ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
城郭都市内でのハイレインとの邂逅でツグミは少々慌てたが、ディルクとの密談に成功したことでアフトクラトルでの工作は満足のいく結果に終わった。
その間にゼノンたち3人はトリオンの抽出だけでなくアフトクラトルの国内情勢についてそれぞれが分担して情報収集をしていた。
ベルティストン家以外の四大領主たちの動向についてはそれぞれの城下に住む市民の噂話と、それの裏付けによるものである。
限られたわずかな時間でこれだけの情報を手に入れたのだから、さすがはキオンの腕利き諜報員だといったところだ。
現在は四大領主のうち前回の「神選び」で選ばれた人間を探し出した「コヴェリ家」当主が「王」になっていて、次の神を探し出した者が次期王となれるのだから、ハイレインが必死になってトリオン能力者を探しているのも当然である。
今のところどこの家でも神候補は見付かっておらず、それぞれがベルティストン家同様に他国に侵攻して食料や物資の略奪や市民の拉致など非道なことをやっているようだ。
そしてどの街でも市民の間に「近いうちに貴族同士での争いが起きるのではないか」という噂が流れているそうだ。
ただし何の根拠もなく「誰かがそう言っていた」というものばかりで、ゼノンたちの推測だとお互いに敵対する相手の城下へ工作員を送り込み、根も葉もない噂を流して市民の不安を煽り立てているのではないかというものだった。
そこでツグミは腑に落ちた。
ベルティストン家の支配する城郭都市の城壁が高さを増していたのは敵 ── ボーダーに対してではなく敵対する貴族たち ── からの攻撃から街を守るためで、そうして準備万端であることを市民に見せることで安心させ、さらにハイレインたちが城下で市民の様子を視察していたのは市民に「我々の領主様は下々の者のことも考えてくださっている」と思わせるためであったのだ、と。
そうなると戦力となるディルクを失うことはできず、ギリギリまで生贄となる人間を探して最悪の場合のみ彼を次の「神」にするだろう。
もし貴族同士が戦っているタイミングでボーダーの遠征部隊がアフトクラトルに到着すると面倒なことになりそうだが、本隊の出発の前に先遣隊を出すことでトラブルは防ぐことができるはずだ。
太陽の勢いが衰え始めたことで天候不順が起き、日照量が減っただけでなく降雨量も減ったようで作物の収穫量が減少してしまったらしい。
今後は気温の低下や地面の乾燥化などが顕著になり、そう遠くない未来に太陽はアフトクラトルの大地よりも先にその寿命を終えることになるだろう。
人々の生活にまだ目に見えるような変化が表れていないようなのは、食料品が不足していてもガロプラやロドクルーンのような従属国から徴収していることでアフトクラトルの国民には動揺を与えないようにしているのだろうとゼノンたちは考えている。
とはいっても政治の中枢に近い人間は事実を知っているので、中には希望のない国に見切りをつけて新天地で再出発しようという者も現れる。
事実、とある下級貴族の一家とそのお抱えのトリガー開発の
この事件によってアフトクラトルのトリガー技術が他国に流出する可能性があるものの、ここで事件を公にして騒ぎ立ててしまえばその方がデメリットとなるためにコヴェリ家はすべてライバル貴族による悪意のデマとして片付けてしまうことにしたのだった。
アフトクラトルの
普通の国なら
厳選されたトリオン能力者を生贄にすることで現在の国力を維持しているのだから
ギリギリまで神候補を探すのだろうがタイムリミットが近付けば近付くほど国内は混乱し、他国が侵攻してくる恐れがある。
もっともアフトクラトルに戦いを挑んでくる国はほとんどないだろうが、このチャンスをキオンが見逃すはずがない。
ゼノンたちの話ではキオンの元首は世界の支配者になりたいというのではないが、強大なひとつの国が
途方もない話だし、それを誰もが望んでいるわけではないので実行することが正しいのか間違っているのかツグミにはわからないが、少なくとも戦争をなくそうとしているという考え方に彼女は賛成である。
問題になるのは手段で、無辜の民に血が流れないのであれば為政者どもに多少の犠牲が出ても仕方がないと考えている。
その成果が現れるか否かはキオンの「総統閣下」が彼女の言葉に耳を貸すかどうかが問題だ。
もっともツグミには秘策があるようで、あまり心配はしていないようである。
そして予定どおりツグミたちはアフトクラトルを離れた。
◆◆◆
アフトクラトルを離れて約30時間後、ツグミの枕元に置いてあったデジタル時計のアラームが小さく鳴った。
時刻は4月9日午前0時を示している。
時間の単位の秒や分、時間といったものはほぼ同じなのだが、国によって1日が20時間だったり40時間だったりと大きく違うので、特定の国に滞在する場合はその国の時間や日付に合わせるが、艇の中では
だから今、三門市は4月9日になったばかりということだ。
深夜であるから全員就寝中であるのだが、あえてこの時間に起床したのには意味がある。
トントン
彼女の部屋のある倉庫のドアをノックする音がした。
「どうぞ」
ツグミが声をかけるとドアが音もなく開き、たくさんの荷物の隙間をぬって迅がやって来た。
「いらっしゃい、ジンさん。そしてHappy birthday」
「ありがとう、ツグミ。俺もこれでとうとう二十歳だ」
「そうですね。二十歳になったという大事な記念日なのに、こうしてふたりだけなのは不本意なんじゃありませんか? 去年みたいに玉狛のみんなにお祝いしてもらいたかったのでは?」
「そんなことあるものか。俺はおまえがいてくれさえすればそれで十分だ。それに去年と今年は全然違う。去年のおまえはボーダーの仲間で妹のような存在だったが、今年はおまえが俺の恋人となって初めての誕生日。むしろふたりだけでこっそり祝えるんだから俺はとても嬉しいよ」
「そう言ってくれると安心します。でも艇の中なのでケーキやご馳走を作ることもできないです。だからせめて何かプレゼントをしようと思ったんですけど、成人のお祝いに相応しいものが見付かりませんでした」
「別に気にするなよ」
「今のわたしに用意できることはこの身体だけ…」
そう言ってツグミは迅の手を引っ張ってベッドの端に腰掛けさせた。
「ジンさんになら全部あげてもかまわないって、心の準備はしてあります」
ツグミは握ったままの迅の手を自分の胸に導く。
「心臓がドキドキしているのがわかりますか? プレゼントを何にしようか真剣に考えていて、やっとこれしかないと思いついたんですが…すごく恥ずかしいんです。ジンさんを呼び出してはみたものの、今でもどうしようか迷っているくらいですから」
深夜に恋人とふたりきり。
場所はロマンチックとは言い難いが少しくらい物音を立てても外に音が漏れない密閉された空間で、さっきまでツグミが寝ていて彼女のにおいと温もりの残っているベッドに身を寄せ合って座っているというシチュエーション。
「全部あげてもかまわない」
「心の準備はできていました」
恋人からこんなセリフを言われたら、この後の展開が「R-18」になりそうだと誰でも妄想するに決まっている。
迅は心身ともに健康で女性の尻を愛する青年であり、普段からツグミのあられもない姿を想像してはひとりで慰めていた。
それがとうとう実現しようとしているのだ。
「おまえのプレゼントならどんなものだって嬉しいよ。恥ずかしがらなくていい、俺は全然気にしていないから」
迅がツグミを安心させるように言うと、ツグミは緊張を和らげて微笑んだ。
「よかった…。ジンさんならそう言ってくれると信じていたんですけど、やっぱり本人の口から聞かないと不安で緊張してしまいました。ちょっと待ってくださいね」
そう言ってツグミは立ち上がると、ベッドの下に置いてあった私物入れのチェストの引き出しの中から封筒を取り出して、それを迅に手渡した。
想定していなかった展開に迅が怪訝そうな顔をして訊く。
「これ…何? 開けてみてもかまわないよな?」
「もちろんです。でも絶対に笑わないでくださいよ」
迅は白い無地の封筒を開く。
その中には名刺サイズのカードが3枚入っていて、そのいずれにも「ジンさんのお願いを何でも叶える券」と大きく手書きで書かれており、その下には「有効期限:死がふたりを分かつまで」と結婚式での宣誓の言葉のようなものが書かれている。
それを見た迅は一瞬固まってしまうが、おかしくなってつい吹き出してしまった。
「プッ…」
「笑わないでって言ったじゃないですか!」
「だけど、これって小学生が母の日にプレゼントする定番のお手伝い券とか肩たたき券とかっぽくて、何だか可愛いなって思ったんだよ」
「ジンさんには大好物のぼ〇ち揚げをあげた方が喜ぶとは思ったんですけど、一生に一度の二十歳の誕生日なんですから印象に残る記念品にしたいと考えた結果なんです。やっぱりぼ〇ち揚げの方がよかったですか?」
口を尖らせて言うツグミ。
その顔があまりにも可愛らしかったものだから、迅は思わずキスしてしまう。
(このまま押し倒してしまいたいけど、今はこいつの気持ちを大切にしたい。だからキスだけにしておこう)
自制心が働いて、軽く唇を重ねただけのキスで済ませた迅はツグミの目を見つめて言う。
「最高のプレゼントだよ、ツグミ。だけど3枚だけじゃ使いどころが難しいな」
「お願いというものは昔から3つと相場が決まっているものなんですよ。それに普通のお願いならこの券なしでも叶えてあげますから」
「つまりこれを使うということは他に手段がなくてどうしようもない状態になった時、ってことだな?」
「ええ。だから使わずに済めばその方がいいってことで、そんなことにならないようにお守り代わりに持っていてほしいというものなんです」
「わかった。いつまでも大事に肌身離さず持っていることにするよ。…しかしさっきの思わせぶりな言い方は何だ? ヘンな期待をしちまったぞ」
そう迅に言われてツグミは視線を反らせて答えた。
「だって…これを目の前に突き出されて『おまえのすべてが欲しい』とか言われたら断れないじゃないですか! だからそうなった時のことも考えて、覚悟を決めてからこの券を作ったんですよ。『お願いを何でも叶える』というのはあなたの願いを叶えるためならどんなに理不尽なことでも、自分の信念に背くことであってもやるということ。半端な気持ちじゃないんです」
「ツグミ…」
迅はツグミの「ジンさんお願いを何でも叶える券」はジョークで作ったものだと思ったのだが、ツグミにとってはこれ以上ないというくらい真剣なものであった。
本来なら迅の好物やケーキを作ってお祝いをしたかったことだろう。
彼の誕生日が
ツグミにとって苦渋の選択とまではいかないまでも、迅に十分なお祝いをしてやれないという後ろめたさを感じていたのは事実である。
そこで悩み抜いた末に出した答えがこれなのだ。
それだけ自分のことを愛してくれているのだと感じた迅の目には嬉し涙がこみ上げてきた。
そして同時にひとつの疑問が浮かび上がってきたものだから何気なくツグミに尋ねてみる。
「もし俺じゃなくて忍田さんだったらこの状態でどんなプレゼントをしたのか教えてくれる?」
するとツグミは照れ臭そうに笑いながら言う。
「もちろん『肩たたき券』ですよ。アフトクラトルの大侵攻からずっと忙しくてゆっくりと身体を休める暇がないんですもの。『肩たたき券』だけでなく『マッサージ券』も付けたいですね」
「忍田さんはおまえにとって父親枠だもんな」
「そうです。だから真史叔父さんと張り合おうとしたり嫉妬しても意味ないですよ。あの人はわたしにとって最高の男性ですけど、永遠に父親以上でも以下でもないんですから」
「ああ、心に留めておくよ。…それでもうひとつ訊きたいんだけど、ハグしたいっていうのは普通のお願いで叶えてくれるのかな? それともこの券を使わないとダメ?」
するとツグミは当然といった顔で答えた。
「普通のお願いでいいに決まってます。ただし今みたいにふたりきりの時に限りますけど」
「じゃあ、これは使わなくてもいいんだな?」
そう言って迅はツグミを両腕でしっかりと抱きしめた。
「あと4年経っておまえの二十歳の誕生日、忍田ツグミを卒業して迅ツグミになる時に俺も『ツグミのお願いを何でも叶える券』をプレゼントするよ。もちろん有効期限は死がふたりを分かつまで、でさ」
「はい、楽しみにしています」
迅の愛情に応えるように、ツグミも腕を彼の背中に回してぎゅっと力を入れた。
◆
迅がツグミと一緒にいたのは30分ほどであったが、彼が居住室を出て行ったことに同室のゼノンたちが気付かないはずがない。
バレないように静かに出て行ったように戻る時も足音を立てずにいたのだが3人ともしっかり起きて迅のことを待っていた。
そしてどこに行って何をしていたのか尋問されツグミと一緒にいたと白状させられた。
もちろん誕生日のプレゼントを貰ったという話をしただけで、その先のことは秘密である。
そしてその内容が真実であることはテオのSEによって証明されたことで迅は無罪放免として無事に自分のベッドに戻ることができたのだった。
しかしそれはテオが気を利かしたからである。
迅はツグミとキスやハグをしたことを秘密にしていたが、隠しごとをしたところでテオにはそういうこともなんとなくわかってしまう。
ただそのことはゼノンとリヌスには告げられずテオの胸に収められている。
(ツグミとジンは本気だもんな…。残念だけどこのふたりの間にリヌスの入る隙なんてない。やっぱ一緒にいた時間という壁には敵わないよな。それはリヌス本人もわかっているだろうけど、だからって本当のことを教えるなんて残酷だよ。だからこれはジンのためじゃなくてリヌスのためだ。まあ、これでジンに
◆◆◆
再び退屈な遠征艇の中での生活となった。
三門市を発ってから途中メノエイデスに寄港してアフトクラトルまでの行程が約90時間だったのに対し、今度は次の寄港地までの約120時間を艇の中で過ごさなければならない。
何かやることでもあれば暇潰しにもなるのだが、艇の中という狭い空間にいてはできることも限られてくる。
おまけに普段の生活に比べて不便になることが多く、特に運動不足になってしまう。
それではストレスが溜まってしまうのは無理もないことで、そうなることが予想されていたためツグミは
これもまた彼女が開発室の
もちろん普通のサンドバッグではなく、合皮やポリウレタンにトリオンを混合した素材でボディを作り、その中に砂か水を入れて使うものだ。
トリオンを30%混ぜているから生身ならどんなにハードに使用しても破損することはなく、運動不足解消とストレス発散の一石二鳥となる。
ツグミを含めて全員が兵士であってもトリガー使いであるから肉弾戦にはならないのだが身体を鍛えておくことは重要だ。
それはレイジが同輩や後輩たちに自らの行動で示している。
ツグミは別に筋肉を欲しいと思わないが、怠惰な生活が続けば人として堕落への道へ一直線となるだろうからと、1日1時間はサンドバッグ相手に汗を流している。
それを見ていた迅やゼノンたちもマネをしてトレーニングをするようになった。
そのことは良い傾向なのだが、全力で運動すれば汗まみれになる。
しかし艇に積める水の量は限られているのでシャワーの浴び放題はできず、従って汗をかいたら濡れタオルで拭うしかないのは非常に不自由と言える。
狭い艇内で汗臭い野郎どもが顔を突き合わせている様子を想像するのは悪夢のようなもので、トレーニングの時には生身の身体だが、それ以外の時間はトリオン体で過ごすことに決まった。
この方法なら3日に一度のシャワーで済ますことができるので節水となるわけだ。
そして艇の中に長時間缶詰になるというのは必要なものがあっても手に入れることができないということ。
あらかじめ様々なものを用意して積み込んであるが食料であれば常温で保存できるものばかりとなり、生ものは寄港した国で手に入れるしかない。
それに満足な調理機器や道具がないので、料理自慢のツグミであってもその腕を振るうことができないのだ。
そうなると栄養バランスが崩れた食生活となり健康に良くないのは明らかで、彼女は前もって青汁などの栄養補助食品やサプリメントなどを持ち込んでいた。
いろいろと不便なことが多い暮らしであるが、狭い艇内における長期間の集団生活の経験はいずれ行われるボーダーのアフトクラトル遠征にも役立つものとなるはずだ。
ツグミはその経験を日記として記録していて、帰還した際には報告書と共に城戸に提出するつもりでいる。
そして迅の身体に少々だが筋肉がついてきて、ゼノンたちが青汁の味に慣れてきた頃、艇は目的地のキオンに到着したのだった。