ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
ツグミが迅たちの元へ帰って来たのは夕方になってからだった。
翌日の午後にリベラートとの正式な謁見の約束をし、本来の訪問目的が果たせるというのにツグミの表情は暗く沈んでいる。
迅たちに心配かけないようにと彼らの前では普通に振舞っているものの、時折見せる遠くを見つめるような瞳やため息がいつもの彼女ではないことを示していた。
迅たちも気付かないフリをしているが、心配事や悩み事を相談してくれないことに苛立ってしまう。
特に迅にとっては自分が悩んでいたり苦しんでいる時にいつもそばにいて相談に乗ってくれたツグミに対し何もできないのだから、自分自身を責めたくもなるというもの。
(この時間ならまだ起きてるだろう。行ってみるか)
迅は身なりと整えるとツグミのいる部屋へと向かった。
夕方にリベラート自らわざわざツグミを送って来て、その時に迅たち4人を含めて全員が迎賓館の客室に案内されていたのだ。
キオンからの国賓として当然なのだが、やはりツグミの存在が大きい。
(ツグミの未来にまだ変わったところは視えない。以前と同じで俺たちと一緒にいる未来と俺たちの前からいなくなる未来のふたつが視える。だがリベラート殿下との間に何かあったのは間違いない。…それにあの顔はエウクラートンのことを心配しているってだけじゃないな。自分自身のことだから俺たちに何も言わないんだ)
迅はそんなことを考えながら歩き、ツグミの部屋の前にやって来た。
女性の部屋を訪問するには問題のある時間だが、恋人同士であればむしろ彼らの時間である。
迅はドアをノックして呼びかけた。
「ツグミ、まだ起きてるか? 邪魔じゃなかったら中に入れてくれよ」
するとすぐにドアが開いてツグミが迅の顔を見た。
彼女の頬には涙が流れた跡があり、たった今まで泣いていたようだ。
おまけに無理に笑顔になろうとするから逆に痛々しく感じてしまう。
「ジンさん、こんな時間にどうしたんですか?」
「それは俺が訊きたいよ。ツグミ、おまえが何も言わないってのは俺たちに心配かけたくないからなんだろうけど、そんな顔をされちゃ黙って見ているだけってことはできないぞ」
「とりあえず中へ入ってください」
ツグミは迅を部屋の中に招くとドアを閉めた。
彼女の部屋は迅たちの部屋と違い格段に豪華だった。
迅たちの部屋が高級クラシックホテルのスタンダードルームなら、ツグミの部屋はプレミアムスイートルームといったところだ。
たぶん国家元首レベルの賓客のための部屋であろう。
その部屋にツグミが宿泊するというのだから、リベラートの彼女に対する扱いが特別であることがわかる。
そしてそれがツグミの悩みと無関係ではないと誰にでもわかるというものだ。
(ツグミは自分のことだと誰かに相談して解決を図るようなことはない。全部自分で考えて自分で決める癖がある。だから俺が相談に乗るなんて言っても何も話してくれないだろう。勢いで来てはみたものの、俺には何もできないんだよな…)
迅は背を向けているツグミに声をかける。
「ツグミ、おまえが何か悩んでいるのはわかっている。だけど俺はおまえに話してくれとは言わない。理由を訊こうとしたところでどうせ話してくれないってわかってるからな。だから俺はここにいるだけにする。それでおまえがしてほしいということをすることにした。出て行けと言うなら出て行くし、添い寝してくれって言うなら喜んでしてやるよ」
「だったら添い寝してください」
「おう…って、マジか?」
「だってジンさんが添い寝してくれるって言うから。嫌ならしてくれなくてもいいです」
「いや、別に嫌ってことはないし、自分で言ったことだからいいんだけどさ。だけどなぜそんなことを言うんだ?」
「理由を訊こうとしたところでどうせ話さないってわかってるんでしょ? だったら何も言わないで今夜だけでいいから一緒にいてください」
「ツグミ…」
自分でも恥ずかしいことをお願いしているという意識があるのか、ツグミは俯いていて顔を見せようとはしない。
そんな彼女の身体を迅はギュッと抱きしめた。
「おまえが望むなら俺は何だってしてやる。これまでだってそうしてきたつもりだ。でもおまえがこんなに悩んで苦しんでいる時に役に立てないなんて嫌だ。おまえの悩みを解決してやることができないのは仕方がない。だけど今夜一晩一緒にいることでおまえに本当の笑顔を取り戻させてやる。その覚悟で俺はいるんだ。おまえに無理に笑顔を見せろって言うんじゃない。ただ俺はそうしたいと思っておまえと添い寝をする。だからヘンなことをされるかもなんて想像するんじゃないぞ」
「そんなこと、考えていませんよ。…ありがとうございます、ジンさん」
ツグミは迅に求められたらすべてを捧げてもいいと考えていた。
ふたりとも子供ではないのだから添い寝と言えば性交渉を含むもので、相手が迅であれば怖くはない。
ただそうなると忍田を裏切ることになるが、それでも世界でただひとり愛している男性と結ばれるなら後悔しないと覚悟を決めていたのだった。
(やっぱりジンさんはわたしの
ツグミがそんなことを考えていると、迅は彼女の心の中に大きな変化が見られ未来への分岐の数が増えたことを察した。
(え? また違う未来が視えた。…これはどこだ? 眩しくて何も見えない場所…こんな場所にこいつがいる未来って何なんだ?)
ツグミにとっての人生の選択肢が追加されたことで、迅にはこれまでのものとは違う別の未来が視えてしまったのだ。
訊いたところで何も言わないとわかっているので、彼はその未来の光景は自分の胸の中だけに収めておくことにした。
◆
ツグミと迅はひとつのベッドに並んで横たわっている。
離れていても十分に眠ることができる大きなベッドだが、やはりふたりは身を寄せ合っていた。
ツグミは迅の胸に顔を埋め、迅はそんな彼女に片腕を回して抱きしめる姿勢だ。
「ジンさん…」
「何だ?」
「昔、小さい時にもこんな感じで一緒に寝たことがありましたね」
「ああ。あの時は俺が忍田さんちに泊まっていて、おまえが俺の布団の中に忍び込んできたんだったな。あの頃は最上さんが夜勤の時には必ず俺を忍田さんちに預けていたから」
「ええ。それで真史叔父さんも一緒に夜勤でいなくて、それで怖い夢を見たわたしがひとりでいられなくなって、ついジンさんの布団にもぐり込んじゃったんです。あの頃からわたしはあなたのにおいを身近に感じることで安心できるんです。今もこうしているとすごく落ち着きます」
「昼間、怖い夢でも見たのか?」
「怖いというよりも悪い夢を見た気分なんです。自分が見たものが全部現実じゃなかったって思いたいというか…。でもそれは夢じゃなくて紛れもない真実。そしてわたしが自ら望んだ結果なので後悔はしていませんが、この先わたしはどう生きるべきなのかという大きな悩みが生まれてしまいました」
「俺には相談しようって気はないんだよな?」
「…これは自分ひとりで考えて答えを出さなければいけない問題なんです。それに誰かの意見を聞いてしまったら、今度は別の立場の人の意見を聞かなければ不公平になります」
「つまり俺に相談をしたら別のヤツ…
「……」
「じゃあ、相談じゃなくて胸の中に抱えているいろんなことを吐き出すっていうならいいんじゃないか? 俺はただ黙っておまえの話を聞く。愚痴だってかまわない。それで話し終わっても俺はおまえに何も言わない。話したところで解決しないことでも誰かに聞いてもらうだけでもだいぶ楽になる。それはおまえが俺にそうしてくれたから良くわかるんだよ。だからおまえも俺に話せばいい」
迅はそう言ってツグミの頭を撫でる。
その感触がとても心地良く、ツグミは彼に甘えることにした。
「じゃあ、聞いてください。…ついこの間までわたしは今の自分の姿を想像もしていませんでした。突然父親は亡命
「……」
「わたしは自分の手の届く範囲の幸せがあればそれだけで十分で、それ以外には関心すらありませんでした。だから真史叔父さんやジンさん、城戸さんや玉狛のみんなが誰も死なないし怪我もしないでいつまでも笑顔で一緒にいたいというのがわたしの願いでした。その願いを叶えるためにはボーダーに入ることが必要で、強くなることでみんなを守ることができるようになるって信じていましたから訓練も頑張りました。
「……」
「わたしは初めからできないとか諦めるってことが嫌いですから全力で動いて、それでダメだったら仕方がないと受け入れることはできます。だからやりたいしやらなければという気持ちはあります。でもそのためには大切なものを捨てなければならず、自己矛盾に囚われてしまって抜け出せないんです。蜘蛛の巣に囚われた蝶みたいでもがけばもがくほど絡みついてしまうような気がして、だからといって何もしないでいると目に見えない何かに押しつぶされそうになる気がして怖い。眠ってしまえば楽になれると思ってベッドに入ってもなかなか眠れないでいて、それにそうやって逃げても朝になって目が覚めれば問題はわたしの前に立ち塞がっている」
「……」
「真実を知らなければ良かったなんて後悔はしていません。逆に知らされずにいて見過ごしてしまい、後で知ることになった方がずっと悔やみますから。いつか必ず答えを出さなければいけないことですが、まだ時間にいくらかの余裕はあります。緊急を要するものではないので慌てて選択を誤って後悔することにはならないようじっくり考えることにします。その間、わたしがいつものわたしではないこともあるでしょうが、心配はしないでわたしのことを信用して見守っていてください。そしてどのような答えであってもそれがわたしの正義だということで認めてほしいです」
「そうか…」
迅はずっとツグミの頭を撫で続けていた手を止めた。
「おまえがそういう覚悟を決めているなら、俺は何も言わない。俺やキオンの連中が余計な入れ知恵をするようなことをしない方がいいってわかったからな。だからヤツラにはおまえのことは心配しないで見守っているだけでいいって話しておくよ。だけど無理に笑おうとしたり不自然な態度でいると不安になるからそれだけはやめてくれ。泣きたい時には泣いていいんだし、苦しい時にそれを我慢しちまうと後で余計に苦しくなるんだから無理はするな。それでいつでもこうして話を聞いてやることはできるんだから、何かあればいつでも俺に言え。他のヤツじゃなくて俺にだぞ」
迅の力強い言葉を聞いてツグミの目には涙が浮かんできた。
「ありがとう、ジンさん。だいぶ気持ちが楽になりました」
「礼なんていらないさ。いつも俺がおまえにしてもらってたことをしただけなんだからさ。今日はもう眠れ。朝になってもおまえの問題は解決していないだろうけど、目を開けた時に俺の顔があったらその方が寝覚めはいいだろ?」
「ふふっ、そうですね。それにあなたがいれば怖い夢じゃなくて素敵な夢が見られそう。…おやすみなさい、ジンさん」
「ああ、おやすみ」
迅はそう言うとツグミの唇にキスをした。
「これはおやすみのキスってヤツだから。エロいことなんて考えてないから安心しろ」
「わかってます。ジンさんはわたしにとって
そう言ってツグミは目をつぶる。
するとまたたく間に小さな寝息を立てて深い眠りの中に落ちていったのだった。
(こいつ、ずっと緊張し続けていてリベラート殿下との会見に臨んだ上に何か重大な事実を知らされたらしく気が休まる時がなかったんだな…。こいつがここまで苦しむような事実って何なんだろう…? エウクラートンっていえばこいつの親父さんの故郷だが、親父さんのことでショックを受けるようなことを聞かされたか? …いや、違う。こいつが自分の将来について考えるような内容だろう。俺にこいつの別の未来が視えたのもそれで辻褄が合うからな。その未来がこいつにとって良いのか悪いのかはわからないし、俺にとっても良いのか悪いのかわからない。だが、良いことならこんなに苦しむはずがなく、悪い未来になると考えた方がいいだろう)
迅はツグミの穏やかな寝顔を見ながら考えた。
(俺に相談しないのは、俺の意見を聞いたら別の立場のヤツの意見を聞かなければ不公平になるからだと言っていた。俺が
ツグミは寝返りをうつと迅の方にお尻を向けるような向きになり、巣穴の中で冬眠するリスのように小さく丸まった。
(うわっ…これじゃ尻を触れって言ってるようなもんじゃないかよ。まあ、触ったところでどうせバレはしないだろうけど、今夜だけはやめておこう。
迅は目を閉じると隣にいるツグミの気配を感じながら眠りについたのだった。
◆◆◆
翌日の午後、ツグミたち一行は政庁に赴きリベラートとの正式な謁見に臨んだ。
そしてキオンの総統テスタが
それはキオンがエウクラートンと従属国としてでなく以前のような対等な関係に戻す考えがあると言っているのであるから、リベラートにとっては驚くべきことであり同時に歓迎すべきことだ。
ただしそれは
そうなるとツグミはエウクラートン及び
そしてその翌日、ツグミたちはエウクラートンを発つことになった。
リベラート自ら親書をツグミに手渡し、ボーダーとの友好的な交流を望む旨を城戸に伝えることを頼んだのだが、公式な親書とは別に彼は城戸宛の私的な手紙を書いていた。
それはリベラートがツグミに「オリバのことを最も良く知っている人物」が誰かと訊き、彼女がボーダー最高司令官の城戸であると教えたからである。
だからツグミは単にリベラートが息子のことをもっと知りたくて城戸から話を聞きたいのだと察して手紙を手渡すことを約束した。
しかしリベラートとオリバが親子関係にあることと、ツグミがエウクラートンの次期女王の最有力候補であることを秘密にすることを条件としている。
ツグミがエウクラートンの王家であるオーラクル家の血筋であることは本人とリベラートと女王の3人だけしか知らない最重要機密なのだから。