自分の目で見ることができると思うと彼女の胸は高鳴るのだ。
「人が多いところなら市場かな? たしか南門までの途中に屋台が並んでいる広場があったから、そこに立ち寄ってみませんか?」
「そうだな。ゼノンから金を預かっているから何かいいもんがあれば土産に買って帰ろう」
重要な仕事を終えた後だからふたりとも少し気が緩んでいたのかも知れない。
だからこそ突然の「敵」の出現にさすがのツグミも動揺してしまったのだった。
ツグミたちが訪れたのは「南市場」と呼ばれる市民市場で、野菜や肉といった食材だけでなく日常で使う道具や衣類など幅広い種類の品物を売っている。
裕福な商人は大通りに店を構えているが、それ以外の商人や近郊の村から農作物を持って来る農民などは広場に屋台を設置して販売を行うのだ。
この城郭都市に住む市民は比較的恵まれているようで並んでいる商品の品質は良く、品揃いも日常生活に不自由はないと思えるほど多い。
(ふ~ん…野菜や果物は
ツグミはそんなことを考えながら屋台の野菜のチェックしている。
迅は商品などに見向きもせず、商人や買い物客の顔を見ながら歩いていた。
彼の
よってツグミとは違い品揃えよりも人の多い屋台を回って行った。
(調理をしないと食べられない野菜ばかりね。お土産にするならすぐに食べられるものがいいんだけど…。肉の串焼きとかハムやサラミを挟んだパンなんかがあったらテオくんが喜びそう)
ツグミが食べ物屋の屋台を探そうとして周囲を見回したのだが、その時に「今この世界で絶対に会いたくない人物」の姿を視界に入ってしまい、一瞬硬直してしまった。
動悸が激しくなり、冷や汗が頬を伝う。
(どうしよう…。今ここで見付かったら全部水の泡になっちゃう!)
彼女の視線の先にいた人物はハイレインであった。
大規模侵攻の時とは違って貴族らしい質の良い普段着を着ていて、その隣にはランバネインの姿もある。
ツグミはランバネインとは面識はないものの、資料映像でその姿を見ているから間違いない。
もしここで正体がバレてしまったら一巻の終わりであるから緊張してしまうのも無理はないのだ。
(下手に妙な素振りを見せたらダメ。今はトリオン体でまったくの別人の姿をしているんだから大丈夫)
自分にそう言い聞かせるが、やはり動きがぎこちなくなりいつもの冷静さを失う。
戦闘用の
しかし迅と別行動していたせいですぐには城外に出ることはできず、ツグミは屋台の陰に隠れてハイレインたちをやり過ごそうとした。
どうやらハイレインとランバネインは城下の視察をしているようであった。
市民と親しげに言葉を交わしているところをみると市民からは慕われているらしい。
ボーダーやツグミたちにとっては憎むべき敵であるふたりだが、城下の市民にとっては良き領主であるようだ。
(領民に慕われる領主の姿…それがあの男の本当の姿なのか、それとも好かれるように演技をしているのかはわからない。でもこの様子じゃ自分の部下や領民の中から生贄を選ぶことはできるだけ避けたいと思うのは当然だわ。だからといって他の貴族の支配するエリアから人をさらってくることもできない。
ツグミには権力を握ってすべてを支配したいという気持ちがないから、そういう野心家の気持ちなどわかるはずがない。
しかしハイレインたちと会話をする市民の姿を見ていて、彼女はふと考えてしまった。
(わたしは自分を中心として手の届く範囲内の幸せを望んでいるだけ。でも今のわたしは
ハイレインのことを100%善人に見えるフィルターを掛けて見てみると、彼が権力を握りたいのは自分のためではなく自分を支えてくれる国民の幸福を追求するためだと考えられなくはない。
力があればその分多くのものを守ることができるのは事実で、ツグミが訓練を積んで
ただし力を持つということはその使い方に責任を持たなければならないということで、その力は正しく使わねばならない。
(あの男は自分の国のために自分にできることをやっているのだろう。それが
ツグミはつい真剣にいろいろと考えてしまい、一刻も早くこの場を立ち去らなければいけないということをうっかり忘れてしまっていた。
そのうちにハイレインが市場の中を巡回してツグミたちのいる屋台に近付いて来る。
どうやらランバネインとは別行動となったようで、今はハイレインひとりしかいない。
(あ、こっちに来そう。場所を移動しなきゃ)
ツグミはハイレインのいる側と逆の方向に移動しようとしたが、その先は屋台がコの字型に並んでいるものだから行き止まりになってしまっていた。
つまり行き止まりの一本道であるから、この場を去るには素知らぬ顔でハイレインの脇を抜けて行かなければならないのだ。
屋台の店主や客たちは誰もがハイレインに挨拶をしているから、ツグミも同じようにしないと疑われそうである。
彼女は周囲の人間の所作を見て完璧に地元民を演じることでしかこのピンチを回避する方法はない。
次第にハイレインが近付いて来て、とうとうツグミの前までやって来た。
ツグミは片足を斜め後ろの内側に引き、もう片方の足の膝を軽く曲げ、背筋は伸ばした状態で礼をする。
(よし、これなら…)
ツグミはいろいろな人間を観察した結果、若い女性がやったものと同じ所作で挨拶をした。
怪しまれない自信はあったのだが、なぜかハイレインは彼女の顔をじっと見下ろして言う。
「そなた、さっきから俺のことをずっと見ていたようだが、何か用でもあるのか?」
隠れて見ていたのだからツグミの姿は見えていなかったのだが、ハイレインは彼女の視線を感じ取ったのだろう。
ここで下手に隠しだてすれば怪しまれるどころか不敬とされて罰せられるかも知れないと、ツグミは咄嗟に真実と嘘を混ぜた芝居をすることにした。
「申し訳ございません。わたしはこの街ではなく別の村に住んでおります。街へ出て来ることは滅多にないので少し浮かれていました。そこにハイレイン様がいらしてそのご尊顔を拝することができましたので、つい…」
「そうか、他所から来たのか。それで何のために来たのだ?」
「知人の見舞いでございます」
「ほう…その知人とやらの具合はどうだったのだ?」
「もう心配はいらないようです」
「それは良かった。…ところで俺は以前にそなたに会ったような気がするのだが、それがどこだったのか思い出せぬ。そなたは覚えているか?」
「い、いえ…初対面です。貴族の方と口を利いたのはこれが生まれて初めてのことですから」
ハイレインは納得できないという顔になる。
「そうか? …しかしその気配、記憶に残っているのだがな」
それはそうである。
ツグミは姿こそ別人になっているものの、中身は
「そなた、名前は何という?」
突然名前を訊かれたツグミ。
こんな状況になるとは想定していなかったから偽名など考えていなかったのだが、不思議と口からひとりの女性の名前が出た。
「パメラ、でございます」
パメラ…それはかつてツグミが救おうとした女性の名前である。
祖国プラーヌスに
ツグミはこの時の記憶を消されてしまい覚えてはいないはずなのだが、印象深い出来事であったため脳裏の片隅にこの名前が深く刻まれていたのだろう。
ツグミも自分で言ったことなのにわけがわからないのだが、ハイレインを前にしてそれどころではない。
「パメラ、当然そなたは9歳のトリオン測定は行っただろうな?」
「はい」
「それでその数値は?」
「恥ずかしながら…マイナス2でございます」
アフトクラトルでは3歳と9歳でトリオンの計測を行うことをディルクから聞いていたから慌てることはなかった。
そして標準をゼロとし、それより多いか少ないかを数値で表わす。
トリガー使いとして役立つためにはプラス10以上ないとダメで、ツグミの言ったマイナス2ではかろうじてトリガーを起動できるというレベルになる。
「ふむ、そんなものでは役に立たないか…」
「はい、わたしには畑を耕すくらいしか能はありません」
ツグミは自分の
するとハイレインが怪訝そうな顔をして言う。
「そなたは農民か。その割にはあまり手荒れが見られないな。美しい手をしている」
「え? …それはきっと普段から手入れをしているからです。わたしの夫が指のきれいな女性が好みだと言うものですから」
「ほう、そなたは既婚者であったか。ならば屋敷まで連れて行くわけにもいかぬな」
「は?」
「当然だ。未婚の男が既婚の女性を屋敷に招くなど人道に叛くこと。さすがに何人もの人を殺めてきた俺でもそれだけはできぬ。未婚であれば手元に置きたかったが、それは叶わぬか」
「……」
ハイレインにとってツグミはトリガー使いとしてだけでなく女性としても
あからさまに嫌な顔もできず、ツグミは微妙な笑みを浮かべた。
そこに救いの神が現れた。
もっとも神というよりもボーダーにとってはハイレイン同様の悪魔…いや鬼なのだが。
「兄者、そんなところで何をやってんだ? …おや、可愛いコがいるじゃないか」
「ランバネイン、どこへ行っていた? ん? またおまえは買い食いをしていたな。口の端に何か付いているぞ」
「ああ?」
ランバネインは指で口の端を拭った。
「あー、これはさっき串焼きの屋台の女のコに1本貰って食べた時に付いたんだな。けっこう美味かったぜ。兄者もどうだ?」
「いや、俺はいい。視察はこれくらいにしてそろそろ屋敷に帰るぞ」
ランバネインの様子に興ざめしたのか、ハイレインは視察を終わりにしようとする。
「もう帰るのか? もう少し見て行こうぜ。それにこの娘はどうすんだ?」
「その女はもう娘じゃない、人妻だ。手を出すなよ」
「そうか、 そりゃ残念だな。兄者にはミラがいるが、俺にはまだ ──」
「何をグズグズ言っているんだ? それにミラのことはまだ俺と決まったわけじゃない。おまえにも可能性はあるんだぞ」
「いいや、俺は遠慮しておくぜ。彼女は兄者に任せるよ」
「俺も彼女はお断りしたいところだ。まあ、その話はまたゆっくりとしよう」
ツグミは目の前で意味のわからない兄弟ゲンカを始めたふたりを黙って見ているしかない。
すると彼女を探していた迅がやって来た。
「ここにいたのか…。おまえはすぐに迷子になるんだから、俺から離れるなといつも言っているだろ」
「ごめんなさい、あなた」
ツグミは即座に夫婦っぽい芝居を打って返事をした。
これは逃げるチャンスである。
ツグミはハイレインとランバネインに向かって深く頭を下げた。
「主人がまいりましたので、これで失礼させていただきます」
そう言うやいなや、ツグミは迅の手を握って全速力でその場を後にする。
そして南門を出たところでやっと足を止めて呼吸を整えた。
「ハァ…ハァ…危機一髪だった。まさかあのふたりに会うなんて想像もしていなかったし、姿を変えたのにあの男に『以前に会ったような気がする』なんて言われて心臓が止まりそうになっちゃった。上手く誤魔化せたと思うけど、長居は無用。早く帰りましょ」
ツグミは散々な目に遭ったことと土産を買いそびれたことで少々ご機嫌斜めだが、この一件は迅によって仕組まれたことだった。
迅がエリン家の屋敷から真っ直ぐに帰らずに寄り道したのはハイレインたちが市場の視察をする未来が視えたからである。
ここでツグミと顔を合わせても本人とバレることはない上に、彼女にとって意味のあることだと判断したからだ。
いずれその「意味のあること」がどんなものかわかるのだが、それはもう少し先のことになる。