ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
翌朝、ツグミの祈りが通じたのか天気は晴れであった。
といっても深い霧に覆われていて視程は10メートルもない。
この霧を利用すれば敵に悟られずに接近するのはそう難しくないと思われたが、逆に街の中では意図せずに敵と遭遇してしまう恐れもある。
こちらは容姿を変えているのだからすぐに正体がバレてしまうようなことにはならないだろうが、不審な素振りでも見せれば疑われて面倒なことにもなりかねない。
前回の訪問で南市場にいたツグミはハイレインとランバネインのふたりと偶然に出会ってしまい、とっさにデタラメの素性を言ってその場を逃げ出した。
頭の回転が速い彼女だから切り抜けることができたが、並の人間ならあのふたりを前にして冷静に立ち回るのは難しいだろう。
窓の外の景色を眺めながら、ツグミは考えた。
(南エリアはエリン家の管轄で、東エリアはヴィザ。北と西もそれぞれベルティストン家直属の手練のトリガー使いが治安維持をしているらしい。ディルクさんの話だと北と西の
ガロプラによる妨害工作が成功したと思い込んでいるハイレインはボーダーの遠征が大幅に遅延すると考え、神候補探しのために自分の配下のトリガー使いを別の国へと派遣していた。
大規模侵攻の時のように自ら出陣して指揮をしないのは、この時期に彼が本拠地を留守にするとマズイ状況にあるからだ。
「神選び」の日が近付いてきて四大領主たちは誰もが「自分以外の3人の領主の誰かひとりでも消えてしまえば楽になる」と考えていて、お互いにライバルとなる相手の様子を注視し、隙あらば叩き潰そうとそのチャンスを虎視眈々と狙っているのだ。
ハイレインにとってはコヴェリ家だけでなく残りのふたつの家も同様に邪魔だが、ベルティストン家以外の3つの家にとって一番目障りなのがベルティストン家なのである。
だからハイレインは本拠地を留守にすることはできず、自分の配下のトリガー使いを派遣しているというわけだ。
(ハイレインは他の3つの貴族たちから相当嫌われているらしいものね。現在はコヴェリ家が王家だから言いなりになっているようだけど、ハイレインが王になったらますます軍備を増強して
ハイレインに限らず権力者というものは多かれ少なかれ自分の正義が真理であると信じ、そのための犠牲はやむを得ないと考えてしまう傾向にある。
しかし大衆に支持されなければその権力を維持できないから、自分とは関わりが希薄な人間やものを犠牲にしようとする。
ハイレインの場合、アフトクラトルの利益のための戦争に自国の兵士を送り込むとその家族から非難されるであろうから、はるばる三門市までやって来て無関係なC級隊員をさらっていった。
彼らを一人前のトリガー使いにすれば誰にも遠慮せずに戦場へ送り込み、彼らが死んだところでアフトクラトルの同胞は誰も悲しまないと考えているからだ。
自分の野心を満たすための道具として使い捨てするには異世界の子供たちは都合が良い。
ついでに大規模侵攻は自分にとって都合の悪いエネドラとヒュースを
ここで
(
ツグミは霧の向こう側にあるベルティストン家の居城に向かって言った。
「安心しなさい、ハイレイン。わたしはおまえの命までは取ろうとは思わない。だってあの時みたいに直接対決する気なんてないもの。戦いってトリガーを使うだけじゃないのよ。勝敗はここで決まるんだから。それはおまえ自身が良くわかっているはずよね」
そう言ってツグミは右手の人差し指で自分の頭をツンツンと啄く。
「それにわたしはこの街に住む人たちに対して恨みも憎しみもない。彼らに危害を与えたくないから極力戦闘は避けたいのよ。でもおまえがわたしたちの前に立ち塞がって邪魔をするならこちらも容赦はしないわ。覚悟していなさい!」
ツグミは視線の先にいるであろう敵に向けて静かな戦意の炎を燃やしていた。
◆◆◆
昼前にはすっかりと霧は晴れ、三門市の10月初旬の頃と同様の爽やかな秋の陽気となっていた。
ツグミはこの日の探索エリアを北と西に定め、市場へと買い物に出向くフリをしながら街の様子を探索する予定である。
城郭都市という性質上、東西南北にひとつずつある門のどれかを通り抜けなければ街の中へ入ることができず、不審人物なら検問で引っかかることになっていて、中にいるということはそれが見かけない顔であっても怪しい人間ではないという証明ともなるから誰もツグミのことを訝しむことはない。
彼女の堂々とした演技の効果もあるが、なによりも彼女がこの街の住民に対して警戒したり敵視する気持ちがないからであろう。
気軽に声をかけられると彼女も同じように応え、不自然さがないものだから他の人間も彼女をスルーするのだ。
(
ツグミは「最悪の事態」を想像して憂いていた。
C級隊員の救出はツグミたち別働隊がすべてお膳立てをしておいて、ハイレインたちに悟られないように脱出させ、遠征部隊本隊に合流させて遠征艇まで逃げてもらう予定である。
このミッションを無事にクリアするためにはできる限り敵との戦闘を避けなければならないのだが、どうしても避けられない場合というものはある。
ならばどこで戦うかが問題なのだが、本隊メンバーは特別訓練で「城郭都市内での戦闘」を想定してそれを重点的に行ってきた。
しかし彼らは重要なことに気付いておらず、城郭都市の中で戦闘になった時に「最悪の事態」を迎えることとなる。
ボーダーは第一次
実戦でも訓練でも周囲の被害など考えなくてもいいから建物は破壊してかまわない。
敵の攻撃でダメージを受けても戦闘体が破壊されるだけで安全な場所に避難できるから怪我さえしない。
だからこそ
しかし
現実の戦闘フィールドは無人の街ではなくボーダーとは無縁の住民たちがいるのだ。
三門市なら警戒区域外、それも住民が大勢いる街中での戦闘を行うことと同じで、決して「市街地A」などではない。
突然の敵襲で避難できていない状態で戦闘が始まれば街の中はパニックになり、倒れてきた建物の瓦礫に押し潰されたり流れ弾に当たって気を失う住民が出たりするのは火を見るよりも明らかで、そんな地獄のような状況の中で「人を殺すことに慣れていない隊員たち」が戦えるはずがない。
ここの住民たちはトリガー使いではないのだからトリオン体など持ち合わせてはおらず、斬られたり撃たれたりすれば怪我はするし場合によっては死ぬこともあるだろう。
ハイレインたちは目的のためなら手段は選ばず、三門市民が死んだところで心を痛めることはないから平気で街を破壊した。
ボーダー隊員の活躍のおかげで幸い民間人に犠牲者は出なかったが負傷者は出ている。
市街地戦となればそれと同様のことが立場を取り替えて行われることになるわけだが、ボーダー隊員にそれができるだろうか?
いくら敵・アフトクラトルの人間だといっても武装していない民間人が傷付いたり死んでいく姿を見て平静でいられるはずがない。
直接手を出すことはなくても建物の破壊といった間接的な原因で人を死なせてしまうことはあるだろう。
そして悲鳴と怒号と建物が崩壊する轟音の中で罪のない人間が次々と倒れていく光景を見ながら、それでもなお戦い続けるだけの精神を持っていなければ本人が死ぬだけだ。
(ボーダーの仮想空間による対人戦闘は意味のないものだとは言わない。でもお互いに決められたルールを守りながら手の内を良く知っている
ハイレインたちも自分の城下で派手な戦争はしたくないだろうから、奴らの側から街の中での戦闘を仕掛けてくることはまずないだろう。
ボーダーにとって最も有利な戦闘フィールドは城郭都市の外で城壁からの狙撃が届かない場所なのだが、ハイレインの側としてもそういった無人の広い場所は
そうなると思い切った戦い方ができないと思われるが、勝つためには手足だけでなく場合によっては戦闘体を破壊されてもかまわないという戦い方自体が常軌を逸しているとツグミは考えていて、ダメージを受けないでも戦って勝てるようになるべきだという信念があり、彼女自身はそれを守ってB級ランク戦を戦い抜いた。
ただし彼女がそう考えていても現実には他の隊員たちにそれを強いることは不可能で、そのためのフォローもちゃんと考えて準備をしている。
(本隊のメンバーはもうすぐアフトクラトルに到着する。別働隊の存在は公にしていないけど、勘の良い人ならなんとなく気付いているかもね。遠征艇の中で到着してからの行動についていろいろ論議しているだろうな)
そんなことを考えながら、ツグミは西市場の中へと足を踏み入れた。
◆◆◆
話は6月1日の遠征部隊本隊が三門市を発つ直前に遡る。
ボーダー初の
比較的小規模で行うことにしたが、それでも100人以上の人間が集まっていた。
敵の本拠地へと乗り込んでさらわれたC級隊員を救出するという「正義は
隊員を戦地へ送り出すという悲壮感などまったくなく、5年半前の同盟国の戦争に参加するために出陣した旧ボーダーの旅立ちと比べて天と地ほどの差があった。
あの時は迅の
だから迅や忍田たち旧ボーダーのメンバーは複雑な気持ちでいたが、両手の拳をギュッと握り締めて泣きたいのを我慢している
「何も知らない人たちからの見送りってなんだか騙しているような気分で心苦しいですね」
出発セレモニーで城戸が市民に向けての演説をしている一方で、少し離れて参加メンバーと一緒に並んでいる迅が忍田に小声で話しかけた。
「ああ。ツグミを騙して旅立った時のことを思い出して少し胸が痛い」
「まあ、今回はあの時みたいに悲惨な結果にはならずに済みますから、その分だけ気持ちは楽になりますけど」
「つまり
「今のところは、ですけど。ツグミたちが上手くやってくれているってことでしょう。予定では昨日の段階でメノエイデスに到着して、現地の人間と話はつけているはずです。なにしろ
「ああ。いくら別働隊が情報収集をして任務遂行を楽にしてくれるといっても実際に行動するのは私たち本隊メンバーだからな。…しかしあの子のことだから無茶をしていそうで恐ろしいな」
「大丈夫ですよ。ゼノン隊の3人がお目付け役になっているんですし、なによりもツグミが世界で一番大好きな真史叔父さんに心配をかけるようなことはしませんって。…といっても忍田さんのいないところではいろいろやってますからねえ、バレなきゃいいって考えているところもありますけど」
「迅、冗談であっても不安になるようなことは言わないでくれ」
忍田はそう言って困ったような顔をする。
「まあ、ツグミが忍田さんの娘であることは彼女自身が一番わかっているんですから、あなたもあいつのことを信じてやってください。そもそもあいつが危険な目に遭うというのなら俺が全力で止めていますよ」
「それはそうだな。…それにしてもこんな形でおまえとまた遠征に参加することになるとは想像もしていなかったよ」
「俺ももう二度と遠征に参加するのはゴメンだと思っていましたからね。しかし今回のC級救出に関しては俺は重要な役目を負っているんです。ああ、でも三門市のことは心配いりません。残る隊員たちも十分優秀ですから大丈夫。あなたは遠征部隊の責任者としてそれだけを考えていてください」
「わかっているとも」
城戸の演説が終わると続いて遠征参加メンバーの代表として忍田の挨拶の番になった。
人前で話をするのが苦手な忍田だが、そんなことは言っていられない。
城戸と入れ替わって壇上に立つと、咳払いをひとつしてから口を開いた。
「ここにいらっしゃる遠征参加メンバーのご家族のみなさん、そしてマスメディアを通じて私の声に耳を傾けている三門市民のみなさん、とうとうこの日がやってまいりました。大切な仲間をさらわれて約4ヶ月が経ちますが、さらわれたC級隊員のご家族やご友人はいつになったら救出に行くのだとヤキモキしていらっしゃったことでしょう。ですがボーダー初の
忍田はそこまで一気に言うと深く頭を下げた。
すると会場から大きな拍手が上がり、少し照れた顔で壇上から降りて元の位置に戻って来た。
「忍田さん、簡潔で聞いている人に強く訴えかけるいい演説でしたよ」
迅が小声で言うと忍田はさらに小さな声で答えた。
「ツグミが発つ前に私のために書いて残しておいてくれた原稿を丸暗記して喋っただけなんだ。出発セレモニーで挨拶することになるだろうから、とさ」
「引率責任者が挨拶するのは当然だし、忍田さんはこういうのを考えるのが苦手。そうなればツグミが準備をしておくのは無理もない。この分ならアフトクラトルに着いてからのことも心配しないでいいんじゃないですかねえ」
「そうでなければ困る。おまえや私を含めてここにいる30人は誰ひとりとして敵の本拠地に潜入してC級の居場所を探すなんてことはできないんだからな」
「こういう時にキオンの連中が役に立ってくれるはずなんですよ。これまでツグミが知恵を出して奴らが動くというパターンが何度もあって、それを成功させている。奴らはあいつのことを恩人だと思ってますからね、絶対に危険なことはさせないし祖国に忠誠を尽くすようにあいつにも従ってくれています。あいつは初めから奴らのことを信用していましたが、キオンへの旅の中で俺自身も信用していいと判断しました。そうでなきゃ奴らだけの艇に乗せたりはしませんよ」
「私も信用しているからこそツグミを託したわけだが、やはり年頃の娘を男所帯に預けたのは父親として不安だ」
迅は忍田のその言葉を聞いてニヤリとした。
ゼノンたちが
忍田だけでなく城戸までもがゼノンたちのことを信用して大切なアフトクラトル遠征の重要な役目を依頼したのだから、
(以前の
出発セレモニーが終了し、遠征部隊のメンバーはひとりずつタラップを登って遠征艇の中へ姿を消していく。
30人全員が乗り込むまで拍手が鳴り止まず激励の声が会場内に響き渡っていた。
遠征艇のドアが閉まるとエンジンがかかり、前方に
ふわっと浮き上がった艇はその
そしてそこには初めから何もなかったかのような広い空間だけが残され、マスコミ関係者たちは一刻も早く報道するためにと会場を駆け足で立ち去って行ったのだった。