翌朝、ホテルでの朝食を済ませたランバネインをツグミは迅の運転する車で七尾市の繁華街へと連れ出した。
目的は玄界の庶民の生活を見てもらうためで、どうせなら見るだけでなく楽しんでもらおうというのが彼女の考えである。
ディルクやヒュースの情報だと貴族の人間であるベルティストン兄弟でも次期当主としての厳格な教育を受けた兄と違ってランバネインは比較的自由に育ったものだから庶民の生活に慣れ親しんでいて、子供の頃は従者もつけずに城を抜け出して市場で買い食いをしたり、庶民の子供たちと水遊びをするなどして貴族らしさはないということだ。
実際にアフトクラトルでツグミは市場で場の雰囲気に馴染んでいるランバネインと、庶民の生活を知るのも領主の役目だとばかりに視察をしている様子のハイレインの姿を見ている。
もしハイレインを街へ連れ出そうとしても逆効果だろうが、ランバネインなら飛び付きそうな興味深いものはたくさんあるわけで、ツグミは限られた時間の中でどこを案内すべきか練りに練って計画を立てていた。
「この玄界の乗り物は快適だな。だが相当高価なものなんだろ?」
ランバネインは車の後部座席に座り、隣に腰掛けているツグミに訊く。
「高価といっても庶民が普通に購入できる価格帯ものもあります。玄界の中でもこの日本という国では近界のような厳格な身分制度や階級はなく、どんな職業に就くのか、どこに住まうかなど誰でも比較的自由に選ぶことができます。買い物も経済的に余裕のある人は車だろうが家だろうが購入することに制限はありません。近界では貴族の家に生まれたら貴族、庶民の家に生まれたら庶民と人生が生まれた時に固定されてしまうことは当然のようになっていますが、この国でも昔は同じような身分制度によって縛られていたようです。それが経済活動や芸術・文化などあらゆる分野において固執や停滞といったものを生むとわかったのでしょう」
「どういう意味だ?」
「庶民階級の人間の中にもヒュースのようにトリガー使いとしての才能がある人材がいるくらいですから、氏素性で人間の生き方を縛るものではないということです。この国では一定の年齢に達すると誰であっても学校へ通って勉強することができます。その中に将来とんでもない才能を発揮する子供がいるかもしれません。ですが近界では裕福な子供しか進学できず、トリオン能力が程々あれば本人の意思に関わらず幼年学校へと入学させられるそうではありませんか? 親の身分や経済状態によって子供の人生が決まってしまうようではそこまでです。エリン家の子息のレクスくんは貴族として生まれましたしトリガー使いとしての才能もありそうです。ですが玄界へ来てから様々な分野の勉強をし、医師になりたいと言うようになりました。玄界ではすぐに適切な治療を受けたら簡単に完治するような病気であっても、近界ではその原因さえ掴めずに手遅れになるケースが多いと聞いています。彼はエリン夫妻がアフトクラトルへ帰国することになっても玄界に残って勉強をしたいと言っていて、そのことはエリン夫妻も認めており、わたしたちも継続してレクスくんを保護及び彼の希望を叶えることになっています」
「医師…か」
ランバネインは10年前のことを思い出した。
当時の彼は14歳で多感な少年時代を過ごしていた。
アフトクラトルの四大領主の一角を占めるベルティストン家の次男として生まれた彼は生活こそ何不自由ないものであったが、物心つかないうちに母親を病気で亡くしている。
そして父親も倒れ、彼は臨終の際にハイレインを当主とし、ランバネインに当主を支えてベルティストン家を盛り立てていくよう言葉を残した。
それ以来、ランバネインは父親の言葉に呪われてしまったかのようにハイレインを兄と慕いながらも「当主」として立てるようになる。
(あの時から兄者は変わってしまった。真面目で頭はいいし俺や家臣に対して気配りができる俺の憧れだったというのに、父上が亡くなって当主になると積極的に兵を率いて他国を侵略していった。常勝の兄者は勢力範囲を広げていき、同時に敵となる領主を増やしていく。それは若造の自分のせいでベルティストン家を没落させたなど言われたくなかったからなんだろう。俺もそんな兄者のことが頼もしく思え憧れていた。それなのに最近の兄者は家臣を駒としてしか見なくなっていった。以前のように余裕で勝っているうちはそうでもなかったが、母トリガー…神の寿命が近付いていることがはっきりと目に見えてくると兄者にも焦りが見え、それは玄界侵攻の失敗とボーダーの連中に雛鳥を奪い返されたことで明瞭となった。他人には余裕を見せているが、内心は焦りまくっていたことは俺にはわかる。そして王になりたいからとミラを犠牲にまでした。さすがにそれはなかろうと思ったが、俺は兄者を止めることができなかった。俺もまた当主の命令に従う家臣でしかなかったからだ。今さら何をいっても遅いが、父上が健在であれば兄者もあのようにはならなかっただろうな…)
ハイレインとランバネインの父親、つまり先代のベルティストン当主の死因は「肺炎」であった。
現代医学では肺炎の原因が細菌やウイルスなどの病原微生物が感染して肺に炎症を起こすものだと判明しているのだが、近界の医学レベルでは原因すらわからずにいるから治療法もわからずに死に至る病となってしまっている。
また近界民には「予防」という概念はなく、食品に含まれる栄養素を積極的に摂取することで症状を改善するという知識もない。
それに出生数はなかなか増えず、死亡数を減らすことができないのだから人口はジリ貧となり、トリオンが必要となれば他国から奪うしかなくなるのだ。
もちろん近界の国々にも医師という職業は存在するもののその数は少なく、ベルティストン家のような有力貴族ですら適切な治療を受けられずに延命が叶わないわけで、それが庶民階級であれば風邪すらも命取りになる病気にもなる。
医師の重要性は理解していても近界ではトリオンを戦争に使う研究は進んでいても、それ以外に役立てようとはしていなかった。
それはトリオンが限られた唯一絶対のエネルギーであり、国土の維持と他国からの侵略に備えての軍事力、そしてごく一部の特権階級が贅沢をするために利用されているのだから、いくら庶民階級の生活レベルをアップしようとしても不可能なのだ。
病気というものは身分の上下に関わらず罹ってしまうものだから貴族連中や裕福なごく一部の人間たちにとっても医療面で進歩すれば恩恵を受けることができるのだが、なにしろトリオンを医療に役立てようとする国がなかったことで学ぼうにも近界のどこにも師となる者はいないし、どこから手を付けていいのかさえわからない状態だ。
しかしここで玄界という近界とはまったく違う文明によって進歩した世界と繋がったことで希望が見えてきた。
聡明なレクスは玄界から学ぶことは多く、それがいずれ近界と近界民たちに良い影響を与えることに気付いたのだった。
ランバネインも自分の父親の病を治すことのできる医師がいたら自分たち兄弟の人生も変わっていたのではないかと考えてしまうのも無理はない。
ツグミはランバネインの昔の出来事を思い返しているような表情を見てしばらく黙っていることにした。
(近界民であろうとこちら側の世界の人間であろうと、これまでの人生を振り返ってみれば何か思い当たることがあるのは当然。異世界の文化に触れてこれまでの経験と比べてしまったのなら、それが良いことでも悪いことでも『もしあの時に玄界の技術や知識があったら』と考えてしまう。過去は変えることができないのだから振り返っただけでは無意味だが、これからの人生…未来に役立てることができたなら思い悩むことにも意味を持つ。これから少しの間だけど玄界にあって近界にはないものを見付けてもらおう。そうすれば今までよりも少しだけ希望のある未来になるはずだもの)
ホテルから七尾市の繁華街への道すがら、ランバネインは黙って景色をじっと見ていた。
特にこれといって珍しいものはないのだが、それでも近界民である彼には何かしら惹かれるものがあるのだろう。
「ツグミ、訊きたいことがある」
ランバネインはツグミに声をかけた。
「玄界の街はどうして城壁で囲まれていないんだ?」
山間部にあるホテルから市街地へと進んでいくうちに民家が少しずつ現れていく。
最初は山林や少々の畑があってそこに民家が点在していたのだが、街の中心部へと向かっていると家々が密集して住宅街を形成している。
近界でも同様ではあるが、大きく違うのは住宅街と呼ばれるほど民家が集まっている場所であればその周囲は高い城壁に囲まれていているのが一般的である。
ところがその城壁らしいものがない場所に多くの民家が建っているのだから疑問に思ったのだろう。
「近界では当然のことでしょうが、玄界では城壁なんてないことが当たり前なんです。まあ、ずっと昔には似たようなものはあったらしいですが、都市に集積された富を奪おうとする者と奪われないように守る者という構図が今はありませんから、城壁なんてものは邪魔なだけです。近界では貧富の格差が大きく、また同じ国内であっても都市と地方、地方でも城郭の中に住める者と外でしか暮らしていけない者といった『持つ者』と『持たざる者』の差がハッキリとしていますから、都市に住む比較的恵まれた者たちは略奪者から自分の財産を守るために周囲を城壁で囲んで守るという手段を選びました。玄界でも他人の財産を奪おうとする不届き者はいますが、近界ほど大掛かりなものではないので個人レベルで守ることができますし、警察…近界の街の自警団のような組織がきちんと機能していますので安心して暮らせるんです」
「つまり玄界では誰もが潤沢とは言えないまでも満足できるだけの富を持っているから、他人のものを奪おうとはしないということか。近界では貧しい者は日々の食いもんを得ることも難しく、贅沢をしている領主や商人などの館を襲撃することも時々起きる。しかし考えてみれば十分に食うものがあって安心して住む場所が確保されてりゃ他人から奪う必要なんてないんだよな…。壁なんてものはない方が気持ちいいし、俺は街の連中と酒飲んだりメシ食ったりするのが好きだから、あいつらの気持ちがわかる。自分はともかく子供が腹を空かせてりゃ他人から奪ってでも食べさせてやりたいと思うだろうし、金持ちの館にはそこに住んでる人間が一生かかっても使い切れないほどの金があると思えば少しくらい奪ってもかまわないだろうと考えるのも無理はない」
「持たざる者が持つ者から奪おうとする考え方が短絡的なものなのですが、そもそも生まれ落ちた身分によって人生が決まってしまうような社会環境が生み出すのですから、根本的な解決をしなければ永遠に続くことでしょう。それはトリオンに依存している近界民の文明にも言えることです。玄界ではトリオンなんてものの存在は20年くらい前に初めて知られたくらいで、それまでは一切トリオンを使用したものは存在していませんでした。人間はトリオンがなくても生きていくことができるという証拠です。近界の国は国土の維持にトリオンを必要としていて、それが人知の及ばないことなのは仕方がありません。ですがそれ以外のことであればトリオンを極力使わずに済ませる方法はいくらでもあるということ。キオンのスカルキ総統はその可能性をいち早く見出し、玄界の文明を取り入れた国造りを目指しているんです。そしてキオンでトリオンを使わない技術を導入して成功する姿を見せれば、他国はそれを羨ましいと思うでしょう。ここでキオンが積極的にその成功例を広めようとすれば、強大な軍事力によって支配しようとするアフトクラトルと比べてどちらの傘下に入った方が得か考える国が出てくるのは明らかで、近界を二分する戦いに発展することになる可能性が生まれます。そしてどちらが優勢になるのか想像するのは容易です」
「うむ…」
「まあ、ハイレイン陛下が近界世界をどのようなものにしたいのか…というよりもどのような手段で変えていこうと考えているのかによりますね。軍事力以外にも世界を統一する手段があるとわかれば未来はいくらでも変わるんですが、気付いてもらえるかどうかは陛下次第ということです。もっとも統一することが正しいかどうかはわかりませんけど。…そろそろ街の中心部です。どこかの駐車場に車を停め、そこからは徒歩で街を散策しましょう」
◆◆◆
七尾駅に近いコインパーキングに車を停め、ツグミと迅はランバネインを連れて街歩きをすることにした。
特に目的地というものはなく単にブラブラと歩くだけなのだが、近界民にとって玄界のごく普通の光景が何であっても珍しいものらしく、自販機でペットボトルの飲料を買うだけでも大感激をしてしまうほど。
彼の見た目が大柄な外国人であるから非常に目立つのだが、日本文化大好き外国人は多いから近界民だとは誰も気付かないのがありがたい。
「こんなに大勢の人間が街を歩いているなんて、今日は祭りか何かあるのか?」
ランバネインがツグミに訊く。
「いいえ、これが普通ですよ。まあ、近いうちにクリスマスや年越しというイベントがありますから、いつもよりは多少賑わっていると思いますけど」
「玄界は人がこんなに大勢いるのだからトリオンも大量に集められるというのにトリオンを使わない文明の中で生きている。しかし俺たち近界民はトリオンがなければ何もできない世界にいて、トリオンを生み出す人間の数が少ないから奪い合いになる。大量のトリオンを使ってトリオン兵を造ったというのに、トリオンとトリガーの技術面では数段劣るボーダーにコテンパンにされた。こうなるとトリオンがたくさんあればいいってもんじゃないとわかるな。なによりも玄界の人間は誰もが前を向いて歩いている」
「前を向いて歩いている…とはどういう意味ですか?」
「近界では顔を上げて歩くことができるのは比較的裕福な連中だけだ。貧しい者は重い荷物を背中に背負ったり荷車に載せて運ぶから自然と前屈みになってしまう。農作業や鉱山などで働く労働者も作業で前屈みになることは多く、毎日疲れて家に帰るから歩く時にも前屈みになる。しかしここにいる玄界の人間はみんな背筋が真っ直ぐで前を向いて歩いている。いや、それだけじゃなくみんな健康な顔色をしていて表情も明るい。まさかここにいる連中がすべて働かなくても生きていけるような身分ってことはないよな?」
「当然です。もちろん子供たちは働いていませんが、その子供だって学校へ通って勉強をして将来に備えています。そして大人たちもそれぞれ自分で選んだ職業に就いていて毎日懸命に働いています。ここにいる人たちの多くは余暇を利用して買い物をしたり、人生をより良いものにするために稼いだお金を使おうとしています。食事も自分で材料を買って自宅で調理すればいいんですが、美味しいものを食べたいと思うから専門の調理人が作った料理を食べるために食堂へ行きます。本を読むということで知的好奇心を満たそうとして本屋へ行き、自分の好きな本を購入します。また身体を鍛えたいと考えて専用の機材が揃っているスポーツクラブへと通い、そこで汗を流す人もいます。そういったことは生きていく上で欠かせないものではありませんが、生活に余裕があればやりたくなるもの。近界の庶民は毎日の生活に追われていて余裕はありませんが、玄界ではこれが当たり前なんです。もっともすべての人間が恵まれた環境にあるわけではなく、病気で働けない人やひとり親で子供を育てなければならない人など苦労している人は大勢います。ですがこの国にはそういう弱者を社会が支える仕組みがあって、病気になってもお金がないから医師に治療してもらえないで死んでしまうということはほとんどありません」
「それはすごいな…」
「ただしこの国は恵まれた環境にありますが、他の国には手厚い援助がなくて生活に苦労をしている人が大勢います。戦争で親きょうだいを亡くして孤児になってしまう子供や、治療を受けられずに幼くして命を失う子供がいるのは事実。この国の良い部分だけを見て玄界が素晴らしい世界だとは思わないでください。玄界にも負の面はたくさんあります。戦争が起きるのはそれぞれの考え方が違うからで、双方の利害が異なれば争いになるのは仕方がありません。それは近界でも玄界でも同じこと。だからわたしは近界の戦争をゼロにすることは不可能だと理解しています。でも限りなくゼロに近付けたいという気持ちはあり、そのために行動しています」
ツグミは自分の言っていることが綺麗事であると理解している。
彼女のことを良く知らない人間は無理だとかバカバカしいと一蹴するだろうが、少なくとも他人のやろうとしていることにケチをつけるだけで何も行動しない連中よりははるかにマシだ。
他人の顔色をうかがってばかりいて、嫌われたり失望されたくないからと無理をしていたが、他人の評価に左右されず自分の正しいと思うことをやりたいと思えるようになってから彼女は変わった。
他人から何か言われてもそれを跳ね除けることができるだけの「力」を得て、自分の行動に自信が持てるようになったのだ。
だから彼女以外の人間なら恥ずかしくて言えないようなことも堂々と言えるようになり、それが口先だけでなく行動を伴うからこそ周囲から一目置かれるようになる。
ランバネインもなぜ彼女がボーダーの一隊員でしかないのに重要な役目を担っているのかが理解できた。
(面白い娘だ。玄界の人間とは皆こんなカンジなんだろうか? …いや、そうではないな。キオンの諜報員の連中は俺に対して敵意の視線を向けることはなく、むしろ『おまえもそのうちに俺たちの仲間になるぞ』と言いたげな顔でいる。あいつらはこのツグミという娘に感化され、積極的にこの娘と行動を共にしているように思える。堅物のキオンの軍人をも魅了する何かがあるんだろう。可愛い顔をしてはいるが色気があるわけではない。いい大人がこんな小娘に色仕掛けで篭絡されるとは思えん。となれば人間として魅力があるとしか考えられないが…)
そこでランバネインは気付いたのだった。
(そうか、こうしてツグミのことをあれこれ考える時点で俺はもう…。まあ、いいか。俺はこの娘が気に入った! それはアフトの国王代理としてではなくランバネイン・ベルティストンという個人の感情だ。この娘がアフトに対して何か企んでいたとしてもかまわん。アフトのことは兄者に任せておけばいい。俺は俺で自分のやりたいようにさせてもらうぞ)