ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
「明日、おまえに特別休暇をやる」
突然ツグミは林藤から特別休暇を言い渡された。
「これは支部長命令だ。異存はないだろ?」
「もちろんです、
自分から休暇申請しようとしていたところだから、ツグミにとってはもっけの幸いである。
「よし。じゃ、明日はゆっくり親父さん孝行してこい。忍田のヤツもやっと休みを取る気になったようだしな」
「ええ。真史叔父さんは自分の身体のことよりもボーダーと三門市民のことが優先してしまうから困るんです。わたしに休みを取るよう説得しに来たみたいですけど、結局叔父さん自身が説得されるなんてあべこべですよ。でも休んでくれるようになってホッとしました」
「そうだな」
「じゃあ、明日は真史叔父さんに朝ごはんを作ってあげたいので、朝早いうちに実家に帰ることにします。…では、失礼します」
そう言ってツグミは支部長室を出た。
そんな彼女の背中を見ながら林藤は苦笑した。
(あいつらは仕事熱心なのはいいが、自分が働き過ぎで周囲に心配かけてるってことに気付きゃしない。ったく良く似た父娘だぜ)
忍田が自発的に休暇を取る気になったのはツグミのおかげである。
しかしツグミが自ら休みを
これまでツグミは大規模侵攻の直後だからとか、レイジたちは弟子の指導で忙しいからなどと理由を付けてずっと働き詰めだった。
そんな彼女に休みを取らせようとした林藤が忍田を利用して「休みを取らなきゃ」という気持ちにさせた、というのが真実である。
ツグミと忍田を強制的に会うようにお膳立てしたのが林藤で、ふたりは林藤の策略にまんまと乗せられたというわけなのだ。
◆◆◆
翌朝、ツグミは朝稽古を済ますと玉狛支部を出た。
食材と新しい肌着などを入れたリュックを背負い、高校入学の祝いにと忍田が買ってくれたクロスバイクでツグミは早朝の街を疾走して行く。
忍田は実家に帰って来やすいようにと買ってやったのだが、彼女は
年末に里帰りした時に彼女が使ってくれたのを見て忍田は嬉し涙を零していたのだが、そのことをツグミ本人は知らない。
(天気予報では今日は一日晴れだっていうからホントに良かったわ…。おばあちゃんがいないから洗濯はコインランドリーを使ってるはずだけど、たぶんそれもしないで10日分くらい溜め込んでいるって気がする。
そんなことを考えながら30分ほどかけてやっと忍田家に到着した。
ツグミは合鍵で玄関ドアを開けて中へ入る。
(真史叔父さん、まだ寝てるみたい。まだ7時前だもの、仕方がないわよね。とりあえずいつ起きてもいいようにご飯を炊いておこうっと)
ツグミは台所へ行くと、しばらく使われていなかったと思われる炊飯器に米と水をセットし、持って来た食材を冷蔵庫に入れるために扉を開けた。
(あ…やっぱり。何にも入ってない。ビールすらないってことは、しばらく帰って来てないって証拠だわ)
続いてゴミ箱を覗いてみた。
(コンビニ弁当のカラが…1…2…3……6。一番新しい消費期限の日付が…1月18日、たぶんそれ以降は本部詰めだったのね、きっと)
さらに脱衣所へ行ってみる。
すると紙袋4つにシャツや肌着などの洗濯物が詰められているのを見つけた。
(想像はしていたけど、マジで1週間以上帰って来てなかったわね)
最後に2階の忍田の部屋へと向かった。
そして襖越しに忍田にそっと呼びかける。
「叔父さん、起きてますか?」
返事はない。
「叔父さん、開けますよ」
そう言ってツグミが襖を開けると、ベッドの上で爆睡している忍田の姿を見つけた。
背を丸めて眠っている様子は虎というより猫のようだ。
(この様子じゃもうしばらく寝かせておくべきね。先に洗濯物を済ませちゃお)
ツグミは洗濯機の中に忍田の衣服を放り込んでいくうちにヤバイものを見つけてしまった。
「ヤダ…靴下の組み合わせがおかしい」
靴下は10足分あるのだが、正しい組み合わせは8足分しかない。
残りは白2枚と濃紺1枚と黒1枚。
白は2枚あるが材質が違うから正しい組み合わせではない。
濃紺と黒では正しい組み合わせではないことは一目瞭然だ。
「はあ…。これって左右違う靴下を履いていた日があるってことじゃないの」
ツグミは大きくため息をついた。
(やっぱり早くお嫁さんをもらわないとダメだわ、これじゃ…)
ツグミが中学卒業と同時に忍田家を出た理由はいくつかあるのだが「自分のような大きなコブ付きじゃお嫁さんが嫌がる」というのもある。
彼女は忍田の気持ちを良く知っているから、自分の意思で忍田の籍に入った。
自分は忍田真史の娘であり、彼のことを大好きだという気持ちを形にしたかったためだ。
そしてその大好きな忍田に早く結婚して幸せになってもらいたいという気持ちが、彼女に忍田家を出る覚悟をさせたのだった。
(叔父さんってばすぐ近くに素敵な女性がいるのに気付かないんだからダメよね。叔父さんを任せても安心できる
本部長補佐という忍田にもっとも近いポジションにいる沢村響子(さわむらきょうこ)とツグミは姉妹のような関係である。
沢村が忍田に恋心を抱いているというのはツグミ以外にも何人かの人間は知っているが、忍田本人はまったく気付いていないようだ。
気付かないフリをしているという可能性もなくはないが、忍田の性格上「気付いていない」とツグミは確信している。
(沢村さんだったらいい奥さんになれると思うんだけど、叔父さんが気付くまで待ってたらふたりともオジサンオバサンになっちゃう。沢村さんも自分の気持ちを押し殺して任務優先だからいつまで経っても進展しなさそう。ここはわたしが後押ししないとダメなんだけど…)
ツグミは沢村にもっと積極的になってほしいと考えているのだが、彼女自身が恋愛経験ゼロの少女であるから具体的にどうしたらいいのかわからないのだ。
とにかく忍田たちの「ボーダーの上司と部下」の関係は非常に良好であるから、何かのきっかけさえあれば良い方向へ進むに違いないツグミは考えている。
ひとまず忍田と沢村のことは放っておいて、今自分のやるべきことをやることにした。
大量の洗濯物を片付けてしまうと、今度は家の掃除を始めた。
半月以上掃除をしていないのでゴミやチリは溜まっているし、何より換気ができていないからほこりっぽい。
洗濯と掃除が終わったのは10時半。
そして忍田が寝ぼけ眼で台所に降りて来たのは11時を過ぎてからだった。
◆
「おはようございます、叔父さん」
ツグミが元気良く挨拶すると、忍田は一瞬呆けたような顔になり、すぐにボーダーの誰にも見せたことのない穏和な父親の顔になった。
「ああ、おはよう、ツグミ。よく来てくれたな」
「だって忍田
そう言うとツグミは台所へ行って調理を始めた。
メニューはだし巻き玉子と塩鮭、ほうれん草のおひたし、ひじきと大豆の煮物、味噌汁の具はシジミで、漬物はキュウリの浅漬けである。
おひたしと煮物と浅漬けは玉狛支部で作って来たので、15分ほどで朝食は完成した。
ダイニングテーブルの上に並んでいる料理を見て忍田は目を丸くした。
「これをおまえがひとりで作ったのか? ずいぶんと豪盛じゃないか」
「あら、玉狛じゃ普通ですよ。『健全なる精神は健全なる身体に宿る』で『健全なる身体は正しい食生活によって培われる』です」
「誰の言葉だ?」
「前半は古代ローマ人のユウェナリスで、後半はわたしの言葉ですよ」
ツグミはそう答えて笑った。
「おばあちゃんが入院しているから、叔父さんは外食ばかりだったでしょ? 家に帰ってもコンビニ弁当だったりレトルト食品だったりで、まともな食事をしていないだろうなって思って特に気合を入れて作りました。さあ、召し上がれ」
「ああ。…いただきます」
忍田はだし巻き玉子に箸を伸ばし、ゆっくりと味わうように食べる。
その表情は大満足というもので、文字通り「幸せを噛みしめている」といった感じだ。
そして全部のおかずを平らげ、食後のお茶を啜りながら忍田は言う。
「また少し料理の腕を上げたな。おまえの料理を毎日食べられる林藤たちが羨ましい」
「わたしがここに来て作ってあげることはできませんが、腕のいいお嫁さんをもらえば毎日美味しいものが食べられますよ。だから早く結婚すべきです」
すると忍田は苦笑しながら答えた。
「バカ言うな。嫁さんというものはそこら辺に落ちていたり、地面から生えてくるものではないんだぞ。結婚しろと言われてもそれは不可能だ」
「そりゃ落ちても生えてもいませんけど、意外とすぐそばにいたりするものですよ、運命の相手って。だから周りを見回してみてくださいな」
さりげなく沢村のことを言うが、忍田には通じない。
「…周りと言っても心当たりはないな。まあいずれは結婚するだろうが、しばらくはそれどころじゃない。私にはやることがたくさんある。それにおまえが良い相手を見つけて結婚するまでは、父親としての責任を果たさねばならないからな。もっとも私が認めた男でなければおまえを嫁にやるつもりはない」
「それじゃいつまで経っても結婚はできませんね。…あ、いっそのこと本部長を辞めて玉狛支部の副支部長でもやりますか? それで玉狛支部で暮らせばいつでもわたしの料理が食べられますよ」
もちろんツグミは冗談で言ったのだが、忍田は本気で悩み始めてしまった。
「うむ…案外それはいいかもしれないな。林藤の部下というのは気に入らないが、ツグミの料理が毎日食べられるのならそれくらい我慢しようか。しかし本部長を任せられる人材がいない。…う~ん、やはり私事で無責任なマネはできないな。とはいえツグミの料理は…」
「叔父さん、たまにはここに来て料理を作ります。だからそれで勘弁してください」
忍田の暴走を抑えるためにツグミはつい口を滑らせてしまった。
すると忍田がニヤリと笑う。
「そういうことなら私は安心して本部長を続けられる。できれば週一くらいで来てくれると嬉しいな。ああ、良かった」
ツグミはやっとわかった。
忍田は彼女の口からその言葉を引き出すためにわざと悩んだフリをしていたのだ。
(してやられた…。でもあんなに嬉しそうなんだもの、叔父さんが喜んでくれるのならわたしも頑張ろう)
◆
食事の片付けをしてしまうと、今度は忍田の部屋の掃除と布団干しをする。
さらに乾いた洗濯物を取り込んできれいに畳み、クローゼットに整理した。
風呂とトイレの掃除をし、最後に布団を取り込んだのが午後3時。
それからひとりで近所のスーパーへ行って足りない食材の買い出し。
これは忍田が一緒に行きたいと言うのを説得して諦めさせた。
そしてふたりで夕食を済ませてしまうと、ツグミは玉狛支部へ帰らなければならない時間になった。
ツグミを玄関で見送る忍田の姿は飼い主においてけぼりにされる飼い犬のようであった。
(はぁ…やっぱり叔父さんをいつまでも独身でいさせるわけにはいかないわ。…ひとまず沢村さんにだし巻き玉子の作り方を教えて、叔父さんのためにお弁当を作ってくれるようにお願いしてみようかな。『男を掴むなら、まず胃袋を掴め』という言葉もあるし、叔父さんにきちんとした食事をさせることもできる。うん、まさに一石二鳥だわ)
クロスバイクを漕ぎながらいろいろと考えるツグミ。
(わたしには叔父さん以外にも気がかりなことがいっぱいあるんだから。オサムくんの容態だってまだ安心というわけにはいかないし、来月になればB級ランク戦が始まる。ユーマくんやチカちゃんがB級にならなきゃ話にならない。オサムくん、早く回復できるといいな…)
これらはツグミが悩んだところで解決する問題ではない。
それは彼女自身もわかっているが、どうしても自分のことのように悩んでしまうのだ。
しかし間もなく自分自身のことで大いに悩み、重要な決断をしなければならないことになるのだが、そのことを彼女はまだ知らない。