ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
ツグミが訪れたのは西エリアの住宅地で、南と東のエリアと違わない街並みが広がっているもののあまり活気がないように感じた。
すれ違う住民の顔には笑顔はなく、気のせいか空気がひんやりとしていて肌寒い。
(同じ城郭都市内の街なのにエリアによってこんなに格差があるなんて…。もしかしてこの城郭都市に供給されるトリオンが減らされて、ひとつの街であっても重要でない部分から切り捨てられていくのかも? ベルティストン家はコヴェリ家と仲が悪いってことだから、コヴェリ家の選んだ神官が意識してこの街へのトリオン供給を減らし、それによってベルティストン家を弱体化させようとしているとも考えられる。いきなり100%カットしてしまえば誰だって気付くけど、これから寒くなるシーズンだから少しずつトリオンを減らしていっても例年よりも少し早く冬が近付いてきているって感じるだけで終わってしまう。住人たちは自分の住んでいるエリアとは別のエリアへ行くことってあまりないらしいから、この付近の住民はこのエリアが他のエリアよりも寒くなっているって感じることはできない。ハイレインにとってディルクさんとヴィザは重要人物で彼らの治める街を蔑ろにはできないからそれ以外のエリアのトリオンを削っているんだ、きっと。それに今は北と西のエリアの
そんなことを考えながら西市場に着くと、ツグミの想像していたとおりに屋台の数も品物の量も南や東の市場に比べると少ない。
(北と西のエリアは境が接する辺りに幼年学校があるから住民自体が南と東のエリアよりもずっと少ないとはいえ、これだけじゃ全然足りないんじゃないかしら? 幼年学校の生徒の話では食事の量が少ないということはなかったようだから、C級の子たちもちゃんと食べさせてはもらえていると思うけど、国民が満足に食事ができないほど追い詰められているというのに貴族連中は己の権力維持のためにトリオン兵を造り続け、他国との戦争を続けているなんてバカみたい。たとえ次の神となる生贄がとんでもないトリオンモンスターだったとしても、その前に回復が不可能なほど国自体が疲弊してしまっては意味ないのに)
ディルクやゼノンたちから聞いた話だと、
用途に合わせてエリアを区別することで
人も住めない作物も収穫できないような場所は端からトリオン供給をゼロにし、トリオンを無駄に消費しないというのは賢いやり方だ。
そして各城郭都市へは地下にパイプのようなものがあって
だから首都にいる国王の判断でトリオン供給を調整でき、さらにこの街に送られたトリオンの配分もベルティストン家つまりハイレインが自由に調整できるという。
トリオンが大量に供給されるのであれば問題はないが、それが減少してしまったことでトリオンの奪い合いになっているのは間違いない。
そして一番弱い立場の人間にしわ寄せがきていて、食料不足や気温の低下という目に見える形で現れてしまっているのだ。
(『神選び』が約100日後に行われるとして、それまでこの街の人たちは無事でいられるかしら? これから冬がやって来るというのにトリオンは削られて気温が下がってしまい、暖を取るための燃料となる木材は南から西にかけての森まで行かないと手に入れられない。それも5キロ以上も離れているから簡単には行くことができないし、なによりも満足な食事ができなきゃ薪拾いだってできないわよ)
ツグミはこの街の住人ではなく、用が済めば三門市に帰るのだからそんな心配をする必要などまったくない。
しかしこの街は彼女の友人たちが住む街であり、ディルクが貴族としての矜持をかけて守ろうとしている縁のある場所となってしまった。
それにアフトクラトルで起きていることは他の
アフトクラトルの100日後は雪が大地を厚く覆うようになっており、その時に素晴らしい「神」が現れたとしても救われない命が多く出そうである。
重苦しい気持ちを抱えて歩き続けていると幼年学校のそばへとやって来た。
高さが3メートルくらいある頑丈な塀で囲まれていて中の様子をうかがうことはできず、周囲の住宅とは5メートル以上離れていて民家の屋根の上に登ったとしても中の様子を見ることはできそうにない。
(生徒たちがどのような訓練を受けているのかも極秘事項ということなのかな? それにしても静かだわ。この時間ならC級の子たちが訓練をしているはずなのに声が全然聞こえない)
ツグミは塀と塀の上の空間をじっと見つめた。
すると彼女の目にははっきりとトリオン反応が見える。
(この塀は普通の石積みのように見えるけどトリオンでコーティングされていて、特に内側は外側よりもかなり厚めになってる。…なるほど中でトリガーの訓練をするんだから当然よね。だから上空もトリオンでシールドが張ってあって流れ弾で人家に被害が及ばないようになっているんだ。それでシールドのおかげで中の音も外に漏れないようになっていて何も聞こえないってことなのね)
これでは外の人間に助けを求めて叫んだとしても声は届かず、中で何が起きているのかなど誰にも気付かれることはない。
当然のことながら外側にいる人間が声を掛けても中にいる人間には聞こえないのだから、C級隊員との接触には直接会って話をするしか方法はなさそうだ。
(まあ、明日になれば賄い婦として中へ入ることができるから、その時にこの学校の様子が詳しくわかるだろうし、C級の子たちにも会えるチャンスはある。今日はこれくらいにしておこう)
◆
ツグミは続けて北エリアの散策をした。
ここも西エリアと同様に薄ら寒く、街のどこにも活気はない。
しかしこの状況は彼女にとって非常に都合が良かった。
人が住んでおらず空き家になっている民家がたくさんあり、日中から人通りが少ないとなるとゼノン隊の仕事がやりやすくなるのだ。
(昼間でもこんなに人がいないんだから、夜から早朝にかけては誰も外出しないし深い霧がすべてを隠してくれる。今頃ゼノン隊長は艇の中で作業を進めてくれているはず。それをリヌスさんとテオくんが分担して設置するわけだけど、その設置場所の探索はわたしの役目だもんね)
キオンまでの
諜報員つまりスパイには誰でもなれるというものではないが、ゼノンたちは自分たちが長い時間をかけて学んだり経験したことで得たスキルを惜しげもなく与えたのだ。
通常、スパイは敵国の情報を得るために対象者に「国家の秘密」を売り渡すよう働きかける。
つまり国家に対する裏切り行為を促すわけだが、裏切ったことが発覚すれば反逆罪に問われ、当人は容赦のない懲罰を受ける。
そんなハイリスクな行為を
冷戦時代のソビエト連邦でよく行われた「ハニートラップ」などがその例で、よって普通の人間が普通に生きてきたのであればできるものではないのだ。
しかし敵として目の前に現れたゼノンたちに対しツグミは無意識に彼らを篭絡して味方に付けてしまっていた。
ゼノンたちは優秀なキオンの諜報員で、そんな彼らがど素人の小娘に懐柔されたのだからツグミにはその才能があると判断したのである。
彼女はそのサイドエフェクトのおかげで大量の情報を収集・記憶し、短時間で分析でき、任務遂行の「役に立つもの」と「役に立たないもの」の判断が的確に行える。
また彼女は突拍子もないことを考えてそれを実行するために相手に要請するのだが、自分の意思でそうしたと思わせてしまったり、それ以外に道はないと思い込ませてしまうのが得意である。
さらに秘密や心配事、胸の奥底にある恐怖心などを打ち明けられる「心から信頼できる友人」のように思わせて相手から情報を得るといったことに長けている。
もっともこれまでは本気で友人になろうとして可能にしてきたのだから、彼女がハニートラップをやろうとしたら取り返しのつかないことになりそうだ。
そして一番重要なポイントは不測の事態に陥った時に冷静に対応ができるという点であった。
スパイなんてものをやっていればいくらでも想定外のことに行き当たるもので、そこで対応を間違えれば命取りになるというもの。
しかし彼女は想定外を想定外にしないだけの「準備」ができているので不安はない。
さすがに市場でハイレインと
とっさに完璧な演技ができるだけの度胸もあるとなれば、ゼノンたちが彼女を仲間に加えたいと思うもの無理はない。
そこまでゼノンたちに信頼されているとなれば、ツグミも彼らの指示に従い、与えられた役目もきっちりとやろうとするわけだ。
(人が少ないから被害が出ることはないけど、ある程度は騒ぎになってくれないと困るから設置する場所が重要なのよね…)
まだ詳細は決まっていないが、ツグミたちの考えたC級隊員救出作戦は非常に単純である。
当初は戦闘体のデータを書き換えてボーダー隊員とは悟られないように城内に潜入させる計画であったが、万が一戦闘状態に陥った時に敵味方とも最悪の環境での戦わざるをえないと没案にしたのだった。
C級隊員を城外へ脱出させるには地下道を使うことを考えている。
この地下道はその存在を限られた人物しか知らないために監視は甘く、地上に出た時には南門から約500メートル離れた場所となり、早朝の霧の深い時間帯であれば
そこで遠征部隊本隊が待っていれば仮に追っ手が迫っても21人の優秀な戦闘員が敵を蹴散らしてくれるはずである。
ただしその地点から遠征艇までは5000メートルも離れているから、
というのもC級隊員のボーダーのトリガーは幼年学校の教師やヴィザが取り上げてしまっているだろうから戦闘体に換装することはできず、敵の攻撃から身を守る手段がないのだ。
それに
時間や天気を上手くすればハイレインたちに一切知られずにC級隊員を全員遠征艇まで避難させることは可能で、そうなればディルクがボーダーと戦わされることもない。
さらにC級隊員たちの脱走が発覚したタイミングにもよるが、敵側の初動を遅れさせることでだいぶ楽になるはずである。
ボーダー側にとって驚異となるのはハイレイン、ランバネイン、ヴィザ、ミラの4人のトリガー使いの存在で、トリオン兵なら数が多くてもなんとかなるが人型相手で連携されるとかなり面倒だ。
いくら敵の手の内を知っているといってもボーダー側も大規模侵攻で戦った隊員のことは敵に知られている。
こちらが対策を講じているように敵も何らかの策を考えているに決まっているのだ。
そこで遠征部隊本隊メンバーとハイレインたちが交戦する前にツグミたち別働隊が敵の注意を引きつけることで時間稼ぎをすることになり、現在ツグミがやっていることはそのための準備なのであった。
(使わないで済めばその方がいいんだけど、これを使うってことはC級の子たちの脱走が計画よりも早くバレてしまったってことだもね。プランが100%成功するなんてことはありえないけど、限りなく100%に近付けることは可能。綿密な計画を立てても想定外と思われることは起きるもの。どんなことが起きても対処できるように想像力を働かせて想定外を想定内にする。この知らない街のことを良く知らなければ想像力を働かせることもできないんだから、どんな些細なことも見逃さないようにしなきゃ)
◆◆◆
ツグミが物事に全力投球することは長所なのだが、絶対に失敗したくないからと慎重に行動するかと思うと逆に信じられないほど大胆な行動をすることもある。
そうでなければ危険を承知でキオンやアフトクラトルに乗り込むなんてことなどできるはずがない。
もっともゼノンたちへの絶対的な信頼があってこそなのだがそれだけで説明がつくものではなく、彼女の行動の原動力となっているものが彼女の身体の中に流れる
血は争えないという言葉もあるが、織羽とツグミ ── このふたりには普通の人間にはない柔軟な思考力と想像力と行動力を持っている。
織羽のことを良く知っている城戸や忍田、林藤から見るとツグミと織羽は非常に良く似ていて、彼女が突拍子もないことを考えついて、さらにそれが不可能そうに見えたとしても挑戦し、最終的には成し遂げてしまう姿は織羽そのものなのだそうだ。
織羽は志半ばで命潰えたものの、その志や願いは娘のツグミに引き継がれていることは明らかで、自分の出生の秘密やボーダー創設の由来など知る前から自然に父親と同じ道を歩んでいたことがその証拠だ。
だからこそ城戸たちは彼女に希望を託したくなる。
その気持ちはツグミ本人にも十分伝わっていて、故に少々のことなら無茶をしてしまうのだ。
ただし彼女の「少々」は一般的に少々と言えるレベルではなく、その点では非常に親不孝な娘である。
そんなツグミが偶然にも
「逃げる」か「追跡する」かで、無難に安全牌を切ることを選んで逃げるべきなのだが、少しでも敵の情報を手に入れたいという気持ちが彼女に後者を選ばせてしまったのだった。
ランバネインは兄ハイレインとの関係が悪化したことで城を出てどこか別の場所に住んでいるということはディルクから聞かされていた。
よってハイレイン、ヴィザ、ミラの3人の居場所は把握できていたがランバネインだけは居場所がわからずに苦労していたのだった。
それはC級救出作戦の際に重要なポイントで、逃走ルート上に敵の住居があったら最悪である。
(どこに行くのかわからないけど、このまま後をつけていれば住んでいる場所がわかるかも? ちょっと危険だけどやってみる価値はあるわね)
ツグミの強化視覚によってランバネインが生身の身体であることはわかっている。
一方彼女はトリオン体だから、万が一身体を掴まれたとしても振り払って逃げるだけの体力や筋力があるので怖いとは思っていない。
しかしここで彼女が妙な行動を見せれば城郭都市内に「民間人を装ったスパイ」が潜入していることがバレてしまい、今までの努力がすべて水の泡になってしまうことも承知の上。
だから「最悪の状況」となった場合の策もあって、騒ぎにならないように
ランバネインはツグミの尾行に気付くこともなく、北エリアの住宅地の路地を歩いて行く。
すると1軒の食堂に入って行き、小一時間ほどすると店から出てきた。
(あの様子だとお酒を飲みながら軽く食事をしてきたみたい)
食堂の斜め向かいにある井戸に腰掛けて様子をうかがっていたツグミはランバネインの尾行を再開した。
(この辺りの地理に詳しいのは間違いない。さっきの店だって常連客ってカンジだったし、この近くに家があるのかも?)
常連だと判断したのは店を出た時に店主らしき初老の男性のランバネインに対しての接し方だった。
相手がベルティストン家の御曹司であると知っていてお辞儀や言葉遣いが丁寧であるもののフレンドリーな様子も見られたことから、何度も通って顔馴染みになっていると思われるからだ。
それから10分ほど尾行すると民家のひとつにたどり着いた。
民家といっても周囲は塀で囲まれていて広い庭がありそうな小奇麗な建物で、比較的裕福な市民が住んでいるような高級住宅である。
(ん? 自分で鍵を開けて中に入るってことは使用人がいなくてひとり暮しをしてるのかも。ひとり暮しだから食事も外食で済ませるってことなら、さっきの食堂の常連客になっているとしても不自然じゃない。貴族とだからって大勢の使用人にかしずかれていなきゃ何もできないっていうことはないんだし、仲が険悪になった兄貴がいる快適な城で暮らすよりもひとりでのんびりと好き勝手する方が楽しいに決まっている。それに使用人じゃなくて女性の同居人ならいるかもね。なにしろ次男とはいえベルティストン家の御曹司なんだもの正妻となれば玉の輿だし、愛人であっても楽な暮らしができそう)
アフトクラトルではキオンと同じように結婚適齢期の女性が少ないらしく、男性が余っている状態なので未婚と思われる女性を見付けるとすぐに
既婚・未婚の外見的見分けはできないから、まずは声をかけて本人から既婚か未婚か教えてもらうしかないようだ。
そして未婚であった場合は男性が自分の家に誘い、女性は「この男性が自分の配偶者として相応しいかどうか」を見極めるために同行する。
この時点で「絶対にダメ」であれば家に行くことはないが一緒に行くということは「脈がある」となり、そのまま交際を始めるという流れとなるそうだ。
もっともこの慣習は一般庶民のものであり、貴族やそれに準じる身分であれば親が決めた許婚がいる場合が多いのだが、ベルティストン家のような大貴族であれば本妻の他に愛人を囲うのも自由だろう。
ツグミは前回の訪問でハイレインには「未婚であれば手元に置きたかった」と、またランバネインからは人妻であると知ると「そりゃ残念だな」と言われたくらいなのだ。
後にディルクからアフトクラトルのその慣習を聞いてぞっとした彼女はできるかぎり外では現地の男性と会話をしないように心掛けている。
ツグミはランバネインが家の中に入ってしばらくの間様子をうかがっていたがこれ以上収穫はないと思われたものだから撤退をすることに決めた。
(家の場所がわかっただけでも大収穫だもの、欲をかかないでここまでにしておこうっと)
そう考えて来た道を引き返そうとした瞬間、ツグミの視界が黒くて大きな物体に遮られてしまった。
そして彼女の頭の上から聞き覚えのある男性の声がして、その声を聞いた途端にツグミは全身が硬直し、顔を上げることができなくなってしまったのだった。
「娘、どうして俺のことをつけ回していたんだ?」