ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
突然現れたランバネインの姿に圧倒され、さすがのツグミも思考回路が一瞬だけショートしてしまったようだった。
しかしすぐに復旧し、最速で状況判断と対処の方法を考えた。
「身なりは悪くないからいいトコのお嬢ちゃんだと思うが、どうして俺のことをつけ回すようなことをする? 食堂を出た後、ここまで俺を尾行していたのはわかっていたんだぞ。カワイイ顔して何を企んでいやがる?」
ランバネインはツグミを見下ろしながら言う。
食堂に入るまでは気付かれなかったようだが、その後にツグミがヘマをしたのか尾行していたことがバレていたらしい。
たぶん一度家に入った後に裏口から出て、ツグミの背後に回って行く手を塞いだのだろう。
ツグミにとってこれは想定内のことだが最悪の状況でもある。
今ここで
しかしトリガーを使用することで敵のレーダーに映ってしまう恐れがあり、残ったトリオン反応でそれがボーダーのものだとバレるのは明らかだ。
よって戦うことなく隙を見て逃げることが最善策であると誰でもそう考えるが、ツグミの出した答えは少々違っていた。
「申し訳ございません、ランバネイン様」
ツグミは深く頭を下げて謝罪する。
「ベルティストン家の御曹司でいらっしゃるあなた様をこんな下町でお見かけするなんて非常に珍しいことですので、好奇心でついあなた様の私的な部分を見てみたくなってしまったんです。どうかお許し下さい」
「俺の私的な部分だと?」
ランバネインは訝しげな様子で、下を向いたままのツグミの顎に指を添えて乱暴に顔を上に向けさせた。
そして彼女の顔をひと目見てニヤリと笑う。
「俺もおまえのことが知りたくなった。どうだ、俺の家に来て話をしようじゃないか? 別に取って食おうとは言うのではない。俺は気に入った女をモノにするのに暴力は使わん」
ツグミが怯えた目で見たものだから、ランバネインは怖がらせないようにそう言った。
「それに兄者とは違って俺は女を身分や利用できるかどうかで選んだりはしない。嫁にするなら一緒にいて安らげる女がいい。だから俺はあんな女は願い下げだ」
「あんな女? もしかして婚約者の女性でもいらっしゃるんですか?」
「いいや。…いや、そうではない。似たような存在はいるが、なぜそう思ったんだ?」
「貴族の方なら幼い頃に親同士が決めた婚約者というものがいるのが普通です。特にベルティストン家のような四大領主ともなれば他の3つの貴族との勢力バランスを考えた縁組みが行われて当然ですもの」
「そう言われればそのとおりだな。実は俺と兄者のどちらかと結婚をするという話になっている女がいるんだが、俺はその女が苦手なんだ。もっともそいつは兄者と結婚をすることに決まっている。だいたい当主夫人になるためには俺じゃなく兄者と結婚しなきゃなれないんだからな。その女ってのが
「まあ…。でもハイレイン様がお幸せになれるのでしたらお相手がどのような方でもよろしいのではありませんか? ランバネイン様はまた別の方とご結婚なさってお幸せになればすべて丸く収まりますね」
ツグミはそう言って微笑みながらも頭の中ではいくつかの情報の整理をしていた。
(
ひとりの女性を兄弟で奪い合って仲違いをしているのなら戦力の分断は簡単にできるかと思われたが、ランバネインの方はミラにまったく興味はないようだから残念ながらこの状況は利用できない。
しかしランバネインが少なからずツグミに興味を持っているようで、これは上手く活用すれば味方にすることは不可能でも戦力としては無力化することもできるかもしれない。
そう結論を出したツグミはランバネインに捕まってしまったことを利用することにした。
だからランバネインにさり気なく肩を抱かれても嫌がる素振りはせずに恥ずかしそうに俯く。
「俺が幸せになれるかどうか確かめてみるか?」
ランバネインはツグミの耳元でそう囁いた。
いつまでも立ち話をしているわけにはいかないが、ここで家の中に入ればランバネインに「脈アリ」と思われる。
見た目は2メートルを超える大柄な男性で恐ろしそうに見えるが、大規模侵攻で戦ったことのある東や米屋たちからは「敗北を素直に認め武人らしい振る舞いをする潔い男」と聞かされていたから卑怯なマネはしないと判断してツグミは決心した。
「わたしは初対面の男性の家について行くなどというはしたないマネは今までしたことはありません。それにもう子供ではありませんから未婚の女性が同じく未婚の男性から家に招かれることとそれを承諾することについての意味もわかっています」
ツグミは真剣な顔でランバネインに言う。
するとランバネインはニッと笑いながら訊いた。
「それでどうする?」
「わたしはランバネイン様に恋愛感情は抱いていません。後をつけたのはベルティストン家の御曹司に対する単なる好奇心でしかありません」
「それで?」
「このままついて行ってしまったら、わたしはランバネイン様の好意を利用してベルティストン家の御曹司の正妻の座を狙っている小賢しい女に思われてしまいます。それは絶対に嫌です」
家に招かれるのが嫌なのではなく、この慣習を利用して玉の輿に乗ろうとしているように勘違いされるのが嫌なのだということにしてこの場を収めようというのだ。
相手の機嫌を損ねないように断る場合、特に男性が身分の高い立場である時には「あなたのことは嫌いじゃないけど、あなたのことを利用している女に思われたくはない」ということにして穏便に解決することがある。
ツグミはそんなことも知らず、ランバネインを怒らせないようにと考えたら自然と口からこのような言葉が出たのだった。
するとランバネインは機嫌を悪くするどころかツグミのことを大いに気に入ってしまったようだ。
「正直だなぁ、おまえ。だが、そこがいい。気に入ったぜ! だが無理強いはできねぇし、どうしたもんかな? このままおしまいってことにするには惜しい上玉だ」
「はあ…」
「そういやぁ、おまえは俺のことを知っているのに俺はおまえの名前さえ知らないというのは不公平だ。せめて名前と住所くらいは教えてくれてもいいんじゃないか?」
「ランバネイン様なら命令して強引に聞き出すことだってできますのに、そうしないんですか?」
「俺は気に入った女をモノにするのに暴力は使わんと言ったが、権力を振りかざすようなこともしない。女を口説くのに貴族なんて身分を利用するのは男らしくない。だいたい粋じゃないだろ?」
それを聞いてツグミはとっさにプランの変更をした。
「ランバネイン様、初めは怖そうだなと思っていましたが意外にも気さくな方で、一緒にいると楽しいおしゃべりができそうだなって思えてきました」
「なら ──」
「いえ、今日はここまでにしておきませんか? さっきあなた様はわたしのことを『気に入った女』とおっしゃいました。その気持ちは嬉しいですけど、自分の気持ちも大切にしたい。だからもしわたしとあなた様に強い絆があるのだとしたらここでお別れしても再会できると思うんです」
「ふむ…」
「わたしの名前はイデアと申します。歳は15歳。この街のとある屋敷の奥様にお仕えしている侍女ですので時々こうして街の中を歩くことがあります。ですから運が良ければまたすぐに会えると思います」
ランバネインはそう言って微笑んだツグミにますます興味を持ってしまった。
(俺がベルティストン家の人間であると知ると媚を売る女が多いというのに、このイデアという娘はその様子が一切ない。さっき言ったように貴族の俺がこんなところに住んでいることに好奇心を抱いただけなんだろう。…だが脈がまったくないというわけではなさそうだ。住んでいる場所はわからないが、イデアがこの街の住人であり、俺を避けることがなければまた会うことはできるだろう。賢い娘のようだからこの駆け引きを楽しんでいるのかもしれないぞ。ならばここで引き止めるのは逆効果。身なりはいいし礼儀もしっかりしているから『奥様にお仕えしている侍女』というのも嘘ではなかろう。ならば探すのも不可能ではなく
一方、ツグミはランバネインに対して印象が大きく変わっていた。
(この人は立派な価値観を持つ紳士だわ。ゼノン隊長たちもそうだったけど、女性の少ない
ランバネインとは武人として、ハイレインとは知略で戦ってみたいと考えるようになったツグミ。
だからランバネインを騙して無力化することは
「わかった。今日はこれで一旦お別れだ。そして次に会えた時には思う存分語り合おうぜ」
「はい。わたしも再会できるのを楽しみにしています」
そう言ってツグミは丁寧に
夕方になってエリン家の屋敷に戻った彼女は夕食後の情報交換の際にランバネインとの
ディルクたちに不要な心配をさせたくはなかったからである。
◆◆◆
翌早朝、まだ夜が明ける2時間も前にツグミは幼年学校へと向かった。
彼女は寮生の朝食の賄いのために雇われたので、朝7時からの食事に間に合うように調理をしなければならず、そのためには非常に早い時間に出勤しなければならないのだ。
食事は朝・昼・晩と3回あるわけだが、早朝の時間帯だけの勤務にしてもらっている。
そうしないと本来の仕事に支障が出るからなのだが、いくら彼女がアフトクラトルの少女を演じていても長時間他人と接していれば何かをきっかけに綻びが出てしまうかもしれないからだ。
ツグミにとってはC級隊員と接触できればで十分なのであり、時間帯は全然関係ないのでできる限り他人と関わりを持たずに済む早朝の勤務がちょうど良いのである。
幼年学校の通用口には警備員が常駐していて人の出入りを監視している。
よって入退出が厳しく管理されていて、職員や出入り業者は必ずICカードのような許可証を携帯しなければならない。
ツグミも前日の夕方に教員や事務員、職員などを統率する事務長と面会をしていて、許可証を与えられていた。
それを受付で提示して微笑むと、若い男性警備員は頬をポッと赤らめながら門を開けてくれる。
続けて食堂棟へと歩いて行くと前日に紹介された調理部門の主任である60歳くらいの初老の男性が入口ドアの鍵を開けているところであった。
彼は敷地内にある職員寮にひとりで住んでいるということで、食堂棟のドアの開錠が彼の仕事のひとつなのだ。
「おはようございます、主任さん」
「ああ、おはよう。今日からよろしくな」
そんな挨拶を交わしてから厨房の中に入り、ツグミは作業台の清掃を始めた。
幼年学校の生徒の数は約100人で、それにC級隊員が18人、そして夜勤や寮住まいの職員等が16人おり、いくらか多めに用意するため約140人分の料理を作ることになる。
それなのに朝食を調理する早朝の勤務は常に人手が足りず、よってツグミのように経験がない人間であってもやる気さえあればすぐに雇ってもらえるのだ。
もちろんきちんとした紹介者がいないとダメだが、ここのベテラン職員が身元引受人であるとなればそう難しいことではない。
エリン家の家臣の母親がここの厨房で30年も働いていれば、彼女の紹介ほど信用できるものはないのだ。
あとはツグミ自身が他の職員たちから認められるだけで、始業前の清掃を完璧に終わらせてしまい出勤してきた先輩たちがすぐに作業に取り掛かることができるようにしていたことは好感度と信頼度を一気に上昇させたのだった。
◆
この日の朝食のメニューはミルクで煮たオートミール、スクランブルエッグ、ベーコンという
オートミールはあまり一般的ではなかったものの、食物繊維を豊富に含むことでダイエットにも良いということで最近人気が出てきているものだが、アフトクラトルではだいぶ前から朝食といえばオートミールだということだ。
オートミールとはオーツ麦を原料とした朝食用のシリアルに用いられる粉製品で、水や牛乳などで煮て粥状にして食べるのが一般的だ。
以前は小麦を使ったパンが主食であったのだが小麦の入手が難しくなり、それがライ麦のパンに変わったのだが、それすら手に入れられなくなったために荒地でも育つオーツ麦を使ったオートミールが普及していったという経緯がある。
それもすべて
大金を積めば裏ルートで他国から入手するという方法があるため、貴族たちの中にはこぞって小麦粉を手に入れて白くて柔らかいパンを食べているらしい。
なおエリン家ではそんなことはせずにライ麦パンやオートミールを主食としている。
そんな事情で幼年学校の寮生の食事は三食ともオートミールなので、ほかほかご飯に慣れてしまっているC級隊員たちは何ヶ月も厳しい食生活を強いられていることになる。
それでも量は十分にあり、将来の国を背負って立つ子供たちにひもじい思いをさせたくはないという大人たちの配慮が見られるのがせめてもの救いだ。
7時になるとC級隊員18人が一斉に食堂へやって来た。
それぞれが自分でカウンターに並んでいる料理をトレイに載せていくというセルフサービススタイルで、自分の分を持って適当な場所に座って食事を始める。
おかわりをしたい者はカウンターへ行って中の職員に注文をするというシステムで、その時がツグミにとってのチャンスであった。
18人の中でリーダー格だと目星をつけておいた有田康治(ありたこうじ)という17歳の
「有田康治さんへ」と名指しで書き出してあるそのカードには自分がボーダー隊員で救出作戦に携わっていることと、そのことは他のC級隊員にも言わないでほしいことと、食事が終わったら直接話がしたいことがあるので食堂を最後に出て廊下の角で待っていてほしいことを簡潔に書いておいた。
それを見た有田は驚いた顔でツグミを見るものだから、彼女は「大丈夫。心配いらない」という顔で微笑む。
するとそれだけで事情を察してくれたようで、小さく頷くと自分の席へと戻って行った。
そしてゆっくりと食事をし、他のC級隊員たちが次々と出て行くのを見送った後にひとりで食堂を出た。
「あ、誰かハンカチを忘れたみたいです。わたしが行って届けてきますね」
「ああ、忙しいから早く戻って来いよ」
テーブルの後片付けをしていたツグミがさも忘れ物を見付けたかのように、厨房の中にいる主任に許しを乞うと食堂を出て行く。
厨房の中は次にやって来る一般生徒のための準備をしているからツグミの行動に対して関心を持つ者は誰もいない。
不真面目な態度でいたら仕事をサボろうとしているのだと思われるが、これまで一所懸命にてきぱきと仕事をしている姿を皆に見せていたから疑われることもないのだ。
指示された場所で有田が待っていて、ツグミは周囲に誰もいないことを確認すると小声で言った。
「わたしは霧科ツグミ。こんな姿をしているけどこれはトリオン体のデータをちょっといじって顔を変えただけで、れっきとしたボーダー隊員です」
「霧科くんってB級フリーの
「そうです。
「本当ですか!?」
「しっ! 声が大きい」
「あ…すみません」
「それで本隊が到着してもすぐに作戦行動というわけにはいきませんが、そんなに時間はかからないと思うから安心していいですよ。
「わかった」
「それから他の人の口からわたしというスパイが潜り込んでいることがバレるとすべて水の泡ですから、誰にもこのことは言わないでください。いいですね?」
「ああ、絶対に誰も言わない」
有田は大きく頷いて答えた。
「あと少しで家族のもとへ帰ることができます。だから希望を捨てずに時が来るのを待っていてください。じゃ、わたしは戻ります。わたしは朝食の賄いの係なので、また明日の朝にお会いしましょう」
ツグミはそう言って駆け足で食堂へと戻って行ったのだった。