「昼間の会議でも聞かせてもらったが、もう少し詳しい話が聞きたい。ずばり近界には何が必要だと思う?」
ボーダー本部長の顔に戻った忍田がツグミの報告を聞きながら尋ねた。
そこでツグミは城戸にだけ話したことを改めて忍田にも話すことにした。
「そうですね…。たくさんありますけど、一番必要なのは彼らの意識改革ですね」
「意識改革?」
「そうです。キオンが玄界の文化を受け入れるとすると、それは日本の幕末から明治維新の頃と似ている状況となります。突然やって来た黒船によって開国を余儀なくされ、これまで見たことも聞いたことのない文化がなだれ込んできました。それと同じような『異文化』の流入になるわけで、それを受け入れるだけならそう難しくはありません。トリオンを使わない日常生活に慣れるのも時間の問題です。ですが与えられたものを無条件で受け入れるだけではそこでおしまいです。明治以降の日本は長い間鎖国をしていたブランクを感じさせず、数十年で欧米列強と肩を並べるに至りました。それは単に受け入れるだけではなく既存の技術をさらに磨き上げて自分たちのものとしたからです」
「ふむ…」
「キオンの庶民階級の人々と接してみてわかったのは、彼らはもう長い間ずっと現状を受け入れることに慣れきってしまっていて、自らより良く生きようと努力することができずにいるということ。ほんの少しの工夫で良くなるとわかっていてもそのほんの少しができないという事情と諦めが停滞を生んでいます。それをなんとかしないと玄界の文化はいつまで経っても近界民たちのものにはならないんです。別に彼らの心配をする必要はないのですが、そこで放置してしまうと面倒なことになりそうで怖いからいろいろ考えているだけですよ」
「面倒なこと?」
「与えるとしてもいつまでも無限に与え続けることは不可能。それに一度でも生活レベルが上がってしまえばそれを落とすことはできない。もっと美味しいものが食べたい、もっと楽に金儲けがしたいといった欲望は誰にでもありますから、彼らも少し生活レベルがアップすればその上を望むようになるのは自明の理。ずっと努力をすることをしていない彼らが満足するための手段となれば他人から奪うことしかありません。だって今までずっとそうやってきたんですから。ボーダーがキオンに技術を伝授したとして、それを他の国が黙って見ているだけなんてことはありえません。キオンを中心としたグループの傘下に入るか、キオンから奪うか、そしてこちら側の世界へやって来て直接奪っていくかのどれかになるわけで、3つ目であった場合は最悪の事態となるでしょう。アフトのような国であれば三門市民をさらって人質にし、返す代わりに交換条件として…ということになるのは目に見えています。いくら近界民と戦わずに済む方法を考えても、結局ボーダーは近界民と戦うことになってしまうんです」
「それで意識改革なのか?」
「はい。彼らには他人から奪えばいいという短絡的な考え方を捨てさせることが必要で、自らが努力して国を豊かにすることこそが尊いのであり、そしてそれが自分たちの生活も向上するという関係性も教えなければいけません。そのために必要なのは教育で、生まれつきの身分や貧富の差がそれを妨げてしまっています。すべての子供たちに教育を与え、未来の可能性を広げてやることは大人の義務です。そうすれば多様な価値観を持つ子供が育ち、自分たちが積極的に動くことで生活が向上すると知ればますますやる気を出すことでしょう。これらの話はスカルキ総統とも話をしました。自分の経験から知識は武器となることを断言します。例えば初見のトリオン兵と戦う場合、どのような目的を持って投入されたのかやどんな武器を持っているかなどわかりませんから緊張します。大規模侵攻でのラービットがそうでした。まさかトリガー使いを捕獲するためのトリオン兵だなんて想像もしていませんでした。だからキューブ化された正隊員が出たわけです。でも次にラービットが現れた時には敵の情報を持っているということで前回よりも優位に戦うことができます。捕獲されたらキューブにされる前に緊急脱出してしまえばいいし、スピードと装甲の厚さが脅威で攻撃手段は徒手空拳と頭蓋から電撃を発生させるとわかっているんですからそれに警戒すればいい。もちろん人型と同じ能力を持つラービットもいますから楽勝…とはいきませんけど。でも知識とはそういうものです」
「教育は一朝一夕にはいかないぞ」
「当然です。こちら側の世界だって発展途上国に様々な支援をしていてもなかなか効果が見られないのが現実です。先を行く国が遅れている国に与えるだけではダメ。永遠に与え続けることができるわけじゃないんですから。荒地を切り開いて農地にし、そこに作物が育つように灌漑施設を造って技術を教えたとしても住民たちが自分でやることを覚えなければそこでおしまい。せっかくの施設も管理や修繕ができないために壊れたままで使えないなんてことはざらにあります。そうならないためには教育が必要なんですが、その前に絶対的に必要なのは食料の増産です。衣食が足りないうちでは礼節なんてものは身につかない。玄界にだって人手が足りないからと子供を労働力にしていても、学校には給食があって一食分浮くから渋々学校へ行かせるという親もいるくらいです。まずは玄界の進んだ農業技術を自分たちのものにすれば毎日お腹いっぱい食べられるのだと信じさせることから始めます」
忍田はツグミの話を聞いていて不思議に思った。
(この子は歳の割には賢くて視野が広い普通の娘だと思っていた。しかしこんな政治家のようなことを嬉々として話すなど、この子はいつどのようなことがきっかけとなってこんなことを考えるようになったのだろう? 自分に近界民の血が流れていると知ったから? …いや、違う。そのずっと前から近界民との交流には積極的だった。近界民の血が無意識にそうさせていた? …そんなことはない。この子は自分のことが最優先であってもその広い視野によって目先の利益ではなく長期的な利益を得るための計画を立てることができるから、5年後10年後の自分を想像して今やるべきことを考えることができるのだ。…それにしてもこの子の考えた方は単なるボーダー隊員の枠を大きく逸脱している。普通の隊員なら上層部の指示に従って行動し、三門市民の生命と財産を守ることまでしか考えていない。中には近界民に対しての復讐心だけで戦っている隊員もいるが、彼らはすべて現在のために行動していて、この子のように未来を自らの力で切り開こうなどと考えてもいない。別にそれは悪いことではないし普通のことだ。だがこの子はなぜ自ら過酷な道を選択したのだろうか? どうしてここまで身を削るようなことができるのだ…?)
そんな自問自答をしていた忍田の心の中を読んだかのようにツグミが言った。
「もしかしたらわたしがボーダー隊員の枠を超えた行動をしているって思っていませんか? たしかにボーダー隊員のわたしが近界や近界民たちの未来のことなんて考える必要はありません。上層部で決定したことをそのまま実行するだけで十分で、むしろ各自が自分の考えで行動してしまったら収拾がつかなくなります。だからわたしのやっていることは本来のボーダー隊員としてあるまじき姿なのかもしれません。でもわたしの利益とボーダーの利益が合致するから城戸司令は許してくれたわけで、ミリアムの黒トリガーを持ってS級隊員になったのも城戸司令直属になればあの人の判断だけで行動できるようになるからです。以前のわたしとあの人の関係だったらこんなことはできなかったでしょうけど、お互いの気持ちを理解したからこそあの人はわたしに好きなようにさせてくれているんでしょう。もちろんボーダーとwin-winの関係でいられなくなったら城戸司令はわたしの行動を止めようとするでしょうが、城戸さんならどうなるかわたしにもわかりません。あの人は過去に一度近界民との融和の道を諦めてしまいましたが、自分ではできないことをわたしがやろうとしているのを見て期待してくれているのだと思います。たしかにわたしの進む道は誰も成功したことのないもので、言わば前人未到の地を拓きながら歩いているようなものです。でもわたしひとりだけではなく一緒に歩んでくれる仲間がいるから不安はありません。いざとなればわたしを止めてくれる人もいますから、最悪の事態にはならないでしょう。わたしの手に余ることだとわかったらそこでは引き返します。だからそれまでわたしのやりたいようにやらせてください。どうかお願いします」
ツグミにそう懇願されて土下座までされてしまっては忍田も頑固にNOとは言えない。
「頭を上げなさい、ツグミ。私だって何でもかんでも反対しようとは思わないし、いつまでもおまえのことを子供だと思って心配ばかりしているのでもない。おまえの話を聞いていて自分のためにやっていると言いながらも近界の未来のことを当の近界民たちよりも憂いていて、どうしてそこまでするのか考えたが答えが出なかっただけだ」
「難しく考えることはありません。物事は非常に単純にできていて、いろいろなものが絡み合っているから複雑に感じるだけです。それにいくらわたしとあなたが血のつながりのある姪と叔父の関係であっても突き詰めれば他人。別の人格を持つ個なんですからすべてを理解できるはずがありません。わかろうとしても無駄なこと。…いえ、わかろうとするのなら想像力を鍛えたらいいんです。自分がその人の立場であったなら何を望んでいるのか、何を恐れているのかなど想像できれば対応しやすくなります。もっともわたしの思考回路は普通の人とは大きく違っているようですから、わたしが何をしようとしているのか想像できないって良く言われます。想像の斜め上のさらに上だと言う人もいますけど、それはその人物の想像力が足りないだけです。または情報量が不足しているのかで、わたしはその両方が普通の人よりもちょっとだけ秀でているからその分誰も想像できないことを思い付いてしまうんです。そしてそれを実行するから驚かれるんですね。仮に思い付いたとしても本当にやってしまうというところまでは想像できないから。とにかくわたしだって分の悪い勝負はしたくありません。だからいろいろ考えてこれなら成功するだろうというレベルまで諜報工作や水面下での交渉などをしてからでないと実行はしませんからご安心を」
あっけらかんと言うツグミに対して忍田は何も反論できない。
彼女の言うことが正論だろうと極論だろうと彼女の勢いにのまれてしまって、彼女の言い分は正しいのだと思い込まされてしまうのは忍田だけではない。
それだけディベート能力が高いのだろう。
それはともかく玄界と近界を行き来しながら本来のボーダーの役目とは違うやり方で三門市民を守ろうとしているツグミの意思を尊重し、父親とボーダー本部長両方の立場で彼女のことを最後まで信じるしかないのだと自分に言い聞かせるしかなかった。
「いいだろう。その代わり私が父親としてダメだと判断した時はボーダーを辞めてもらうし、本部長としてダメだと判断した場合は城戸さんにすべてを委ねることにする。これが私の最大限の妥協点だ」
「はい。それでかまいません。わたしだって真史叔父さんと忍田本部長に心配はかけたくありませんし、このふたりを悲しませるようなことをすれば自分自身を許すことができないでしょう。だからわたしの行動を冷静に見つめてくれて、場合によってはどんな手段を使ってでもわたしのことを止めてくれる人にいつでもそばにいてくれるようお願いしました。彼なら…いえ彼だからこそわたしの期待に必ず応えてくれると信じています。だからしばらくは市民の救出計画に専念していてください。これからは報告すべきことはちゃんと報告しますから」
「その彼とは誰だ?」
「リヌスさんです。これまで長い時間一緒にいて、近界民の中で彼ほど信頼できる人は他にいないと判断しました。この件は近界の国々を大きく変革することになるのですから、近界民である彼にしかできないんです。彼ならわたしが間違ったことをすれば殺してでも止めてくれるはず。ジンさんや真史叔父さんにはそれだけの覚悟はないでしょ? もちろんわたしだって死にたくはありませんから、彼がイエローカードを出した段階で踏み止まります。それなら安心ですよね?」
手放しで賛成と言うことはできないがダメだとも言えないものだから、忍田は同意を求めようとして迅の顔をチラリと見た。
すると迅は「この件については俺も仕方がないと諦めましたよ」という表情でお手上げのジェスチャーをする。
「む…。まあ、彼なら信用できる男だし、おまえがそう言うのなら…」
はっきりと許可を出したとは言い難いが、これで忍田からもお墨付きを貰ったことになる。
これまでも「ツグミが無茶を言い出す→忍田が大反対をする→ツグミが忍田を説得する→忍田は反論できない→最終的にはツグミのやることを許すしかない」というパターンを何度も繰り返してきて、今回もツグミの圧勝となってしまった。
迅のすべてを承知の上で受け入れるという度量の広さを見せ付けられてしまっては、自分がここでいつまでも反対をしているのも大人げない。
「迅を味方にしてから忍田を説得する」となればツグミの勝ちは揺るがぬものとなる。
「話は変わりますが、以前に城戸司令から本部基地地下にある母トリガーの話を聞いたんですが、忍田本部長はそのことをご存じですよね?」
ツグミが静かな口調で訊く。
「ああ。詳しいことはたぶん城戸さんしか知らないことだが、ボーダー創設時には織羽義兄さんの持っていた黒トリガーを代用品として今の玉狛支部の地下に設置し、そこからトリオンを抽出していた。その仕組みを知っていたのは今となっては城戸さんしかいない。私や林藤ですら母トリガーの存在を知ったのは第一次近界民侵攻後に現在の本部基地へ移送する時だったからな」
「その母トリガーとは例の遠征の時に『核』を譲り受けたもので、定められた手続きを行うことによって母トリガーとしてトリオンの供給装置となると聞いています。この母トリガーが現在この本部基地の地下に設置してあり、自動的にトリオンを必要なだけ抽出するようになっているというところまでは聞きましたが、その定められた手続きがどんなものかは教えてもらえませんでした。およそ見当がつきますから、無理に聞こうとはしなかっただけですけど。もしかしたら遠征で犠牲になった誰かが…とも思ったのですが、今さら誰なのかわかったところで意味のないこと。過去の辛い記憶を掘り起こしたところで幸せになれる人はいませんからね」
「ああ…」
「その母トリガーは今も武器の作成や本部基地の修繕、遠征艇のエネルギーなどに使用されているとのことですが、本来なら母トリガーは誰か操作のできる人がいないと機能しないということですが、ボーダーでは誰も操作せずに自動的にトリオンを生み出して、それを一定の割合で抽出しているんですよね? つまり近界では国土の維持や国民の生活など様々な分野にトリオンが使用されているから供給の割合を人間が操作しなければならないが、ボーダーではそれがないから操作をする人間もいらない。そうなると近界でも国土の維持のみに固定してしまえばそれ以降は操作の必要がなくなる。わたしがエウクラートンの女王になったら母トリガーからのトリオンはすべて国土の維持に回し、それ以外に必要なエネルギーは太陽光や風力などによる発電で賄うつもりだと言いました。まあ、これはちょっと極端で、100パーセント国土の維持ではなく、数パーセントから十数パーセントくらいは国民生活に使えるよう予備として温存するつもりでいます。こうすることで軍事に使うトリオンをほぼゼロにし、トリオンに頼らない生活を広めることで国民の生活を保証しようということなんです。エウクラートンの議員たちはわたしに女王になってほしいけどこれまでと同じく神殿の中に閉じ込めて外界から隔絶された場所で一生過ごせというんですから無茶苦茶ですよね? だからわたしは女王がいなくても豊かな暮らしができる方法があるとPRをして大多数の議員たちを味方にすることに成功しました。さらに女王陛下を説得し、女王不在でも大丈夫な世界は創ることができると説明しました。もしあの人が自分の経験した不自由な人生をわたしに強制したくないと思うなら、あの人が重大な決定を下すことでしょう」
「重大な決定?」
「はい。女王自ら退位を宣言し、以降は女王制を廃止して王家は国の象徴として残すということにすれば、わたしは女王にならずに済みます。もっとも王家の血筋を残すならわたしも協力はしなければなりませんけど。…ですからわたしが女王になってもエウクラートンにずっと滞在しなければならないという理由はなくなり、三門市とエウクラートンを行き来する生活で十分なわけです」
「行き来すると言っても ──」
「いえ、何度も往復するというのではなく、キオンが約400日の軌道で周回してそれと一緒にエウクラートンもこちら側の世界と近付いたり離れたりしているんですから、その近付いた数ヶ月間だけわたしがエウクラートンに滞在し、それ以外の間は三門市にいるということで万事OK。エウクラートン側はわたし以外に女王候補はいないのだからこの条件をのむしかなく、それが嫌だというのならこの交渉は決裂してわたしは後継問題から手を引く。どんな結果となってもわたしには別に痛くも痒くもありません。本人がそんなに深刻になっていないんですから、真史叔父さんもそんな顔をしないでくださいな」
笑顔で言うツグミだが、それは忍田に心配をかけたくないというだけでなく、ずっと隠しごとをしていたという心の重荷を下ろすことができたから笑顔を取り戻したのであった。
迅がアザラシを見に連れて行ったのも、彼女にいつもの笑みが見られなかったのは単に疲れているだけではないだろうと考え、大好きなものを見せて喜ばせようとしたからだ。
これでやっと迅の気持ちも楽になり、本当の意味でツグミが自分の元へと帰って来てくれたのだという実感を得られたのだった。