ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
ツグミがエウクラートンを留守にしている6日間で女王後継問題について国会でいろいろ議論されて一応の結論は出たようであった。
まずこれまで婚姻に関する王家のルールが緩和された。
女王の後継者となる女児が生まれなかった原因が婚姻に関係するものであったから、そこを改めなければいけないというのは誰にでもわかることであり、影響するのがオーラクル家の人間だけであるから変えるのは非常に簡単である。
今さら遅いとは思うが、エウクラートンが女王を失いたくないという絶対的な結論を出したのだから、そのために必要なことはやらなければならないのだ。
王家の人間の婚姻相手を女王が決めるのではなく本人の意思を尊重するとか、一定の期間を経て子供が生まれない場合には本人たちの意思で離婚や再婚もできることにして慣習の廃止を決めた。
これによってすべての問題が解決するわけではないが、少なくともリベラートとミリアムのような立場でも婚姻は可能となるし、リベラート夫妻のように子供ができない夫婦がそのまま歳を取ってしまうということもなくなるだろう。
ツグミが次期女王の座を引き受ける条件の中にあった「王家の婚姻に関する慣習の撤廃」はこれで解決したが、それだけではまだツグミは納得できない。
自分が女王になることで変えようとする「国のあり方」についてはまだ議論の途中で、ツグミの「
それは自分たちの国の将来に大きく関わることだから当然の反応だ。
エウクラートンを変えようという革新的な人間はツグミの案を支持するものの、反対派は変化を望まずに現状維持を支持するのだが、停滞することに満足しているわけでもないのに具体的な未来像がないという中途半端な状態であった。
反対派の主な主張はこれまで軍備に回していたトリオンの割合をほぼゼロにしようという提案に納得できないというものだ。
国土の維持や季節・天候の調整に多くのトリオンを使えば土壌が肥えて天候が安定するので作物の収穫量が格段に増える。
キオンから徴収される食料の多さに辟易していた国民もこれで生活がずいぶんと楽になるわけだが、キオンが調子に乗ってさらに要求をしてくるようになるのではないかと恐れている。
またキオンの軍が駐留して第三国による侵攻から守ってくれるという約束でもそれを反故にされたら無防備なままで侵略を許すことになってしまう。
こればかりはツグミがいくら口で説明してもわかってもらえるものではなく、しっかりとした確証を得られるものでなければ説得できるはずがないのだ。
そこでツグミはキオンから運んで来た「お土産」を議会で公開することにした。
テスタが用意した「お土産」は3種類あり、彼女個人用、ボーダー用、そしてエウクラートン用で、その内のエウクラートン用のものにはキオンで開発した
通常は自国の
最重要機密であるから国内でもごく一部の人間だけが管理していて、キオンがそれをエウクラートンに譲渡するということはまさに「信頼の証」として最大級の特別扱いをしていることを意味している。
その
通常の
そしてその
実はこの
現在のキオンは積極的に他国への侵攻はせず、同じような軍事大国のアフトクラトルに比べると
そうなると
しかし見た目には派手であり、攻防一体のノーマルトリガーは珍しいためにエウクラートンの人間なら喜ぶだろうとテスタは考えたのだ。
自国で不要な
そしてこの
◆◆◆
ツグミにとって議会での話し合いがどのようになったのかは重要な懸案であったが、それ以上に気にかけていたのは女王の体調についてだった。
白峰が診察や治療を行っているのだから全部お任せするしかないのだが、だからといって無関心でいることもできない。
いくら女王本人がツグミに対して冷ややかな態度であっても心配するのは人間として当然の心理で、毎日行う診察が終わって自室に戻って来た白峰を捕まえて状況を聞くことにした。
「女王陛下の具合はいかがでしょうか?」
「だいぶ症状は良くなったよ。投薬だけでなく食生活の改善で不足していた鉄分や各種ビタミンの摂取が功を奏した。貧血は直接命に関わる病気ではないし、痛いとか苦しいという苦痛から解放されたいというものではないために積極的に治療しようという気持ちにもならないから厄介なんだ。特に彼女の場合は疲れやすいのなら身体を休めることは自由にできるし、神殿の中から外にも出ないので激しい運動をすることもないから一般の人間に比べて治療しなければいけないということもない。また
医師という職業柄なのか会ったこともない
「そうだ、きみがキオンから帰って来ていると報告を受けた女王陛下はきみに会いたいと言っていたぞ」
「本当ですか!?」
「ああ」
「じゃあ、リベラート殿下のところに行って神殿へ行く許可をもらってきます! どうもありがとうございました!」
ツグミは白峰への礼もそこそこに彼の部屋を出た。
そしてリベラートの執務室へと直行し、ふたりで神殿へと向かう。
神殿では女王が「朝の勤め」を行っていた。
「朝の勤め」とは一日に2回行われる
基本的には
それと同じことを夜にも行う「夕べの勤め」が女王の主な役目である。
だからそれ以外の時間は何もすることがなく、私室で本を読んだり身体を休めているのだそうだ。
女王曰く「お勤め」は体力を消耗するので睡眠時間は12時間以上必要で、一日の半分を眠っているとなるといつも走り回っているようなツグミには耐えられそうにない。
そんな「朝の勤め」が終わって女王が声をかけてくるのを部屋の隅で待っていると、ツグミは大事なことを思い出した。
「リベラート殿下、忘れ物をしたので取りに行って来ます」
「忘れ物?」
「はい。通用口の脇に置きっぱなしになっていて、使う時に運べばいいと考えていました。でも今があれを使う絶好の機会なんですから、急いで行って運んで来ますね」
そう言い残すとツグミは音を立てずに歩き、通用口まで行くとそこに置いてあった「車椅子」を押しながら戻って来た。
女王の身体の調子が良い時には神殿の外へ出て適度な紫外線を浴びることは健康のために必要だということで、ツグミは自前で用意していたのだった。
そしてちょうど良く「朝の勤め」が終わった女王がツグミたちの方に視線を向けて声をかけた。
「ツグミ、こちらへ来なさい」
「はい!」
ツグミは女王の前に跪き、臣下が主君に礼をするように深く頭を下げた。
「そんなことをせずともよい。そなたは私と同じオーラクル家の一員なのじゃ、堅苦しいことは抜きにしよう」
「わかりました」
「ところでそなたが運んで来たあれは何じゃ?」
女王の視線の先には車椅子がある。
「あれは車椅子といって身体の不自由な方の行動範囲を広げる
「椅子に車輪が付いているから車椅子と。なかなか面白そうなものだが、どうしてそんなものをわざわざ
「もちろん女王陛下にご使用いただくためです。神殿の中だけなら必要はありませんが、たまにはご気分のよろしい時に外に出て太陽の光を浴びることは健康のためにも必要なことです」
「そういえばあの医者もそう言っておったな」
「日光を浴びるということは健康的な生活を送る上で欠かせない習慣なのです。強すぎる紫外線は皮膚へのダメージが心配されますが、逆に日光をまったく浴びないでいるとビタミンDが不足してしまいます。ビタミンDはカルシウムの吸収を促進し、丈夫な骨をつくるのに欠かせない栄養素で、日光を浴びることによって活性化されます。また日光を浴びると、脳内でセロトニンと呼ばれる神経伝達物質が分泌されると言われています。このセロトニンは別名『幸せホルモン』『癒しのホルモン』などと呼ばれ、ストレスを軽減して精神を安定させるために欠かせない物質なのだそうです。これが減少することで気力や活力の低下が心配されるものですから、一日10分から15分程度でかまいせんので日光浴をして病気に負けない体質を作ることができるようにとお医者様もお勧めしているのでしょう」
「何やら医者のような難しい言葉を良く知っておるな? ようするに太陽の光を浴びると健康になれるということか?」
「健康になるためには正しい食生活を送ることや適度な運動などを行い、その上で身体を丈夫にするために日光浴をしたり、人と会って楽しい会話をすることが必要なのです。日光浴をしたからといって病気にならないのではなく、様々な努力の内のひとつだということです」
「人と会って楽しい会話をすると病気になりにくくなるのか?」
「はい。病気になりにくい身体をつくることは『免疫を高める』とか『免疫細胞を活性化させる』と言いますが、そのためにストレスを溜めないことが重要になります。薄暗い神殿で誰にも会わずに
「そんな馬鹿なことが…」
「いえ、笑っている時は自然と腹式呼吸になります。腹式呼吸は体内に多くの酸素を取り込んで内臓に刺激を与えられるため、血流が良くなって新陳代謝も活発になるのです。血液中には白血球などの免疫細胞が存在し、ウイルスや異物を攻撃するためにパトロールをしています。ですから血流が悪いと体内を十分に巡回できないため即座に攻撃ができません。血行が良くなれば免疫細胞が体内をスムーズに巡回してウイルスや異物をすぐに攻撃できるため免疫力のアップにつながるのです」
「……」
「ちょっと難しいお話になっちゃいましたね。とにかく女王陛下には健康で長生きしていただかないと国民は不安になり、それがストレスとなって病気に対して弱くなってしまいます。女王陛下の健康が国民の健康にも繋がるのですから、あなたがご自身の健康のために必要なことをするのも女王としての役目だと思ってください」
すると突然女王は大きな声を上げて笑いだした。
「あはははは…。これは良い。この私にこれだけ意見できる者がおったとは愉快、愉快じゃ!」
女王の態度の豹変に驚くツグミだが、それ以上にリベラートは驚いていた。
なにしろ女王の笑った顔を見たのは彼女が女王の座に就く前、もう何十年も昔のことだったからだ。
「ああ、今日はなぜか気分が良い。ツグミ、少々そこで待つのじゃ。私は着替えてくる。そうしたらその車椅子とやらで私を神殿の外に連れて行ってくれ」
「はい、承知しました」
女王が快く日光浴をする気になってくれたので、ツグミの顔には笑みが浮かんでいた。
そして私室から着替え終えた女王が出て来たので車椅子を押して扉のところまで行く。
もちろんリベラートも一緒で、女王が車椅子に腰掛けるとツグミがそれを押して進む。
途中にある扉はリベラートが開けてくれて、10分ほどで神殿の外に出ることができた。
「おお…!」
女王は何十年ぶりに見る外の世界の眩しさに目を細めて声を上げた。
爽やかな秋の風が彼女の顔を撫でるように通り過ぎ、土と草の匂いを彼女に届ける。
「ああ、何とも言えない優しい匂いがする。ずっと忘れていたが、これは私の愛する国の匂いじゃ…」
目を瞑ったままで風を感じ、遠い昔の記憶が呼び覚まされたようだ。
「今は秋。この匂いは収穫の終わった畑の土と、牧草を乾燥させている時のものじゃ。まもなく冬がやって来て土や草の匂いがなくなる季節となるが、再び春がやって来て芽吹いたばかりの新しい草とそれを力強く育てるたくましい土の匂いがするようになる。この愛おしい匂いを忘れてしまうほど長い間この世界と隔絶されてきたというわけなのじゃな…」
「こうして風を感じることで国民の生活にも思いを馳せることができます。今頃は小麦の収穫をしているだろうとか、ジャガイモの花は咲いただろうか、なんて。女王としての役目は大切ですが、その前にエウクラートンの国民のひとりとして生きていることを楽しもうという気になってみませんか? 別にあなたがひとりの人間として当たり前のことをしたからといって
「私が私らしく生きることのできるルール…」
「はい。今までずっと我慢していたことはありませんか? 健康さえ取り戻せばまだなんでもできる年齢です。やろうと思えばこれまで無理だと諦めていたことだってできるはずですよ。今、何かしたいことはありませんか? わたしが叶えられることであれば何でもやります。ああ、今すぐ女王になれというのは無理ですけど」
ツグミがそう言うと、女王は少し考えてから恥ずかしそうに答えた。
「甘い菓子が食べたい。できることならフワフワとした柔らかい菓子が良い」
「わかりました。では昼食の時に作って持ってまいりましょう。…あ、もしよろしければ昼食をご一緒させていただけませんか? いつもの料理でもひとりで召し上がるよりふたりの方が美味しく感じられるでしょう。そしてお菓子はそのデザートということで」
「そなたが私のために菓子を作ってくれると申すか…。それは嬉しいのう」
「
「かまわぬ。ああ、昼食が楽しみになってきたぞ」
「食事を楽しいと思えるようになることは健康への第一歩です。さて、日光浴はこれくらいにしておきましょう。久しぶりに太陽の光を浴びたのですからお疲れになったと思います。毎日こうして15分くらいずつ日光浴をされるとよろしいかと」
「わかった。では戻ろうか」
ツグミが車椅子を押そうとするとリベラートがさっとツグミの手から車椅子のハンドルを奪った。
「ここからは私の役目だ。帰り道は少々登りの傾斜があるのだから、男の私に押させてくれ」
「ありがとうございます。ではここを握ってください。その下にブレーキがありますので、使う時には強く握ってください」
リベラートに使い方を説明し、ツグミは女王の隣を歩くことにした。
「これさえあれば神殿の外に出るだけでなく庭園にも行けるようになるかのう?」
女王がツグミに訊く。
「う~ん…庭園ですと階段のある場所を通らなければなりませんので、階段部分は誰かに抱っこしてもらうか緩やかなスロープを造るしかありません。でも女王陛下がご自分で階段の上り下りができるようになれば途中まで車椅子を使用し、数段の階段をご自分の足で上り下りして、車椅子は介助者が抱えて運ぶという手もあります。ああ、階段には手すりを設けた方が安心ですね」
「そうか、では来年の春までには自分の足で階段の上り下りができるようにしておかなければいけないな」
普段から神殿の中の私室と
しかし毎日少しずつでも歩くことを心掛ければ車椅子も不要となる日が来るはず。
自分で歩きたいという意思があれば十分可能な願いだ。
この後、ツグミは遠征艇に戻って自分のおやつ用に持ち込んでいたホットケーキミックスを使ってパンケーキを焼き、分けてもらった新鮮な牛乳で生クリームを作ってパンケーキに添えた。
そして最後の仕上げにと王宮の庭園の片隅で自生していたラズベリーを摘んで生クリームの横に載せると4人分の「ツグミのお手製パンケーキ ラズベリーと生クリームを添えて」ができあがった。
そのうちの1皿を艇のメンテナンスとトリオン抽出作業をしているリヌスのために残し、残る3皿をトレイに載せて王宮の厨房へと向かった。
厨房では王族用の昼食を調理しており、ツグミは1皿をリベラート用に、残る2皿を自分と女王用に運んでもらうことを依頼した。
念の為に毒見をしてもらうつもりでいたのだが、厨房職員はツグミのことを信頼していると断言して毒見はせずに運んでくれたのだった。
この日の女王専用ミールは鶏レバーペーストと温野菜サラダで、鉄欠乏貧血の症状改善のためのメニューとなっている。
これは白峰が理想的な食材とその調理方法について指示した効果で、鶏レバーペーストはパンに塗るタイプで食べやすく、温野菜はビタミン成分を壊さないように蒸されたものだ。
ツグミは女王の私室で向かい合わせになって食事をする。
会話の内容は主にツグミの
女王自身は口数こそ少ないものの、いつもなら残してしまう料理を全部食べてしまうほど食欲が出てきたようだ。
さらにツグミが作ってきたパンケーキにたっぷりのメイプルシロップをかけて子供のように満面の笑顔でこれも全部食べてしまったのだった。
これには料理を運んで来た厨房職員も驚きで、女王が料理を全部食べたのは1年ぶりだということなのだから無理もない。
最後にツグミは女王に言った。
「食事とは何を食べるかという点が重要ですが、誰と食べるかがもっと重要なのです。どんなに美味しくて栄養価の高いものであってもひとりで黙々と食べるよりも、親しい人と語らいながら楽しく食べる質素な料理の方がずっと美味しく感じられ身体にも良い影響を与えます。できることならこれからも誰かと一緒に食事をなさるのが良いでしょう。わたしが滞在している間は毎回ご一緒させていただきます」
この時女王はツグミが自分のことを女王だから敬い気を遣っているのではなく、血のつながりのある大叔母だから心配しているのだと気付いた。
リベラートを含め女王の周囲にいる人間は彼女を女王として扱っているために絶対に逆らわず意見を言うことなどありえないことだった。
だから初めの頃はツグミの態度に腹も立てていたが、自分を女王ではなくひとりの人間として見てくれるからこそ厳しい物言いをするのだと理解できた。
女王ではない自分を認めてくれるツグミが好ましく思えてきて、素直に彼女の言うことに耳を傾けることもできるようになり、女王ではない自分を生きることを望むようにもなっていったのだった。